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《私訳》ジャン・ジュネ「シャティーラの四時間」(一)

  • Posted by: SOMA Hitoshi
  • April 23, 2010 9:25 PM
  • critique

 表題のとおり、ジャン・ジュネの書いた「シャティーラの四時間」のワタクシ訳。今週末に観に行く、地点『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』の予習で、観に行くまでに全部訳したかったところだけれどもそれはかなわず、その途中まで(全体の4分の1ぐらい)です。
 「JSTOR」で英訳版の「Four Hours in Shatila」をダウンロード購入(12ドル/PDF、21ページ)し、それを訳しています。

 初夏にはインスクリプトから鵜飼哲さんの訳で『シャティーラの四時間』が刊行されるそうなので、刊行後はわたしのまずい訳でなく、ちゃんとそちらを参照するようにお願いしておきます。

 誤訳、あると思いますがあしからず。
 また、じっさいには(一)とか(二)といった区切りはありません。

シャティーラの四時間(一)/ジャン・ジュネ 著

 誰も、何も、いかに巧みな語り口でさえ、ヨルダンのジェラシュやアジュルンの山のなかで、アラブゲリラ戦士たちが過ごしたあの六ヶ月間のことを、とりわけその第一週目のことを、言葉にすることはできない。関連して生起した、PLOの成功と失敗といった出来事、ほかの者らによってなされたそれらのことなら年代記にまとめることもできるだろう。大気の感じだの、空の色、大地の色や木々の色について語ることはできても、あのかすかな酩酊状態、大地にほとんど触れるか触れないかの足どりの軽さ、目の輝き、戦士どうしだけでなく、戦士と指導者のあいだでも保たれるそのオープンな関係といったものについては語ることができない。木々に囲まれたそこでは何もかもが、誰もかれもが、震えおののき、笑い、この世を生きることの驚異に満たされていて、だからすべては新しく感じられ、そしてそうした振動のなか、そこには奇妙に無感動で、用心深く、控えめで、守られた何か、神に祈る者のような何かがあった。すべての事柄が皆に属し、皆、それぞれに独りだった。そうだったし、そうじゃなかったかもしれない。最後には微笑みと、憔悴しきった顔。かれらが政治的な理由によって撤退したヨルダンのそのエリアは、シリア国境からサルトまで拡がり、ヨルダン川と、ジェラシュからイルビドへ至る道とに接していた。約六〇キロの長さと二〇キロの奥行きがあるその山の多いエリアはセイヨウヒイラギカシに覆われ、ヨルダン人の小さな村々があり、わずかな作物が穫れた。木々と、迷彩を施したテントの下で、ゲリラ戦士たちは戦闘装備を組み立て、中装備の兵器を据え付けた。配備した大砲はおもに起こりうるヨルダン側の作戦に向けられており、若い兵士たちは自身の武器の手入れをしていた。分解し、グリースを塗って、またすばやく組み立てる。夜でも同じことができるよう、目隠しをしてこの分解と再組み立てを行ってみせる者もいる。それぞれの兵士とかれらの武器のあいだには、愛情のこもった、不思議な絆が結ばれていた。思春期をわずかに過ぎたばかりの戦士にとって、武器としてのライフルは勝ち誇る力強い男の象徴でもあり、生きることにたいして確信を与えてくれるものとなっていた。微笑んでこぼれた歯のむこうに、好戦的な態度がふと消えてなくなる。
 残りの時間、戦士たちは紅茶を飲みながら、かれらの指導者や富裕層、パレスチナ人やその他の人々を批判したり、イスラエルを侮辱したりして、そうしてそれらすべてのうえに、かれらが巻き込まれ、そしてかれらがいままさに始めようとしている革命を語った。
 わたしにとって「パレスチナ人」という言葉は、ニュースのヘッドラインのなかであれ、記事やビラにおいてであれ、すぐさまある特定の場所──ヨルダン──の、容易に限定される日付──1970年の10月、11月、12月、1971年の1月、2月、3月──における、アラブゲリラ戦士たちのことを思い出させるものである。そのとき、その場所で、わたしは「パレスチナ人革命」というものに出会ったのだ。生きてあることへの烈しい喜びは「美」とも呼ばれうるのだということが、そこで起きていたことをひじょうに明白に示している。
 それから十年が過ぎたが、レバノンにかれらがいたという話を除いて、その噂はなにひとつ耳にしなかった。ヨーロッパの報道機関がぶっきらぼうに、軽視したような調子さえ含んで、パレスチナの人々のことを伝えるのを聞いた。そのとき突然、西ベイルートで。

*  *  *

 写真は二次元だし、テレビ画面もそうだ。どちらもそのなかを歩き回ることはできない。通りいっぱい、いっぽうの壁に足を張り、もういっぽうの壁に頭を押しつけて折り曲がるかアーチ状になるかしているために、それらをまたいでいかなければならなかった黒くむくんだ死体は、すべてパレスチナ人とレバノン人のものだった。残された住民たちがシャティーラとサブラを歩くさまは、わたしの目に石蹴り遊びのように映った。子どもの死体が道をはばむ場合もあった。かれらはとても小さく、とても細かったが、おびただしい数だったのだ。臭いは、おそらく老人たちにはおなじみのものだったのだろう。わたしは苦にならなかった。けれど大量のハエがわいていた。遺体の顔にかけられたハンカチや新聞紙をわたしが持ち上げたりすれば、かれらはじゃまをされたと思い、その動きに激高して、わたしの手の裏側に回って群れをなし、そこに食らいついた。はじめに目にした死体は五〇代か六〇代の男性のそれだった。外傷(斧で一撃されたもののように見えた)がその頭蓋骨を砕いてさえいなければ、かれの頭にはくしゃくしゃした白髪があったことだろう。黒くなった脳髄の一部が、頭の傍らに落ちていた。黒く凝固した血だまりのなかに全身を横たえていた。ベルトの留め金は外れていて、ズボンのボタンが一個だけ留められていた。足はむき出しで、ところどころ黒ずんだり、むらさき色や青色をしていた。おそらくかれは夜中か、明け方に急に襲われたのだろう。逃げようとしていたのだろうか? 男の遺体は、シャティーラ・キャンプの正面入り口までもうすぐという小道に横たわっていた。シャティーラ・キャンプの向かいにはクウェート大使館があり、この建物を水曜日の午後から占拠していたイスラエル人が、軍隊も警察もみな、何も耳にしなかったし何も気配を感じなかったと主張するのならば、このシャティーラ大虐殺はほとんど音を立てずに、あるいはまったくの静寂のなかで、起こったというのだろうか?
 写真からはハエの存在も、どんよりと白みがかった死の臭いもわからない。次から次へと死体を越えながら歩くために、どのようにジャンプしたらいいのかということもわからない。死体を間近に見るとき、そこでは奇妙な現象が起こる。その身体に生命が欠如していることが、あたかも身体そのものがまるきり欠如しているかのように感じられ、より正確に言えば、それがたえまなく後ずさりを続けるかのように感じられるのだ。より近づくほどに、けっして触れることができなくなる。注意深く見つめさえすればその感じはやってくる。けれど、死体にわずかな動きを与えるだけで、とたんに親密さが生じるだろう。その腕や指を動かしたとたん、そこに突如その存在が、ほとんど友だちであるかのようにして戻ってくるのだ。
 愛と死。このふたつの言葉は、いっぽうが書かれたとたんにすぐさま結び合わされるものだ。愛のもつおぞましさと、死のもつおぞましさを理解するために、わたしはシャティーラに行かねばならなかった。どちらの場合でも身体はいっさいを包み隠すことなく、ひとつひとつの姿勢が、その歪みが、しぐさが、身振りが、そして沈黙さえもが、愛の世界にも死の世界にも属している。三〇歳から三五歳ぐらいだろう男性の身体が、うつぶせに横たわっていた。その全身はまるで男のかたちをした浮き袋かなにかのようにしか見えず、陽光のもと、腐敗による化学反応のためにかくもぴちぴちに膨れあがったズボンは、いまにも尻と腿のところで裂けて、破裂せんばかりのありさまだった。顔のうち、見ることができたのはむらさきや黒に変色した一部分だけだった。膝のわずかに上、引き裂かれた生地のむこうには腿がのぞけた。傷は銃剣かナイフ、あるいは短剣によるものだろうか。傷口とそのまわりにはハエがたかっていた。スイカ──黒いスイカ──ほどもある頭だった。わたしはかれの名を訊ねた。かれはムスリムだった。
 「このひとを知っていますか?」
 「パレスチナ人さ」四〇歳ぐらいの男性がフランス語で答えた。「見るがいい」
 そう言ってかれは足先や下半身の一部にかかっていた毛布をどけた。むき出しになったふくらはぎは黒く膨れあがっていた。紐の結ばれていない黒い兵隊靴を履いたその足と、九フィートほどの丈夫なロープ──見るからに丈夫そうだった──でとてもきつく縛り合わされたその両くるぶしを、わたしはS夫人(アメリカ人である)が写真を撮りやすいように整えた。わたしは四〇男に、顔が見たいと頼んでみた。
 「見たけりゃ自分で見るんだな」
 「仰向けにするのを手伝ってはもらえませんか?」
 「ことわる」
 「やつらはこのロープで通りをずっと引きずってきたのでしょうか?」
 「わからない」
 「かれを縛り上げたのは誰でしょう?」
 「わからない」
 「ハダドの連中ですか?」
 「わからない」
 「イスラエル人?」
 「わからない」
 「カターイブ?」
 「わからない」
 「かれをご存知で?」
 「ああ」
 「かれが死ぬところを?」
 「見た」
 「殺したのは誰?」
 「わからない」
 かれはあわてて死人とわたしのもとから去っていった。遠くから振り向いてわたしを一瞥すると、脇道へそれて姿を消した。
 今度はどの裏道を行ったものだろうか。五〇代の男性たち、二〇代の若者たち、ふたりの老アラブ人女性、かれらに引かれて歩くうちにわたしは、あたかもその描く弧のなかに何百という死を抱える、コンパスの中心に自分がいるような気がしてきた。
 なぜいまここで、語りの途中にそうするのか自分でもよくわからないが、つぎの言葉を手早く書き留めておきたい。「『汚れ仕事』という陳腐な言い回しをフランス人はしばしば用いる。イスラエル軍が、カターイブかハダドの連中に『汚れ仕事』を命令したのだとか、労働党はその『汚れ仕事』をリクード党やベギン、シャロン、シャミルらに肩代わりさせたのだ、といったように。」これはR氏の言葉を引いたものだ。R氏はパレスチナ人ジャーナリストで、9月19日の日曜の時点でまだベイルートにとどまっていた人物である。
 拷問を受けて死んだすべての犠牲者たちの真ん中に立たされ、かれらの傍らにあって、わたしの考えはある「不可視の視野」から自由になることができない。すなわち拷問をする者はどのような姿だったのだろうか。かれは誰か。目の前にかれがいるが、かれは見えない。かれは等身大の姿をしてそこにいるが、同時にその姿は、ハエの大群に囲まれ、天日にさらされて発酵した死びとのその構えや姿勢、グロテスクなしぐさによって形作られるフォルムよりほかには何ももちえない。

(つづく)

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