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ハーポ・マルクス&ローランド・バーバー『ハーポがしゃべった!』 訳=相馬称

第2章 私の教育 #7

  •  兄のチコは私と一歳半しか違いませんでしたが、世間慣れしているという点では実際の年齢よりもはるかに先を行っていました。ミニーに似てたいへんな自信家で、フレンチーや私であれば足を踏み入れるのを恐れるような場所にも、これまたミニーに似てかまわず飛び込んでいきました。
     チコにそっくりだと人に言われるのを、私はうれしく思っていました。実際似ていたと思います。近所の平均的なガキどもとくらべてみて、二人が二人ともチビでした。やせっぽちで、顔もこけ、大きな目に、ウェーブがかかって手に負えないもじゃもじゃ頭をしていました。僕らの髪を切らせるには親父は不向きで、スーツの生地を切るようにはいきませんでした。
     けれども似ているところはそこまで、髪型まででした。チコはある種の数学的天才で、数字(フィギュア)に関しては驚異的な感覚をもっていました。(のちに、数学的でないフィギュアについての感覚も発達させますが、そのことはどうして「チコ」とあだ名されることになったのかということに関わってきます── 「Chico」は「Chicko」を意味するもので、われわれはいつもそう発音していました。)
     チコは早口で、アクセントをまねる才能がありました。窮地におちいったときには、イタリア人やアイルランド人、ドイツ人、第1世代のユダヤ人など、おちいる羽目になった状況にあわせて何者にでもなりすますことができました。一方、私はというと、いやでも意識してしまうキーキー声のせいで口数が少ないほうでした。全体的なところでチコに劣るまいとして、通りを行く人の顔つきや歩き方をまねてみたりもしました。
     まねをしたうちで、もっとも厄介だったのがチコその人でした。チコはよく、間断のない小走りで通りを歩きました。頭と肩を前に突き出し、自分がこれからどこへ行くのか、間違いようもなく知っている若者と映りました。私は、何時間もチコのように歩く練習をしました。けれども、全体のその集中した感じを出すまでにはついに至りませんでした。結局、髪型から下の部分の雰囲気はとても出せませんでした。
     私が第86番小学校に行くのをやめてしまってからは、以前にましてチコを見かけることが少なくなりました。チコが学校からまっすぐに家に帰ってくることはあり得ません。夕飯を食べにあらわれても、食べ終わるがはやいか姿を消してしまいます。そうしてチコは、自分のもっている算数の知識を実用面に広げるための、とても重要な調査を行っていたのでした。競馬やボクシングの懸賞試合に賭けるやり方、ポーカーやピナクル、クラビヤッシュ〔トランプゲームの一種〕のやり方といったものを、レキシントン通りの煙草屋の奥の部屋で、横から口を出しながら学びとることもひとつ。近所でおこなわれる移動賭博場、つまり、地下室から屋根裏へ、屋根裏からまた地下室へと、サイコロひと振り分だけ警官隊より先んじて広げたり畳んだりする賭博場ですが、その様子を観察しながら確率の法則を学んだり。また物理学の法則とはいえば、エクセルショール・イーストサイド・ビリヤード場のなか、移動する球形物にはたらく作用・反作用に注目することによって学んでいました。
     12歳になったとき、チコは、これら応用科学について自身が学ぶべきところはすべて学びきったと決めて、彼もまた学校をやめました。同時に、調査や横からの口出し、観察行為もやめてしまって、実地の行動にうつったのでした。以降、実利のあるこうした行動なしでは、一瞬たりとも存在し得なかった彼でしたし、それは生涯そうでした。
     チコは良き先生でしたし、彼に対しては、私は意欲的な生徒でした。短い期間のうちに、キューの扱い方やカードのやり方、サイコロへの賭け方を教わりました。10か4のゾロ目を振り出した場合の配当率、ピナクルでフラッシュを完成させた場合、ポーカーでストレートを完成させた場合の配当率など、今でも覚えています。私が教わったのは、ごく基礎的なピナクルでした。いわく、「オッズに逆らうな。どんな金額であっても」。いわく、「毛布の上でサイコロを振るな」。それからまた、イカサマ師やイカサマをやるディーラーの見分け方、イカサマサイコロの見破り方も教わりました。
     不運なことに、私たちは家のなかでそれを実践にうつすことができませんでした。フレンチーは日中忙しくしており、夜になってからの彼のピナクル遊びは子供たちには開放してくれませんでした。祖父がたしなんだ唯一のゲームはスカート〔3人が32枚の札でするドイツ起源のピナクル系のゲーム〕。われわれはグルーチョを引き込もうとしましたが駄目でした。グルーチョは8歳にしてすでに本の虫となっており、運しだいのゲームなど、うぶで子供っぽいと鼻であしらったのでした。
     外へくり出す以外に、正しく実践にうつす途はありませんでした。このことのワナというのは、ゲームの輪に加わるためにはまずお金が要り、輪のなかにとどまるためにはさらに多くのお金が、もし運がその場しのぎに終わってスローダウンするようなら、要るということでした。
     解決法というと、私にはひとつしか思いつきません。仕事を見つけ、いくらかでもお金を稼がなければならないと考えました。
     チコには、それがばからしい考えに聞こえました。「金は稼ぐんじゃない」と彼は言いました。「巻き上げるんだ」と。
     ビリヤードとカードゲームのための資金を巻き上げるための、われわれの最初の共同販売物は、1902年の、ボナンザの鳩時計でした。
     その生涯にわたってチコには、自分のお客となりそうな人を見つけだしてくるという超自然的な才能がありました。われわれを最初にブロードウェイの舞台にのせ、全国的に有名にすることになるプロデューサーを見つけてきたのも彼。われわれをA級映画の世界に送り込んでくれたプロデューサー、アーヴィング・サルバーグを見つけてきたのもチコでした。ともかく、私が記憶しているなかでチコが一番はじめに見つけてきた金づるというのは、86番街にあった装飾小物店で、そこではミニチュアの鳩時計のセールをおこなっていました。
     そこで売られていた鳩時計の鳩は動かないものでしたが(鳥たちは絵に描かれたものでした)、外装は本物のシュヴァルツヴァルト〔ドイツ南西部の森林地帯〕製で、ちゃんと時計として機能した上に、1個たったの20セントで売られていたのです。われわれには、ちょうど仕事を開始するに足るだけの持ち合わせがありました。その前夜にアル叔父がやってきていたので、まだ彼からもらう10セント硬貨をそれぞれ持っていたわけです。
     まずチコがその時計を買います。それを、3番街と63番街をちょっと下ったところの質屋に持っていき、50セントに替えました。30セントの儲けです。舞い戻って今度は時計を2個買い、各々50セントでまた質に入れました。やがてチコが言い出します。いまや仕事は順調すぎて、お前をただ黙って連れているわけにはいかない、と。私もまた時計を質に入れに行くようになりました。時計の在庫のうちの、自分の分け前分を持って出かけたのでした。
     しかし私は、そううまくはやれませんでした。私が見つけだす質屋はことごとく、チコが先に足を運んでいました。私たちふたりはとてもよく似ていたので、質屋のおやじたちは私のことを、同じ子がまた盗んだばかりの品を処分しに来たのだと思い、取り引きしてくれないのでした。
     そうするとチコは、質屋は俺が担当すると言い、お前は近所の連中にあたってみろと言いました。次の日の朝早く、時計を手にすると、私は勇気を総動員して、3番街にある氷屋さんの事務所に出かけました。そこの支配人はとても気のいい人で、いつでも、積み荷をしている人にウィンクしては氷のかけらをわれわれ子供に与えさせたものでした。ですから、彼は理想的なお客さんと思えたのです。
     「鳩時計、いかがですか?」と私はチコのように、自信に満ちた声で支配人に言いました。「格安品で、保証付きですよ」。「保証付き」なんていう言葉がどうして口をついて出たか、わかりません。私にとっては滅多にない能弁ぶりだったので、そのことにもう調子に乗りました。氷屋の支配人は当然、一回のネジ巻きに対して何時間の動作を保証するのか聞いてきました。そこで私は、汗をかきはじめながらも、こう答えました。「8時間です」。
     「よしわかった」と支配人。「じゃあネジを巻いて。それでもし8時間後にその時計が動いていたら買ってやろう」。
     私は時計に巻きついている鎖を引っぱりました。じゃまにならないように事務所の隅に立って、時計を手に、時間の経つのを待ち、祈りました。それはひどく苦しい、拷問のような神経戦でした。支配人がちょっと後ろを振り向くそのたびごとに、鎖をちょっと引っぱってはネジを巻き直しました。昼食のころになって、彼は私のしていることにうすうす感づいたらしく、素早い動作で鎖を持っている私の手をつかみました。そうして何も言わずに、時計を壁に掛けてしまいました。
     午後2時半、ついに時計は力尽きて止まりました。支配人はまたもや何も言わずに、壁から時計を外すと、私に手渡しました。私が事務所を駆け出すとき、背後にいる彼が足を打ち鳴らして、頭を振って笑っている声が聞こえました。
     こうして、生涯でもっともつらい6時間を過ごしたわけですが、私の得た純益はというと、端数を切り落として、ゼロ。家に帰ってみると、チコのほうは時計の取り引きだけの純益が、11ドル10セント。私は恥ずかしくなり、元手にした自分の分の10セントだけ返してくれればいいと申し出ました。しかしチコは、戦利品は山分け、お前は半分受け取るんだと主張しました── ただし、条件がひとつだけ。ひとまずその金を俺が借りて、カードで倍にしてやるからというもの。
     むろん、その夜のうちに実行に移さない人ではありません。その日寝るときには、マルクス鳩時計株式会社の総資本は29ドル90セントになっていました。チコは私の取り分を計算し、それをくれました。私はそれまで、お話のなかでだけ聞くような、そんな大量の現ナマは手にしたことがありませんでした。けれども、氷屋での大失敗のことでまだいやな思いが残っていた私は、そのお金をチコに突き返しました。「これは持っててよ」と私。「それで、また倍にして」。
     翌日、チコはピナクルで全額をすりました。チコは、これはお前への教訓なのだ、と言いました。ふたたび倍にしようとして結局オッズに逆らったのだ。気の毒だがこうして学んでいくほかはない。次は自身でよりよくやることができるだろう、と。
     結局、私が元手の10セントを取り戻すことはありませんでした。
     おこづかいの当てはなくなり、アル叔父が次にやって来てくれるまで待たねばならなくなりましたが、それはずいぶん先の話で、大祭日も終わって祖父がシェードを上げ、居間に姿を見せる頃までは待たねばなりませんでした。
     以上が、自由企業経済学に関する、私の基礎教育というわけです。

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