個人ホームページのために

他者の交換日記

多者の交換日記、のために(1)

2001.06.25 (Mon.)

  • あるいはこの事柄は、そのまま6月25日の、今日の「日記」として書かれるのが当たっているのかもしれないし、そうだとして、しかしこのようにページを改め「個人ホームページのために」というタイトルを冠して書き始めているのは他でもなく、さしあたって(または、のちに)そう括ることが可能であるような何か論評のようなものを書いてみたい、まとめてみたいというかねてからの要求にうまいこと接続していくことができるのではないかという目論見があってのことだが、と同時に、以下にある文章は実際日記のコーナー(「コーナーの日記」)に載せるべく書き始めたという素性のものであるために、いきなり別のコンテクストに置いて人目に触れさせてもちょっとうまく運ばないのではないかという危惧があって、それで前書きのようなものを準備しようとし、しそこねて訳が分からなくなっているのがこの文章だとまとめれば、何のために書いていたのか、甲斐がないじゃないか。
    いっしょうけんめい書いたり間を空けたりという、日記のコーナーのどうにもこうにもな更新の起伏を目の前にしつつ、「交換日記」という言葉が頭に浮かんだのである。「交換日記というのはどうだ?」と。どうだ、と考えたあとで、今しがた自分が思い描いていたものというのは「交換日記」ではなく、「往復書簡」的なものではないかと気がついた。つまり、書き手をもうひとり増やし、その人と交代で日記をつけていく。交代制というシステムでもって更新頻度の起伏をならしていく、ということを考えていたのだが、よく考えれば交換日記とはそういうものではない。交換するのは書く役割ではなくノートで、お互いが毎日書くのだった。
    では、そうした交換日記のシステムをウェブ上のメディアに接ぎ木したらどうなるのか、と自らに畳み掛けてみる。それはすなわち、「交換ホームページ」と呼ばれる事態のことである。
    二冊のノートの代わりには、ふたつのホームページ。これを交換しあって毎日更新を重ねていく。ふたりのウェブマスターによる、異なった趣味趣向文化背景(――それらまとめて「文体」)が塗りたくられたホームページが、ふたつ。
    ノートというメディアにおいては基本的に蓄積されることが前提となるが、ホームページにあっては必ずしもコンテンツの蓄積のみがなされるとは限らない。あるとき一方のウェブマスターが、全面リニューアルを思い立てばそれまでだからだ。しかし、本来の交換日記とのもっとも根本的な性格の違いはまた別のところにあるのであって、つまり、ホームページがグローバルなネットワーク上に存在する以上、「ふたりだけの交換ホームページ」など元よりありえないということである。
    互いにもうひとりの書き手からノートを受け取り、それぞれの家に持ち帰って自分の部屋ではじめてそれを開くとき、いうまでもなく、ふたつのノートは物理的な距離によって隔たっている。だからこそノートがふたつある意味がある(あるいは、なければならない)のだが、一方ホームページはといえば、いくらそれがふたつ別々のURLを与えられていようとも、限りなく隣同士にあるほかない。であれば、ふたつある必要はないのではないか。いや、そんなことを言ってホームページをひとつにしてしまえば、それを交換しあうのがふたりである意味もまた同時になくなるにちがいなく、そこに立ち現れるのは、ただひたすらに開かれたホームページだ。誰もがその内容を見ることができるのは当たり前だが、誰もがその内容を(しようと思えば全面的に)書き換えることができるホームページ。しかしいったい、そんなものが成立するのだろうか。
    セキュリティー上の問題その他、現実的な障壁をひとまず棚上げするとしても、例えば次のような問題がある。まさに出来上がった次の瞬間に誰かによって書き換えられてしまうかもしれない(あるいはもっと端的に、消されてしまうかもしれない)コンテンツに、いったい心血を注げるだろうかという問題。
    「成立するのだろうか」という問いにはまた、それはすでに成立しているのであって、WWWというシステムがそれであると、実に真顔で答えることも可能だ。「交換ホームページ」はそれを決定的に縮小再生産するのであり、同時多発的なインターネット上のコンテンツを、線状的で単一な時間軸の上に再配置させる暴力的な機構のことである、と。(インターネットを一気に時間芸術化する、と言葉にすれば響きはいいが。)

ページの先頭に戻る