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13 April 2004 (Tue.)

2004.04.16 1:33

日々、日記は長くなる。いつまでこのペースがつづくものでもないので、(だいいち、更新ペースが丸一日ずれているし、)いったんここらで呼吸を整えなければならない。
前回の「私たちは何を喋っているのか」は、まあ特殊な内容で、長いし、たんに「不親切」な日記になっていたとしたら申し訳ないが、ただ、あのメールの内容をきちんと解説し、紹介するだけの時間と気力がないのが惜しい。引用したメールのあともまだやりとりのつづいている上の兄ふたりのその推論と調査は、かなりスリリングなことになっているのだった。仕事もしないので、ここ最近はそんなこと(おもに調査のためのネットサーフィン)ばかりやっているらしいが、その兄ふたりの「盛り上がりぶり」についてはみえさんの日記(4/13分)もぜひ参照していただきたい。

と、掲示板のほうには「あ(相馬2号)」さん、つまり次兄から前回の「私たちは何を喋っているのか」に対する注が書き込まれていました[記事番号:73](←ところでこれは、クリックするとポップアップウィンドウで当該記事が開く仕組みです。そのポップアップウィンドウを使って当該記事にレスを付けることも可能です)

印刷用のスタイルシートを用意しました。印刷時にはスタイルシートが切り替わり、日記部分のみが表示された(右側のメニュー部分などのない)状態でプリントアウトされます。が、またもや Mac IE での挙動が不審。いま現在こちらでは動作を確認してありますが、もし「プリント(およびプリントプレビュー)にひどく時間がかかり、結局かたまってた」みたいなことがありましたら、ご報告ください。

12 April 2004 (Mon.)

2004.04.14 21:38

いま、下館にいる兄ふたり(3人兄弟の上ふたり)は、「相馬家と訛り問題」で盛り上がっている。
そもそもはこの日(12日)、一番上の兄から「私たちは何を喋っているのか」と題されたメールが届いたのだった。Cc: で次兄にも送信されているそのメールは、

「下館、訛りすぎ」面白かったので、思ったことなど。

 という書き出しではじまっていて、「相馬家の人間がほとんど訛ってないのはどうしてなのか」という問題から出発するが、それが(その後のメールのやりとりで発展していく推論たちも含め)ものすごく面白く、それで、このさい全文引用してしまうことにする。
そのまま掲載するにはあまりにローカルな、家族内でのみ流通する「とおり名」が固有名詞として使用されていて、それはどうかと思うものの、しかしそれらの固有名詞たちこそが私が「わくわく」感じているものの正体かもしれないことを考えて、あえて固有名詞は固有名詞のままとした。で、それらは【】で括り、適宜かんたんな説明を添えた。
で、その前にまず説明すれば、すでに何度か書いたように相馬家は浄土真宗本願寺派の寺で、2年ほど前に亡くなった父のあとをつぎ、いまは一番上の兄(10コ上)がその25代目の住職。次兄(7ツ上)もまた父の死を機に下館に戻ったが、なりわいは「3D アニメーター」というやつである。
文中に3箇所出てくる太字の「」内は、私が9日の日記に書いたものの引用で、メールはそれに応えるかたちで書かれる。

「2002年の1月に亡くなった父は両刀(土地の言葉と標準語と)使い分ける感じで、京都で大学生活を送り、その後東京で教師をしていた時期があってそのふたつが訛りの解消に役立ったか、基本的には標準語をマスターしていた」

【順敬】(父、じゅんけいと読ませ本名)は訛りを解消したのではなく、当初からマクロ的には訛っていなかったのではないか。

  • あの両刀は住職としてのキャリアの中でマスターした「芸」ではなかったか。
  • 住職三年目にして私もそれを多少マスターしつつある。
  • 【みどりがおか】(父の姉)も、【としちゃん】(父の弟)も訛っていないし、【まさちゃん】(父の弟、浜松在住)は疑似静岡弁であって茨城弁ではない。
  • そもそも【順證】(祖父、じゅんしょう。兄ふたりは知っていて、私の生まれる前に没)が訛っていなかったと記憶する。
  • 【ハナおばさん】(祖父の妹、下館の家にずっといたので3兄弟にはなじみが深い。エンドレストーキング的にくり返されるそのさまざまな昔語りの聞き役となるのが、3兄弟の子ども時代の日課だった)も訛っていなかったと思う。
  • 【チヨおばさん】(祖父の妹)、【水戸のおばさん】(同)、【ケンちゃんおじさん】(同じく弟)も訛っていなかった。
  • 曾祖母(【みさおさん】)は前橋あたりの出身らしい。

「これでもかと訛ってしゃべる檀家の方」

これこそが「茨城弁」と思っていたが、どうやらそうでもない。

  • 北関東の真宗門徒は新潟から石川にかけての日本海側から、江戸後期に入植した人が多い。
  • うちの檀家は98パーセントそれである。
  • が、それは地域的には少数派である。
  • 年寄りのそれは聞き取れないほど訛っているが、私的にはそのリズムは心地よく、いわゆる茨城弁の「語尾上がり」とかに私的に感じる違和感はない。
  • 単語や発音はともかく、リズムを真似ることは私的にはたやすい。
  • 【順敬】が喋っていた「土地の言葉」もこれである。
  • 祖母、【おとよさん】(祖母のとおり名)の語り口は記憶にないが、【五所の中川家】(祖母の実家)はこの範疇にある。
  • 相馬家の「標準語」には日本海側のアクセントがあるのではないか。

「そして存命の母はといえば日暮里出身の江戸っ子である」

しかし母は、日暮里に入って30分もすると途端にたのもしくなるな。

  • 「置きゃあがれ」ってなかんじで。(言葉だけの問題か?)
  • でも、【遠田家】(母の実家)のルーツは霞ヶ浦辺らしい。

相馬家と光徳寺檀家は、訛りの多様性こそ参考になるかもしれないが、いわゆる「茨城弁」の参考にはならない。

 以上。

いや、相馬家以外だれも話についてきてくれていないとすればまことに申し訳ないかぎりだが、しかし、むろんこれに返信しない次兄ではない。次に引用するのがその「Re: 私たちは何を喋っているのか」だ。

・みどりがおかも、としちゃんも訛っていないし、まさちゃんは疑似静岡弁であって茨城弁ではない。
・そもそも順證が訛っていなかったと記憶する。
・ハナおばさんも訛っていなかったと思う。
・チヨおばさん、水戸のおばさん、ケンちゃんおじさんも訛っていなかった。

順證だけなら、「モダン」への意志と気合いで「訛り」を封印し、以後その子らにもそれは反映された、というようなことが起こっても不思議ではない気がするけど、確かにハナおばさんに訛りはなかった気がするので、「カルメン故郷へ帰る」のチヨおばさんと、同じく東京住のケンちゃんおじさんはさておき、水戸のおばさんとハナおばさんは訛っていてしかるべきであると思われるのに、(ハナおばさんも東京暮らしが長かったとはいえ、もし幼少期に訛りをマスターしていれば帰省して後、自然にもとに戻ると考えられるのに、)訛っていなかった

かくいう私も、15年くらい東京で暮らしたら茨城弁を(茨城弁をしゃべれる人が他にその場にいないと)ほぼしゃべれなくなっており

ということは、

相馬家は、すくなくとも順證の代以降は、幼児期に茨城弁を刷り込まれていないため、訛りがない、あっても簡単に抜けてしまう

ということは、

すくなくとも、順證の前の代も訛っていなかった

と。

・曾祖母(みさおさん)は前橋あたりの出身らしい。

北陸じゃなかったっけ?
たしか、富山
「雪国うまれだから、なんちゃら〜」
と、ハナおばさんが言ってた気がする

ミサオさんは、その問題(でもないか?)の「順證の前の代」で、
その旦那(順證父)は早死にしている
なので、

順證父の死とともに、
ミサオさんの富山弁、京都帰りの順證、等によって
弁証法的に相馬家から茨城弁が消える

という仮説ができるが、
これだと、ハナおばさんは、訛っているはずになるので、却下

「前橋」ってのは、ハナおばさん用語での「今戸」?
「今戸」ってなんだ? どこだ? 前橋か?

 と質問を投げかけたまま、ここでどうやら次兄はネットサーフィンをしたらしく、改行ののちこうつづく。

あ、今戸は、いわゆる今戸でした
「ショウフクジ」という音に憶えがあるのできっとここ

じゃあ、「前橋あたり」ってのは「熊谷のおばさん」(引用者注:誰だそれは)に連なる?

とりあえず 北陸→群馬辺り→このへん
のルートが(北川辺のあたりもかすってるし)気になる

・北関東の真宗門徒は新潟から石川にかけての日本海側から、江戸後期に入植した人が多い。

江戸時代に、そんな大量移動は、許されていたの?
そもそも、なんで?

あ、資料あった

・うちの檀家は98パーセントそれである。

この辺は親鸞が布教した土地で、光徳寺(引用者注:相馬家の寺)開祖もその一人...というのが「歴史」だけれど、実際は北陸(蓮如の布教?)勢が大半、とすると、じゃあ、「親鸞直系の門徒」は、どこへ消えたのか?
「親鸞直系の門徒」が、途中途絶えてたとして、じゃあ、その間、光徳寺は何をしてたのか? 長らく荒れ寺となっていたところに、北陸からやってきた「毛坊主(/妙好人)」が 住み着いた...という可能性は?

ほんとうに「順正」(引用者注:長男のこと)は、25世なのか?

(ここ長いので少し割愛)

相馬家と光徳寺檀家は、訛りの多様性こそ参考になるかもしれないが、いわゆる「茨城弁」の参考にはならない。

北川辺も、いろいろな土地から「キリシタン」というキーワードで寄り集まった集落であるとすれば、意外に「多様性」こそが参考になったりしち

北川辺と、その近隣地帯(非キリシタン)で、訛りに差異があったりしませんか?
あるいは、北川辺は全く訛ってない! とか

マクロ的に見ると、というか為政者サイドからみると、というより一般からみると、「キリシタン」と「門徒」は(特に近世においては)同じジャンルであると思われるし、その扱いも大体同じっぽいので、なんか、そんなかんじで、まとまらず、

送信

まあそれはさておき、夜、Pさんとふたりでじつにひさしぶりに西荻窪の「亜細庵」に食べいったのは、当時住んでいた西荻窪の部屋でPさんに「好きです」ということを伝え、そのあと、ふたりではじめて「亜細庵」に行ったのが、ちょうど一年前の今日だったということだそうだからだ。

11 April 2004 (Sun.)

2004.04.13 23:10

10日の写真を載せたページ「不在の里へ」をアップしてあります。

午後、いとうせいこう×奥泉光『春の文芸漫談』を聞きに恵比寿へ。このシリーズを聞くのは2回目。
この『文芸漫談』が活字化されて掲載されるメディアでもあるところの『早稲田文学』(2004年5月)に載った柄谷行人の講演「近代文学の終り」に、われわれ『文芸漫談』としてはどう応答すべきか、

「終わった」って言われちゃってるけど?

 というところが話の出発点で、むろん、いとうさんも奥泉さんも「近代文学」――国民国家形成に奉仕するものとしてもそれ――が終わった(役目を終えた)という認識は当然もっているし、逆に言えばそのように認識する地点から出発した作家であって、テクスト論や読者理論がもたらしたいわゆる「作者の死」を前提に書くふたりにとってみれば、そうした話が盛り上がり、それらが常識として定着するかに見えた80年代にいま現在を比したとき、むしろ、あきらかに状況は「後退」しているのではないかという危惧があって、その意味においては、はっきりと柄谷行人に賛同したいとふたりは述べ、「とにかく、『近代文学』ってやつには早く終わってほしい」と話はそっちの方角へ。いや、むつかしい集まりのようだけど、会場は笑いにつぐ笑いがおきる。
「作者―テクスト―読者」という三者の関係についてあらためて説明してみせるのが『漫談』の中心だったが、ふたりがそこで批判するのはきわめて素朴な作品論であり、そこに登場するのはつまり、作者がもっている現実(内面、心情など)を十全に伝えるのがテクスト(言葉)の役目であり、そのようにして書かれたテクストはそのまま読者に伝達されうる(/されるべきだ)と考える作者、そしてまた逆に、小説に接したときにテクストそのものを見ず、テクストをとおしてその背後にある(と考える)作者を見ようとする読者である。
むろんテクストのなかに現れる「私」はあくまでもテクスト(言葉)によってのみ支えられるのであり、作者(あるいは現実)によって支えられるわけではないというのが大前提で、ことは小説にかぎらず、「私」が私のことを指して「私」と書くときにはそこにズレ(二重性)をともなうのがふつうであり、書く主体としての「私」と書かれた「私」とはつねに引き裂かれているのだが、それを自覚しない者らは、たとえば内面を吐露する主人公に出会ったとき、つい、

「オレだよ、これ。オレのことが書いてある」

 と言ってしまいがちだ。そしてそのことに関連し、奥泉さんが言うのは「それね、地方出身者(地方出身で東京に出てきた人たち)にはわりと少ないんだよね」ということで、いとうさんが補足するように「だって、方言と標準語というレベルで引き裂かれてるからね、彼らは」と返すの対して、注目すべきことには、奥泉さんがさらにこうつづけたのだった。

「あ、北関東はちがうよ。北関東はね、べつ(=方言と標準語とに引き裂かれていない)」

 さらにつづけて、「近代文学とは北関東のことだ」とわけのわからないことまで言う奥泉さんだが、笑いつつも、しかしそれは興味深い発言だった。

きのう(10日)、加須のマクドナルドに集まる若者たちの会話を耳にしつつ、「これって『訛り』だっけ?」とよくわからないことになったのは、つまり「若者言葉」というやつで、テレビのなかで人気タレントが使うそれはテレビメディアをつうじもはや「全国区」にちがいないが、しかし、あきらかに「標準語」とは素性のちがうそれは、もとをただせばおそらくいずれかの「方言」に端を発しているのだと思われ、そしてそうした「訛りからの逆輸入」的な事例のもっとも多く起こるのが、(関西弁をのぞけば)北関東の言葉だろうと思われるのだ。いや、それとはまた話の位相がことなるかもしれないものの、たとえば「のりピーだっピ」というこのしゃべりは、「のりピーだっぺ」と言うのとなにがちがうというのか(イントネーションちがうし、なにもかもちがうが)。
そういえば先日、藤原ことりさんが宮沢さんに紹介したとして「不在日記」(4/5付)に載っていたこのサイトでは、

  • おっかく(=折る、割る、欠く)
  • かたす(=片づける)
  • むる(=漏る)
  • 燃す(=燃やす)

 などが方言(カッコ内が標準語)とされていて、ああ、そうだったかと驚いた次第。
さらに関連して、きのういっしょに北川辺を訪れたみえさん(義姉。次兄の嫁。そろそろこの説明はいいですか?)からその後メールがあり、もういいかげん長文になっているところをわるいんですが、それには次のようにあった。

あと、帰ってきてアキラ君(注:みえさんの夫。私の兄)と喋ってて
アキラ君の訛りに二つ気付いた。

「なんだっけかなぁ?」
多分標準語では「なんだっけ?」「なんだったかなぁ?」になるはず。
イントネーションは「だ」にアクセント。

「ってゆーかぁ」
「ゆ」にかなり力が入る。それによって標準語より劇的な節回しになる。
あと、「そーでぃなくて」っていうのがあるんだけど
それは加トちゃんだと思う。

いや、冗談でなくて。
スタイルリミックスっていうか、私も方言、ぐちゃぐちゃでさー。
なんてぇの?テレビとかの影響とかもすごくあって、
みんな、結構、急に地元でもない訛りで訛ったりしますよね、っていう話。
は今考えつきました。

いや、宮沢さんが「不在日記」に書いていた、

こうなるともう、虚構の「北川辺町言語」を作るほかないと思えてきた。

 というこの発言へ、どこかで接続しようと考えていたもののうまくいかず、だらだらとここまで書いてしまったのだったが、私にはこの発言が「あらためてそう宣言している」というふうにしか読めなかったのであり、というのも、そもそも、私がメールでしたアドバイスがどれも「いずれに虚構にすぎないだろうが、それでもなおいかにリアルに『北川辺町言語』を想像するか」という立場で書かれたものだったからである。なにせ、それしかしょうがない。
「虚構の『北川辺町言語』を作る」と聞き、なぜだか思い出すのは井上ひさしの『國語元年』で、といってそれ、思い出しているのは小説ではなく、川谷拓三の主演でかつてNHKでやっていたテレビドラマだが、それもまた、方言の寄せ集めから「標準語」という架空の言語体系を作る物語だったと記憶している。いや、もうほとんど覚えていないんだけど、毎週(だっけ?)両親が見るのをいっしょに見ていた。

10 April 2004 (Sat.)

2004.04.12 13:59

北川辺町にはほんとうになにもなかった。むろん「なにもない」はずはないのだし、小説や戯曲にとって、そこには「豊穣な余白がある」とさえ言えるのだということは実際に行き感じもしたが、まずひとこと、言わせていただくとすれば、なにもありませんでした。

昼前に家を出、1時すぎにJRの古河駅に到着。荒川にはそこまで車で来てもらい、合流後、荒川の運転で一路北川辺町を目指す。
車に乗らない私は道というものを知らず、土地勘もないのでいろいろ判断を荒川に任せての道中、荒川がふだん使っているのだろう関東の道路地図と、私がマピオンのWebページをプリントアウトしてきた北川辺町周辺の地図が目下の資料で、迷い迷い行けば、いつのまにか電信柱に貼られた住所は「北川辺町」になっており、何の感慨もないまま突入していたのだが、その住所には「小野袋」とあって、柳生駅のほうに来ていたと知る。
そこから南下、北川辺西小ちかくのセブンイレブンをまず見つけたが、そこには駐車スペースがなく、西小に車を止める。いったん車を降り歩くことにし、まずセブンイレブンへ入るとそこには制服を着た女子高生ふたり組がいた。チケットを予約する機械を使おうとし、うまくいかないのか店員を呼んでいるところで、あわててICレコーダーの録音ボタンを押すが店員とのやりとりは終わってしまっていて、その後はほとんどしゃべらない。なにかしゃべらないかとICレコーダーを手にふたりの後ろに立っていると「あ、(機械を)使うのかな?」と言われてしまい、「あ、いえ」とすごすご引き下がるのはまったく間抜けだ。あやしいにもほどがある。
北川辺西小と、そこからほどなくある北川辺高校を見て回る。西小には校舎につらなって民俗資料館があるが、それは外からガラスごしに覗くだけにする。高校へ。通りから見える物置小屋かなにかのうしろの壁には「岡島れいこ」という落書き。名前だけがでかでかと書かれている。なんだろう。「大好き」ということなのか、なにかの腹いせなのか。それとも本人が書いているのか。校舎には「祝 埼玉県高校簿記競技大会 普通科の部 団体優勝」と「祝 埼玉県ワープロ競技大会 関東大会出場」の横断幕。静かである。土曜の午後の高校。自分たちの高校もこんなものだったかろうかと考えるが、もうよく覚えていない。グラウンドではサッカー部が練習をしていた。しかしそれ以外は静か。「集合ー!」の声がかかり、監督がみんなになにか話をするふうだったが、まさかいっしょに集合し、レコーダーを回すわけにもいかない。
高校をあとにし、そこからまた町役場の方向へしばらく歩いたが、町役場にはまだ距離があり、また今日の行動を考えてももうこっちには用がないのではないかと思え、それで車をとりに西小に戻ることにする。しかし、ほんとうに通りに人影がない。まばらに通る車。広がる田んぼ。
さっきは気がつかなかったが、小学校の体育館からなにか声が聞こえ、それで行ってみると、子どもたちがなにか練習している。コーチらしい男の先生がひとりと、様子を見守るお母さん方が若干。で、なにかスポーツの練習なのだが、ちょっと見慣れない光景で、さらに見ているとどうやらそれはドッチボールらしいと気づく。競技として、勝つための戦術を考えて行うとドッチボールはこうなるのだろうかという感じで、きちんとしたフォーメーションがあり、コート内にいる子どもたちは横一列に隙間をつくらないように揃って動き、コート外の敵からのボールに対応する。よく聞き取れないが「イチ、ニ、サン、ハイ!」というような掛け声がくり返される。げきを飛ばす先生。子どもたちの数は多く、さまざまな学年の子が参加しているようだが、これはなんだろうか。北川辺ではドッチボールがさかん、なのか。
ふたたび車で町役場のほうへ走る。やはり人っ子ひとりいない。荒川は水道で足を洗う幼い少女を見たといい、また走るうちに田んぼで作業するおじさんを2、3人見たが、それぐらいだ。北川辺の人はとてもテレビ好きとか、そういったことがないとすれば、まあ順当に考えて「娯楽は隣町へ」ということになっているだろうと思え、で、この場合の「隣町」とはどこか。まあ北川辺でなければどこでもいいとさえ思えるが、とりあえず人をもとめ、われわれも隣町をめざすことにする。町役場をやりすごして、そのまま古河方面へ。

古河は栄えていた。よかった。栄えていてほんとうによかったと心から思ったのは、人がいたからだ。いま現在で比べれば、下館よりもずっと町は機能している印象。駅近くの「サティ」(デパート)に入り、そこでいくつか録音。雑貨屋で買い物する中学生とおぼしい女の子グループ、子どもを遊ばせておくスペースでベンチに座り話し込む20代後半か30ぐらいの主婦ふたり、会話から察するに入学して高校1年になったばかりらしい女子高校生のふたり組(私服)、制服を着た高校生グループ(男子2、3人/女子5、6人)など。
サンプルとしてはわるくなく、その会話も、できればずっと聞いていたいという気にさせられるが、しかし録音したものを再生させてみるとかなり聞き取りにくい。うーん。ICレコーダーの内蔵マイクでおもにステレオ録音していたのだが、ステレオモードだとマイクに指向性をもたせられない仕様で、全方位で音を拾ってしまうのが「サティ」というざわついた場所ではわざわいしている感じ。こんなものなのだろうか。
あと、やはり「こっそり録る」ということに関してノウハウがない。あってたまるかというか、それ、なにかうまい手はないかと考えるごとにどんどん自分の行動が犯罪めいてくるのを感じるが、っていうか犯罪ですけど、うーん、なにかないかな、うまい手が。単純に「もう少しいい外部マイク」を使えばだいぶちがうのか。

古河をあとにし、栗橋町へ。よくわからないのでとりあえず駅前に出たが、まあ、なにもなかった。「静御前」がどうのこうのという石碑が目につく。
栗橋町から大利根町を経、加須市へ。コンビニで買った「でか字ニュータイプ・埼玉」で見ると駅ちかくに「アイビーボウル」とあり、察するにボウリング場だろうと行ってみることにする。あたりはもう夕暮れ。ボウリング場の駐車場に止め、店に入ってみて驚いたのはひろびろとしたレーンに客が誰もいないことで、「あちゃー」と思ったがそれは勘違い。2階にもレーンがあり、そこに何組かの客がいた。併設されてあるビリヤード場には客はない。めぼしい客のとなりで遊ぶことも考えたものの、場内のうるささとそこで交わされる声の大きさ(小ささ)から判断して録音は断念。
歩いて加須駅に出る。マクドナルド。やはり女子高生、および男子の不良たちが目当てで、それらはたしかにいたもののやはり満足に音を拾うのは困難。しかし見ている分には若者たちの行動はじつに面白く、見飽きないのだった。楽しげ。途中で荒川が「あれ、『カラーギャング』ってやつかな」と言い、私は「カラーギャング」なる言葉を知らなかったのだが、それはつまり「チーマー」というやつの系譜につらなり、東京で流行っていたのが1年前ぐらいじゃないかとやけに若者事情に明るい銀行員の荒川は解説するが、つまり「全員なんとなく同じ色の服を着、それで仲間であることを示し行動する」のがカラーギャングらしい。その加須のマクドナルドにいたのは青というか、水色のジャージ(または白に水色のラインの入ったそれ)を着た一団。

ここで、みえさん(義姉。次兄の嫁)と合流。もうすっかり夜だが、みえさんを乗せ、最後にもういちど夜の北川辺をめざして走る。しばらく行き、道路標識にある「まっすぐが何々、こっちが北川辺」という指示に従って左折したとたん、なにかぐっとさびしくなるように感じるのは気のせいか。田んぼのまんなかを走る道は街灯もなく、車のライトだけ。月も照っていなかった。
渡瀬遊水池のエントランスのあたりまで行き、引き返して古河に戻る。JRの古河駅で解散。その駅前ではこちらは古河のヤンキーが集合していた。頭目らしい年長のものが怒っている。どうやら若い連中が集合時間に遅刻したらしい。そのときはもう9時をすぎていたが、ほんとうの集合時間は8時だったようだ。「こいつなんか6時から来てんだぞ!」と年長のもの。重い空気が包む。しかしこれもずっと脇に立っているというのは無理だった。

といったような一日。
まあ、録音の成果は正直疑問ながら、しかし「初回」としてはこんなところかという気もし、「会話」ということで言えばあとは「古河」なり「加須」なりを決めうちし、また電車で来ようかと思うものの、はたしてそんな時間があるのかは別の話。
とりあえずウェブのほうには、それほど撮ってませんがデジカメ写真などあとでアップする予定。

09 April 2004 (Fri.)

2004.04.10 9:53

まず書かなければならないのは前回の日記をアップしてすぐ、高森さんからメールをいただいたことで、北川辺に行くにあたっての準備の話で前回、

あとはテープレコーダー。Pさんがもっていたようにも思うがどうだったか。吉沼ももっていたはずだ。と、双方にメールを出す。

 とだけ私は書き、それでどうなったのか、録音装置を確保できたのかというところに言及しないままだったが、高森さんにはそれを心配していただいた。音質や、編集、頭出しの容易さの面で「MDレコーダーがいいよ」というアドバイス。
さらに、「もし誰も都合がつかないようでしたら私がお貸ししてもよいです」とまで申し出ていただいたが、結論を言うと、前回の日記が中途で終わっていたのがいけなかった次第で、結局その後(6日)、自分で「ICレコーダー」というやつを買ったのだった。基本的に「音」方面の知識はなく、「IC」がいったい何の略なのか、はたまた何文字なのかさえわかっていないが、「どうせなら、このさい(テープじゃない)いまどきのやつ買えば?」というのは吉沼、Pさんの双方に言われたことで、それで会社の昼休み、有楽町のビックカメラに行き、買ったのが SONY のこれ(の、これ)。
買ったとはいえ、扱うにあたっては「ひととおりのことはできるんだろうな」という程度の認識しかないわけですが、実際ひととおりのことはできるにちがいなく、そう、パソコンに取りこむのに Windows でないとだめなようでそれが厄介なのだが、まあ、これでいく。というわけで高森さん、どうもありがとうございました。

さて、宮沢さんから「会話部分の添削」を期待されてしまったという話のつづき。
私の実家があるのは茨城県の下館(しもだて)市というところで、茨城県の西部、もうかなり栃木県に接するような(新聞の天気予報欄は「水戸」ではなく「宇都宮」を参照する、と言えばいいか)位置にあるのが下館だ。家庭が訛っていなかったということがあり、私自身はほとんど(むろん微細なレベルでは訛っているにちがいなく、その「訛りの名残り」のようなものがいったいどこにひそんでいるのかということも興味のあるところだがその話はまたあとに置くとして、マクロなレベルでは)訛りがない。実家は浄土真宗の寺なのだが、2002年の1月に亡くなった父は両刀(土地の言葉と標準語と)使い分ける感じで、京都で大学生活を送り、その後東京で教師をしていた時期があってそのふたつが訛りの解消に役立ったか、基本的には標準語をマスターしていたと言え、そんななか、これでもかと訛ってしゃべる檀家の方に接するさいには土地の言葉を使っていた。そして存命の母はといえば日暮里出身の江戸っ子である。
とまあ、きちんとしようとすればそうしたところから説明をはじめなければならないのが厄介で、ことは複雑だが、つまり何が言いたいかといえば私の知るところは「下館+栃木をちょっと」で(高校が栃木だった)、しかも自身はしゃべれないから寺におとずれる檀家の方(年輩、農家多し)や、小・中の同級で訛っていた友だちのしゃべりから仮構しなくてはならないのだったが、そもそも小説の舞台は埼玉県の北川辺町であり、当然下館とはちがうことが予想されるのだし、また宮沢さんが実際に北川辺町をおとずれたさいにもったのが「みんなあまり訛ってないなあという印象」だとすれば、たとえば若い世代の人たちはあまり訛っていないのだとして、とすると、そこにどう「北関東の訛り」が影を落とすのか、それを「下館+栃木をちょっと」という材料からリアルに組み立てていくのにはちょっと方法の不確かさを感じざるをえず、しかし、大前提として時間の猶予はない。宮沢さんは7日に小説を編集者に渡す約束をしている。なんとかしなければならない。
といったような言い訳を、ここまで長くはないものの宮沢さんへのメールにも添えつつ、そもそも初読で気になった点、ここはこう訛らせることが可能ではないかという点を3回のメールに分け、送る。

いざ作業をはじめる段になって思い出したのだったが、さいわいなことに、同居人のPさんは埼玉の出身(北本市というところ)なのだったし、さらにそのお母さんは北川辺町と隣接する栗橋町の出身であるという。「こう訛るのではないか」という素案をひとまず私が作り、それを彼女にぶつけて、「言う」「言わない」「言うかも」といった判断をくだしてもらう作業。5日の夜には彼女がお母さんに電話をかけ、それで貴重な意見もいただく。
5日の午後、1回目の、ひとまずの返事を宮沢さんに出したまでは私もそれなりに意気揚々としていたが、しかしその夜、上記の作業を重ねるうちにしだいに厄介な自体になったと気づいたのはそれ、例の「下館、訛りすぎ」というやつだが、深夜になってから送った2回目のメールの冒頭、私は次のように書いたのだった。

相馬です。遅くなりましたが、続報です。
まずお伝えしなければならないのは、彼女に「下館、訛りすぎ」と叱られたことです。

(自身がしゃべらないので「ごくふつうに」というのもアレなのだが、しかしやはり)ごくふつうに思い浮かべる「べ」のバリエーション、「だべ」「だっぺ」「だっぺよ」にはじまり、疑問形としての「け」(「そうじゃねえけ?」など。「か」の転化か)、同じく疑問形としての「『で』止め」(「なんでで?」「どうなんで?」など。これは文末に「で」が付くというより、「ですか」の「すか」が省略されてる感じか)など、なんだかどんどん思い出してはうれしくなってしまうそれらが、ことごとくPさんに

「言わない」

 とにべもなく否定されるのであり、こちらはといえば「まわりの同級は訛っている」という状況だったの対し、Pさんは同級生を思い浮かべてもそもそも語尾に「べ」と付けていた友人が像を結ばす、いずれの場合も「ある年齢以上の人が」という留保付きで訛りが想像されるのであって、しかも、(イントネーションの問題は除いて)そうした言葉の面での訛りがとくにないという感想が母子間で共有されているとなれば、とすると、ほんとうに北川辺・栗橋のあたりではあまり訛りがないのだと結論づけたくもなり、というか、ふりかえって「下館、訛りすぎだよ」ということになるのだった。
まあ、自身がしゃべらない(しゃべれない)ことでかえって、一般的傾向よりも強い訛りのサンプルケースを取り寄せてしまっていることもあるんだろうけど。
ところで、藤原ことりさんが宮沢さんに紹介したとして「不在日記」に載っていたこのサイトを見、地理的にいって実際そうなので当たり前といえば当たり前だが、下館は「かなり栃木」なのだと気づいた次第。

いや、長いな、また。
ほんとうはこのあと、その後みえさん(義姉。次兄の嫁。岐阜出身の下館在住)に電話し、そこで出た、「相馬家は、『べ』など付けてしゃべったりこそないものの、それでもなおやはりどこか訛っている」といった話、たとえばみえさんは最近、近所の子どもたちが数を数える(「いーち、にーい、さーん」)のを聞きながら、そのイントネーションがどこかちがうことに気づいたといい、とくにそれは「じゅーいち、じゅーに」と10の位にあがったときに顕著で、言われれば私もまたみえさんが指摘するようなイントネーションで数えるが、それ訛りだったのか、っていうか、みんなそうは数えないんだ、っていう話などまだまだつづくのだが、それはまた機会をあらためて。
明日(10日)は北川辺。クルマの運転を快諾してくれた荒川といえば、彼が先日彼女と別れたことを知らない者はなく、槇原敬之好きとしてもつとに有名だが、はたして明日、北川辺で荒川に新たな出会いはあるのだろうか。そんな企画ではけっしてないものの、乞うご期待。ではまた。

08 April 2004 (Thu.)

2004.04.09 11:34

これまた、まだ日記の止まっていたあいだのことの説明をつづけなければならないのは前回またしても永澤のことなどに分量を費やしてしまったからだが、4月3日(土)、私が参加しはじめてから2回目(稽古日誌を参照するにトータルでは5回目)の『トーキョー/不在/ハムレット』の稽古が池尻である。
すでに宮沢さんが前日の日記で予告していたように、稽古場では小説版『トーキョー/不在/ハムレット』(その第1稿)が配られ、それは(形式として)まったくふつうに小説なのだが、段落ごとに交替し、じゅんぐりに読んでいくというかたちで役者さんたちがそれを声に出し、読み合わせ。脱稿したてほやほやの、B5タテに2段でプリントアウトされたそれは制作・永井さんも「126枚ってなんだよ」と呆れる126枚。それこそ、小説のカギ概念のひとつでもある「荒ぶる」何かが一気呵成に書かせたのではないかと想像できるその第1稿は、直前に読み返してきたという宮沢さんが自身で指摘していたようにかなりの間違いが含まれていて、打ち間違いと思われ単純に文章がおかしいところ、用字の不統一(「いちばん」があったり「一番」があったり)などのほか、登場人物の名前がはじめに出てきたときとあとでふたたび出てきたときで異なっていたり、同じく登場人物の年齢設定で一部だけつじつまが合わない記述があったりし、読み合わせのあいだもむろん宮沢さんは細かく手元の原稿にアカを入れていて、表現や構成にかかわる部分も含めればここから完成稿までにはかなりの直しが入るのだろうと予想されたが、それだけに、この「ごくかぎられた読者」のひとりとなってしまった興奮は大きい。
と、この話を同居人のPさんに話したところ、先日坂口安吾の『不連続殺人事件』を読了したばかりのPさんが「あ、それ『不連続』にもあった。途中で『こんな人出てきてないよ!』っていう人(名前)が出てくるの」と言っていたが、ほんとうかそれは。Pさんが読んだのは私が古本屋で買った角川文庫(絶版)だが、当の私はまだ読んでいないのだった。
読み合わせのあいだ、テキストを目で追い、また役者さんたちの声をききながら、とりあえず追えるだけ、登場人物の名前を構成表(関係表)的にまとめながらノートにメモする。
結局、はじめに原稿の丁合と配布に時間をとられたこともあり、80数ページまで読んだところで時間切れ。終わってみんなトイレに駆け込んでいた(よね、と永井さんが翌日話しているのを聞いて「あ、そうか」となったが、気づけばトイレ休憩なしでやっていた)。

翌4日(日)、きのうの第1稿のコピー不足分(10部)を作るため、下北沢へ。永井さんの指示を仰ぎつつ、同じく演出助手をするMさんとふたりで作業。
そのあと新宿に出、紀伊国屋で本を買う。気になっていた坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)、それとフォークナー『アブサロム、アブサロム!』(講談社文芸文庫)など。
帰ってから、いよいよ小説版『トーキョー/不在/ハムレット』を最後まで読了。

週が明けて月曜日(5日)、会社に出てから「不在日記」の4月3日分(「稽古だった」)を目にする。小説および戯曲の舞台となる実在の「北川辺町」がもつと思われる、北関東特有の「尻上がりのイントネーション」に関して、舞台上でそれがうまく再現できるだろうかと危惧する内容で、そこにひとつの方法として書かれてある「こっそり録音した町の会話を書き起こし、それを再現する」というやり方は、以前『月の教室』の市民ワークショップで行われたらしいことで読み知っていたが、「北川辺町でそれをやるのは可能だろうか」と宮沢さんが書いているのが方法そのものへの懐疑ではなく、たんにスケジュール的な忙しさ、時間のなさ、そしてまた「とにかく、北川辺町は人がいない」ということを指して言っているのだとすれば、それ、できるかどうかわからないものの私が北川辺に行ってみるのでもいいのではないか、というか、私はもう行く気になっている。いつがいいか。早いほうがいいに決まっているからこの土日だ。日曜はいとうせいこう×奥泉光『春の文芸漫談』を予約してしまっているので、となると土曜だ。ネットで行き方など確認する。
同居人のPさんにメールし「思い立っちゃって、行くつもりです」と告げると、「あのへんはクルマがないとつらいのでは?」と全然考えが及んでいなかった方面を指摘される。私は無免許、Pさんはまったくのペーパードライバーなので「となると、荒川だな、ここはひとつ」と勝手に白羽の矢を立てたのは高校の同級で栃木在住の荒川だ。あとはテープレコーダー。Pさんがもっていたようにも思うがどうだったか。吉沼ももっていたはずだ。と、双方にメールを出す。
と、そこまで決め、宮沢さんにメールを出したのは「ご要望、もしくはアドバイスがありましたらお願いします」ということだったが、そのさい、会話の録音に北川辺まで行く動機付けのひとつとして、小説(第1稿)を読み感じていた会話部分についての違和を書き、つまり、小説では訛りを表現するのにほとんど「〜べ」一辺倒で、それが唐突に、とってつけたように語尾に出現するという印象があって、北川辺町に行ったことはないから実際のところはわからないもののそこが気になる、しかし北川辺と下館(私の実家がある茨城県下館市)とでは当然ちがうだろうし、ここはひとまず、自分で北川辺に行ってみないと、と考えています。ということを書いたのだったが、するとほどなく宮沢さんから返信があり、「気になる部分、こうしたほうがいいのじゃないかという部分について添削してくれるとありがたい」というような書いてあったのには驚いたが、さらに笑ってしまうことに、そのメールには小説全文のテキストファイル(「fuzai.txt」192 KB)が添付されているのだった。ちなみにどうでもいいことながら、そのテキストファイルは「Jedit」書類だった。

この項、つづく予定。

07 April 2004 (Wed.)

2004.04.08 15:51

ご無沙汰です。

さっぱりさせてみたのだった。ひとつ前のデザインは1日1個写真がつくかたちで、それはそれで賑やかだし、個人ホームページのもつ「はしゃぎ」を表現するのに写真は重要だが、けれど忙しいとですね、毎日なにかしら画像を調達するというのがそもそも面倒で、さらに言えば「調達しなければならない」という意識は「はしゃぎ」からこれほど遠いものはなく、だから(写真が用意できなかったから)書けなかったというそれだけのことではむろんないものの、とにかく更新を再開させるにあたって、気がついたら前のデザインに飽きてしまっていた私だ。単純にさっぱりさせたかった。掲示板も別ページに移りました。
デザイン変更にともなう不具合等、何かありましたら適宜お知らせください。

もうだいぶたつが、4月1日は戯曲セミナー(喜劇・コント部門。リンクは今年度の生徒募集ページ)の最後の授業があり、最後だからといってとくになにが成就されるわけでもない仕組みだが、正規の授業がはじまる前に別役実先生が特別に時間をもうけてくださり、ひとり5〜10分程度だが、これまでの提出作品にあらためて批評をするかたちで、ひとりずつコメントをいただく。なんといってもこれが至福のときだ。「これ(この作品)がね、面白いんですよ」とか言われたりして。そして、「でね、ここがダメ」とつづけるその批評の手つきのおそろしく確かなことといったらない。そうだ、たしかにそこはダメだった。
ひきつづいての授業を担当する故林広志先生が現れると、先生がふたり揃うという好機を逃さず事務局の方が集合写真を撮ってくれたのだったが、そこにおさまる別役先生はなんだか「ひどく優秀そうな生徒がいる」と思わせる佇まいで脇のほうに立っているのであり、つまりなんていうか、別役先生の、なんて面白いことか。去り際、「長いこと、いろいろお騒がせしました」と言って教室を出ていったのにはほんとうに笑った。
授業終了後にみんなで飲みに行く。いままであまりしゃべったことのなかった受講生のKさんと話ができたのがよかった。宮沢章夫さんの「富士日記」や、そこからリンクの張られている私のサイトを見たらしく、「演出助手されるんですか?」と話しかけてもらった。

というわけで(、なのか、言うまでもなく、なのかわかりませんが)、新しくはじまった宮沢さんの「不在日記」に登場する、「演出助手をしている北関東出身のS君」というのは私です。どうぞよろしく。
その話も書かなければならないものの、いま急に思い出したのは宮沢さんの『Mac Power』誌の連載のほうで、発売直後にその4月号を立ち読んでみたところが、「インターネットと日記」と題されたその回にはなんとこの「Yellow」の文章が(無断)引用されていて驚いた。2月28日分の最後のほうにある、この箇所だ。

私と永澤のコンビは、どこか駅周辺で食事ということになるとついつい「和幸」に入ってしまうことで知られるが、

 で、改行し、宮沢さんは言う。

いや、知らなかった。

 むろん買って帰り、山梨の永澤に電話をして伝える。夜だったが、「じゃ、これから買ってくるよ」と永澤は言い、それで買ってきたらしい永澤からふたたび電話があると、まず永澤が何を気に掛けていたのかがわかるのは第一声にあった次の言葉だ。

「すごいね、『澤』がちゃんとむずかしいほうだ」

一方、これは私ではなく同居しているPさんが見つけたのだが、その『Mac Power』誌の連載にある宮沢さんのプロフィール欄では、岸田戯曲賞受賞作が『ヒミネ』となっていた。以前の『ニネミ』といい、さんざんである。バックナンバーをたしかめてみるとことごとく『ヒミネ』。で、そのことを書いて宮沢さんにメールを出す。

その永澤といえば、ホームページが更新されていて、どうせいずれ「上書き」されてこの世からなくなるのだろうからまた全文引用(というか、ここにバックアップ)させてもらうが、これ、永澤にしては久々になにが言いたいのかわかる文章だ。

一年中,キュウリが手にはいるようになり作物の季節感がなくなるのと同じように,昔放映されていた番組が再放送でしばしば流されると,年月の経過がわからなくなる.

http://www.asahi.com/obituaries/update/
0402/001.html


まだまだ若いと思っていたが,いつの間にか,こんなにも年をとっていたのだなあ.

と、永澤の話ばかりしているうちにこんな長さになってしまった。どれもこれも、日記が止まっていたあいだのできごと。そういえば私は、「いかりや長介死去」のニュースを永澤からかかってきた電話で知ったのだった。ではまた。