コーナーの日記

Diary

Title: Superman Red Diary


10月31日(火)

もうだいぶ進んだが、しかしかなり長いこと、ちびちびと読んでいる。古井由吉の『聖耳』だ。すさまじく面白い。そんなことをしたところで的確に評したことになどならないのは分かっているが、権限さえあれば手あたり次第の賞を、掴んでは差し上げたい気分である。山とある文学賞で足らなければゴールデンアロー賞でも、私のもらった校内弁論大会の優秀賞でも、何でもいい。来年の青梅マラソンの優勝者は古井由吉ではどうかと書きつなげば話は逸れかかるが、とにかく、面白いと書くのも今更な小説がそこにある。この10月の、日付を示す部分の色は薄い灰色に濃いめの灰色だが、『聖耳』の背表紙を真似したのだった。もう一ヶ月も読んでいる。一気に読んでしまえる時間が欲しいのもたしかだが、時間があったとして一気に読んでしまえるかは怪しい。読み始めれば、本物偽物とりまぜてこちらの記憶にもお呼びが掛かり、一方で、電車に乗り合わせた者の音に気をそがれて耳を持っていかれるのも読書行為の中にまぎれていく。あるいはこの一ヶ月は、「連作」という小説形式の時間感覚を縮小してなぞっていたことになるのか。いずれも遅々として進まない読書の言い訳だが、問題はない。いつ、どの頁をめくろうが、すべての物語とひとつの言葉が始まりだすのだった。それはもう、喜々とする。

「感動などという言葉は、古井由吉の小説に対する評価の言葉としては気恥ずかしいほど通俗的だが、読みながら湧きあがってくる心の昂ぶりにふと気づいたときには身体の方が鳥肌たっていた。そういう経験をあらわす言葉として「感動」という語もあったはずである。」
「…古井のテキストに戦慄することがまず必要ではないか。ふるえの記憶は残る。…」
(紅野謙介「声の呪力、音の気配――『夜明けの家』から『群像』最新連作へ」、「國文學」12年5月号)


10月30日(月)

■♪学校出てから十余年 今じゃウェブのデザイナー
Fetch Fetch の明け暮れに 見られた回数が五万回(サバよむなコノォ)
9月分の電話代を払った。26日の分を書き上げ、アップしようという段になって家の電話が止められていることに気がついたのだった。督促状が届いてから重い腰を上げるふうにサイクルが丸一ヶ月ずれてしまっていて、コンビニに行くのをちょっと後回しにしているとすぐ止まる状態であるのがいけない。自動引き落としというのはどうも便利らしい。
ところで「太郎こおろぎ」のあらすじだが、ざっと読んだ際の記憶のみで書いてしまったら、細部に間違いがあった。本文に添えば、太郎が秘密の穴に捨てたりしているのは鉛筆の削りかすで、最後に「太郎こおろぎだ」と叫ぶのは先生ではなく生徒の「だれか」である。


10月26日(木)

だいぶ待たせたし、待たされたものだ。朝会社に行くと、「太郎こおろぎ」が届いていた。はじめて見る「太郎こおろぎ」は、思っていたのよりも少し大きめで、ひと目で人間でないと分かるのは尤もだとしても、出会い頭に虫だと言いきるにはちょっとためらわされる姿をしていた。目が魅力的だ。今どき珍しく矢鱈とムースをつけていて、さかんに黒光りさせているのがかえって虫を想起させる。本当を言うと、「太郎こおろぎ」は本の名前だ。ものは全集だから読もうとするまで思いもつかなかったが、ものすごく短い話なのだった。4、5ページしかない。「小学校高学年向け」あたりを根拠もなく想像していたが、ちがったらしい。読んでみて分かるのは、N氏の記憶というのが、実は至極的確であったということである(9月27日分を参照のこと)。舞台は田舎の小学校。語り手の思い出話というかたちで話は進み、同じクラスにいたガキ大将の太郎と、太郎と席を並べている女の子、それに先生といったあたりが登場する。太郎と女の子の机が並んだところの床には太郎が節穴をくりぬいた秘密の穴が空いていて、太郎はそこに消しゴムのカスを捨てたりみんなをいじめるための木刀のようなものを隠したりしている。ある日、女の子が学校に新しい消しゴムを持ってきて、太郎がそれを「使ってやる」とごしごしやってるうちに穴に落としてしまう。「ひろってきてやる」と床下に潜りこんだ太郎だが、暗闇に手こずっているうちに授業が始まってしまい、女の子は気が気ではない。足下の穴ばかり気にしている女の子に、「どうしたのか」と先生が尋ねるが、わざわざ「ひろってきて」くれようとしている太郎に気が引け、「こおろぎが飛びだしてきたんです」と嘘をつく。「どこにこおろぎがいるんだ?」とさらに聞かれて困ってしまった女の子は、「リリリリ…」と自分で鳴くまねをする。進退きわまった女の子が泣きそうになりうつむきかけた途端、穴の下から「リリリリ…」とつづけて鳴くまねをする太郎の声が聞こえる。それを聞いた先生が「太郎こおろぎだ」と言い、教室がどっと沸く。その太郎はいま、村長になっているという。そんな話。


10月25日(水)

財布に手応えがないと思えば、新宿と狛江のTSUTAYAの会員証と、もうひとつ別のレンタル屋の会員証が、いつの間にやらペキッと割れていた。ぴあカードも危ういところだったらしく少し曲がっていて、あるいは駄目かもしれない。どこでどうそんな力が加わったのかと訝れば、「踏んだのか?」という内省がまっさきにやってくるのは困ったことだ。うちにあるCDのプラスチックケースは軒並みひびが入っていると言っていいが、それはついCDを床においてしまうからで、それをつい踏んでしまうからである。ペキッ、と言うのだ。


10月17日(火)

部屋の荒廃がはげしい。自分が掃除する気を起こすかもしれない気配が見えない。ゴミも古新聞も出し損ねて久しい。報告すれば、爪切りはいまだ見つかっていない。寝る前になって急に聞きたくなった中村一義の『ERA』がよっぽど見つからずに反省しかかるが、とうとう見つけあててしまって喉元をすぎていった。あ、なるほどと思い出したのだが『AURA』のケースに入れていたのだった。捜し物をするたび、まんべんなく部屋が入り乱れていく悪循環の、まっただ中に今はいる。


10月16日(月)

夏休みの残り分を一日あてがって、会社は休みである。大学へと行った。2限の、小田亮の講義を教室の後ろの方で聴いていた。教室はまばらで、後ろに座っても素通しで目が合ってしまう。何せ去年の今年であり、「あの男、まだ卒業し損ねていたのか」とあるいは思われていたかもしれない。授業は「クレオール性」の話。クレオール文化を扱って「脱領土化」ということのみを語るのは誤りであって、真に目を瞠らなければならないのはそこで起きた「再領土化」の方である、という刺激的な導入部である。導入部だというのは、気がつけば学校は後期が始まって間もないのだった。しっかりとノートを取る。ゼミのある曜日で、石原千秋にも会った。「成城大学のホームページのレベルはどうか」と聞かれ、「どうかと言われてもというレベルだ」と答えておいた。教務部長という役職になってしまい忙しいという。アイブックスがなくなっていた。


10月15日(日)

阿佐ヶ谷で、川島雄三の『愛のお荷物』と『暖簾』。森繁が! 山田五十鈴が! 円谷が! 中村メイ子が! いや、中村メイ子はちがうのだが、そんなこんなであっという間だったというのを、あるいはいつまでもつづいていてほしかったというのを、なんと言ったらいいのか、やはりべらぼうに映画が上手いのだなこの人は。


10月14日(土)

13GBの、外付けのハードディスクが唄って踊った。唄って踊ったと言えば聞こえはいいが、要はクラッシュしたということだ。システムは内蔵の方に入っており、外付けの電源を切って起ち上げれば何ともないが、起ち上げてから電源を入れ、マウントしようとすれば固まる。外付けにアクセスしようとした途端に固まるので、初期化すらできない。そういう症状なのでケーブルが怪しいといえば怪しいのだが、経緯から言ってそうとも思えない。その外付けを経由した先のMOも何ともない。あるいは広大な13GBの、初期不良箇所にやっと掘りあたったのか。とにかくハードディスクを買わねばならぬことになったようだ。さしあたって一番話が早そうなのはやはり外付け、という発想には落ち着きかかるものの、いまさらNarrowの外付けを20GBも買い込んだところであまりにいまさらであり、どうしたものかとN氏に電話してみる。N氏と言えば「太郎こおろぎ」だが、それはいまだ届かず。案外待たせる。と、N氏が即答するには「FireWireカードを差すのはどうか」ときた。FireWireカードは5千円程度で手に入るという。そうしておいてFireWire接続の外付けハードディスク。FireWire導入のワクワク感をぶつけて、この事態を乗り切るのはたしかに悪くない。
秋葉原へ。こうして、MatheyというメーカーのFireWireカードに、VSTの赤いFireWireハードドライブ(ポータブルではない、14GBのもの)を買ったのだった。


10月13日(金)

新宿方面へと進む電車のなかを、後方へと歩むひとの、それでもなお新宿へと運ばれていくのがいまさらのようで、ホームから見送りながら、それでもやはり、なるほどなどと考えていた。帰ってみるとイチローが大リーグに行くというので、僕も行こうかと思ったが、もちろんそんなわけもない。


10月11日(水)

ひさしぶりの日記を書くにあたっての、忙しかったわけではない、という書き出しは、駅の改札を抜けるところで浮かんだ。つづきはスラスラと口をついて出たが、ファミリーレストランに着くまでそれらの着想を繋ぎとめておくことはかなわなかった。食事と、日記の下書きを終えてレジへと向かった。どうにも緩慢な身の動きを、自分がしているのではないかと気づいたときにはすでに自転車の鍵を一度、七円を払おうと思ってつまみかけた五円玉を一度、それぞれ床に落として拾ったあとで、ふたたび財布の小銭入れへと視線を落とせば、私はいま、かなり長い間レジの前に立っていたのではないでしょうかと尋ねたくなるような顔でレジの女性がそこにいるような気分になる。