その夜
- July 14, 2005 12:53 PM
- kinkakuji
承前。
いつからいたのだろうか、友人が枕元に立っていた。
「私は『金閣寺』の最後の一文にないたのだ」
「私は」とは随分他人行儀なことを言うものだと、いきなり枕元に立たれておいてわれながらへんなことを思うものだ。「泣いた」と言ったのだろうが、「鳴いた」と聞こえた。それにしても、わざわざ友人を枕元に立たせるほどに、私はことに拘っていたのだろうかといまさら訝る心があった。
「鳴いた、というのはどういうことだ」と今度はそこに拘った。
続報・『金閣寺』
先日のエントリー「ほんの親切」に書いたように、上山君の日記 にある『金閣寺』への言及、
最後の一文に涙。
は、かつて一度読んだことのある『金閣寺』の、その「最後の一文」への興味を掻き立ててやまない。いったい三島由紀夫の『金閣寺』はどのようにして結ばれていたのだったか。
会社帰りに、道すがらにある本屋へ立ち寄り、新潮文庫に収められているそれを立ち読んでたしかめてくればよかったのではないかと、身体を洗い終え、鼻の先にあるシャンプーに手を伸ばしながら思ったのだったが、もう手遅れである。私はなにしろ我が家で、風呂に入っている。
風呂から上がり、さっぱりしたところで、かわりになるかわからないが、今日は参考までにモーリス・ブランショ『私についてこなかった男』の最後の一文を引いておこう。
日の力のすべてはこの終わりのほうへと向かっていき、そこへと高まっていかねばならなかった。たぶん日はただちに応えたのだ。だが、数秒間の散乱ののち、やっと終わりが到来したときには、すでにすべてが消え失せていた。日とともに消え失せていた。
ほんの親切
上山君の日記 が更新されていて、そこには最近読んだらしい三島由紀夫の『金閣寺』について記述がある。
妄想と行為の垣根は何でできているのか。実際の犯罪者の心理はきっとそんなに論理的でもクリアでもないのだろうけど。オウムの人たちも、それを理解できないと拒絶する人たちも、もっとこんなふうに狂気に寄り添うといいと思う。最後の一文に涙。
「最後の一文に涙」とあり、そんなことを言われれば、さて、『金閣寺』の「最後の一文」はいったいどんな文章だったっけか、と日記を読む知人らの多くが記憶を辿り、まだ読んでいない者もいたずらに興味を誘われて、結局わからずにもどかしい気分にさせられるのがオチではないかと想像し、では、と書斎の本棚を探すがあいにくいま手元には『金閣寺』がないのだった。
かわりになるかわからないが、しかたがないので参考として、手元にある古井由吉『夜明けの家』の最後の一文を引いておく。
しかしまもなく着いた駅で、「わたしはここで失礼します」と男は立ち上がって降りて行った。肩を左右に揺すって大股の足を運ぶ、またひたすら先へ急ぐことに憑かれたその横顔を、電車が追い抜いた頃になり、男が傘を手にしていなかったことに、私は気がついた。
いったい何の参考になるというのか。