コーナーの日記

Diary

Title: Superman Red Diary


7月26日(木)「まあいいや」

▼本日の昔のネタ。膨張を続けるインターネットの、その一番外側で生成する、今まさにそこが臨界であるところのホームページを捉えきった快作、「最果てのインターネットへ」は1999年7月の作品。
▼でもまあ、考えてみれば、開くと一面に広がるテキスト、スクロールの彼方まで埋まったテキスト、しかも「日記」と銘打たれたこのページに、付き合ってくれている人というのはだいたいのところ「常連さん」と思しいわけで、そうなるとこの「本日の昔のネタ」の掲載はクリックの機会を設けるというよりか、「再クリック」の機会を設けるということになりますか。まあいいや。そういう性格付けをいいことに、それなりの解説をくっつけて紹介するという作業もまた楽しいだろうし(とまあ、上でさっそくそれをやってるわけですが)。


7月25日(水)「回収の機微」

▼「明日、古紙回収を行います。紐で縛り、午前9時までに道路から見える場所に出していておいてください」と昨日の夕刊にチラシが入っていたので、そうしたが、持っていってくれなかった。ちゃんと全部読み終わっていないからか。
▼とりたてて手の伸びやすいところでもなく、たいして愛嬌を振りまくでもなく置かれているネタが結構な量で、なかなかクリックされる機会に結びついていないのではないかというのは、やはり危惧されるところだ。なのでまあ、こうした箇所に、思い付いたように古いネタへのリンクを置いておくのは有効かもしれない。
▼「Yahoo! ズボン」は、1999年10月の作品。


7月24日(火)「吸いすぎてるだろうこれは」

▼みんなー、「多者の交換日記」は面白いですかー? ついてきてくれていますかー?
▼だんだんに飽和感がある。いや、ウェブの話じゃなくて、たばこ。吸いすぎてるんじゃないか。ていうか吸いすぎてるだろうこれは。
▼単発ネタの「誰? フルハシ?」はまた、客層の狭いものを作ってしまって申し訳ない。しかしまあ「ウルトラセブン」の最終回ぐらい、一般常識ってことにしてくれないか。誰に言うのか分からないが。
▼ところでこれが、シマ。実家に長らえている。
これを産んだ母がカメで、長兄夫婦(当時、カップル)が東長崎の部屋で飼っていた。その二人が婚前旅行のようなかたちで中国へ旅立ち、私が東長崎の部屋に泊まって世話をする夏の日に、息を引き取った。すでに「猫のエイズ」というやつを患って久しく、しかしながら小康状態を保って、今しばらくはこのまま行くだろうと予想していた矢先を、暑さにやられた。まだ涼しいうちに表に出、寝そべっているうちに太陽が高くなり、なかなか帰ってこないと迂闊に思っていたら、そのまま身動きがとれなくなっていた。午後のうちに確かめた位置ではなく、玄関脇の日陰になる位置で最後は寝ていた。最後の力で涼しさをもとめていた。と、単に説明書きをするつもりが、妙に文章を整えだしてしまって、しまいに泣きそうにしているのでこれまで。
▼気分を変えて、こいつの愛称を募集する。


7月21日(土)「劇場を出ても、そこは不思議の町でした」

▼午後から出掛け、新宿で『劇場版 ウルトラマンコスモス』と『千と千尋の神隠し』をはしごする。
▼諸兄諸姉にひとつ注意を促しておきたいのは、『コスモス』が完全なファミリー仕様のタイムテーブルになっていることで、のきなみ午後4時くらいの回で最終回である。これは気をつけなければならない。それと、来場記念だと言われて、紙製の組み立て式「ウルトラマンコスモス・サンバイザー」をプレゼントされてしまう。うかうか並んでいるところを、劇場のお兄さんから手渡しだ。「ありがとう」を忘れずに。
▼飯島監督は好き放題にやっていた。一口に言えばそういうことになる。いきなり卑怯なことに、ナレーションが石坂浩二であって、これは冷静さを失う。(ちなみに劇中には、黒部進、毒蝮三太夫、二瓶正也、桜井浩子、西条康彦(一平君)といったあたりが顔を見せる。)
▼そもそもある程度「ウルトラ」に関する趣味の角度を共有していないと分かってはもらいにくいと思しいが、子供の扱い方など、うれしくなってしまう箇所はいくつかある。「怪獣をやっつけない」という新しいシリーズのかたちを縦糸として模索しつつ、どこか原点であるような場所への回帰も果たす。この「原点への回帰」ってのがおそらく、きっと、そうであると理解されにくいポイントなんだけど、それは例えば「すべり台とシューベルトの子守歌」だ。
▼敵は、土着なのが一匹と、バルタン(造形はかなり「だめ」に傾いている)。これまた卑怯にも「侵略者を撃て」とだぶらせて、「小さなハヤタ」がいた。さらには一瞬だが、ハヤタとバルタンの恋、めいたもの。ラス前に掛かる声援は、「ウルトラマン!バルタンを助けて!」である。
▼劇場版が描くのは同時進行中であるテレビシリーズのひとつ前の時間であるらしく、劇場版の主人公である少年が成長して、テレビシリーズではコスモスに変身する隊員になっているのではないかと、何の資料も確かめずに書いているが、そういうわけでコスモスは、劇中どちらかというと〈外部〉にいる。せっかく外部にいるのだから、最後の戦闘シーンなどいっそ「一撃で片づく」と良かったんじゃないかとも思うが、そうもいかず、だいぶ戦っていた。あるいは「そうもいかない」のも監督の好き放題のせいなのかもしれず、そこらへんは一概には言えないが、一方で、「ファンタジーとしてのミニチュア(そのような戦う場所が今や、いったいどこにあるというのか)」といった意味の断片を、戦闘シーンからは汲み取れなくもない。その他いろいろ。
▼ウルトラマンは依然、かっこわるい。最近の流れを汲んで、2タイプ(ノーマルモードと戦闘モードみたいな感じ)のカラーリングがあるのだが、戦闘の途中、前者から後者に変身する場面があり、ひょっとして「あの赤いやつ」(=初代)が現れるのではないかとわくわくさせられてしまった。その他いろいろ。
▼といった、多分に説明の足りない言葉を継いだあとで、結論として一般の方々に「ご覧あれ」と言えるかといえば、それはちょっと分からない。まあとりあえず、予習としては「侵略者を撃て」(マン)と「地底超特急西へ」(Q)。時間があれば「勇気ある戦い」(セブン)も。(「勇気ある戦い」は逆に、お子様連れの方がお子様に見せてから行くと吉かも、だ。)
▼で、ひきつづき、『千と千尋の神隠し』。
▼行き掛かり上そうなっただけのことだが、1時間半前ぐらいから並ぶ。もっと日が経ってから、15分前ぐらいにすっと入り、そんなに悪くもないという席で観る、というのが出来ればベストかもしれないが、まあ待てないものはしょうがない。
▼宮崎監督もまた、好き放題。
▼具体的に何に似てるかとそんなことを考えれば、他愛もなく『八月の狂詩曲』のアレを浮かべてしまうような、タイトルが出るまでの間(ま)、完璧。オープニング、なぜそれでそんなに盛り上がるのか。あ、しまった、もう物語の内に踏み込んでいたと気づかされる際の畳み掛け方、充分。その他、いろいろ。
▼『もののけ姫』のときがそうであったように、「まったく予想したとおりに」面白く、その意味では特に口をついて出てくる言葉はない。こっちはもう、「ご覧あれ」だよ。
▼見終わって劇場から出れば、9時半を回って10時になんなんとする新宿は歌舞伎町の賑わい。なんのことはない、「不思議の町」が続いていた。


7月20日(金)「うちに来ればいい」

▼新しいやかんは買った。実際に、日記を書いた翌日に買い求めた。実にいいやかん。どうだとばかりにお湯が沸く。見たいという者はうちに来ればいい。
▼レモンを絞らないというのもひとつの見識としてあるのだろうなあと思いつつ、しかしレモンはどうしても絞ってしまう。何か、ひとつ仕事を果たしたような気になるから困ったものだ。
▼とりあえず明日、目白押しであるところの夏の話題作の先陣を切って、私が観に行こうと考えているのが『劇場版 ウルトラマンコスモス』であるということは、やはりこの際述べておかなければならないだろう。みんなは、この劇場用新作が「脚本:千束北男、監督:飯島敏宏」だということを知っていたか? というふうに書いて、マジっすか?と反応してくれる人ばかりではないと思うので説明するが、飯島カントクは「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」に参加(実相寺と同じ、TBSからの出向組)、それぞれ代表作を挙げれば「2020年の挑戦」(ケムール人)、「侵略者を撃て」(バルタン星人)、「セブン暗殺計画」(ガッツ星人)という具合であって、「ウルトラマンらしいウルトラマンを撮らせたら飯島、ウルトラマンらしくないウルトラマンを撮らせたら実相寺」というのがまあ分かりやすいところだけど、この際の「ウルトラマンらしい」というのは、今まさに「ウルトラマンらしさ」というものが確立されようとするときのものだから、別に「ふつうだ」ということを指すのではなくて、よくよく作品を見れば、やはりこのテンションはどうかしている。って何を語り出しているのか俺は。(で、千束北男というのは飯島カントクのペンネーム。)いや、『劇場版コスモス』がまるっきり面白いのかどうかは分からない。分からないけどまあ、インターネット界を代表してまず、俺が見に行く。面白かったら報告します。
▼囓りついたあとの海老フライの尻尾に目をくれて、シマよ、今は幸せでいるかと遠くの丸みを想った。猫はたいがい、幸せか、眠いかだというのに。そうか、眠いのかもしれないぞ。
▼急にデジカメが欲しくなる。


7月14日(土)「新しいやかんを買いたい」

▼とうとう部屋にはクーラーが取り付けられた。快適なのでびっくりする。外よりも部屋の中の方が涼しいというこの事態を、どう説明したら信じてもらえるのか分からないが、クーラーは、あきらかに扇風機の延長線上には存在していない。思うにこの夏、私はたいへんに甘やかされて育つのではないか。「わんぱく」の気配だ。
▼7/6の交換日記、「うちのパンダの話」に誤字があったのを見つけ、修正。「笹を食べろを言うから」ではなく「笹を食べろと言うから」。
▼そんなことを言ったら7/4分、上山君の書いた「袋出しおばさんの話」の、「結局最後はどうしたかったのか分からずまま」はどうなのかという指摘があるかもしれないが、こちらは意味がとおり、音も悪くなく、ちょっとした異化効果も出ているかもしれないと見て原文ママとしたものである。
▼新しいやかんを買いたい。今のではだめだ。全然だめだ。新しいやつ。もっとこう、お湯を沸かす気になるようなって何を言い出すのか。是非もない物欲だが、さっき焼きそばの「UFO」を食べようと、お湯を沸かそうとしたところを襲われた。突然の決心。こうなったら明日、ボーナスはたいて新しいやかんである。「UFO」を食うのはそれからだ。


7月11日(水)「急ピッチ」

▼ボーナスで降ってわいた金持ち。
▼古井由吉『仮往生伝試文』(河出書房新社、1989)。これ、いわゆる美装本てやつで、限定出版でもないのになかなかお目にかかることの少ないものらしいのだが、ネットで見つけたそれは、28,600円もするのだった。あいたたたたた。是非もなく諦めのつく金額でもないところが、あいたたたたた。注文したのだった。だってさあ、と駄々をこねたくなるような目次なのだった。
▼それはそれとして、何だよ、どうしろってんだよという具合に、古井由吉がごそっと西荻窪の古本屋に入荷されていた。この土日あたり、そっくり掴んでレジへ持っていこうかと考えている。いや、読む作業が全然追いついていないのではあるが。
▼ちなみに、古井由吉の著作はほんとの近作と、『杳子』(←芥川賞受賞作)とかの文庫になってるものを除いて、ほとんどが絶版である。なぜだ!と上山君はテーブルを叩いたか。
▼クーラーはいよいよ急ピッチで、この土曜に取り付け作業が行われる予定。
▼交換日記は、つづく。毎日書く方の身にもなってみろと言いたい。


7月9日(月)「網戸がない」

▼まとめて。
▼土曜は吉沼が部屋に来る。
▼5日の日記(この下)に書いたことを指して吉沼が、「交換日記って、等価交換だったの?」と言うので笑った。まったくだね。何も等価であろうとする必要はなかったのだったが。
▼交換日記の最初の1、2回目を見て、実際にどっちを相馬が書いたのか、ちょっと分からなかったとも言う。そんなもんだろうか傍目には。「たぶんまだ勘違いしてる人いると思うよ、絶対」とまで言い切るが、それはそれで結構なことだ。今は交換日記が「What's new」に並んでいるので、「Superman Red」にはじめて来て、いきなりあれを見る人もいるだろうし。
▼ほか、いろいろな話。
▼空飛ぶモンティ・パイソンだが、私のやっているもののほかにいくつか、日本語訳のサイトができているとこれまた吉沼に教わる。そうだったか。知らなかった。なんだ、俺、やらなくていいんじゃん。
▼と思って、吉沼が言っていたのはこれかと思われるサイトに行ってみたが、結果を言えば、何だよ俺のやるべきことは全然残されてるじゃないか、というところ。訳の出来がどうこうではなくて、趣旨の違いというか、そこのサイトの場合、テレビ画面に映る完成品としてのコントを翻訳して提出しようするのが目的らしく、具体的に言うとト書きなどで簡略化がみられる。一方私はというと、とりあえず台本を相手にし、それをあたまっから馬鹿正直に訳す作業をする、というのがつまりやりたいことなので、だからまあ「相馬版」も続行ということだ。いや、だから続行しろよ、という話。
▼日曜にはとうとう、扇風機を引っぱりだす。一年ぶりに見る扇風機は、送り出されてくる風が気怠さの側につくよう思われてならない汚れようで、さすがにラーメン屋並みではないものの、そうか、単にこれがいやで出さなかったのかと気づく。外せる部分を洗い、組み立て直してコンセントにつないだ。なんて大量に涼しいんだ。団扇いらずだなこれは。
▼クーラーだが、ありがたいことに踏ん切りをつけさせられることになるようだ。「相馬の部屋にクーラーがない」という話の流れで、「買いなよ。買ってやるよ。」と言い出した社長が、電気屋に電話をかけはじめてしまったのだった。
▼ところで、ないと言えば網戸がない。いくらぐらいのものなのかあれは。


7月5日(木)「うへっ」

「私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、『私が』どうするとか『私を』こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです」(レヴィ=ストロース『神話と意味』)
「こうした操作は、あらかじめ考えられた計画どおりには運びません。私の仲介で、神話がそれ自体で再構成するからであって、私はただ神話群が通りすぎていく場であろうと努めるだけです」(レヴィ=ストロース『構造主義との対話』)

▼とりあえず身内にご登場を願って、その可能性を探りつつ、何だか楽しそうにそれを行うことで、いつのまにかふらふらと舞台にのぼってくる観客もいるのではないかと、そんな作戦に出ている「多者の交換日記」だったが、そうしたペース設定にはやばやと油断した矢先の、夏目雅男さんだ。
▼会社を終え、それでもここのところでは早めの、12時ごろに帰宅。夕方にすでに届いていた永澤からの交換日記に、自分の書く分を加えてアップし、ニコニコと寝ようと考えての帰宅だったが、自宅のマシンでメールチェックすればさらにもう一通、交換日記が来ているではないか。夏目雅男さんからである
▼説明するまでもない(と是非思いたいところだ)が、全文夏目漱石の小説からの引用で編まれた日記。『草枕』(1、2、8段落)『吾輩は猫である』(3、4、5段落)『二百十日』(6、7段落)。
▼企画というか、意図それ自体ですべてといった見かけで「うへっ」と困惑しかけたが、よく読めば、相当絶妙に「日記」になっている。これと一体どんな日記とを交換すればいいのかと、あわてて書棚に向かい、柴田連三郎とかわけのわからない方向も考えたが、結局内田百聞で手を打つ。四、五冊の文庫本を引っぱり出して4時半ぐらいまで格闘。気がつけば、百聞はけっこう「日記」になりにくい。ちょっと逆説的だが、基本的に「私は」で始まる語りであるせいか。かといってもともと日記であるたぐいの文章をサンプリングしても、それこそ面白くないだろうし。いや、こういう作業は途中からふつうに本を読み始めちゃったりするから困るよ。
▼漱石め、それにしてもなんていい文を書くんだ。あんたが福沢諭吉の1/10だなんてそんな馬鹿な話があるものか。
▼こっちの方はさすがに、「説明するまでもない」とするには気が引け、ついでなので、野暮を書いておく。『短夜』(1段落)、『贋作吾輩は猫である』(2、3、10段落)『件』(4段落)『花火』(5段落)『南山寿』(6、7段落)『青炎抄』(8、9段落)。


7月4日(水)「書いてよー」

▼日記は、交換日記を参照のこと。電車内でのエピソードを書いた。
▼しかしもし、交換日記が上手く運んだとして、そうなると、こっちの「コーナーの日記」の位置付けはどうしたもんだろうか。何食わぬ顔で、今までどおり書くとなると、交換日記も何も、要は管理人が何か書きたくてしょうがないだけだろうと、図星を指されるところだった、あぶないあぶない。
▼交換日記をどう読むべきか、私自身について言えば、本当に今日こんなふうに自分は書いたのだと、そう考えて読むのがまず第一の方法だろう。読者の方にもまずはそのように読んでもらいたいところだ。署名を信じ、相馬が、今日はこんなことを書いていると。何ヶ月か何年か、交換日記が持続したとして、あるいは新たな包括的「相馬称」像が、それら分裂する複数(人)のエクリチュールの関係の中から浮かんでくるかもしれないと考えるのは楽しい。その意味で、「多者(他者)」とはつまり「相馬称」のことでもあるわけだが、それやこれや、他人に書いてもらって実現しようとするのだからまったく虫のいい企画であるな。赤の他人の読者から日記がなかなか来ないのは、あるいはそこらへんの「虫のよさ」を賢く察知されてのことかもしれないが、そこはまあ、友達のふりをして「書いてよー」となれなれしく頼むほかない。
▼入力フォームの「通信欄」に、上山君は「返事(=相馬が書く上山君の日記)は僕のページに載せるのが正しい形なのでは?」と書いてきたが、しかしなあ、それをやると何かふつうだよなあ、と虫のいいことを言うよ俺は。


7月2日(月)「交換日記はつづくのか?」

▼「多者の交換日記」が順調に滑り出せたのは、ひとえに日記を送ってくれた古川さんのおかげであり、まったくありがたい次第。「おそらく日記の投稿(?)が殺到しているのではと思い、素早く送らないと埋もれてしまうぞと、慌ててしたためました」と古川さんは書いてくれているが、今のところ殺到する気配はない。万が一本当に殺到した場合はどうしよう、どういうルールにしようかと不安にならないでもないが、しかしまったく来なければ、それはそれ、手も足も出ない。もしも様子見をしようとしている方があるのであれば、様子見も何も、あなたが書いてくれなければこちらは更新しようがないのだとお願いしておく。この際みんな、一日の終わりに相馬の日記を書くというわけのわからない日課を定めてみてはどうか。
▼送信用のフォームを使うのは面倒だとか、フォームのテキストエリアにせかされて書くのは嫌だとか、そういう場合はメールで送ってくださって結構です。その際は日記の本文と併せて、「日記の日付」と「名前(ハンドルネーム可)」だけ忘れないようにしてください。


7月1日(日)「G4はともかく」

▼G4はともかく、クーラーの方はこの夏、いい加減導入しようじゃないかと引っ越しら辺からこの方あたまに思い描いていたのだが、どうも出鼻をくじかれたのでないかと日々部屋は暑い。空気が流れない。団扇の、なんと吃驚するほど涼しいことか。このうえは頑として、扇風機を引っぱりだすことだけは避けねばならない。このままシャワー上がりの団扇のみですごせば、日々のだらだらはやがて果てしもなくなるが、しかしそこに扇風機が加わるとなると今度はだらだらに取り留めが無くなって、クーラーへとのぼる階段を確実に踏み外しかねない。と、何を書いているのか正体もないのは暑さのせいでなく、クーラーの効いた会社の中で、すでに部屋の内が想像のほかであるためだ。
▼なぜこうも、DVDはハードル低く私の前にあるのだろうか。ジェレミー・ブレットのシャーロック・ホームズや刑事コロンボなど、すっかり買う気でいるかのような気分にさせられて困る間もなく、「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」という見知らぬシリーズ(フランス国営放送によるルパン側の「決定版」らしい。発売元I.V.C.のページを参照)もまた続々リリース中であることを棚に見つけてしまい、返す刀でこれも一本試すべきではないだろうかと、セルビデオ時代には到底あり得なかった行動をとろうとする自分がたしかにそのとき吉祥寺にいたのであって、結局どれも買いはしなかったものの、そうした、どちらかといって禁欲のまさったぶらぶら歩きの末に一冊、中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社)だけこうして手にしていることに目を向ければ、まずはその前に小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書)の方を片付けなければならなかったのだったと思い返されて、本のハードルの低さ(無さ)こそ問題ではないのか。
▼ひさびさ、本当にひさびさの単発ネタを更新した。それと「個人ホームページのために」。どうかひとつ盛り上がってもらいたいところだ。