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オリジナルスタイル 「不在日記」ふうスタイル

12.31(火)

2003.1.2 3:36

まとめてどうぞ。

29日(日)
おそらく、より一般の同意を得られるんじゃないかという表現を用意してみたというのは、「緒川たまきと広末涼子を足して2で割ってみたらどうなんでしょうか」というもので、昨日書いたティーヌンのバイトの女の子の話だが、それ、なんのことはない「かわいい」ってことか。なんだ。
で、夕方、「明日で最後なんですよ」と言われた私は律儀に食べに行く。なんて律儀なんだ。トムヤムクンラーメンと生春巻。
さすがに押し詰まってきて、この土日あたりからアクセスもやや少なめなのであり、基本的に会社のマシンからしか見ていないとか、帰省先ではネットにつなげない(もしくはつながない)方などいるにちがいないわけだが、年明け、そうした方々が「ネット復帰」した際に未読分がたまり、たまるのは致し方ないとしても、それがちょっとどうかと思うほどの量になるというのはさすがにちょっとどうなのか、ってこれトートロジー(亀学)になるんだかどうなんだかわからないが、とにかくあまり「おいてきぼり感」があるのも好ましいとは思えず、とりあえず日々の記録を中心に、分量少なめにお送りするのが適当か。
夜、三軒茶屋の GRAPE FRUIT MOON へ、いとうまさみ(マコロン)さんのピアノ弾き語りライブを聞きに行く。
という文面にはむろん前掲のリンク先が正しいのだが、そもそも存在を知ったのはこっちで、また別の第三者のサイトが、この「モシュモシュ」と「Red」を同時にリンクページに加えたというそれだけのきっかけ。しごく普遍性のない「同期」。遠いといえば遠いつながり。
私は、むろんピアノのことなどひとつもわかっちゃいないのだが、少なくとも、その手の動きだけを追い、「チコ(・マルクス)に似ている」「似ていない」という判断だけ下しているというのは間違っているにちがいない。
で、ライブに合わせ、いとうさんの初音源(CD-ROM)も発売になる。3曲入り、500円の佳品。枚数の根拠が自分でもよくわからないのだったが2枚お買い上げ。誰か、そのうちあげるから待っていろ。

30日(月)
「おいてきぼり感」云々の心配に、しかし日記は本来無縁であるはずだ。
少なくとも、ここに書かれるものがいわゆる「日々の記録」であるならば、年明けにまとめて読み返す場合においても、「年末年始、相馬はどうしていたのか」という一般的な興味の、その〈ふり返る眼差し〉の期待の角度から外れることは決してないのであり、ゆっくり読んでもらえばいい、というそれだけの話になる。
日々の記録として書かれる狭義の「日記」は、記録であるゆえに、本来「あとから見返す」ことを前提として書かれるのであり、また、それが「あとから見返されうる」ことを保証するのはそこに付された「日付」と「署名」であって、決して内容の面白さ云々ではない。「日付」と「署名」というこのふたつの要素こそが、このどうとでも姿を変える「日記」というジャンルを決定的に支えているものにほかならないのだ、とこれは指さし確認。
夜、猫をつれ実家へ帰る。猫のことがあるのでもう少し明るいうちに部屋を出るつもりだったが、片づけたり、ぼんやりしたりするうちにこんな時間になってしまった。それで、片づけは結局、志しなかばといったところ。だいぶきれいになったが。
猫は、以前実家から部屋につれてくるときは車だったので、これが「初電車」ということになる。カゴには、前回もそうだったがまんまと自分からなかに入って閉じられている始末。かなりおとなしい。大過なく実家まで。1ヶ月前まで暮らしていた場所であり、覚えているということもあるかも知れないが、ほどなく順応するそのさまは「転校慣れした小学生」の風情すら漂わせ、心強いというかなんというか。
PowerBook その他も持参。実家は実家でネット環境が整っているので、年末年始も更新は可能。

31日(火)
大晦日。除夜の鐘が鳴る。こうして「Yellow」も無事年を越す。
うっかり用いてしまった「おいてきぼり感」という言葉にまだ納得がいっておらず、気にくわないというか、だったら削ればいいじゃないかという話だが、なぜ気にくわないのかと考えるところからつながって出てくるあれやこれやをうまく処理できず、それらを書くためにはやはり体系的な言葉が必要だ。日記と個人ホームページをめぐる体系的な考察。それはまた来年の課題。きっと書く。

(この間5行、猫によるタイピングにつき削除)

今年「Yellow」に登場いただいたみなさん、どうもありがとう。読んでくださったみなさんにもむろん感謝。来年はもっと面白いことを書く。きっと書く。

12.28(土)

2002.12.30 5:14

告知。
西荻窪駅前の「ティーヌン(タイ国ラーメン)」のアルバイトの女の子だが、年内最終営業日である29日をもってアルバイトをやめるそうだ。彼女は言う。

「明日で最後なんですよ」

 ってそれ地の文で説明したまんまだから別に引用することもないんだけど、ずっと「誰かに似ている」と思っていたのであり、いまでも思っていて、「あ、緒川たまきか」と一応仮の答えは用意してあるものの、まだまだ考えさせてもらいたかったところだ。

告知。
どこか、都心のほうに住む者にしか関係がないといったイメージを(都心のほうに住む者が勝手に)引きずってしまう JR東日本の「Suica」だが、最近、ついに永澤(山梨在住)が利用しはじめたのだった。永澤は言う。

「俺、Suica の会員になったよ」

 気持ちはわかるものの、あれは別に「会員」とかではないと思うのだったが、しかし不思議なのは「気持ちはわかる」ということのほうで、人はついつい、「会員」になりたがるのだった。

告知。
と書けば、読む側も書く側も、なぜかついシャキッとした雰囲気に包まれるのであって、読む側はあたかも意味のつまった何かがそこに展開されるかのように身構え、書く側もまた修辞を抑えて、「情報」たりえる何かを提供したような気分になるのだった。ってあたりまえか。

告知。
最近「飛行機好き」だということが判明した永澤だが、来る元旦には ANA の「一日乗り放題」キャンペーンとやらを利用し、無駄に、ほんとうに無駄に、一日飛行機に乗りまくるということをする。各滞在時間が数十分、ほとんど空港のなかから出ないままに、大阪、広島、札幌と回るのだった。と書けばまた私のでたらめのようだが、「嘘であればたいして面白くない」ことからもわかるようにほんとうの話で、でたらめなのは永澤自身である。しかも、むろん当初は「うまく乗り継いで日本一周」的なことがしたかったらしいが、乗り放題キャンペーンで利用できる便が限定されているか何かでそれがうまくいかず、結局、「いちいち羽田に戻ってくる」という「行ったり来たりの一日」である。なにがしたいのか。
でまあ、それ、個人ホームページ的なレベルでいうと「イベント」なのであり、いわゆる「日記になる」というやつだが、むろん永澤は「それをもとに旅行記ページを1本仕上げる」ような人間ではなく、じゃあ、なんだったら「Yellow」のほうでネタにするから実際のスケジュールデータとか、素材だけちょうだいよ、と言えば、「そうだね、俺はそういうの無理だからね」と言い、「ほんと、荒川君のように書けたらと思うよ」とつづけるのだった。
さらに「荒川君のように」のところを説明し、「前に田村がいみじくも言ってたさ、『荒川君は詩人だ』っていうの、あれはほんとにそうだよね」と永澤は言い、私が、でもさ、荒川の日記が最近「詩」的なのはひとつにはそれ、槇原敬之の歌詞の引用(しばしば全文引用)とかでやたら埋めてるってのがあるじゃない? と返せば、永澤は応えてこう表現するのだった。

「引用詩人」

 あはは。なんだよそれ。ありそうじゃないか、そんなジャンル。

12.27(金)

2002.12.29 3:30

昨日の「田村」につづいて、今日は「荒川」ではないかと予想された方面もあるかも知れないが、そうはいかない。
「12/26」の次に「10/30」をもってくるという、主旨説明を先にやってしまうことで「やらないのでは」と思わせたそれをやるのではないか、と勘ぐられた向きもあったかも知れないが、それもやめておいた。
ついでに思いついたのは、「12/31」の次に「12/32」をもってくるという案。こっちのほうがよりわかりやすく、ばかばかしくて、好印象を与えるのではないかと思うが、これを実際にやり、その「ばかばかしさ」から独立して存在するような12月32日の日記を書くのは(そうした日記でなければ結局「ばかばかし」くならないと思うが)、なかなか厄介だ。
実際にそれを書き、文章にする前にその内容を「やりたいこと」として説明してしまい、実際には書かないというこうしたやり方は、つまり、ちょっとした(ほんとうにちょっとした)「ボルヘス気分」を味わっている(ひとつのアイディアを小説に仕上げるかわりに、その小説を「すでに存在する小説」として、その梗概を説明する)ということがひとつあるが、もうひとつには、やろうと思うこと・考えていること・方向性といったレベルの話を、そのままネタとして提出することによって、「個人ホームページを作っている者とその友人・知人」というリアルなコミュニティと、ネット上に立ち現れる「個人ホームページ作者とその閲覧者」という擬似的なコミュニティとがより融合し、その境界がより曖昧なものになるのではないかというねらいがある。
むろん、擬似的なコミュニティの側がリアルなコミュニティにいつしか転化する、いわゆる「ネット上で知り合った」的なものというのは広く一般に見られ、例えば「オフ会」と呼ばれる行事をとおして実際に「リアルに顔を合わせる」ということがあるわけだが、その逆、もともとリアルな友人・知人たちからなるはずのコミュニティがネット上に登場させられる際に、また別の擬似的なコミュニティとして立ち現れ、再構成されていくという方向もあるにちがいなく、「Yellow」がそのコンテンツとして提供したいのは、むろん後者も含めた、両方の可能性である。
いや、それは嘘で、ほんとうは面白い文章が書ければそれでいいんだけどね俺は。

「Red」も含めて、見てもらえばわかるとおり私はこうした「芸風」の人間であるから、いわゆる「オフ会」というものを催したことはないのだが、いまちょっと、年明けに友人たちで集まろうかという話があり、話を持ちかけてみれば、けっこう「全員集合」的なことが実現しそうな勢いで、それ、ひょっとして「Yellow」のオフ会ってこと?という面子、つまり、

上山君、恭子ちゃん、永澤、荒川、田村、吉沼、私

 が、来年1月5日、都心に集合するかも知れないのだった。
もし「全員集合」ということになれば、例えば吉沼と恭子ちゃんはまだ顔を合わせたことがなく、そのへん本来の意味合いでの「オフ会」的な側面もあるわけだが、しかしこれ、この面子だけであればもともと全員が(相馬を中継点として)知り合いなのであって、つまり「オフ会」を必要としないリアルなコミュニティなわけで、そういう意味では「オフ会」でもなんでもない。
しかしやはり、この集まりは「オフ会」としてそこに立ち現れるだろう。「Yellow」の存在がそうさせる。
〈「Yellow」の存在がそうさせる〉ようなかたちに「Yellow」を作っていたのは私であって、「そうさせる」も何もないんだけど、リアルなコミュニティが、(むろん依然リアルなコミュニティとして存在したまま、同時に)擬似コミュニティ的な何かとして立ち現れる、まさにその瞬間にこそ私は立ち会いたいのだ。

と、クリティカルに響く言葉たちをまぶしてごまかしているが、よく考えれば、「Yellow」のオリジナルメンバーたる人間が集まるその会合を、ふつう人は「オフ会」ではなく、「作戦会議」と呼ぶのではないか。何しろ、私はその機会に「和製ブラックジャック」というネタにかたちを与えようとしているのだし。
でもあれだな、やっぱり「オフ会」だな。楽しそうだし、「オフ会」。
「楽しそうだ」と書くのは、それはつまり私が「オフ会」なるものを体験したことがないということで、オフ会って、それ、いったいどういうことをすればいいのか。開会の挨拶はあるのか。もし開会の挨拶をするとなると、閉会の挨拶もまたすべきなのか。来賓祝辞は? 紅組・白組は、どっちが先に入場するのだったか。そもそも、オフ会と運動会は何がちがうのか?

などと馬鹿を書いている場合ではなく、その集まりのことを考えなければいけないのだった。

12.26(木)

2002.12.28 10:40

せっかくここまでこうして、日付を欠かすことなく毎日書き、最近はある程度更新のリズムも生まれてきたとなれば、ひとつ、そのことを利用した仕掛けを用意したくもなり、例えば、ここに突然、10月30日の日記が出現したらどうか。前日の、例えば「12/26(木)」の日記に続けて、そこには「10/30(水)」が来るのであり、私は平然と10月30日の日記を書くだろう。そのことは、はたして読者に「奇妙なねじれ」といった何かを体験させるのだろうか。懸念するのは、「日付、間違ってますよ」と指摘されて終わることだ。

「田村」は、なんとなく「日付」に似ているわけだが、タイトルを「田村」としたのは別にそういうことではなく、田村のことをまだ少しも紹介していなかったなと思ったわけで、私の場合タイトルを先に決めてから書き出すパターンがしばしば失敗するというのはこれまでに明らかなのであれだが、田村は、何度となく言及している上山君や永澤と同じ、高校の同級であって、「Red」からリンクを張って広く紹介する前からここを閲覧していた、いわばオリジナルメンバーのひとりにあたるが、本人がなかなか掲示板に書き込んでくれなかったり、また彼自身の個人サイトがないといったことがあって登場する機会がなかった。ひょっとするとこれから先もあんまりないんじゃないかと想像されるが、今日はひとつ田村についての説明をしたいと思うのだ。

思うのだったが、思う矢先、プロトさんのサイトが更新されていて、ここにしつこく書いていたオオクワガタがどうしたこうしたという話への「返し」となる文章がアップされているのだった(「クーの雑記」2002年12月27日 02:10)。
うれしいのは、私の書いた「主にオオクワガタの飼育日誌を扱ったサイト」という言葉の「あやふやさ」をきちんと拾ってくれているということで、まあ、細部にまで「でたらめ」を仕掛けておいた甲斐があった。というか、「大きいでたらめ」を支えるのはやっぱり「小さいでたらめ」だな。
で、プロトさんのピックアップしてくれた「オオクワガタ飼育日記ページ」のページタイトルを見渡せば、やはり、人気のそれは「オオクワガタ飼育日記」だ。ストレートである。そこにはかけらの迷いもない。必要十分なところを述べてタイトルとするその態度が示すのは、見事に「他に開かれた」姿勢にほかならないのであって、そのことから、オオクワガタを飼う者はみな「ストレートで、迷いがなく、他に開かれた者たち」だと結論づけたくもなるし、結論づけてしまって、ゆっくりふるさとの年の瀬になど思いを馳せたいのは山々だが、しかし、そこにひとつの陥穽があることも指摘しておかなければならない。
それを「検索の罠」、あるいは「Google の罠」と名付けることもできるが、つまり、すっかりロボット検索に慣れてしまったわれわれがネット上にある「オオクワガタを飼育する日記が書かれたページ」を探そうとする場合、ついつい、キーワード入力欄に次のように入力してしまわないだろうか。

「オオクワガタ」「飼育」「日記」

 そりゃもう、引っ掛かってくるのは「オオクワガタ飼育日記」だろう。むろんそればかりが引っ掛かるわけではないが、少なくとも、検索結果の上位に来やすいのは「オオクワガタ飼育日記」とタイトルの付けられたページたちにちがいなく、「スティーブンソンとぼく」とか、「自動車のできるまで」とか、仮にそうした名前のオオクワガタ飼育日記ページがあったとして、それらは検索結果のかなり下位に埋もれてしまうにちがいない(そのオオクワガタは自動車を作ったかも知れないというのに!)。
このことを考え合わせ、予想しなくてはならないのは、「ストレートで、迷いがなく、他に開かれた者たち」の世界とはまた異なる、ねじれを抱えた者らの、迷いに満ちた世界もまた「オオクワガタ飼育日記ページ界」には存在するかも知れないということで、おそらく、「オオクワガタの飼育日誌を扱ったサイト」が見つめなければならないのはその両方である。

で、田村。

その前に吉沼。[記事番号:15]
まったくレスでもなんでもないのが申し訳ないが、「フラクタルサンミャクサンボダイ」という音の響きが頭に浮かび、元の正しいそれは何だったかしばらく考えていたが、「アノクタラ」だよそれ。アノクタラサンミャクサンボダイ(阿耨多羅三藐三菩提)。それ「般若心経」の一節だからそれほど関係ないといえばないが、白状すれば、私の実家は浄土真宗本願寺派の寺である。

いよいよ田村。

くり返すように田村は高校の同級で、同じ演劇部に所属していた間柄だが、「Yellow」のオリジナルメンバーのうちその「演劇部仲間」にあたるのが、ほかに永澤と荒川だ。上山君は「通学路(および通学電車)仲間」。
私や上山君は「県外」から電車で通うグループの一員であったので、むろん田村とのつきあいは高校からということになるが(といって上山君ともそうだが)、永澤と田村とは中学のクラスメイトでもあり、またそれ以前、同じ少年野球チームに在籍していた時期までさかのぼることも可能な「旧い仲」だと、これは最近永澤から聞いた。
むろん私はその当時の田村を知らないので想像で書くことしかできないが、それでも想像で書けば、田村はコロッケがとても好きだった。メンチカツも好きだったが、それは「メンチカツ」という言葉の響きが好きなだけで、ほんとうに好きだったのはコロッケだったはずだ。あと、水も好きで、よく飲んでたなそういえば。
大きくなって何になりたいと聞かれれば、必ず「田村」と答えて周囲の者を笑わせていた。

12.25(水)

2002.12.26 20:55

いや、タイトルはいやんなってしまうたぐいのただの思いつきで、むろん意味はなく、面白いとすら思っていないが、ここはひとつ助さんが、もうものすごく拡散していっているところを想像していただきたい。
想像できましたか? では、お聞きします。

しかしひょっとして「軌道」ってやつに乗ってしまったんじゃないかと思うほど、あれだ、続いてるじゃないか「Yellow」。もう丸1ヶ月を越え、途中、あとからまとめてアップしたりといったことはあったが、そんなことをしたためもあっていまのところ日付的には1日も漏れがない。12月も25日になってみれば、1ページがやたら長いのだった。
テキストだらけである。一番上にけっこう大きめの画像がどんとあるにもかかわらず、なんだか「絵がない」印象すらある。
しかし、どうよ。

12/23(月)
大そうじ。流しだけで終わってしまう。
吉沼

12/25(水)
軽くお腹を下したり、パソコンがフリーズしたり、イヤホンが片一方聴こえなくなったりと、今年の風邪は機器にくる。
上山

 いーなー、いーなー、いーなー。そんな短くてさあ。そんな面白くて。いったいこの俺の「長さ」はなんなんだ。ひょっとして俺、「ホームページに慣れていない」のか。っていうか、「流しだけで終わってしまう」はそれ、嘘だろ。

しかしこうして「軌道」に乗り、日々じゃかすか書いていれば、今度は逆に読む側のほうに疲れが出てきているのでないかと想像でき、きっと、そろそろ「飛ばし読み」などされているにちがいない。
飛ばして読む。ものすごく飛ばして読む。「読みたい」と願う強い思いがそうさせるのか、とにかく「そんなに飛ばさなくてもいいよ」というほどに彼は飛ばす。それははたで見ている者にも伝わるほどで、「あいつ、飛ばしてるなあ」と見る者はきっと口にする。飛ばして読む。それはあまりにも過剰な読みの姿勢のことだ。
飛ばして読む彼は、1個の句点を2個にも3個にも読むだろう。あるいはそこには、句点など打たれていないのかも知れず、しかし、彼はそこに句点を見る。いや、読む。「~である。」とふつうに結ばれた文章を、しかし彼は、わからないが、例えばこんなふうに読んでいるのだ、一気に。

「ででああ。。。。るるである。。あ。で。ある。。。。。。」

むろん、プロトさんのサイトは「主にオオクワガタの飼育日誌を扱ったサイト」ではないし、ひょっとするとそうなろうとしているのではないかという予兆めいたものすらないということは、ほんとうにそんなサイトではないのだ。いや、

はたして、ほんとうに「主にオオクワガタの飼育日誌を扱ったサイト」ではないのか?

 という疑義をさしはさむ余裕がそこに少しもなかったとして、私がおすすめしたいのは「がっかりする」ということではなく、もし、君が真に「主にオオクワガタの飼育日誌を扱ったサイト」を求めているというならば、必要なのは決してあきらめず、その掲示板等で「オオクワガタ」について問いかけ続けてみるという態度であるし、いつしかその努力が実を結ぶ日もあるとすれば、何もそれはプロトさんのサイトでなくてもいいにちがいないと私は思うけれども、いま、目の前にあるのはプロトさんのサイトだ。
そのなかに、トップページではやや下がった右側、タテ帯状に「ニュィースの時間」というコーナーがあり、こういうのは何ていうんでしょうか、「個人ニュースサイト」って呼び名が一般的にはあてはまるのか、そのへんはよくわからないが、とにかくプロトさん自身が日々巡回するさまざまなニュースソースサイトの記事から、目を惹いたもの・興味を惹かれたもの・つっこみを入れたくなったもの等をピックアップし、短いコメント付きで各記事ページへの直接リンクを提供するという、説明すればそういうものだが、これはほぼ毎日更新されるということもあり、わりと日々、思い出したようにチェックすることが多い。
で、そこで紹介されていて知り、最近示唆的だったのは次のような事柄である。

12月17日(火)
パクリ日記
 こういうのは個人の羞恥心の問題なのでなくならないと思います。人前でチンコ晒すのを「恥ずかしい」と思う思考回路がない人に「チンコ晒すな」というのは無理です。
>>>目的不明ですが。
(以上、コメントはプロトさんのもの)

 まあ、プロトさんが紹介した意図からはすごくずれるし、リンク先の記事が述べている文脈とも全然異なるんだけど、そこで紹介される、

「他人のサイトに公開されている日記の中身をそっくりそのままコピーしてきて、日時や固有名詞をちょいと変更、自分の日記として公開してしまう」

 というその「手法」が、とにかく私には刺激的だったのだった。
それ、すごく面白いじゃないか。
ってまあ、実際の、記事のなかで言及されているそれは私がいま考えているような「実験的な何か」ではおそらくないんだろうけど、私が受けたのは、その行為がもつラジカルな可能性を、もっとこう、かたちにできないもんだろうかという刺激だ。
その行為のなかではおそらく、「他人の日記を生きられるか」ということが問題になるだろう。あるいは「生きる」だけでなく、「しっかり生きる」ということが重要になってくるかも知れない。「生きる」と「しっかり生きる」を分けるものは何か。「日時や固有名詞をちょいと変更」は「だめ」だ。だめに決まっている。やはり、「そっくりそのままコピー」こそが可能性の鍵を握っているのであって、って待てよ、それひょっとしてあれか、「多者の交換日記」か。あ、やってたわ、俺、それ。

「その助さんは笑っていましたか? それとも困っていましたか?」

12.24(火)

2002.12.25 19:49

プロトさん[記事番号:12]のサイトは「クー。」と名の付いたそれだが、主にオオクワガタの飼育日誌を扱ったサイトかどうかは直接行って確かめていただくとして、そのなかにあるリンク集に「Yellow」が加えられていた。フキダシのようなアイコンをクリックして出てくるその紹介文には次のようにある。

Superman Redの相馬 称さんは他にもウェブサイトを運営している。それがこのSuperman Yellowだ。
「他にも」と書いたが、「Yellow」を頻繁に更新している間は「Red」のほうの更新が全くといっていいほど停止しているので、実質ハヤタとウルトラマンみたいな関係になってしまっているのである。
しかし相馬さんのやることだから、こちらも当然面白いわけで、別に僕は構わない。

と引用して、別にその後半部分に「いや、照れるよ」といったことが言いたいのではなく、それも言いたいが、しかし「ハヤタとウルトラマンみたいな関係」というのはそろそろなんとかしたいなと思うのであって、関係ないが、「Yellow」への書き込みを足せば「戦隊ヒーロー」→「スーパーマン」→「ウルトラマン」となるその比喩のつながりは美しいのだったが、よく考えればそのストイックさに何も意味はない。
で、「Red」のほうを更新した。ポッタニコスの話など。
ほんとうはポッタニコスの話だけで全面埋めたかったが、それだけの分量を用意できなかった。一日じゃ無理だった。で、「Red」のネタでは唐突に「ドラクエ」が組み合わされているが、それは「いったい、ポッタニコスはいつぐらいの人なのか」と書いた12/4分のノートに応えて吉沼が言った、「きっとドラクエの頃の人だよ」という言葉が元になっている。なんだよ「ドラクエの頃の人」って。

富山太佳夫が「いま『クリスマス・キャロル』を訳している」と言っていた[記事番号:14]、のは私も覚えている。「岩波文庫で出る」と言っていたはずで、卒業してしばらくは私も本屋に行くたびに岩波のコーナーをチェックしていたが、結局まだ出ていないのではないか、と思う。

「Red」に向けては、ひきつづき「和製ブラックジャック」のネタの準備もすすめていて、いま、恭子ちゃんに「和製ブラックジャックさんへの10の質問」を考えてもらっている。
それでその質問に永澤に答えてもらい、そんなことをするうちに何か面白いかたちにできあがってこないかということだが、質問を考えてもらうにあたっては、恭子ちゃんにとりあえず次のような指針を出した。

  • 設定は、恭子ちゃんが和製ブラックジャックさんにインタビューするというもので、そのインタビュー用の「質問原稿」的に、聞きたい項目を10コ考える。
  • もし「相手の顔を思い浮かべながら考えたい」という場合は、永澤の顔を思い浮かべる。ただし「和製ブラックジャック」イコール「永澤」ではない。あくまで、架空の「和製ブラックジャックさん」を想像し、その人に対する質問を用意する。で、その人、顔は永澤に似てる。
  • インタビューのねらいは、「和製ブラックジャックさんの人となり」をあぶり出すこと。
  • 和製ブラックジャックに関しては、いま、「どうやら医者らしい」「なんだかすごいらしい」ぐらいしかわかっていない。
  • もし質問項目がジャカジャカ出てきて、10コじゃおさまらないという場合は、むろん10コ以上あってもかまわない。
  • 基本的に「上山君に相談し、アドバイスをもらう」のは禁止。ただ、こんな感じでいいかなあと上山君に聞いて、「その顔色(反応)をうかがう」のはアリ。
  • なんだったら、手塚治虫の「ブラックジャック」を読み直すところからはじめるのも可。

いや、どう転ぶのか、現時点ではまったくわからないが。

12.23(月)

2002.12.24 17:43

今回もまた、ひとつ反省からはじめてみたいというのは、前回分、よく読めば何を言いたいのかいっこうにわからないからで、またいきおいだけで書いてしまったよとほとほと呆れるばかりか、さらにああした調子の文章のあとでは、急にまた日々のこまごまとした報告へと戻っていくのがたいへん困難であって、この三連休のうちに何とかするつもりでいた部屋が、結局片づかなかったのだったと書くこの唐突さは何とかならないものか。

片づかなかったのだった。って、片づけなかったんだけども、そうこうするうちにもういい加減「年末」なのであって、ゴミ出しの機をひとつ逸するごとの「押しせまってまいりました」感を味わっている場合ではないのだ。
と、こないだうちから視野の片隅に捉え、脳裡の片隅に住まわせておいた集積所の黄色い貼り紙をあらためてちゃんと確認してみれば、回収おさめとなるのは日付でいえば30日で、それはうちのエリアでは資源ゴミにあたり、また燃えるゴミはいつもと曜日を変え29日に回収があるという。なんて働き者なんだ区ってやつは。さすが区だ。いや、市だって負けてはいないぞ、市もすごいぞという声があればどしどしこちらまでお便りを。

ひとつには、「私の日記」から自由であるための明示的な手段として右の掲示板はあり、うまく転がってくれるかどうかはわからないが、そっちサイドとこっちサイドとで一対多のセッションができたらいいと考えていることは以前も書いたとおりだ。
ちょっとここのところセッションにまで手が回らなかったというか、こちら側で用意したことを書くうちに自然と時間切れになってしまっていて、なにせ「一対多」であるから「一」の側が動かなければどうにもならないというのはたいへん申し訳ないが、ひとつこっちのことにはかまわず、掲示板のほうは掲示板のほうで盛り上がっていてくれればうれしい。
で、説明すれば、そうしたセッション的な効果を模索するため、「掲示板内のレス」のかたちでレスを付けることは、(よほど個別で、事務的な連絡となるような場合を除き)まずほとんどない。私のレスは、それが単純なレスのかたちであれ、あるいは突飛なかたちであれ、こっちサイドに書かれるはずである。
といって書き込むにあたり、セッション性を意識する必要はないし、別に「ネタを振れ」と言っているわけでもないので、とにかく掲示板には気軽に書き込んでいただければ幸いだ。
あるいはかなりの長文になることが予想され、掲示板に長々投稿するのが気が引けるというような場合にはメールでもかまわない。その場合はこちらまで。さっき登場したメールアドレスは永澤のものだから、間違えないように注意していただきたい。

12.22(日)

2002.12.24 4:19

今回はひとつ「反省」からはじめてみたいというのは、前回分の内容と構成にひどく不満が残るからで、例えば、「だったらいっそ2回分に分けてアップするのがペース配分というものにちがいなく」云々と書いて性急に「ネタ的なる構成」を呼び込んでしまう前に、「上山君問題」について、もっと書くべきことがあったのではないか、もっと突き詰めて考え、文章にするべきではなかったかと思うのであり、そんなことを言われても当の「上山君」は困惑気味の表情を浮かべ「もういいよ」と言うにちがいないが、もっとじっくりと掘り下げ、もっと対象(この場合上山君本人のことではなく、上山君を「上山君」と書く私自身の言説)を見据えて長々と書き、あげく、最終的に上山君がホロッとするような「いい話」にもっていってやりたかった。ちきしょう。ホロッとさせてえなあ上山君を。

寺山修司の実験作品を引き合いに説明しながら、吉沼がおそらく懸念していたのは、私が「日記として書かれ、読まれることを意識した日常」を生きてしまっているのではないかということで、その寺山の作品を私は未見だが、吉沼の説明を借りれば、そこでは「無作為に抽出されたひとりの平凡な男性」とされる男性の日常を本人には知らせぬまま記録に撮り、その日々の様子をテープにして毎日本人に送りつけるということがなされるのであり、「あはは。なんてことするんだよ」とその面白さには思わず笑ってしまうが、大方の予想どおりに、やがてその男性の生活には変化があらわれはじめるのであって、それまでには見られなかった「観衆」を意識するゆえの「振る舞い」が次第にカメラには映し出されていくのである。
寺山のその実験作品に登場する(あるいは、させられる)「平凡な男性」に直結させて論じることはできないものの、「読まれること」を前提とするウェブ上の日記を書く者らが、しばしばそれに似た構造のなかに置かれてしまうことは、ネット上でよく見かけ、類型化すらしているように感じる次のような言葉、

日記に書くために無理に「イベント」を起こすようになっている自分に気づいて、日記をやめた。

 が示唆するとおりだが、しかし、「ウェブ上の日記」への訣別を告げるそうした言葉たちがどこかくだらなく聞こえてしまうのは、「だって、書く行為が書かれるものに影響していくのは、それ当たり前じゃないか」という思いがひとつにはあるのであって、「書く行為」や「読まれることへの意識」が作用したのちのその「日記」を、もはや「私の日記」ではないとするそうした素朴な「日記」観が、ことウェブ上においては、少しも魅力的ではないからだ。
いや、別に、「無理にイベントを起こして書け。それが面白い日記だ」と言っているわけではない。むろんそうではない。
むしろ、「イベントがなければ日記にならない」とするその態度こそが、硬直した「私の日記」を生むのであって、しばしば私が書く「ただの日記になってしまう」というのがそれだと書けば、「ただの日記」を否定するかのようでそれもまた不用意だが、とにかく、不用意に「日記」と呼ばれてしまいがちであるそのウェブ上のジャンルに、私は、元気でいてもらいたいのだ。と言えばいいか。
要はつまり、例えば上山君が「Yellow」を指して「全然日記じゃないじゃないか」と〈つっこむ〉際の、その「日記」も一方で擁護しつつ、同時に「Yellow」ではその「日記」と呼ばれるジャンルをずらし、「私の日記」であることから自由であるような、そうした言葉たちを生み出したいのであり、あるいはそうした言葉たちはすでに「個人ホームページ」と呼ばれるメディアにおいて日々生み出されているのではないかとも想像できるが、それを意図的になぞり、「芸当」とすることができないかと考えているのだという、それもまた、書く行為が生む、ただの思いつきだよまったく。

12.21(土)

2002.12.23 17:59

きのうは電話で上山君に、おとといは食事をしながら吉沼に、それぞれ「ペースの問題」を言われたのだった。
吉沼のサイトにある日記はいま、立川談志の書く「今日の家元」にスタイルを借りた一日一行式のそれだが、「これだと続くんだよ」と吉沼は言うのだし、また上山君のそれはもう少し量が多いが、抑制のきいた適度なメモ書きであるそのスタイルははじめから「量と質の自由」を手にしていて、いやインターネットというもの自体がそもそも「量と質の自由」を手にしたメディアであることを考えれば、それはインターネットを泳ぐのに適した「ひとつの完成したかたち」であるとも言え、まあ「手ごろなスタイル」なわけで、「お互いひとつ、年内は(更新を)飽きないように」と冗談を言う私に対し、「いや、俺のはさ、続けられるんだよ」とやはり同じように言うのだった。
ふたりの言うそれはつまり「ペースの問題」である。「俺たちはまあ続けられるペースでやるからいいけど、君の(「Yellow」のペース)は、もたないでしょ?」ということであり、もつもたないは別として、「たいへんでしょ?」ということを言うのだった。
といってむろん、それらは「ペースをおとしたほうが続けられるよ」といったアドバイスへと向かうわけではなく、友人である彼らは私の飽きっぽさも知っていて、この熱病めいた私の噪(はしゃ)ぎを、きっと「いつものあれ」を見遣るように見てくれているにちがいない。
「ペースをおとしたほうが続けられるよ」といったアドバイスを彼らがしないように、私は別に続けるために書いているわけではなく、続けるという行為のなかでしか作ることのできない「重層的な面白さ」はきっとあるからぜひ続けたいとは思うものの、いま、私が書いているのはそれが面白いからだ。とても面白い。面白くはないか?と友人たちに電話で問いかけているのもそのためだし、欲を言えば、やがて「面白い/面白くない」といったことのどうでもよくなった地平で書き、それが奇跡的に「読むに堪える」文章になっていたりすればこんな幸いなことはないが、いまはただ面白く、もつもたないの話で言えば、それは「ペースの問題」ではなく、いつまで新鮮なアイディアを持ち続けられるかということだ。飽きたらはやいぞ私は。

ところで読者のなかにそのことを気に留めている者がどれほどいるのか知らないが、書いていて自分でも「なぜだろうか」と思うのは、つまり、上山君だけ「上山君」だということで、ほかに登場させている吉沼、永澤、荒川はそれぞれ「吉沼」「永澤」「荒川」だし、まだ「Yellow」のほうにはその名前を出していないものの田村だってきっと「田村」と書くにちがいないが、しかし、やはり「上山君」は「上山君」だ。なぜなのか。
このことを指し、「上山君問題」と名付けることは易しいが、だからといって問題が解決されるわけではなく、例えば、それぞれ1回ずつ登場してもらった「大竹君」や「蔵本君」はほかの者らに比べそれほど親密ではなく、その距離感が「君」を付けさせているのはもっともだとしても、上山君は永澤、荒川、田村と同じ、高校の同級であって、その親密性にそれほど違いがあるとも思えず、こんなに連呼して平気なくらいだから親密でないわけがない。
けれどもどうしても荒川は「荒川」であり、吉沼は「吉沼」であって、永澤など「永澤」でないわけがないが、上山君はやはり「上山君」なのだった。
そして恭子ちゃんは「恭子ちゃん」だ。
いずれ「関係」の問題であり、そうしたものなのだとしか言えないとすれば、「上山君問題」は解決もしなければ発展すらしないが、ではなぜそんなことを書くのかといえば書きはじめてしまったからで、こうして、前半と後半でまったくちがう話題を扱い、それぞれにある程度のまとまりがあるのだったらいっそ2回分に分けてアップするのがペース配分というものにちがいなく、だとすれば、続くわけがないじゃないかこんなペースで。そうだろ、上山君。

いや、そうではなく私は、「あら、よくってよ」とタイトルを付け、何を書くつもりでいたのだったか、それを思い出せずにいるのだった。

12.20(金)

2002.12.21 3:20

上山君が以前から部屋に届いていた東京電力の封筒を開けて見、「慢心してはいけない」とわれわれに警告するのは、つまり上山君、公共料金をついに自動引き落としにしたのであって、しかしそのもっと前、自動引き落としが適用される前の未納分について封筒は督促していて、だから「自動引き落としの手続きをしても慢心してはいけない。封筒は開けろ」と上山君は言うのだったが、その忠告が有効であるのは、じつは私はまだ、公共料金を「自動引き落とし」にしていないのだった。
いや、期限を過ぎるとコンビニで払えなくなってしまう水道料金だけはさすがに厄介で、厄介だなと思い、自動引き落としにしてあるのだったが、だったらほかもまとめて手続きすればいいじゃないかと口を揃える者らを尻目に、私はまだ手続きをしておらず、電話は、電話はまあすぐ止められてしまうので比較的こまめに払うが、ガスと電気が油断しやすく、どちらかの最後通告的なハガキにいつも重い腰をあげて、両方の2ヶ月分ぐらいと、もしあれば電話料金も足して、まとめてどーんと払ったりしているのだった。
と書けば、「なんだよ、払えるんじゃないか」ということで、そりゃあまあそうだけど、問題はもっと別のところにもあるのであって、例えばモラトリアムなことを口にさせてもらえば、公共料金の自動引き落としは、なんだかひどく「大人」だ。
「大人」を前にしては、私なんて、そんな、まだまだですよと言いたくもなり、そうした空気が「自動引き落とし」には漂っているのであって、だから恭子ちゃんが次のように書く、

> まだ大学にいた頃も、英夫さんの部屋に
> 公共料金の滞納通知がよく散乱していて、
> 一人暮らしをした事の無かった私は
> 「世の中って意外と何とかなるものなのだなあ」
> と思った。のを、思い出しました。

 という思い出話が、どこかメランコリックな気分を引き寄せるのも無理はなく、しかし、そうだとはいえ「慢心し」てはならず、「封筒は開け」なければならないというのは、いい加減にしないと、そのうち、封筒はどっかいってしまうのだった。
「どっかいってしまった封筒」を探すのが容易ではないのは、なにしろ、どっかいってしまっているからで、探すうちに「知るかよ」といった気分にもさせられるが、「散乱する滞納通知」の恐怖はむろんそれだけではない。

 「聞いたことのない、新たな公共料金」

 と仮にそう呼ばせてもらうが、もしそれが東京電力の封筒で、「東京電力株式会社」と表に印刷してあったとしても、そのなかにある案内状がはたして思ったとおり電気料金を督促しているのかどうか、うっかりして、私は何か別のものを滞納してしまってはいないのか、都市にひとり暮らしする者であれば慢心せず、封筒を開けてみなければいけない。中面をのりで閉じられ、「ここから開けてください」と書かれたハガキであれば、同じくそのハガキを開けてみなければならない。
公共料金は、電気・ガス・水道・電話の4つだけであるとそう思った時点で、すでにそこに「慢心」は生じているのであり、なにしろ、滞納通知はこんなに散乱している。てっきり「電気」だとばかり思っていたそのハガキには例えば次のようにあって、私を驚かせるだろう。

 「粉末」

そうかー、粉末かー、忘れてたよ粉末。電気・ガス・水道・電話・粉末。そうだよなー、ずっと払ってなかったもんなー。

12.19(木)

2002.12.20 20:01

ホームページ上の「演出」としての音楽、について考えている。
ここのところ立てつづけに(といっても2回だが)舞台を見たということがあり、また「トーキョー・ボディ」の本公演へ向けてその演出を思案する宮沢章夫さんの日記を読んでもいて、さらにはその宮沢さんの新刊『牛乳の作法』には「演劇と音楽」をめぐる文章がいくつか収められているのだったが、ふと振り返ってみて、「ホームページと音楽」というのはむずかしい関係だと言わざるを得ない。
むろん、音楽活動をしている者がそのオリジナル曲を MP3 などにし、ホームページに載せる行為は有効だし、ここで問題にしたいのはそうした「ホームページ上の音楽」ではなく、そうした、ユーザーが選択的に聴くことが可能な、あるいは、それ単体でも存在することが可能な、アーカイブとしての音楽データのことではない、また別の、「ホームページ上における音楽」の可能性について考えている。
言ってしまえばつまり、ページを開いた途端に MIDI が流れ出すといったアレのことがまず頭にあるわけで、そうした演出はむろん「だめ」だが、それ以外の、ホームページ上に音楽を存在させるための「だめ」でない方法が何かあるだろうかと考えていて、例えば対極にあるのは、文章の末尾に「今日聴いていた CD」として、その文章を書く際に聴いていたアルバムなりシングルなりの名前をテキストで付記するという方法で、なんだったらアマゾンの該当ページへそのテキストからリンクを張ってもいいが、やはりそれはテキストでしかなく、そこから音は聞こえてこない。(聞こえてくる場合もあるだろう。読者がたまたまその CD を知っている場合にはそれが起こりうるし、知っていなくても、「かなり濃密なコミュニティ」や「ひどく想像力豊かな読者」といった要因がただのテキストから音を発生させてしまうことはあるだろう。しかし、ここではより直接的に、ホームページ上で音を鳴らす方法について考えたいのだ。)
選曲の問題ではないだろう。ホームページ上で直接的に音を鳴らすとなったとき、やはり、問題になるのは「会社でネットサーフィンをしている者たち」の存在だ。であるからには、「ページを開いた途端に MIDI が流れ出すアレ」が「だめ」であるのは、それが「なんだかわからない心和む音楽」だからだめなのではなく、(よく知らないが例えば)「ZARD のアレ」だからだめなのでもなくて、根本的には、音楽が流れてしまうことそれ自体がだめなのだ。
そこで思いつくのは、「会社のマシンから聞こえても不自然でない音たち」だ。つまり、アラート音や、起動音といったものであり、ほかに「CD トレイの開閉する音」や「フロッピーディスクの排出される音」などあるだろうが、それらをサンプリングし、それらのみを使って、ひどくかっこいい曲を用意することはできないだろうか。隣で仕事をする同僚らはきっと思うだろう。
 「やたら起動している。」

 あるいは別の曲ではこう思うかも知れない。
 「フロッピーを出してばっかりだな。」

 そして、こう思ってくれればしめたものだ。
 「かっこいいな。」

古今東西のアラート音が奏でるアンビエントな世界。とまで書いて、いよいよばかばかしくなってきたのでやめるが、なんだよ、古今東西のアラート音て。

あけましておめでとうございます。
談志は、「孝行糖」と「芝浜」。兄1(長男)と私、吉沼、荒川の四人で見に行った。
見終わって、有楽町で吉沼と食事。「最近涙もろくなってきちゃってさあ」と吉沼が切り出すので、てっきり「芝浜」の感想を言うのかと思ったら、「孝行糖」への言及だった。「孝行糖の本来はァ」と囃し、与太郎のあとをついて歩く子供たちのさまがついつい浮かんで、としゃべる吉沼は、最近「風景」とか「情景」とかいう言葉をよく口にしてるな。って思って、とも言う。
そのほか、「ホームページと日記」をめぐって、寺山修司の行った実験(「ていうか、犯罪?」と吉沼は注をはさむ)を引き合いに出したりしつつ話す。まあ、それら会話の成果はまたのちほどということにして、とりあえず「あけましておめでとうございます」という気分だというのは談志の「芝浜」のせいだが、おそらく前半の、「おれ、はたらくよ」というところで年は明けたのであり、そこが最大のクライマックスになっているというのはすごいが、あとはもう、「また夢ンなるといけねえ」までなだらかに降りていけばいいといった気分で私は客席にいたのであり、今年は「大家ァ偉えな」のくだりがさらっと流れてしまったように感じたのが残念だが、ほんとうは残念ではなく、また来年、新しく「完成」するのだろうと思えば、来年、「かっつぁん」がまた月をまたいで酔っ払い、仕事に行かなくなっていることを願うばかりだ。

12.18(水)

2002.12.19 17:59

というわけで「Red」のほうに案内文を載せ、「コーナーの日記」からここにリンクを張った。いよいよ一般公開である、と書いても、くり返すようにウェブ上においては滑稽にしか響かないが、こうして「真の個人ホームページ」幻想はもろくも崩れ去ったわけだ。
リアルに顔を合わせたことのある友人・知人にしかそのアドレスを教えない個人ホームページという「真の個人ホームページ」幻想が崩れ去った地点に、新たに立ち上がってくるものは「個人ホームページ」だ。だってそうじゃないか。これ、こんなに面白いのだ。面白いだろ? 面白くはないか?と私は友人たちに電話で問いかけていたのだし、こんなに面白かったらもっとたくさんの人に見てもらいたいと願う、たしかその場所に、かつて「個人ホームページ」は発生していた。忘れていた。何を遠回りしていたのか。
いま、個人ホームページが生まれた。祝ってくれ。ありがとう。

明日は談志を見に行く。以前の日記で「取りはぐった」と書いたチケットで、e+(イープラス)から限定枚数追加の案内があり、取れたのだった。見に行く。

12.17(火)

2002.12.18 14:59

ずいぶんなご無沙汰で、すっかり更新に飽きたか、あるいはそれどころではないかで、ひょっとするともう書かないのではないかと思われていた方もあるかも知れませんが、じつは別に新しいサイトを拵え、そこに文章を書いていました。わたくし相馬の「真の個人ホームページ」として企図され、おそらくは「コーナーの日記」の延長線上に位置するところのそのサイトの名は、「Superman Yellow」といいます。

ここで「真の個人ホームページ」と言うとき、むろんそれはここ「Superman Red」に対置されるわけですが、96年のスタート時よりずっと「個人ホームページ的」であることを生理的に拒否しつつサイトを作ってきた私が、近年「個人ホームページ」というメディアを好きになり、そのメディアのあり方それ自体を「芸」にするようなかたちで「もっと何かできないか」と考えるようになったのは周知のとおりで、それは「コーナーの日記」や、「多者の交換日記」といったかたちになったりもしたわけですが、これまた周知のとおりそれには飽きてしまって、このたび、「リアルに顔を合わせたことのある友人・知人にしかそのアドレスを教えない」という、実験半分、冗談半分の「Superman Yellow」を11月21日よりスタートさせ、書いていたわけです。ものすごく書いていました。まだ、書く予定です。

なお、「Yellow」は例によって XHTML1.0 + CSS2 で書かれており、こちらの意図どおりの表示結果を得るには、Mozilla 1.0 以上、Netscape 6.0 以上、IE 5.0 以上等が必要になります。IE 4.0 や、現バージョンの iCab、Opera では、かなり表示が崩れますので、その場合はスタイルシートをオフにしてご覧ください。

12.16(月)

2002.12.17 23:06

ポッタニコスがどうのこうのという話もたいして展開していないままで申し訳ないが、いま、面白いのは「和製ブラックジャック」だ。山梨かどうかはわからないが、きっといる。どこかにいる。いないはずがないと言ってもいいくらいにその言葉はしっくりと耳に響くが、しかしそれ以外のことはまだすべて謎に包まれたままだ。和製ブラックジャック、それは謎の男。
和製ブラックジャックの使うメスは竹でできているんだよと知ったふうな口をきく者もあるが、それもすべて噂。ひょっとすると医者でないかも知れないと言う者までいて、となると、いったい何が「和製ブラックジャック」なのか見当もつかないが、なぜかより興味は惹かれる。仮に医者だったとして、やはり治療代は法外なのかどうか。
和製ブラックジャックその人をめぐる物語をブラックボックスとしたままに始める、「和製ブラックジャックに聞く」シリーズも面白いかも知れないと思い、それはまあ、例えば「和製ブラックジャックに聞く日本経済」といったようなもの。おそらく和製ブラックジャックはズバズバ答えるだろう。ズバズバ答えるが、その言説を終始包んでいるものは「当てずっぽう」な空気だ。
そして、和製ブラックジャックその人の物語を解き明かすのもまた、インタビュー形式による質問と答えだ。いま、そのように書きながら私が思い浮かべているのは、和製ブラックジャック役を永澤に、インタビュアー役を恭子ちゃんにそれぞれ当てて、ふたりで好きに会話してもらうというさまで、それを文字におこし、写真も添えれば、無加工で面白いものができるような気がするが、気のせいか。まあ、やってみてつまらなければ俺が面白くするから大丈夫だ、って誰に言ってる。

いやまあ、すっかり「Red」のほうをおろそかにし、「Yellow」の側にべったりだというのはそのとおりだが、それでいて、ときおり「Red」に載せるような、もっと独立した「ネタ」が作りたいと思うことはあって、例えば「真・リレー俳句」の投稿を読み、スカッと笑えるようなすごい解釈に出くわしたおりなどにそう思うが、最近ではやはり恭子ちゃんの労作、「296,624,486cm」が笑った。あれはちょっと、「Red」を更新したくなった。