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29 Febrauary 2004

2004.03.03 15:24

掲示板には、ミエさんから貴重な「明日の『諏訪さん』」情報が寄せられた[記事番号:67]。まったく何の意味があるのか。ありがとう。
「Superman blue」で使っている「Movable Type」は複数ユーザーで利用することが可能で、つまり私以外の誰かにもユーザー名とパスワードを与え、その人に記事を投稿してもらうことができる。まずやはり白羽の矢が立ってしまうのは永澤で、きのうの夜、食事をしたときに「blue に書いてみないか」とさそってみたのだが何だか遠慮されてしまい、色好い返事はもらえなかった。「いや、俺は、そんな」と言葉を濁す永澤である。あとは田村か。田村もまたおそらくこちらの期待の地平をかるがると超えてくるにちがいない男だ。たのもうか。やめようか。「blue」に「キリ番」(カウンター)がなくてほんとうによかった。
昼に家を出、ほぼ一日会社で仕事をしていたが、合間にぱらぱらとめくっていたのは金曜日に買った「ユリイカ」だ。「論文作法」という特集。宮沢さんの連載「チェーホフを読む」も目当てのひとつで、あらたに「四十七歳の憂鬱」としてはじまったその『ワーニャ伯父さん』論はすでに一読したが、あと、今月号のその「論文作法」という特集には石原千秋が「秘伝 人生論的論文執筆法」という、ちょっとどうだろうそれはというタイトルの文章を書いている。石原先生はたしかいま早稲田大学の教育学部にうつられそこの教授だったと思うが、少し前までは成城大学文芸学部にいて、私のゼミ担だった人だ。ほか、「大アンケート わたしの論文作法」というコーナーには回答者として富山太佳夫、紅野謙介の名前もある。かつてそこらへんの名前がすべて成城に(紅野先生は短期間の非常勤講師/学校のシステムで石原先生が一年間お休みになったときの代打、だが)いたのだと考えれば、ああなんて面白かったのかとも思い、また、いま誰も残っていないのだなということにあらためて驚く。まったくどうでもいいと思いつつ書くが、大丈夫なのか成城大学。あ、知っている範囲で言えば、まだ成城に残っているらしい小田亮先生は面白い。『構造主義のパラドクス―野生の形而上学のために』(勁草書房)は、もうほとんど「面白かった」ということぐらいしか内容を覚えていないが必読だ。ちなみに私の次兄(ミエさんの旦那)も成城大学文芸学部卒だが、そのゼミ担はかつてこれも成城にいた柳瀬尚紀だ。
「自主リーディング」の話も進んでいる。テキスト・リーディング・ワークショップで「音読すること」の面白さに味をしめた者らが、だったら自分たちで勝手に集まって同じ作業をすればいいのではないかということで、とりあえず初回は高森さんが場所や時間をコーディネートするようなかたちで行われる予定。というか、私は「それ、やりたいですね」ということを言ったきりであとは何もしていない。高森さんまかせだ。ぼやぼやしているうちに連絡用の専用掲示板まで用意してくれている高森さんである。すいませんねえ。
「自主リーディング」の第1回は3月7日(日)の午後になりそうだとのこと。「せっかくなので山口さんが東京にいるうちに第一弾をやろうかと思っています」と高森さんからのメールにあり、最初「山口さん」というのが誰を指すのかわからなかったが、25日の日記に書いた「北海道に帰っちゃう人」が山口さんだった。そうか、それはぜひいるうちにやりたいね。
さて、上山君にはまたほめられてしまった。

スタイルシートの本を買ったのは、「Superman blue」のごちゃごちゃすっきり感に惹かれ、ホームページのリニューアル熱に駆られたからで、まあ、多分ブログという形式は採らないとは思うけれど、近々もっとごちゃっとしたトップページにしようと思う。

 と、その日記にある。「まあね」と言いたい。

28 Febrauary 2004

2004.03.01 20:01

「ロビン」はだいぶ元気を取り戻してきた。カリカリも食べる。ただ肝心の「おしっこ(マーキング)」は、してはいないものの、しそうになるというかこれまでにも見せた怪しい動きや声をすることがまだあり、というのもいまだ掃除ができていないので、部屋自体、あるいは物に臭いが残っていて、これはちょっとまとまった掃除をしてその臭いを取り除かないと油断できない。
起き出してネットを巡回すると、ミエさんの日記(「シカちゃんの絵日記」)が更新されていた。たしか前にも説明したと思うが、ミエさんというのは私の次兄の奥さんだ。ほか、「みえ」「みえしか」といった名前が私のサイトの周辺で出てくれば、だいたいこの人である(「だいたいこの人である」というのはべつに「ミエさんのお姉さんである」とか、「ミエさんの隣の席の人である」といったような意味で「だいたい」なのではない)。
で、その日記の2月27日分には次のようにある。

 ありがたいもんだ。
 病気っていうのは、とっても不思議で、以前は病気になると、とっても怖かった。でも、本当は、病気になって顕れたときにはもう、その、病気の根源みたいな物は解決されかかってるんだと思う。ようになった。

 体は自分のことを攻撃しない。
 体は自分自身を生かそうと治そうとするだけだ。

 そういう意味のことを言ったのは今通っている整体の先生で通っている、といっても、今は既に2〜3ヶ月に一回なので通っているんだかなんだか。
 感動しました。その言葉を初めて聞いたとき。ビックリしたっていうか。

 この「先生」の治療院は、ミエさんたちの住む(つまり私の実家のある)茨城県下館市からけっして近くはない栃木県の合戦場(かっせんば)というところにあって、私も小さいころ、この先生にお世話になったことがある。「整体の先生」とここでミエさんは説明しているが、治療方法的に言っていわゆる整体とはおそらくちがい、しかしそう言ってしまうとどこがちがうのかを説明しなければならないがそれが困難で、小さいころのことでそれほどよく覚えていないということもあるし、だから大雑把に「整体の先生」と私も書くしかないのだったが、それで、私がなにを治してもらったかというと「小児ぜんそく」である。ほんとうに治ったのだった。
まあ「小児ぜんそく」だから、年齢とともに成長したからだが自然治癒的に克服していくという面もあるかもしれず、ちょうどその時期と重なったという捉え方もできるが、しかし「合戦場」に行っていなかったらどうなっていたかわからない(大人になっても引きずっていたかもしれない)という面はどうしてもあり、その発作の記憶や、基本的になすすべがない母の心配の記憶を思い出すに、振り返ってみてやはり「ほんとうに治ったのだった」としか言いようがない。

夜、ニブロールの『ドライフラワー』を観る。まとまったことを書くだけの言葉の持ち合わせがないが、面白かったのはたしかで、ただただ観ていた。しばしば、うしろに流れるスクリーンの映像のほうに集中し、それを見ている視界の下のほうにチラチラがちゃがちゃと動いているダンサーのからだを感じていた。あるいはその逆。それからまた、「ダンスの人は、なかなかハケないな」と口にすればひどくばかみたいなことを考えていたのは恥ずかしながら事実で、ダンサーがしばしば勢いよく走り、それはそのまま袖に消えていくのが順当に思われる走りと勢いだが、けっして袖にハケることはなく、その直前で折り返して戻ってくるのだった。あたりまえである。いや、あたりまえであると言ってしまうのもなんだが、とにかく「ハケるのはよほどのことだ」とこれまた単純なことを考えていた。ってなんだこの感想は。
終わって、こちらは立川談志の独演会を観に行っていた永澤と連絡をとり、落ち合って新宿でごはんを食べる。「いなば和幸」というとんかつの店。私と永澤のコンビは、どこか駅周辺で食事ということになるとついつい「和幸」に入ってしまうことで知られるが、どうやらこの「いなば和幸」というのは「和幸」とはちがうようだ。メニューも微妙に異なる。閉店にまだ30分ほど時間があったのにせき立てるように皿を片付けられてしまったことも含め、永澤と私が今回確認したのは、「いなば和幸」は「和幸」ではないということだ。「いなばかずゆき」と読むのかもしれない。

27 Febrauary 2004

2004.02.28 17:48

「blue」に書いたように、きのう(26日)の朝、去勢手術のため近くの動物病院に「ロビン」(猫、オス、7歳)をあずけた。仕事を終え、夜また引き取りに行くという手筈で、「無事手術は済みました」という電話は午後、彼女のほうの携帯にあったそうだが、病院の先生の都合で(こちらとしても好都合だが)引き取りに行くのは夜11時すぎということになる。
直前にケンタッキーで食べ、ふたりで迎えに行く。当然着けていると思った(傷口を嘗めないようにするための)カラーは着けていなかった。「去勢手術の場合は大丈夫ですよ」と先生。ほんとうか、それは。なにしろ以前、私のもっていた INFOBAR を見るや目の色を輝かせ、「かっこいいですよねー、それ。やっぱね、au じゃなきゃできないですよこういうことは。ドコモじゃ無理。ぼくも欲しいんですけどね、買い換えたばっかりで、あるでしょ、あの、最低1年とか換えられないっていう契約が、その」と、長くなるのでこのへんでやめるが、そう夢中になって話していたのがこの先生だ。いい先生である。で、「この子、術後も嘗めようとしなかったし」とも先生。
ところでカラーで思い出すのは「ピー」(同、オス、1歳)のほうの去勢手術後で、そのときのピーはカラーを着けた。そのさいの写真が右だが、ピーはこのときやたら後ずさるようにしてうしろむきに歩いた。つまり、「うしろに戻ればこのなかから抜けられる」と考えたようだ。ばかである。
家に連れて帰ってきたロビンはカゴから出すなり自分のトイレでおしっこをし、これには感動したものの、さすがにやはりよたよたしている。元気がない。歩くのがのろい。そして、ピーは元気だ。先生の言ったようにロビンは傷口を嘗めようとしないが、ピーが何か嗅ぎつけるようで顔をロビンの傷口へともっていく。ばかやろうが。
翌朝(きょう)もまたロビンはあまり元気がなく、あげたカリカリも食べる気配がない。食べるかもしれないのでカリカリはそのまま置いておくことにし、ただそうするとピーが食べるにきまっていて、さらにばかのピーは何を察することもなくいつものようにロビンにじゃれつき、ケンカを仕掛けるにちがいなく、今日一日はさすがにロビンもつらいと思われるので一部屋を閉め切って、そのなかにピーを隔離して出掛けた。
帰ってくると心配していたようにカリカリが手付かずに残っていて、そこでわれわれが通称「甘やかし」と呼んでいる「うまいおやつ」をあげることにし、すると細々ながらそれを食べた。振る舞いに「らしさ」が戻りつつある。まだ閉めきったままのとなりの部屋では、ピーがさかんに何か言う。すまない。申し訳ないことをしたが、まあこれで明日にはロビンも大丈夫だろう。

25 Febrauary 2004

2004.02.27 13:27

「Superman blue」は好調に更新をかさねている。
いま、つい更新に力が入るのは「blue」のほうで、困ったことに日記的なことがらをそっちに書いたりもし、となると「Yellow」(こっち)には何を書いたらいいんだということになる。何を書いたらいいんだもなにも、だったら今後は「blue」一本に絞るとか、すればいいようなものだが、しかしいま「blue」を更新するのがたんにそのブログという形式に魅力を感じ、それが面白いからだとすれば、この「Yellow」という、より「日記」寄りの形式(あるいは佇まい)にもかならず面白さはあり、それでついこちらにも何か書いてしまうとしたら、付き合わされるほうには迷惑な話だ。
「blue」の場合、「Movable Type」というブログ用の便利なツールを使ってるわけですが、そのサイト構成および運営方法上、日に何度でも、書くことを思いついたときにそれをそのつど(断片として)アップするということが可能(あるいはラク)で、それでつい「blue」を更新する一方、「Yellow」は、どうしても1日1回の更新が基本となるページ構成であって(その1日1回がままならない状態で申し訳ないけれども)、それは一日の終わりにその日の日記をしたためるといったような、ブログに比べればより古風な、「紙」のメタファーを色濃く残す形式の「ウェブ日記」として存在しているとすれば、そこで私が言いたいのはつまり、「メタファー」とかそういう言葉を使って「何か言った気」になっていてはいけないということだ、俺。ずいぶんひさしぶりに使ったな。「メタファー」。
でまあ、だからいま、日々私のページをチェックしてくれているありがたい方々におかれましては、ネットサーフィンの順序としてまず「blue」からチェックしてもらうのがいいと考えます。「blue」のトップページで、ほかの「Red」「Yellow」等が更新されているかをチェックできるような仕組みにもしてみたので(詳しくはこちらを参照)、それも利用していただければと思うが、そうこちらの思うように行動してはくれないのがユーザーだ。

夜、宮沢さんのテキスト・リーディング・ワークショップに見学参加。テキストは唐十郎の「少女仮面」。いくらなんでも見学させてもらいすぎだよなあという思いをまぎらわす意味もあり、テキスト(『少女仮面・唐版 風の又三郎』)を自費で用意して赴いたものの、教室に入ってきた宮沢さんは私をみとめるなり、

「あ、相馬君。君ちょっと図々しくないか、1回本を借りたぐらいで」

 と言い、その声の調子が微妙だったというか、「出(で)がファン」だけにそうした発言には余裕をもった構え方がしずらく、「やはり単純に図々しかったろうか」と顔色を伺うような気分をしばらく引きずっていたのはだめな話だ。
終わって打ち上げ。メールで連絡をもらっていたが、打ち上げには高森さん、丸瀬さんも顔を見せる。今日は欠席者が多かったこともあり、居酒屋のテーブルひとつにまとまることができて、受講者個々と宮沢さんとの話がいつもよりはずんだ印象。というより、宮沢さんの座った位置がいつもより全体と話しやすい位置だったということかもしれない。
いろいろな話。唐突に「私、来月で北海道に帰るんです。だから(公演やワークショップなどで)北海道にも来てください、宮沢さん」と話す女の子がおり、それが唐突に思えたのは、ぜんぜんそうした背景にある人だと思わなかったからで、その人はきまって、宮沢さんをコの字に囲む教室の一番宮沢さんから遠い位置にあたる席に座っていたが、それもどこか、戯曲を読むその声の調子に引きずられての印象だろうが、毅然としてそこに座を占めているような佇まいを思っていて、しかしそれもたんに「遠慮」が生んでいた距離だったのかもしれないと考えれば、なんだか急にその子がいとおしく思えてくるのだった、って誰だよ俺は。
そのほか、「北関東」の話なども少し。「北関東」の訛りの話をしていて、どうしても私の頭にあるモデルケースのひとつは、そんな固有名を出したところで誰にもわからないものの「諏訪さん」だが、やはりどうしても私にそれを再現することはできない。そこで実家のミエさんなどにたのみたいのは、こっそり諏訪さんの会話を録音したりできないものかということで、「諏訪さん」ならばできるのじゃないかというのも、どうも「よく来る」らしいからだ。

20 Febrauary 2004

2004.02.20 21:45

随分あいてしまった。べつにそればかりやっていたわけではないが、じつは「Superman blue」というもうひとつ別のサイトを準備していたりもした。どうでもいいことながら説明すると、「Superman blue」という名前の私の個人サイトは、昔、存在していたことがある。いまのこの「Yellow」の前身として、友人たちにだけ告知して半年ほど運営していたのが「blue」だ。
かつて私に「blue」を作らせたのは「個人ホームページ」への興味だった。「個人ホームページ」と呼ばれる現象のあの面白さはいったいどこからくるのか、いったいぜんたいそこで起きているのは如何なる事象なのかという問題意識が、かつての「blue」を生んだ。ひとつには規模の問題がある。「顔を見知った(リアルな)友人知人にしかアドレスを教えない」という無意味に原理主義的なその運営ルールは、しかしたしかに「個人ホームページ」というもののひとつの側面を方法化していたはずで、つまり、

(規模の面で言う)真の「個人ホームページ」というものが存在するとすれば、そのページは管理人の「顔」をしている必要はない。なぜなら、来る人はみんな管理人の顔を知っているのだから。

 という主旨の上山君の発言が当時あったのであり、それが非常に刺激的に響いたのだった。しかしながらその一方でまた、個人ホームページ制作者がつい載せてしまうもののひとつとして「このページの管理人について」があることはよく知られているとおりで、そこで今度は、規模その他の「形式」から「個人ホームページ」を定義することはできないのであって、問題にされるべきはその「内容」ではないのかというふうにあっさり考えを転回させたくもなるのだったが、むろん、「形式とは内容であり、内容とは形式のことである」とするフォルマリストたちの成果をいまさら無視するわけにもいかず、さまざまな側面を合わせもつがゆえに魅力なその「個人ホームページ」なる事象を事象そのままに受けとめつつ言語化する方法はないかと、まあ、そうしたことが問題意識の根本としてあったわけですが、その言語化への努力を怠ったり怠らなかったりするうちに「blue」は「Yellow」に変わり、その「Yellow」もリニューアルを経ていまに至る。そしていま急に新生「blue」を作りたくなってしまったのは、例の、「blog」ってやつへの興味からだが、で、「Red」はどうしたんだ。
「blue」は「Movable Type」という blog 用のシステムを利用した、いったい「Yellow」その他のページとどう棲み分けるのかまったく何も考えていないサイトである。

で、繰り返すように「blue」ばかりが原因ではないものの、それやこれやで日記は随分あいてしまったわけで、いまから律儀に日付を追おうというのはもう無理な相談であるから書けるだけを書こうと思うが、と、そこに生まれるのは「書かれなかった日記」である。

ずっと書き忘れているのは
書かれない日記にこそ何かがある
ということです。
書かれない日記は日常です。
それは自分で思っているよりもっと美しいもののはずです。
そしてとってもどうでもいいものです。

 と、ちょっと前に「vaca-tion」の掲示板に書いたのはミエさんだ。おそらく、宮沢さんがよく引用し、それで私も読んだ太田省吾『劇の希望』(筑摩書房)など読んでいないと思われるミエさんだが、しかしここで発せられている言葉はあきらかに太田さん、宮沢さんと同じ眼差しをもっている。

もっとみんなの日記を読みたい。インターネット初期、ウェブ日記を否定する論者はけっこういたが、いまではblogという確立したメディアとして成長しつつある。青山さんの日記はきわめて刺激的だが、そこまででなくてもただ日常が書かれているだけでいい。日記否定論者には「素人の日記なんか」と言う者もいたが、言ってるおまえが素人だろうということはしばしばあり、しかし、どんな人の日常もまた興味深い。

 と、ついこないだも「富士日記」に書く宮沢さんだが、ここで言わんとしていることもまた、ミエさんの発言と地続きのものだろう。(あ、ところで、前に「書きづらいこと」云々と書いていたのは宮沢さんがその日記にあっさり書いている件のことです。)

むろん「書かれなかった日記」を「書く」ことは不可能だ。原理的にいえば「日記を書く」というそのことによってはじめて「書かれなかった日記」は生まれるのであり、どんなに刻銘に一日を描こうともそこからこぼれ落ちるものがあるとすれば、つねに「日記」のとなりには「書かれなかった日記」が立っていることになる。であるならば、「言語に外部はない」のと同じように、どこまでもすり抜けていく「書かれなかった日記」の幻想を追うのをやめ、「書かれなかった日記はない」としてしまうのもひとつの態度だろう。そしてそれは正しいし、繰り返すように「書かれなかった日記」を書くことが不可能なのだとすれば、すると、われわれが追い求めるべきは「書かれなかった日記」ではなく、さしあたって次のようなものなのではないか。
「書いてしまった日記」。
そうだ。これならある。あるはずだ。かつて、個人ホームページ制作者はその唯一のオリジナルコンテンツである日記を書きはじめるにあたって、たいがいこう口にしたものだった。

「とりあえず日記でも書こうかと思います」

 そうだ、「とりあえず」である。個人ホームページというメディアが「とりあえず」「日記」を書かせてしまうのだ。思い出せば、私の第1回の日記(「Red」の「コーナーの日記」2000年8月18日分)はそのことを扱っていた。

それにしても、日記という形式を手にした途端に個人ホームページの作者たちが獲得してしまうあの「自由さ」は一体何なのか。興味はそこだ。問題は、「とりあえず日記でも載せようかと思います」と人が言う瞬間にこそひそんでいる。何故、「とりあえず」と「日記」はこうも相性がいいのか。「とりあえず=日記」という図式が持ってしまう説得力――その説得力を成立させているものにこそ注目しなければならない。

 「書いてしまった日記」を支えるものとして「個人ホームページ」があり、そしていま「blog」があるにちがいない。

と書いていたらもう時間だ。ぜんぜん日記を書いていないが、もうどうでもいい気分だ。しまった。で、これが「Superman blue」です。できたらこのまま「Yellow」も存続させるつもりです。どうぞよろしく。

12 Febrauary 2004

2004.02.13 16:13

たまさか気がつきましたが、このページ、MacIE でちょっとどうかと思う不具合が出てましたね、さては。ページを読み込んでしばらく経つと自動的に再読込されるような動作があり、そうするとリンクなどのある上の部分と日記とのあいだが1スクロールぐらい空いて真っ白になる、という「さすがにそれはお困りだったでしょう」という不具合。それ、最初に直した(というか、原因となる JavaScript を MacIE では動作させないようにした)つもりでいたものなんだけど、直っていなかったわけで、たまさか気がついた。直しました。
で、直したとはいうものの、だからといって MacIE で見てほしいというわけではけっしてなく、そう、何と言ってもこれからは「Firefox」だ。きのうはじめてダウンロードしておいてそんなことを言うのもなんだが、ひとまず、当サイトは「Best Viewed with Firefox 0.8 or later」だ。「0.8」ってなんだよとお思いの向きもあるかもしれないが、まあ、そうさせていただきたい。「Get Firefox」のボタンなど、だまされたと思って自分のページに貼ってみる。いま、個人ホームページャーに求められているものとはそうしたことではないか。

それはそれとして、吉沼からメールがあった。その掲示板でもひっそりと報告されているとおり、きのう(11日)入籍をすませたという。結婚するつもりだという話は去年のうちに聞き、そのさい入籍日の候補として建国記念日をひとつに挙げていたが、実際そうなったのだった。まあ、建国記念日は毎年変わらず2月11日が休みになるので都合がいいということがひとつだが、また、吉沼はこうも主張してわれわれを驚かせた。

「けんこくきねんび」と「けっこんきねんび」は響きが似ている。

 気がつかなかった。まったくそのとおりである。とても覚えやすい。
で、もらったメールは「籍入れて役所の前の空青し」というタイトル。本文には、

・季語(冬):入籍、籍入れる

 と解説があるが、それはでたらめ。

11 Febrauary 2004

2004.02.12 13:18

その場で本を返してもらうということもあり、夜、テキスト・リーディング・ワークショップに見学参加させてもらうことになる。土曜日の時点で永井さんから、おそらく今週は佐藤信の「鼠小僧次郎吉」で、来週が「美しきものの伝説」だろうという話を聞いていて、そこで急いで『嗚呼鼠小僧次郎吉』もネットで探し、500円で売られていたのを注文していたのだったが、それは残念ながら今日までに届かず。
参加者の顔ぶれはほとんどがらりと変わっていた。先月から引き続いての参加で顔(声)がわかるのはふたりほどか。『屏風』の招待券をさそっていただいた渡邉さんがそのうちのひとり。
「浮世混浴鼠小僧次郎吉」を読み終わり、さらに時間があったので「美しきものの伝説」も途中まで読むことになる。「美しきものの伝説」の登場人物のひとりに「暖村」というのがいて、最初、読む役を割り振るときに「これ、何と読むのか」ということになり、皆が考え込むふうだったので僭越ながら「『だんむら』らしいです」と発言したのだったが、そう読むらしいという根拠はひどく脆弱なもので、これ、私も読むときに何と読むのかと思い、たとえば劇中で「暖村」と呼ばれるこの人物が「荒畑寒村」として知られる人物のことだということを考えれば「だんそん」が妥当かとも思うわけですが、このあいだ『革命伝説四部作』の古本をネットで探したときに見つけたページのひとつに青年座が2002年にこれを上演したときの特設ページがあって、そこにはキャスト紹介も兼ねたなかなか丁寧な登場人物紹介のコーナーがあり、主要人物の来歴がひとり1ページずつ用意されているそこにも結局役名の読みが直接書かれた箇所はなかったものの、しかし「暖村(荒畑寒村)」用の紹介ページのHTMLが「danmura.html」というファイル名だったのだった。って、それ、芝居をまったく理解してない人がページを制作してたらアテにもなんにもならないわけですけど。
終了後、曙橋から新宿駅近辺まで宮沢さんの車で送ってもらう。靖国通りの途中、信号待ちになったところで降ろしてもらったが、宮沢さんがちょっと大きな声で「じゃ、また」と発したその言葉に、なぜだか気分が昂揚してしまう。
で、電車で移動し、荻窪駅から家へと歩くあいだ、永澤と上山君に電話。きのう書いた「書きづらい部分」云々の話を説明する。アクセスログ解析からそれは知っていたが、永澤は9日にいったんアップして削除した幻の日記を読んでいて、それできのうの文章から抜け落ちている部分を考えいろいろ想像していたという。で、全然はずれてたわけですけど、その想像。上山君には「舞い上がってるねえ」と感想を言われる。上山君の指摘はいつもひどく的確だ。

10 Febrauary 2004

2004.02.09 16:21

きのう、5日〜8日分の日記をまとめて書いたものをいったんアップしたものの、内容が一部の知り合いにとって不都合な点に触れていたということがあって、そのあとでやっぱり削除したのだった。まあ、かまうことはないだろうという気持ちがそれを書かせたが、ここはひとつ大人の判断というやつだ。大人だなあまったく。
ただ、その点に触れないようにすると、ちょっと今後の日記にも書きづらい部分が出てくるだろうということがあって、その「ちょっと書きづらいんですよ」ということを言うためにこうしてわざわざ説明してしまっていることからもわかるように、結局どこかで書いてしまうというか、「書いてるじゃん、それ」という事態になるかもしれないのだったが、まあ、それはいまのうちに謝っておく。ごめんなさい。

テキスト・リーディング・ワークショップで今月扱いたいと宮沢さんの言っていた宮本研の戯曲「美しきものの伝説」を手に入れたことは前に書いたが、それで、「もしまだそちらで手に入れられていないようでしたらお貸ししますが」というメールを宮沢さんに出しておいたのだった。で、貸すことになり、土曜日に、戯曲講座の特別講義のあった世田谷のパブリックシアターまで受け取りに来てくれたウクレレの永井さんにその本(『革命伝説四部作』)を渡す。前夜は、なにしろかつて「PAPERS」に「今週の借りたまま返してない本」というすこぶる面白い連載があった(たとえばこの号など)宮沢さんだしと思い、「美しきものの伝説」だけでも読んでおこうと読んでいた。あと、別役実先生に提出するコントも1本書く。
戯曲講座のほうは、まだ2ヶ月近く残っているものの、その2ヶ月でもう終わりなのだった。講座を受けた動機は、それを一番近い言葉にすれば「何か次のきっかけになれば」というものだったと思うが、はたしてその「何か次」なるものにつなげられたかと、そのことを思うのだった。

4 Febrauary 2004

2004.02.06 15:43

Amazon.co.jp でたのんでおいた、「義太夫『仮名手本忠臣蔵』大全」のCDボックスが届いたのは昨日だったが、これはいま、「桜井秀俊の続・あんた最高だ!」でいとうせいこうさんが紹介し、熱く語っているもので(いとうさん自身がいま義太夫を習っているとのこと)、それで、毎度のことだがつい触手が伸びた。
ゆっくりと、面と向かって大音量で聴く余裕がいまちょっとなくて、とりあえず iPod に入れてヘッドフォンを片方の耳にだけあて、仕事中に BGM として聴いてたりするのだが、これが(そんな聴き方をしててじつに失礼なのだが)なんとも心地よいのだった。あまりの心地よさに、口承文学と政治的なもの(ナショナリズムなど)のあやうい結びつきについて論じる兵藤裕己先生の研究などぼんやりと思うほどだが、とにかく、三段目「松の間の段」でのこの高師直(こうのもろのう:吉良上野介のこと)の盛り上がりぶりは何か。
「真田風雲録」は読了。

3 Febrauary 2004

2004.02.04 23:34

節分だったのだということをいくつかのメール、サイトの記述で知る。
去年から大阪府茨木市在住となった上山君は、その日記に、「関西では(という括りにしていいのかはよく分からないが、この辺の節分では)、太巻き寿司を東北東の方角を向いて笑いながらまるごと一本かじって食べるらしい(向く方角は毎年違うらしい)」と書くが、その「丸かぶり」とか「恵方巻」とか呼ばれるらしい習わしについての記述を、私はまず「LOOKING TAKEDA」という(「""RINGS」に参加するサイトのひとつで、つまり宮沢さんつながりの)サイトで先に読んでいた。

「恵方巻」は、関西の海苔組合が、海苔の需要を高めようと始めたものだが、なんだか、あたかも歴史のあるような錯覚をおこさせるネーミングが巧妙だとおもった。あと「今年の恵方は東北東」なんてもっともらしいことを言ったりするのもうまいが、すべてはしたたかな関西の海苔組合の商魂が生んだこの恵方巻である。

 と、武田さんは2月1日付けの「津田沼ノート」に書く。すぐさま思い浮かぶのは、E・ホブズボウム『創られた伝統』(紀伊國屋書店)だが、そうしたものを引き合いに出すのもなんだかちょっとアレなぐらいに、ここでは恵方巻の伝統がものすごくあっさりと否定されているのであり、すると、この「恵方巻の伝統の嘘」はなかば常識的な事柄なのではないかと予想され、ひょっとすると、「ほんとうはこれ、昔っからあるってのは嘘なんだよ」というある種のネタばらしとセットになることによってこの奇妙な習わしは逆に魅力を得、そのキッチュ性ゆえに強く広まったのかもしれないと、まったく勝手な想像すら抱くが、そこで「ほんとかよそれ」と自分でツッコミを入れたくなるのは、ミエさんの実家(名古屋)でもまたこの行事が行われたらしいからだ。電話口で、ミエさんのお母さんは言ったそうだ。

「今夜の晩ご飯は『かぶりつき』だったよ」

 厄介なことにここでまた「かぶりつき」という新たな呼び名が登場してしまったわけだが、これが単純な言い間違い(=「お母さん、おしい!」ということ)なのか、それともそうした別称もまたあるのか、よくわからないというのは、ネットで調べたところどうも「もともとは愛知県の風習らしい」とする記述が多いためだ。
で、調べたといって Google で検索をかけたぐらいのことなのだが、いくつかのサイトの記述を総合すると次のとおりで、それはごくローカルな風習としてもともと存在していたものだったが、全国的に広まるきっかけを作ったのは1977年、大阪海苔問屋協同組合がその風習を取りこんで、節分のイベントして道頓堀で行った「巻き寿司の早食い競争」だった、ということのようである。
ただ、ひとつ気になるのは、ネットで検索していてやたらと同じ文章が見つかることで、

もともとは愛知県の方の風習らしいのですが(大阪起源説もあり)、1977年に大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして道頓堀で実施したのをマスコミが取り上げ、早速全国のお寿司屋さんがそれに便乗して全国に広まったということのようです。

 というのがその文章だが、とにかく頻繁にこの説明文に出くわすのだった。なかには多少アレンジが加わったものもあるが、「(大阪起源説もあり)」という括弧書きの部分までそっくりそのままであることも少なくなく、つまりそれらは「コピー&ペースト」されたとおぼしいわけだが、となると、ネット上に多く確認できるかに見えるその言説はじつのところ、コピー&ペーストによって(それこそ恵方巻の風習がそうであったように)一気に大量生産されたものにすぎないとも考えられ、ここに「ネットで調べることの限界」がきびしく立ちはだかっているのだとすれば、そのことにはやはり自覚的にならなければならないと、まったくどうでもいい風習のことなど調べていながらやけに考えさせられてしまったものだ。

2004年1月分はこちら