世界とわたしは同一である──濱岸ひより『ひよタンバリン』の思想
日向坂46の 5thシングル『君しか勝たん』(初回仕様限定盤)に付いてくる特典映像は、坂道グループ用語で「個人PV」と呼ばれるところの、メンバー個々人に焦点があてられたショートムービーだが、そのうちのひとつ、濱岸ひよりによる『ひよタンバリン』(原案・出演:濱岸ひより/演出:月田茂)がとてもすばらしい。
YouTubeで無料公開されているその予告編がこちら。
何がすばらしいかといえば「かわいい」ということなのだがそれはさておき、予告編でも聴ける主題歌「ひよタンバリン」の歌詞の一部にはこういう箇所がある。
何度も何度も 誰かに誰かに
ここにいるわたしを見つけてほしくて
響け世界 響けわたし
どこまでも どこまでも どこまでも
言うまでもなく、ここではアイドル/パフォーマーとしての濱岸ひよりがタンバリンという楽器に見立てられているのだけれど、予告編で最初にこれを聴いたときに少し引っかかりを覚えたのは「響け世界 響けわたし」という歌詞の順序で、これを逆にし、「響けわたし 響け世界」としたほうが詞の理解がスムーズなのではないかと考えたのはつまり、〈わたしが響くこと〉と〈世界が響くこと〉に時間的な因果関係がある──わたしというタンバリンが鳴ることで、その音色が世界に響く──というふうにこの詞を捉えたからだった。
しかしやはり、この順序は「響け世界 響けわたし」で合っているのだ。そのことを『ひよタンバリン』の本編は丁寧に諭してくれる。
たったひとつの「本当のわたし」だけがあなたじゃない
予告編にあるとおりで、
公園のベンチに座っている濱岸ひよりの前に突然現れたひとつのタンバリン。思わずそのタンバリンを手の取り叩いてしまうとあら不思議、謎の洋館にワープするのだった。そこにはピンク色のドレスを着た老婆の存在が。その老婆とタンバリンの練習をするひより。するとひよりはどんどん変身するのであった。さてその結末は?
予告編ナレーション
というのが『ひよタンバリン』のストーリー骨格なのだが、そのタンバリンの練習において、タンバリンを叩くことで着ている服と居る空間とが瞬時に変わるという体験をしたひよりに、老婆はこう語りかけている。
- 老婆
- どう?
- ひより
- なんかちがう自分みたいです。
- 老婆
- ふふふ、でもそれね、「ちがう自分」じゃないのよ。
- ひより
- ちがう自分じゃない?
- 老婆
- そう、あなたにはたくさんの可能性があって、たくさんのあなたがいるの。たったひとつの「本当のわたし」だけがあなたじゃない。だからそのたくさんの自分を素直に受け止めてあげて。ほら、その場所で感じるままのあなたになってみて。
奇しくも老婆のセリフは、『ホントのワタシ。』というタイトルが冠された高瀬愛奈による個人PVとのあいだに絶妙な緊張関係を結ぶかたちになっているのだが[※1]、ここに語られる「本当のわたし」否定の思想こそが、『ひよタンバリン』においてはもっとも興味深い箇所だと言えよう。ファンであればおそらく、老婆が与えるこの導きと主人公・ひよりの意識の変化のなかに濱岸ひよりというパフォーマーの「成長」──「アイドル」という機構への順応──を読もうとするだろうが、しかしその成長はたんに、「いろんなことに挑戦させてもらえる職業」(個人PV『5年間』での加藤史帆の言葉)であるアイドルの活動のなかで、さまざまに与えられる自身のイメージ=姿を主体的に楽しんでいくというような意味合いにはとどまらない可能性を秘めている。
すなわち、「人格が享受されるエンターテインメント」[香月 2014:183]であるところのアイドルにおいて、その人格は「上演」と「プライベート」との境界が曖昧になったところに立ち現れるわけだが、そのさいのひとつの常套とも言える「アイドルであることと自身との乖離」[香月 2014:89]が、ここではきっぱり拒否されていると言うことができるのではないか。
比喩としてのタンバリン──〈世界=わたし〉という構造
老婆の言葉と歌詞に戻ろう。
- 老婆
- そう、あなたにはたくさんの可能性があって、たくさんのあなたがいるの。たったひとつの「本当のわたし」だけがあなたじゃない。だからそのたくさんの自分を素直に受け止めてあげて。ほら、その場所で感じるままのあなたになってみて。
タンバリンの胴には複数の小さなシンバルが付いていて、叩くことでそれらが一斉に鳴る。そのシンバルたちを老婆の言う「たくさんのあなた」だとしたとき、歌詞にある「世界」──彼女を取り囲む世界──にあたるのはその総体としてのタンバリンだ。個々のシンバルの響きをタンバリン全体の響きから切り離すことができないように、PVのなかで「世界」と「わたし」は不可分なものとして結び付いているのであり、歌詞における「響け世界」と「響けわたし」もまた、〈同じ〉ものとして、〈同時に〉発せられる願いとして、歌われていると捉えることができる。
さて、〈世界/わたし〉という二項をめぐりこうして示された「ひよタンバリン的思想」は、「本当のわたし」という厄介なものをどのようにして解体/解消するだろうか。
局面々々において取捨選択される「キャラ」や「役割」、はたまた都度々々の「パフォーマンス」にたいし、それらの外部にあって、それらを選び取る主体として想定されるのが「本当のわたし」であるわけだが、〈本当のわたし/キャラとしてのわたし〉という二項の関係において、そこに乖離が生じるべくあらかじめ決定づけられているのは、単純な話、「本当のわたし」というものに一貫した同一性が求められているからにほかならないだろう。
〈世界/わたし〉の関係が投影された、比喩としてのタンバリンについてさきほど述べたが、もちろん PVには、その外部に立つ「わたし」の存在もはっきりと登場している。言うまでもなく、タンバリンを叩く濱岸ひよりがそれだ。けれども、タンバリン=〈世界/わたし〉の外部に立つはずのその「わたし」は、手に持ったタンバリンの振動に影響を受けて変身を繰り返す存在として描かれているため、そこに(「濱岸ひより」という固有名をとおしてのみ獲得される以上の)一貫性や同一性はまったくない。また、自身の服装が変わるだけではなく、自身を取り囲む場所も同時に変わるというタンバリンの魔法が示すとおり、タンバリンの外部に立つ「わたし」もまた〈世界/わたし〉という二項関係のなかに抱かれる存在としてあって、仮に階層的に表現すれば、〈世界/わたし/世界/わたし〉、もしくは〈世界/[わたし=世界]/わたし〉といった入れ子関係がそこには提示されている。さらに言えば、入れ子関係はそれだけにとどまらず、老婆に招かれて不思議な体験をする洋館(老婆曰く「タンバリン家」)と、その外部(ひょっとすると内部かもしれないが)にある、日常空間(公園のベンチ)にいる「わたし」とがその外延に連なるのであり、あくまで単線的に示すとすればだが、〈……世界/[わたし=世界]/[わたし=世界]/わたし……〉といった無限ループ的構造が PVには埋め込まれているのだ。
とはいえ、この無限ループが示すのは「本当のわたし」への到達できなさ──どこまでいっても手に入れることができない真の自分──といったものではけっしてない。そうではなく、いかなる局面において立ち現れる「わたし」も、すべてが「世界」と不可分に──それでいて〈一なるもの〉に統合されるのではなく〈二〉のままに──結び付いているという、その根源的な希望こそを「ひよタンバリン的思想」は示している。
〈本当のわたし/キャラとしてのわたし〉という二元論も、〈世界/わたし〉という二項対立も、どちらも〈全体/部分〉という関係であることに変わりはないが、前者における部分が、全体から意味化された「部品」として機能すべく要請される(だから、部品どうしのあいだに矛盾が生じると全体が機能しなくなる)のにたいして、後者における部分は全体から意味化されることがなく、一元的な機能を持たない「断片」としてそこにある。日常的実践においてわれわれを取り巻くじっさいの「世界」というものがそうであるように、後者における全体は、その存立のために一貫性も同一性も必要としないのであり、はじめから〈ちぐはぐ〉なものとしてそこにある。このじつにあたりまえで、そして幾分感動的な事実を、文化人類学者の小田亮は「ことわざ」というものを引き合いに出しつつ、端的に指摘してみせる[※2]。
意味が正反対の「ことわざ」(イディオム)を範列的に並べても、そこに矛盾など生じないように、全体から意味化される「部品」と違って、ブリコラージュに使われる「断片」は互いに矛盾しあっていても、ちぐはぐな全体を損なうことはないのです。
[小田 2007b]、太字強調は引用者
「三度目の正直」も「二度あることは三度ある」もどちらも世界のありさまを言い表したものだが、そのふたつともをわれわれはふつうに受け入れており、場面々々に応じて互いに矛盾するふたつのことわざが使われたとしても、そこで言い表された「世界」はなんら破綻しない。そうした日常的実感が示すとおり、「世界」とはそうしたものなのだ。そして、『ひよタンバリン』という PVが示してくれるのは、「わたし」もまたそうしたものなのだということであり、くわえて言えば、そうした「わたし」を手に入れて濱岸ひよりはいま、途轍もなくかわいい[※3]。
- ※1:
もちろん、ここではたんに『ホントのワタシ。』というそのタイトルとの偶然の連関を指摘しただけであり、本稿が「本当のわたし」という概念を否定的に論じているからといって、高瀬愛奈の個人PVそのものを否定しようというわけではない。「ホントのワタシ」なるものが高瀬愛奈の個人PV内でじっさいにどのように扱われ、表現されているかについては別途考察が必要だろう。
- ※2:
これ以外にも、本稿を書くにあたっては小田亮による議論を多く参照した。出発点である『ひよタンバリン』という題材からどんどんと話が逸れていってしまうきらいがあったためその議論全体を扱うことはしなかったが、「本物の自分」や「自分らしさ」といったものにたいする社会学者たちの研究に批判的検討を加えつつ、比較可能な「個性」と「私のかけがえのなさ=個の代替不可能性」とはまったくべつのものであり、後者にこそ安定した自己の源泉を求めるべきだという小田の議論[小田 2007a]にはとくに多くの示唆を受けた。
- ※3:
ついついこういう着地を採用してしまうことについてはほんと申し訳ないかぎりだが、この「かわいい」については、香月孝史がその著書のなかで投げかけている「アイドルが『かわいい』とは何か」という問い[香月 2014:201-203]を参照されたい。そこで香月が指摘するとおり、本稿に 2度登場する「かわいい」という言及は、「『アイドル』というジャンルを受容するためのコード」として機能するものである。
文献表
- 小田亮
- 2007a 「現代社会の『個人化』と親密圏の変容:個の代替不可能性と共同体の行方」『日本常民文化紀要』(成城大学大学院文学研究科)第26輯、45-77頁(188-156頁)。
- 2007b 「『客体化』論から『範型化』論へ──システムに抗して」小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」。
- 香月孝史
- 2014 『「アイドル」の読み方──混乱する「語り」を問う』青弓社ライブラリー。
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