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1.31(金)

2003.2.1 12:02

宮沢さんのサイトからやってくる人の数は、まあ件の「S君」の登場する回が最新の日記ではなくなったこともあり峠を越した様子だが、しかしたくさん来たな。一気に〈他者の眼差し〉に試されたような具合で、まあ〈他者〉からすればそうしたことさえ気にかけてはいないんでしょうが、それはそれとして。

部屋のマシンと PowerBook にそれぞれジャガー(Mac OS X v10.2)をインストールし、とりあえず Safari を試す。試すと言っても、まああれです、自分のページを見てみるだけ。
結果をご報告いたしますと、まず惜しいのがこれ、

Safari 表示結果

 あと少しのところで送信ボタンが出きってない。惜しい。まあ「出てる分」だけで押せるには押せるからいいんだけど、これは何でしょう、テーブルの余白設定がうまく効いてないのかフォーム要素のデフォルトのフォントサイズがでかいのか、とにかく若干たてに長くなっていて送信ボタンまで表示しきれていない。あとあれですね、入力欄への色指定や背景画像指定(うしろの画像が透けるような感じにしてあるやつ)も効いていないから、そのへん全般的に対応がまだなんでしょう。
それから、スタイルシートの「overflow」というプロパティの「auto」にまだ対応していないようで、それを指定してある最新の日記部分と掲示板はスクロールバーが出てこない。つまりスクロールできず、下が読めない。(ちなみに Opera 6.x も同様に「overflow: auto」に対応してないんだけど、そっちの場合は「隠れずに全部表示されてしまう」ことになって、その下の日記などと重なって表示されてしまっているはず。)
あと、スクロールメッセージの JavaScript は案の定動いてなかった。まあ情報をさがして Safari 用にも処理を書き足せば対応はできると思いますが。
現状での主だった不具合はそんなところ。まあまだ正式リリースではなく、パブリック・ベータ版なのでスタイルシートの未対応部分とかはしょうがないかなという範囲。で、動作が軽いのと表示が速いのは Apple が謳っているとおり。
関係ないが、やはり「Safari(サファリ)」には、「Jaguar(ジャガー)だけにね。」というニュアンスがあるんでしょうか英語圏のほうにも。あるんでしょうなきっと。

でもって明日は句会。もっていく句を考える。
まあノルマ(ふたつのテーマにそれぞれ添ったものと、自由吟をひとつのつごう3句)を果たせるのかというところがそもそも不安だったが、なんとか作る。というか、作っていると楽しくなるもので、どんどん詠んでしまった。小1時間で9句。そんなんでいいんでしょうか。
会の性格がまだわからないというか、いろいろ手探りなので、とりあえず「素直に詠んでしまいました」という句や、たんにふざけた句など、意識的にさまざまな毛色のものを用意したつもり。あとのふたりがいったいどういう句を用意してくるのか、だんだん単純に「楽しみ」になってくる。まあうまくいくといいな。

1.30(木)

2003.1.31 12:56

トップページにあった1月の日記のうち半分を別ページに移動。ちょっと辛抱しきれなかったというか、1ページが縦に長くなるのは覚悟の上のこの作りだが、長いのはかまわないとして、スタイルシートでがちがちにやっている無理がたたるんでしょうか、Mozilla だと月の4週目ぐらいの長さになってくると描画処理能力の限界といった感じで表示におかしなところが出てくる。うーん、あきらかにわるいのは Mozilla なのだが、「Best Viewed with Mozilla」というのがごくごくゆずれないところのコンセプトではあり、こちらが Mozilla の実情にあわせたかたち。それはそれとして。

未明に、出そう出そうと思っていた宮沢章夫さんへのメールをようやく出す。「トーキョー・ボディ」の感想。にかこつけた、ただのファンメールだけれども。なるべく早く出したいということがあり、「感想」部分は結局この「Yellow」の日記の文章をそのまま「自己引用」させていただく。それで前後を、まあ「書き下ろし」のきちんとした文章ではさむ。送信ボタンを押し、ひとまずほっとしている私はだから「ただのファン」だちくしょう。
そうしたら、午後に更新された宮沢さんの日記(29日分)で言及されてしまった。「S君」と表記されているのが私で、ありがたいことにここへのリンク付き。
で、その送ったメールの冒頭でたしか私は、

終演後のロビーで「ただの、何でもない者ですが」と声をかけた者です。

 と名のっているのだが、宮沢さんの日記を読むとそこには

それに比べたら、劇場のホールで声をかけてくれたS君はえらい。

 とあり、なんだかいきなり「劇場のああいう空間はね、ロビーじゃなくてホールだよ」と注意されているような気分である。

大竹君のところの掲示板に吉沼が告知しているとおりだが、2月1日は三人で句会をやる。
テーマになっている「夏」は私が、「年甲斐もなく」は大竹君がそれぞれ提案したもので、それぞれのテーマのそったものを1〜3句ずつと、自由に詠んだものをこれも1〜3句持ち寄って、吉沼の家で合評をやる。A4の用紙を縦長になるよう三等分したものに各句をプリントアウトして云々、こまかい指示が吉沼からはあり、当日は記録用にビデオも回すという。記録用で、べつにそれをどうこうするというかたまった考えはいまのところないものの、「画面は固定で評中の句を映し、あれこれ言っているのを音声として記録する」というのを吉沼が考えている。そういうこと。
告知のなかにある

俳句結社「高菜社(仮)」

 というのは「何かしら(名前が)あった方が気分が出るんじゃないか」と吉沼が言い、私が応じて提案してみた結社名で、責任上説明すれば、「俳句で儲けて、高菜を売るお店を出したい」と考えている者らの集まりだ。ろくなもんじゃないよ。
で、夜、その告知を見た上山君が日記に「面白そうだ」と書いているのを見、なにしろ上山君は翌日(2/2、「トーキョー・ボディ」楽日)にCAD検定を控えるのであって一般的に言えばそれどころではない人だが、日記の文面はあきらかに「誘え」と言っていて、それで電話する。
まあ、それはしょうがないでしょうという感じで上山君は「態度保留」。あきらかに参加したがってはいる。ひょっとすると「顔を出す」ていどに当日上山君の飛び入りもあるかも知れないです。

1.28(火)

2003.1.29 23:55

缶詰を食べてすぐの猫の口はとても缶詰くさい。それはそれとして。

夜「トーキョー・ボディ」を見に行く。2回目。公演は6日目。
前言撤回。(見に行かなかったの?) いろいろ撤回。(ほんとうはお母さん来ていないとか?)
どうでもいいことから片づけておけば、例の「アンケート用紙などといっしょに渡されるほかの演劇公演のチラシ」(正確には渡されるのではなく、座席の上に置かれてある)は、ぐっと量が減っていた。こないだのあの量はなんだったのか。もう捨ててしまったからわからないが、ひょっとして2人分とかだったりしたか。そんなこともないと思うのだったが、いや、それはほんとうにどうでもいいこと。

うーん、何なんでしょうね、素直に言葉にすれば「全然面白かった」、あるいは「なめてましたすいません」というやつで、そう書けば前回見たときが「面白くなかった」かのようだがけっしてそんなことはないし、前回で「だいたいわかった」という気分だったというのはそのとおりだったとして、それはまあ複数回見る者のほうが少なく、例えば24日のあの公演だけを体験するという可能性がある以上「(とりあえず)わかった」という気にはなったってかまわないわけだし、つまり、2回目の今日はある程度かまえて、もっと構造的な部分とかに意識的になろうといった「なめた予定」など立てていたということですが、何なんでしょうね、もう面白かったんですよそれどころじゃなく、さらに。ぐっと。
むろん宮沢さん自身がその日記に書く「芝居は安定してきた」というやつは大きいわけだが、それはそれとして、こっちの問題としてやはり1回じゃ無理だというか、いろいろ「見ていなかった」。
むろん「一度にすべてを見るのは無理」というのは舞台そのものの仕掛け(舞台前面の生の身体と、舞台奥のスリットのむこうに見え隠れする演技、スリットのむこうの演技を生中継する巨大モニタと、それとはまた別の角度の映像を映したりもする小さなモニタ)でもあるわけだが、より卑近な問題としてはそもそも席がちがうわけで、それもものすごくちがう。説明すると、前売り開始直後にとりあえず楽日のチケットを予約し、だから楽日のそれはそれなりに「いい席」なんだけど、だいぶたってから「やっぱり1回ってこたあないだろう」と残り2回のチケットを買い、それはだから「あまりよくない席」で、前回が舞台向かって一番右端の列だったのに対し、今日が左端(から2番目)の席である。見えるものが全然ちがうのですね、あたりまえだけど。
前回も言及した「呆気にとられるほかの者を後ろ手で制するバスローブ姿の詩人」でいえば、前回は「いいえ何も言わないで」という抜群の表情が、今日は後ろにのばされた右手のこまかくふるえるさまが見えるわけで、やっぱりここは面白い。2度目は笑うまでいかないかもなと思っていたが、笑った。あるいは「ごくふつうの笑い」なのかとも思いますけどやっぱり面白いのですね。うまいというか。
まったく皮膚感覚でものを言えば、とにかく気持ちいいのは「詩人」役の南波典子さんと、パフォーマンスグループ(および「ミミ」役で俳優も)の伊勢由美子さんなわけでして。
巨大モニタに映される、「火のついたロウソクを片手に、もう片手を風よけにあてがって街を歩く先生」の映像、あそうかタルコフスキーの『ノスタルジア』か、というのも2回目にしてやっと気づく。
むろんそれ以外の、例えばセリフの多くも「引用」なのだろうとおぼしいが、そこらへんは「引用なんだろうな」とは聞き取れるものの典拠が何かといったところまでの知識のもちあわせはない。とはいえ、それらをいちいち「これはこれの引用で」とあげつらっていく〈教養〉が問題なのではむろんなくて、「引用なんだろうな」という感覚、前提としてすでに「引用の上に立っている」ということこそが〈いま〉を指し示すひとつなのだろう(って、突き詰めればそれ〈いま〉にはじまることじゃないけど)。

まあ、その、「トーキョー・ボディ」に関してはついつい何か書きたくなるのであり、現にこうしてついつい書いているのだが、いま言葉にできるのは上のような、つまり「面白かったです」で置き換え可能な「感想」たちで、ほんとうはもっと「まとまった話」が書きたいけれどまとまらない。
まとまった話。
例えばテクストの観点から言えば、劇中「劇作家」が「ほらほら書房」で見つける「テクスト」はつまり「トーキョー・ボディそれ自体のテクスト」を暗示するわけだが(これも2回目にして気づいたが、そのシーンで劇作家が手にしている小道具は実際にロビーで販売されている「トーキョー・ボディ」のテクストである)、しかし、劇作家はそのテクストを指し次のように言う。

「ええ、テクストのはじめに登場するのは女の声。」

 まあ、シーンのつながりということで言えば、その劇作家の言葉に導かれて次のシーンは「かすかな。吐息のような、それでいてなまめかしい女の声」ではじまるわけだが、しかし「劇作家」の手にするそれがもし「トーキョー・ボディ」であるとするならば、そのテクストの「はじめに登場する」のは

「私は警備員ではなかった。」

 という男の声――たしかに「テクスト」にト書きはないけれども、いまさっき舞台でその言葉を発したのは男だった――である、というこのズレはいったい何を意味するのか。そのズレを見つめることは、「劇作家がほらほら書房で手にしたテクスト」と、「それを書き直した劇作家のテクスト」、そして私の手にするこの「トーキョー・ボディのテクスト」という三者の位相を明らかにすることにつながるのではないか、と、まあ、そういったこと、とかね。

終演後のロビーには、まあそのなにげにいるわけですよ、タバコを喫う宮沢章夫さん。前回は急いでいてそそくさと劇場を出てしまったから目に入らなかったが、しかしあの風情からいうと「たぶん毎日ああしてあそこにいるんだろう」という風情で、せっかくだから「面白かったです」とだけ伝えようと思い、タイミングなど見計らっていた私はつまり「ただのファン」で、ほんとうに二言三言だけ交わしたのだったが、たいへんなのはそのあとで、劇場を出、気づけば心臓がばくばくなのであって、それがなかなかおさまらず、夕飯をまだ食べていなかったから気持ち悪くさえなりかかり、そこにはつまり、「ああ、ファンなんだなあちくしょう」という事実に向き合わざるをえない「私のからだ」があったのだった。どうでもいいけど。

えーと、「Red」更新しました。

1.26(日)

2003.1.28 18:10

昨夜の気概としてはいろいろやるつもりでいたが、疲れていたというやつか、すっかり寝てしまう。まるでだめ。あるいは無理。
吉沼と大竹君と、三人で会おうという話は水面下で進んでいる。「水面下で進んでいる」というと「そのうちびっくりさせてやりますぜ」みたいなことのようだがそんなことはなく、だからといっていちいち報告するような話でもない。吉沼の言葉を借りれば、

晴れた午後に、ゆっくり会えればいいんじゃないかと思っている程度

 だ。
で、あらためて説明すれば、私と大竹君は会ったことがない。「会おうか」という話はそのごく単純なところから出発している。
大竹君は吉沼の友達(高校の同級)で、大学時代を通じても音楽活動(ふたりの即興演奏ユニットなど。ノイズ系、と言っておくのが一番誤解がないのか?)を介して交流があった。大学時代にギター(ベースだっけ?)を提げ、今日はこのあとスタジオなんだと言っていた吉沼の背後には大竹君がいたことになるが、それはさておき、私が大竹君を知るのは彼がサイトを作り、そこへのリンクが吉沼のページから張られたあとで、以降はそこの掲示板を使ってのやりとりだ。私にとってはかなり思う存分書き込める掲示板。まあ、だからあれですよ、バーチャルな関係。すべては吉沼のでっちあげで、ほんとうは大竹君なんていないのかも知れないし、あるいは、「じつは男だった」とか。
で、大竹君のほうはまだ学生の身分で、この春からは東北大の院に行くらしく、(距離的に)ちょっと遠い人になるのはあきらかなので「ひとまず会っておきますか」ということ。

晴れた午後に、ゆっくり会えればいいんじゃないかと思っている程度

 だというのはつまり、そのへんの「ひとまず会っておきますか」という気分をあらわしたものだ。
当日やることのひとつとしては、結局のところ「句会」を予定していて、そのへん吉沼がいろいろ考えている。どうなるのか。

1.25(土)

2003.1.28 12:02

というわけで(昨日の日記、後段を参照)、今日は部屋に母がいる。8時過ぎの起床で、早々に部屋の片づけにとりかかったというのは今日が「不燃ゴミの日」だからで、燃えないゴミ集めでいいスタートがきれた恰好。母がいちいち、あきらかに燃やしてはいけないものなど手にして「これは燃えるゴミ?」と私に確認するのはやはり可笑しく、というのもうちの実家のほうは(感覚で言うと)ごく近年まで、「ビン・カン以外は燃えるゴミ」という無茶な収集体系を採用していて、さすがにいまはちがうものの、それでもこっちの杉並区とか、あるいは三鷹市などのごくちゃんとしているところに比べれば多くのものが「燃やせる」ことになっていて、聞けば市の側も、

「うちのは、火力がちがうから」

 とよくわからないことを言いがちであるという。「一気に燃やすから、さ」とか。
不燃ゴミの袋を集積所に、ペットボトルをコンビニの回収ボックスへ、それぞれ出すついでにごく近所にあるパン屋でパンを買い、それで朝食。
母について説明すれば、ほんとうは母こそが「すぐ散らかしてしまう人」である。ほんとうはこの人の部屋こそが散らかっている。しかしそれだからこそ、今回のやる気は「たまにやる気を出す人のやる気」であり、あるいは「他人事に対するやる気」であって、えてしてそうしたやる気は力強い。たのもしい。突如ある方面に念入りになったりする。誰も急に母がガスコンロを磨きはじめるとは思わないじゃないか。
あとまあ洗濯だとか、それを干したり、干すまでの間ちょっと風呂場に畳んでおくだとか、あるいはこれちょっと外でホコリを払ってこようねなど、こちらが面倒がるような部分にかっちり凹凸を合わせてくるのはまったく往年の女性ジェンダーさまさまで、その間に私は本の整理などしている。
部屋はじき片づく。そもそも、その見た目の散らかりように比して、じつは散らかっているもの自体の根はそれほど深くない。古新聞をまとめればそれでだいぶ目鼻が立ってくるといった「だめ」さで、ただ表層的ながらもあたり一面を覆ってしまうために掃除機をかけづらくなり、それがさらなる「だめ」を呼ぶという循環。あっという間のできごと。
何度か休憩をはさみ、午後4時ぐらいに片づけ終了。「またかよ」という案配だが「亜細庵」に連れていき食事。いったん戻り、きれいになった部屋でノルシュテインを3作ほど見てから駅まで送る。

私はそのまま吉祥寺へ。ついにというか、「ジャガー(Mac OS X v10.2)」のパッケージと、それとこれはちょっと惰性でという感じもするが(「10.2 対応」のシールを見ればやはりあたらしいのを買っておくのが安心かと)「ATOK 15」を買う。ただ、まだインストールはせず。
どうでもいいが、「ATOK 15」のパッケージ裏にあるコピーは、

「Mac OS X に プラス インテリジェンス。」

 だ。OS X には知性がない、ということか。「ジャガー」だもんな、あだ名。よくわからないけど。

1.24(金)

2003.1.27 19:39

会社を「定時」というやつで失礼させていただき、『トーキョー・ボディ』を見に行く。世田谷パブリックシアター・トラム、7:30PM 開演。公演は三日目。
宮沢章夫さんの日記のほうでは、

すごく大きなミスはあったものの、きのうに比べたらずっとできがよかった。流れがよかったと書くべきか。

 と書かれてあって、読めば「ああそうなんだ」と思ってしまうが、むろん初見の私には「すごく大きなミス」というのが何のことなのか心当たりはないし、ただ見ていたというか、そうですね、ただ見ていた。
圧倒されるということの一方で「ああ、なるほど」といった感じもする趣向のいくつかを前にし、面白いとかつまらないとかではないもっとまとまった何かを発言したい(ここに書きたい)とついつい欲望するのだったが、しかし体系的な批評を書くには私はその言葉をもっていない。例えばそこには、宮沢さんが乗り越えるべき前提として思い描いている――あるいは「だめ」だと考える――「舞台」(ほかの人の舞台なり、宮沢さん自身の過去の作品なり)があるはずだがそれは知らないわけで、そうした前提の共有がないということもあるし、ましてや「ダンス」「パフォーマンス」「映像表現」ということになると私は不勉強もはなはだしい。事前情報によればどうも今回の舞台は「引用」が多いらしいが、こちらがそれとわかるのはいくつかしかなく(例えば『博士の異常な愛情』の、右手を突き上げるのをこらえる動きとか)、むろんそれだけで全体的な「意味」を云々するには(するつもりもないけど)無理がある。あるいは降参して「かっこいい」と一言書くのがふさわしいところをそれもなんだか癪だ、というそれだけかも知れない。面白いし。
とはいえ、そのうち何か書けるかも知れないというのはあと2公演分チケットを買ってあるからで、つまりあと2回見る。見ちゃうね。くり返し見ることで何か見えてくる構造があるかも知れず、それとは別に、「そのつどに異なる俳優の〈ぶれ〉」みたいなものに――私がそこまで「見れる」かどうかは別にして――出会えるのだとしたら、それだけで(舞台のテーマである)「からだ」を見たということになるのかも知れない。
とりあえず一番面白かったというか、笑いましたというのは、「資本主義」(←役名)の部屋にバスローブ姿で突然現れた「詩人」が、「何も言わないで」といったふうに後ろ手をのばしてほかの者を制するところで、そうやって文章にしても何のことだかわからないと思うが、まさにその「わけのわからなさ」が舞台には出現し、「うまいなあ」というか、それ、別にじんわり味わうようなものじゃなくて純粋に「可笑しい」んだけど、同時に「うまいなあ」とも思わせられるのであって、つまり、両者があいまってなんだか「にやけ」てしまうというか。まあ、そう言ってしまえば観劇中、ずっと「にやけ」ていたような気さえするけど。
ある一点に向かって収斂していく、といった印象はなく、あらすじから言えばひたすらすべての「意味」を引き受ける存在であるかのような「(不在の)鳥子」にしても、さほど実体化されることなくラストを迎えるのであり、こちらがそう受けとめるのがあるいは「演出意図からすると失敗」だったりする可能性もあるが、しかしそうやって「一点に収斂しない」のが意図的にそうなのではないかとも思えるのは、例えば「映像」なり「パフォーマンス」なりが、よくあるシーンとシーンをつなぐためのそれではなく、むしろシーンを拡散させるために用いられているように感じたからで、拡散した先に点在し、別々にそこに立つ「からだ」と「からだ」が、しかしやはり「つながってしまう」のではないかという「予感」こそが、ひょっとすると作品の語る「希望」なのかも知れない、といきおいで書くのはやはり無責任てもんでしょうか。
まあ、だから、あと2回見る。見ちゃうね。
関係ないが、アンケート用紙などといっしょに入り口で渡される例のあれ、ほかの演劇公演のチラシなどだが、それがものすごく大量なのだった。かさばるというか、ずっしりくる。これをあと2回分もらうのかと思うとうんざりする量で、「こんぐらい見てくださいよ」と見込まれているのだとしら、おかど違いだ。そんなには見ない。

夜、上京してきた母が部屋に来る。
昼間は別の用事があって東京に出てきていて、そのついでに私の部屋を見ようというのと(西荻窪の部屋に来るのははじめて)、一泊して明日その部屋を片づけようというのと(いまとても散らかっている旨を電話で言うと、じゃあいっしょに片づけようということになる)、あと、猫の様子を見るといったあたりが目的。
部屋にはベッドがあり、そのスペースさえ確保できればお客様布団の用意もあるが、ここのところ私はこたつで寝ていて、ベッドの上には洋服だの本だのDVDだの、いろいろのっかっている状態で、まあ、こたつの回りもおしなべて散らかっていると思っていただきたいが、そのへん、母のほうが私よりも先に面倒がり、今夜はふたりでこたつで寝て、明日片づけましょうということになり早々に目を閉じている。

1.23(木)

2003.1.24 17:40

朝は雪。じきに雨。木曜日である。
木曜日なのだった。ああ、木曜日か。また木曜日。いったい一年に何日木曜日はあるんだ。
ふと、木曜日の中に自分が立たされていることに気づけば、ああ、木曜日かと人は口にし、え、木曜日なの? と軽い驚きをもってそれを迎える者もあるが、一方、不遜な者らによって木曜日は次のように言われたりもする。

木曜

 木曜日を「木曜」と呼ぶ者は月曜日を「月曜」と呼ぶにちがいないが、しかし、いま問題にしたいのはけっして「木曜」などというぞんざいなそれではなく、「木曜日」と楷書で呼ばれるべき凛とした何かであって、われわれはそれを、あらためて畏怖をもって迎えなければならないことになっている。

「まもなくお着きです」

 まもなく着くそうだ。粗相があってはならない。犬はつないでおけ。

木曜日というその装置がわれわれを包むこの静かな緊張感をどう表現したらいいものか、「静かな緊張感」とすでに表現してしまったが、唯一、一週間のうちに二度来る可能性のある曜日であると昔から信じられ、「七曜の王」とそれが呼ばれてきたのは、ひとつにはその動き方にあり、タテとヨコにだけ自由に動ける土曜日や、ナナメにだけ自由に動ける日曜日とはまた趣を異にし、二マス先のひとつ横に飛ぶ木曜日のトリッキーな動きはあこがれの的だ。動けない火曜日とはわけがちがう。
火曜日は動けない。勝つにしろ負けるにしろ、ゲーム終了後の盤面にはこちらの火曜日と相手の火曜日が、ひとしく元の位置のまま残るのであって、だったらなんのためにあるんだ。なんのゲームだそれは。

「お着きになりました」
「お着きになりました」
「木曜日様のお戻りです」

 ここは曜日たちの帰ってくる場所。曜日の彼岸。ここにはただゆったりとした時間が流れ、何曜日ということもないが、そっちから見れば「祝日」のように映るかも知れない。

うーん。「木曜日だ」というそれだけから1本ひねりだせないかと書いてみたがこんなもんか。さすがによくわからない。
「サモトラケにニケ、ニワトリがいる」は私。
うまいね、牛鮭定食は。

1.22(水)

2003.1.23 8:17

昨日書いた、

吉沼と大竹君には演奏してもらい、例えばどこかのスタジオに入って、私はそのとなりで俳句を詠むというコラボレーション

 だけれども、これ、面白そうだというか、面白くなるかどうかはわからないものの、なんとなくそれが「ネタのかたち」になるところは想像でき、想像できるといっても最終的にどうなるかわかったものではないが、「かたちになるな」という予感めいたものはある。
問題はまあ「コラボレーション」というところだろう、と書けば、それ根本の話じゃないですかってことだが、つまり、

われわれは「コラボレート」できるんでしょうか、それ。

 ということで、演奏と俳句がどうにも非対称だというのは、おそらく俳句の側の提示の仕方にかかっているのであり、一般的な「句会」の作法(その手順)というのがどういったものなのかよく知らないけれども、もし仮に、作った句は最後にまとめて発表するというような方法をわれわれがなぞるとすれば、私はただ黙々と書いたり考えたりするわけで、そうなれば演奏する大竹君と吉沼の前に出現するのはただの「ずっと座っている人」なのであり、むしろ、おとなしく座っているだけならまだましだと言わねばならず、あるいは寝そべったりするかも知れないし、ほんとうに寝てしまったりしたらちょっと起こしてほしいけれど、だからといって

「相馬を起こすために音量を大きくする」

 といったことが「コラボレート」ではけっしてないはずだ。
あるいは、何か考え事をするような顔つきで、ドアをあけ、ふらっと出ていってしまう相馬とか、なかなか帰ってこない相馬、あきらかに何か食べてきた様子の相馬など、俳句をひねるうちにはさまざまな相馬が姿を見せるにちがいなく、そうなればふたりだって、ばかばかしくなって演奏などやめてしまうにちがいない。コラボレート失敗である。
まあ、演奏といっても、ふたりのやるそれもまた即興であり、きっちりここからここまで弾かねばならないといった曲があるわけではないから、時間芸術のその時間性に演奏者の側が束縛されるというようなことはもちろんなく、また、たんに「のらないな」ということがあってかまわない空間なのだから自由に演奏をやめ、目の前にいる者にたずねることは可能だろう。

「できた?」

つまりあれですね、そこにあるのはたんに、演奏する人と俳句を詠む人のふた通りが別々に立っているという状態なのであって、けれどもだからといって、一方がもう一方に完全に奉仕してしまうことのない、そうした関係性のことを「コラボレーション(共同作業)」と呼ぶのだとすれば、別々に立っている人がたんに同じ部屋にいるというその状態がいつ「コラボレーション」にならないともかぎらないというか、それが「コラボレーション」でないという保証はどこにもない。
そこでできた俳句と音源を後日あらためて編集し、交互に並べるのか、また別の編集方法を思いつくのかわからないが、それが「1ページ」にまとまって提出されるその「かたち」がいま予感のなかにはあるわけで、なんだったら、その当日には俳句も音源もできなくたってかまわないのであり、あとは虚実を問わず、いますでにある「かたちの予感」を「再現」することがすべてなのだと言えば、それが「コラボレーション」であるためには私の予感にすべてを奉仕させてしまうのではなく、同時に吉沼や大竹君が思い描いているかも知れない「かたち」のことを考えることが大切だ。

メッセージはどんどんどうぞ。

ネット上の本屋といえば最近すっかりアマゾンばかり参照するようになっているのであれだが、そういう店頭在庫のあるなしという問題[記事番号:29]にはやはり紀伊国屋だろうと行ってみれば、知らぬ間に、検索結果を在庫してある店舗に関してはその棚の位置まで参照できるようになっていて、『ポパイの影に』は新宿本店の5階、「E13」というところにあるそうだ(22日営業終了時点)。
あと、私が2冊もってるけど。

1.21(火)

2003.1.22 7:19

今度は大竹君と何かやりたい。
って、大竹、吉沼、相馬の絡みなら大竹君のところの掲示板でけっこう楽しんでいるし、そこを見てもらえばいいような気もするが、それとはまた別の何か。やっぱり言語学とか、そっちの方向に行くのだろうか。それもやぶさかではないが、だからといって「和製ブラックジャック、チョムスキーに会う」とか、そういうのも安易だし、「メカ・チョムスキー」とか、またそうやって響きだけでものを言ってるとろくなことにはならない。
あるいは音楽方面ていうのもあるかと思うが、こういうときにくやしいのは、私は楽器ができない。できてもいいんじゃないかと思うのだったが、できない。からきしである。音楽の趣味は悪くないと踏んでいるものの、聞いて「いいわるい」言うだけであって、「ド」とか「ラ」とか、そういう基礎的な知識はまるでない。楽譜がよめない。「Bメロ」が漢字で書けない。
でまあ、その掲示板で吉沼が言っていて、どこまで本気かわからないが、「句会」というのは面白いかも知れない。「句会」というのか「吟行」というのか、どこかへ出掛けていき、三人で俳句をひねるのもいいんじゃないか。やっぱり吉沼は自由律を志向するんだろうか。べつに定型俳句でもいいだろうし、もうふつうにやる。ただの素人の句会をやる。
あるいは吉沼と大竹君(ふたりは一応音楽ユニットを組んでいる)には演奏してもらい、例えばどこかのスタジオに入って、私はそのとなりで俳句を詠むというコラボレーションはどうか。おそらく私は、いきなり、

ドラムや

 と詠みかけて、そのリズムの悪さに慄然とするだろう。どうでもいいけど。

関係ないが床屋に行き、髪を短くして、何年かぶりにパーマをかけた。去年の暮れにあたらしく近所にできた床屋(というか美容室だが)で、今回が2度目だが、最初に行ったときから「パーマかけようよ、いいと思うな」と言われていて、それでおまかせにした。
あれですね、美容室だと最後にジェルでセットしてくれて、まあ「かっこいい」わけで(「かっこいい」ことがかっこいいか?といった問題はとりあえず置くとして)、それで「セットする際にはこんな感じで」というのもなんとなく教えてくれるのだが、まあ根本的にテクニックがちがうわけで、磨こうと思ったことのないテクニックだから私がまるでわかっていないということでもあるのか、部屋でやれば同じように「アレンジ」はできず、どうしても「パーマまかせ」みたいなことになるのだが、それで今日会社のトイレの鏡に映る自分を見、

なんか富山太佳夫っぽいな

 と思ったのだった。
と、そんなことを書いても通じるのは吉沼ぐらいなんだけど、まあ、いま相馬は、ちょっと富山太佳夫っぽいことになっていると思っていただければ幸いだ。もうがんがん仕事してる感じ。

Red」を更新。

1.20(月)

2003.1.21 8:22

さっそくだが、スクロールメッセージの入力装置を用意してみた。フォントサイズ変更ボタン等の並びにある、カラーの「ノートに鉛筆」アイコンをクリックすると専用の入力ページへ飛ぶ。細かい注意事項等はそっちに書いた。
好きな文章を入力、送信すると「ノーチェック」でスクロールメッセージがそれに書き換わる。もうどんどんメッセージを流していただきたい。なんでもいい。といって、きっと「何か面白いことを書かなければならないのではないか」という空気は流れてしまうにちがいなく、それを危惧するが、しかし「面白いことを書いてほしい」というのは正直なところそうだ。できたら笑わせてほしい。いや、ふつうのメッセージというか、「笑い」とは別の「伝えたい何か」だってべつにかまわないし、だからなんでもいいんだけど、笑わせてくれたってかまわないということだ。
入力ページには「名前」の項目もあり、署名を付すこともできるが(メッセージのあとに括弧書きでスクロールされる)、必須ではない。署名があったほうがより深く伝わるメッセージもあるだろうし、単純に「笑い」として署名がじゃまな場合もあるだろう。というわけで必須ではない。
ひとつには、設置してあるアクセス解析を見るかぎり日に何度かアクセスしてくれている人たちというのがいるのであり、そういう人たちになるべく多くの楽しみを与えたいというのと同時に、逆にいえば、日に何度も見に来て、そのたびに「更新はまだか」と思っているのではなく、「相馬が更新していなければおれが更新する」ぐらいの気概をもって何事にも立ち向かっていただきたいわけで、誰が入力するにしろ、もしつまらないメッセージでもスクロールしていようものならふざけるなとばかりにすぐさま面白いメッセージで書き換えるようなかたちで、今年はひとつがんばっていただきたい。
あとまあ、もし掲示板よりも全然気楽に書き込めるというようなことがあれば、そういうふうに使っていただいてもいいし。(入力ページにも書いたが、文字数制限はない。いかに長文を書き込もうがエラーにはならないはずである。)

と、サイトの「機能拡張」的なことを施しながらも、気になるのはやはり「和製ブラックジャックさんへの10の質問」の評判だ。あれは、はたして面白かったのか。それとも面白くなかったのか。面白いとか面白くないとかそういうものではなかったのか。私はベストを尽くしたぞ。
まあ永澤は「後攻」にあたり、かなり完成に近いものをすでに見ていたわけで、かなり手を加えられているといっても多くは自分の言葉たちだから感想を言うというのもなかなかむずかしいかと思うが、「先攻」の恭子ちゃんとかはどうなのだろうか。恭子ちゃんが途中の過程を見たのは、ほんとうに10の質問のリストまでのところだから、結局ああいうインタビューが実現し、そのへんのところ、どうなのか。「聞こうと思っていたこと」は、あのインタビューで聞けているのか、とか。
あと、むろんそのほかの人たちの感想もぜひ。
といったようなことを書けば、吉沼あたりは「『ほめてくれ』って言ってるんだろうな」と取るのではないかと思い、私のことだからそういうことも言ってるにちがいないが、それはそれとしてやはり反応がほしいなというのは、なんていうんでしょうか、私がコンスタントに更新しはじめるとみんなすっかり「客席」の側にまわってしまう感があるのであって、それ、ものすごくうれしい「評価」の表れのひとつであるかとも思うものの、もう少し気軽に、「楽屋」のほうとか来ていただければと思うのであり、そういえば先日の「オフ会」の折りに恭子ちゃんに指摘されて笑ったが、「Yellow」の存在を「Red」で知らせて以降、とたんに「真・リレー俳句」のほうが進まなくなっていて、結局あの盛り上がりも「相馬に更新させよう、相馬を引っ張り出そう」というところに帰結するのかということで、まあ、私のホームページなんだからあたりまえといえばあたりまえだけど。

しかしまあ、

とにかく一発目だ。

 といったふうに昨日、「和製ブラックジャック〜」の前振りをしたのだったが、はたしてこれ、二発目はあるのか。むろん「和製ブラックジャック」シリーズ云々ではなくて、このネタ作りのスタイルというか、方法論の話だが、このスタイルの「二歩目」というのはいったいどういうものになるのか。
方法論といって、ひどく単純化し、ばかみたいな言い方で言ってしまえば「みんなで作る」といったことなわけだが、今回の恭子ちゃんと永澤がある意味特殊であるのは、恭子ちゃんは自分のサイトをもっておらず、永澤は、もってはいるものの「ホームページ欲」みたいなもののきわめて希薄な人で、その個性の表出する場がこの「Yellow」になるというのも必然といえば必然性があるわけだが、一方そうでない人たち、つまり自分のサイトがしっかりある人たちであれば、やりたいことがあれば自分のサイトでやればいいじゃないかという話にもなるのであって、そのへん、「Yellow」という場で出会ってしまったことによる何か、までにもっていくには、また別のアプローチが必要なのかも知れない。
ってまあ、それはそれとして、ぼくにとって恭子ちゃんと永澤はやはり「面白い」のであり、単純にふたりにはまだまだ登場願うことになるんだろうけど。

1.19(日)

2003.1.20 9:30

面倒なので日付を1日飛ばし、「1/18」分の日記は割愛させていただく。
というか、「欠番」だ。あんな、被爆宇宙人がどうとか書いていたらそりゃだめだ。「欠番」とさせていただく。

「和製ブラックジャックさんへの10の質問」は、もう少し早くお見せできるつもりでいたが、永澤が先週忙しかったようで、なかなかメールの返事をもらえなかった。その返事(私が整形したインタビューのなかの、和製ブラックジャックの発言部分をさらにいくつか穴埋めしてもらう作業)がやっと届く。
届いたそれを元にさらに整形したというのは、永澤がまた「ちがう調子」で書いてきたからで、どこまでそのまま使ったものか、あるいは統一感を出したものか悩み、結局、少しだけいじる。いつまでいじっていて、埒のあくようなものでもないのでそれで出来上がり。
まあ作っていて楽しいわけで、作る過程の作業が楽しいというか、「Yellow」という場でやりたいと思っていたひとつの方向性の、その第一歩的なところでもあり、どこまでこれが「成果」と呼べるものに仕上がっているか、要は恭子ちゃんと永澤を知らない「他者」にどこまで面白いと思ってもらえるかだが、一方では私の知っている恭子ちゃんと永澤の、ひどくパーソナルな面白さの側にみんなを巻き込みたいというのがあるわけで、そのへんの兼ね合いがむずかしいが、とにかく一発目だ。
と、うだうだ書いているのはつまり、いったいどういう「前振り」をしたのが効果的なのかわからないからで、いまとなってはもう「和製ブラックジャック」というそれ自体がどうでもいいことになってるんじゃないかこれは、と出来上がったネタを見ては危惧するばかりだが、「そんなばかな」という話で、これは、「和製ブラックジャック」とあだ名される男のベールに包まれた人となりを探る、真摯なインタビューである。

というわけで、これが、「和製ブラックジャックさんへの10の質問」だ。お待たせ。

1.17(金)

2003.1.20 6:31

朝、電話で連絡し、お昼、上山君に四ツ谷駅までご足労願って、改札ごしに『雪の女王』の DVD を渡す。
もつべきものは友達だというのは、上山君にとっての相馬ではなく、相馬にとっての上山君で、朝っぱらに電話をかけ、「何時ごろこっちを出発するのか」「恭子ちゃんの部屋に DVD プレーヤーはあるのか」とだけ確認して、「じゃ、新幹線に乗る前に都心に出てこれないか」と聞けば、「またなんかあるんだ」という返事はなかなか返ってくるものではないだろう。

ちょっと思いついてしまって、最新の日記と掲示板の下にある、フォントサイズ変更ボタンのおさまった枠のなかにメッセージをスクロールさせてみたがいかがか。いよいよ隙間なくテキストで埋まる感じが楽しいけれど、やっぱり「ずっと動いている」というのは前後の日記を読む際に鬱陶しいかも知れず、またスクロールさせるのにタイマー処理をしている(0.5秒間隔で処理をくり返している)のでブラウザによってはずっとウィンドウを開いておくとメモリを食うおそれもあり、で、あとで「一時停止」ボタンも追加してみたのだった。
べつに断りを入れるほどのことでもないが、Marquee タグを使ってやっているわけではなく、JavaScript で動かしている。あるいは「何の話?」と思っている人があるかも知れず、IE5 以上か、Netscape6 以上でないと表示されないのでそのへんはよろしく。むろん Mozilla なら大丈夫。iCab はだめ。たぶん Safari もだめなんじゃないかと危惧するが、まだ OS X をジャガーにしておらず、試せていないというか、JavaScript まわりの仕様がどうなっているのかわからないので何とも言えない。ひょっとすると問題なく動いているかも知れない。すでに Safari でこれを見ている方、どういう見え方になっているか、「え? ふつうに見れてますよ」とか、報告いただければありがたいが。
しかしあれだ、 Apple が Safari を出してしまったいま、「ちょっとゆっくりしすぎましたね、iCab」の感は否めないというか、いくらなんでもそろそろ「CSS2」に対応してくれていいんじゃないのか。「正しい HTML を書きましょう」的なムーブメントにしても、クロスプラットフォームにものが言える Mozilla の側により説得力はあるのだし、どうなんでしょうかそのへん、iCab はどうなるのか。ってすでにそんなに関心を寄せているわけでもなくなっているのだが、ちなみに私はとっくに金を払ってしまった正規ユーザーである。
いや、話を元に戻せば、べつにたいした情報がスクロールするわけではなく、表示されなくてもどうということはないが、ちょっとこの「スクロールメッセージ」で遊べないかといまさらのように考えていたりはして、例えば投稿用のインターフェースを設け、読者が好きにメッセージを書き換えられるとか、そういうことはやるかも知れない。

1.16(木)

2003.1.19 0:19

私が無謀に買い求めておいた桂米朝独演会(17日夜、京都)のチケット2枚は、結局、よりスケジュールに無理のない先日の一門会(11日昼、近江八幡)のほうで満足することにして、先の「オフ会」の折りに恭子ちゃん(京都在住)に2枚とも渡しておいたのだったが、一門会の時点でまだ恭子ちゃんがいっしょに行く人を探しあぐねていたそのうちの1枚は、何のことはない上山君が有休をとって名乗りをあげることになった。[記事番号:27]
しかしなぜ「2枚」かね、私。ああ、そういえば2枚買ったなと、思い出せばさすがに記憶はあるものの、いよいよ渡す段になってバッグから取り出したぴあの封筒を確認するまで、「じゃあ京都の1枚は恭子ちゃんにあげよう」と思っていたのだった。で、封筒から取り出してみたら2枚あった。「あ、2枚買ったんだ」って、いいかげんな話である。
中央線の中吊りで見かけた、「冬の京の旅」という JR のキャンペーン広告は、大徳寺の茶室に背筋をのばして正座するふたりの女性の写真(右を向いて横顔を見せる若い女性と、その右手前、こちらに背を向けたもうひとりの女性で、ボディコピーを読むに姪っ子と叔母)が使われ、

「それが、京都のかわいいところ」

 というメインコピー。
つよく同意をうながされるのは、まったくもって「京都はかわいい」のであり、なんていうんでしょうか、うらやましいね上山君が。
上山君のことだから、「17日の米朝独演会行くことにしちゃいました。辛抱できませんでした。」と書いているのがほんとうに正直なところの動機付けだと思うが、そうだとしてあるいは、「いずれにしろ『出会えた』というそれだけで満足の」とか、「ひょっとすると独演会に掛けるネタを浚(さら)った可能性もあり」とか書いて話を盛り上げる私の日記に責任の一端があるのだとすれば、

「落語バカのおかげで、また英夫さんに会えるんだわ」

 と、京都が思ってくれていたりすれば、こんなにうれしいことはない。
というのは、土日あたり京都のネット喫茶からこれを見るのではないかふたりへのリップサービス。口からでまかせ。今年もよろしく。

明けて17日の朝になるが、目が覚めるとまだ午前の4時ごろで、しばらくだらだらすごしたのち、買ってあった DVD の『雪の女王』を見る。ラピュタ阿佐ヶ谷でやっていたのを結局見逃しているのでこれが初見。1957年製作のソビエトアニメ。いやー、スクリーンで見とくんだったね、やっぱり。
雪の女王によって「悪い子」にさせられ、遠く北の氷の宮殿まで連れ去られてしまった少年カイを探して、少女ゲルダが勇敢な旅に出る、というストーリーで、途中行く手をはばむかに見えて登場するキャラクターたちがじつはことごとく悪意をもっていない(悪い人ではない)というそのストーリーの強靱さを支えているのは、やはり強靱なアニメーションだ。
見ている最中から、これは、上山・恭子コンビに見せなければいけないというのが頭にあって、そういえば今日は平日だから恭子ちゃんはふつうに会社があるはずで、米朝の独演会は夜だし、そこで上山君がゆっくりめに東京を出発するとすれば DVD を渡せるのではないか、渡さなければいけないのではないかと考えていた。