▼山路を登りながら、こう考えた。
▼知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
▼向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面を吾物顔にして居る。
▼この主人もこの西洋館の如く傲慢に構えて居るんだろうと、門を這入ってその建築を眺めて見たがただ威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立って居る外に何等の能もない構造であった。
▼迷亭のいわゆる月並とはこれであろうか。
▼「この湯はなんに利くんだろう」と豆腐屋の圭さんが湯槽のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。
▼「なんに利くかなあ。分析表を見ると、なんにでも利くようだ。─君そんなに、臍ばかりざぶざぶ洗っても、出臍は癒らないぜ」
▼すぽりと浸かると、乳のあたりまではいる。
(相馬称)
▼私は狐のばける所を見届けようと思って、うちを出た。
▼矢っ張り晩の様で向うの方に大きなお月様が懸かっている。これから昇って行くところなのだろう。
▼月に背いて歩き出したら、身体を動かした途端に咽喉の奥からかすかな麦酒のげっぷが出た。
▼何だか死にそうもない様な気がして来た。
▼暫く行くと土手の向うから、紫の袴をはいた顔色の悪い女が一人近づいて来た。そうして丁寧に私に向いて御辞儀をした。私は見たことのある様な顔だ思うけれども思い出せない。私も黙って御辞儀をした。するとその女が、しとやかな調子で、御一緒にまいりましょうと云って、私と並んで歩き出した。
▼「先生はこの頃何をしていらっしゃいますの」
▼「なんにもしていない」
▼「一目でもお目にかかって、お別れがしたいと、あれが申しますので、つい私も」
▼段々声がやさしくなって、その調子にも聞き覚えがある様に思われ出した。
▼「僕、どっちでもいいです」
(夏目雅男)