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世界とわたしは同一である──濱岸ひより『ひよタンバリン』の思想

 日向坂46の 5thシングル『君しか勝たん』(初回仕様限定盤)に付いてくる特典映像は、坂道グループ用語で「個人PV」と呼ばれるところの、メンバー個々人に焦点があてられたショートムービーだが、そのうちのひとつ、濱岸ひよりによる『ひよタンバリン』(原案・出演:濱岸ひより/演出:月田茂)がとてもすばらしい。
 YouTubeで無料公開されているその予告編がこちら。

 何がすばらしいかといえば「かわいい」ということなのだがそれはさておき、予告編でも聴ける主題歌「ひよタンバリン」の歌詞の一部にはこういう箇所がある。

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「テラヤマシュージ・リローデッド!」全メモ

『いまだ知られざる寺山修司わが時、その始まり』展 関連イベント
鼎談「テラヤマシュージ・リローデッド!」

2013年12月11日(水)19時〜@早稲田大学小野記念講堂
宮沢章夫(劇作家、演出家、作家)
佐々木敦(批評家、早稲田大学教授)
岡室美奈子(演劇博物館館長、早稲田大学教授)

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《私訳》ジャン・ジュネ「シャティーラの四時間」(一)

  • Posted by: SOMA Hitoshi
  • April 23, 2010 9:25 PM
  • critique

 表題のとおり、ジャン・ジュネの書いた「シャティーラの四時間」のワタクシ訳。今週末に観に行く、地点『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』の予習で、観に行くまでに全部訳したかったところだけれどもそれはかなわず、その途中まで(全体の4分の1ぐらい)です。
 「JSTOR」で英訳版の「Four Hours in Shatila」をダウンロード購入(12ドル/PDF、21ページ)し、それを訳しています。

 初夏にはインスクリプトから鵜飼哲さんの訳で『シャティーラの四時間』が刊行されるそうなので、刊行後はわたしのまずい訳でなく、ちゃんとそちらを参照するようにお願いしておきます。

 誤訳、あると思いますがあしからず。
 また、じっさいには(一)とか(二)といった区切りはありません。

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思想のないRTより、粗相のないvia

  • Posted by: SOMA Hitoshi
  • August 6, 2009 4:17 PM
  • critique web

 タイトルはなかば冗談(シティボーイズによる標語「思想のない演劇より、粗相のないコント」のもじり)だし、わたし自身の結論を先取りすれば、むしろ「RTの思想」をこそ拾い上げるべきではないかというふうにも思うのだが、いや、そもそもの話からはじめれば、Twitterの「RT」ってやつがよくわからなかったのだ。
 「RT」というのは「Re-Tweet=再つぶやき」のことである。あなたがTwitterを使っていて、ふと「いいつぶやき」に出会ったとする。この「声」は重要であり、もっと広く届かせるべく自身でも同じことをつぶやきたいとか、あるいは、重要であるとまでは言えないが何かひっかかるものがあり、そこから何かを考えるためのメモとしてひとまず採集しておきたいといったような場合に、「RT」の記法を用いてそれが再つぶやきであることを示しつつ、自身のタイムライン(TL)のなかにつぶやくことができるというわけだ。
 一般的な記述ルールは次のようなもの。

RT @username: message

 先に「RT」を打ち、つづく @username で元のつぶやき主を示す。@username のあとのコロン(:)は形式上のニュアンスを伝えて親切だが、これは字数節約の観点から省略する人もいて、どちらでもいいらしい。そして、元のメッセージ=つぶやきが最後につづく。
 要は「引用」なわけだが、もうひとつ、Twitterには引用の書式があって、それが「via」である。「via」のほうはこのような形式になる。

message (via @username)

 いま、より一般的であるのは圧倒的に「RT」のほうであるように見受けられるが、そんななか、かなり劣勢ながらも「via」を支持するひとつが、iPhoneおよびMac界隈ではよく知られるところのTwitterクライアント、「Tweetie」である。
 現時点で、「Tweetie」では再つぶやきの形式を「RT」にするか「via」にするか、ユーザーが環境設定で変えられるようになっている(このへんは、後段に訳出するブログ記事が書かれた当時とは状況が変化している)のだが、しかし、そのデフォルト値は「via」のほうである。
 で、調べると、今年1月の「Tweetie」公式ブログに「なぜわれわれはviaなのか」について語る記事があり、「“RT” vs “via”. Round 1.」と「“RT” vs “via”. Round 2.」というそのふたつを訳出したのが以下である。ただし、すでに触れたように、記事が書かれた当時からさらに状況は変化しているらしく、記事中では「環境設定でユーザーにどちらかを選択させるということもしない」と明言しているものの、その後にリリースされたバージョン(現バージョン)ではその機能が追加されている。
 というふうに、(まあ何でもそうだけど)歴史的なある時点での議論であることは多少考慮に入れつつお読みいただきたいが、では、ひとまずその記事を。訳してみてわたし自身が思うところについては最後に。

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関係の過剰性はどこに生じるのか──共同体の真正性とビデオコメントの可能性

 「小田亮の研究ホームページ」に置いてある口頭発表原稿「共同体と代替不可能性について」、および『思想』(2008年第12号)のレヴィ=ストロース特集に載った同じく小田さんの論文「『真正性の水準』について」を読んだ。いずれもその中心に扱われるのは、「真正性の水準」という言葉である。

(以下、「はじめに」の節では前提としての小田さんの議論をくりかえしています。そこはまあ了解済みであるという場合、次節「〈顔〉とは何か」からお読みいただいてもけっこうです。)

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