コーナーの日記

Diary

Title: Superman Red Diary


6月28日(木)「クーラーとG4」

▼風神は袋をもっている。袋に溜めた風を、袋の口を切って出す。風神は人よりも大きいので袋も大きいが、風は勢いよく出るので、五、六秒で出きってしまい、そこでまた風神は風を拾いに行く。熱帯夜に抗するすべをもたない部屋のベッドの上に、ジーパンとメガネのまま横たわると、ひょんなことを考えるもので、「拾いに行く」とは思いもよらぬ風神の姿だ。風神は風そのものを生むのではなかったか。風神が生むのでないとすれば、風はどこで生まれるのか。そしておそらく、風神が風を拾いに行く野原には風が吹いている。
▼クーラーとG4。なんと魅力的なカップリングであることかと、私はまだベッドの上だ。この夏は、そんな買い物をするのだろうか。クーラーがあって、G4があれば、何事か決定的にはかどりそうな予感さえするものの、私はジーパンを脱ぎ、シャワーは明日の朝にしようなどと考えている。
▼雷神? 雷神が?


6月26日(火)「君の霜は取れたか」

▼霜取り終了。最後は力ずくでガコンと氷を取り外したが、そこのところ、ラストスパートの部分にはまた別の厄介さがつきまとうのであって、そうだそうだ、この困難を私は去年学習したのではなかったかと思い出した。どこでどう判断しているのか、あるいは気のせいか、もういいだろうこのへんでという冷蔵庫側の意志が働くように見えて、「霜取りモード」があと一息という固まりを残したところで持続しなくなる。どうもそのようなので力ずくの作戦に移行するしかないが、最後の固まりは、冷凍部分の仕切りの下側と、霜取り用の水受け皿との間に残るのだった。固まりが邪魔して、受け皿はまだなお容易に引っぱり出すことができず、無理をすれば厄介なことになるぞとばかりの満面の水が受け皿いっぱいにタプンタプンしている。手詰まりである。この事態を目の前にして去年の私はどうしたんだったろうかと想いを馳せるが、特にこれといった記憶も取り出せず、さては手もなく無理をして、受け皿の水をこぼして拭いてしていたにちがいない。まさかそのまま冷蔵庫のドアを閉めはしなかっただろうな。(暗転)
▼(明るくなる)うまくいった。今年はうまくいった。いやんなるほどのこぼれようではなかった!(暗転)
▼そしてまたすぐに霜は付き始めるということも、去年学んだとおりである。


6月25日(月)「霜取りの道は半ば」

▼あるいは大変なことになっているのではないかと日中、時々思い出してはドキドキしていたが、深夜に帰ってみてほっと胸をなで下ろしたというのは冷蔵庫の霜取りがうまく運んでいた点である。昨日や今日気がついて驚いたわけではなく、とっくの昔にそうなっていたのを見て見ぬ振りしていたのだが、尋常でない霜。霜というのかこれを。ワンドア冷蔵庫の冷凍部分を隙間なくおおってなお増殖する氷の、その奥底にはアイスノンが眠っているはずだが見ることはできない。もう後には引けず、風邪だけはひけない。
▼今朝になって冷蔵庫の中が何だが濡れていることに気がつき、ああこれは霜が自然に溶けだしているのだと見て取った。そうか、夏が来たのか。って、そんなふうに書けば去年もそうして夏の到来を感じたかのようだが、思い出してみると実際同じことをしていたような記憶があってどうしたものか。さしあたって、冷やす強弱のつまみが「弱」に近い位置にあったのでそれをマックスの「強」にひねってドアを閉めたが、しかしそれではあまりに消耗戦じゃないかと浮かない顔の私だ。
▼霜取りといえばふつう、溶けだした水を付属の平たい受け皿に受けるものだと思うが、時すでに遅く、その受け皿もまた取り込んで霜は固まっている。何だかとても無気力な連想でアレだが、増殖具合というかそういうものがちょっと鉄雄っぽく、すると私は金田かってことにもなるが、しかしこの勝負、腰さえ据えれば私の勝ちなのでそれはちょっとちがう。で、タオルを下に敷き、バケツを中にどんと置いて、霜取りボタンを押して家を出てきた。
▼「個人ホームページのために」というページを作る。あと、順調に運べばだが、モンティの台本和訳ページも更新できるかもしれない。実を言うとデザインのリニューアルはもう出来上がっているのだが、さすがにこれは中身の翻訳がついてこなくっちゃいけないだろうとごそごそやっていて、そうこうすると広川ページの方の掲示板が手薄になっている。困った。
▼「霜取りモード」とでも呼ぶべきものの地道さか、半日強でバケツに溜まった水は3分の1ほど。それを流しに捨て、ふたたびバケツを冷蔵庫に納める。戦いはまだまだ続く。これで半分ぐらいか。霜でなく透明な氷の固まりになったのでアイスノンが見えるが、まだ取り出せない。


6月14日(木)「あんまり狭いじゃないか」

▼モスバーガーのナンドッグ シーザーサラダは、東京限定のおいしさなのだった。今日はこれを、声を大にしたいところだが大にしてどうするのか。そもそも私はそれを食べたのか?(「食べた、食べた」と客席から声。「食べてない」の声も若干ある。)手にしたレシートには店の住所と電話番号につづいて、「東京限定のおいしさです。ナンドック シーザーサラダ」と謳われているのだからそれは間違いないはずだ。(「食べた、食べた」の声。)ポスターに「地域限定」と書かれていたのは見たが、しかし「東京限定」というのはあんまり狭いじゃないか、本当か?という小さな驚きを大きな驚きであるかのようにして、声を大にしてみせるということだっただろうか。(「何が?」の声、女性。)「東京以外は不味い」という意味だったらたいへんなことだが。


6月13日(水)「佐武と市」

▼「佐武と市捕物控」のDVD。1~3話。いやあ、そうっすかあ、くううう。面白い。
▼だけどこうして何日分もまとめ書きしようとするとさすがに息切れて、よくある日記ページだな。
▼第2話のクレジット、制作がスタジオ・ゼロとなっていたが、これはあのスタジオ・ゼロでいいんでしょうか。演出が鈴木伸一となっていたからまあそうなんだろうけど、しかし本当に登場人物のタッチがシーンごとにばらばらなのには笑うというか、うれしくなっちゃうというか。駄目じゃないか、アニメとして。


6月12日(火)「古本が届く」

▼ここのところネット上の古本屋で、あちこちいろいろ注文しているのだが、今日は「STUDIO VOICE」の99年2月号(「小説家の肖像」という特集で古井由吉のインタビューが収められている)と、文庫が一冊、届く。文庫の方は京都にある古本屋から。あっさり届くもんだね。すごい。
▼でその、文庫というのは、アルセーヌ・ルパン『バルカンの火薬庫』(新潮文庫、絶版)。ボワロー=ナルスジャックというチーム作家が本当は書いてるんだけど「アルセーヌ・ルパン」名義で発表された“新ルパン冒険シリーズ”ってやつで、その第2弾。たしか第3弾まで出てて、残りの2冊は中学生時代、リアルタイムで買って読んでいた(モノは実家にある)んだけど、この『バルカンの火薬庫』だけなんとなく買いそびれたまま絶版に至らせていたのだった。惚れ惚れするね、インターネットは。


6月11日(月)「ひきつづきリボ払いの恩恵」

▼リボ払いシリーズはひきつづき、「名探偵ホームズ」(ボックス)。うち、1~3話だけ見る。


6月10日(日)「2001年」

▼夜、『2001年宇宙の旅』をDVDで見る。この映画、眠くなるってところもひっくるめて演出の内にあるのではないかと、何かそんな思いにさせられるのだった。あと、見るたびに猿のシーンが短くなっていく気がするのはなぜか。もう何年も前の暮れのことだが、兄(長男)は「白い映画」と言っていた。それもまったくよく分かる。
▼あとになって知ったが、私がちょうど『2001年』を見ていたそのころ、NHK-BS(現在、私は見れない)では川島雄三の三十回忌特番と映画2本、やっていたらしい。導き出される結論としてはまったく間違っているが、入っちゃおうかなあ、ケーブルテレビ。


6月9日(土)「袋井高校は袋井駅から遠い」

▼「月の教室」の出演者の多くが通う袋井高校では、「緑風祭」という名前の文化祭がこの土日の開催であって、そのなか、社会科教室特設ステージでは演劇部による創作劇「アポロ」の上演があるのだった。
▼それを見てきた。と書けば、「はあ?」ってなもんだろうが、往復に新幹線を使い、本当にただ「アポロ」だけ見てとんぼ返って来たというのは本当の話。舞台とか見に行くと、ほら、入り口で配られるパンフレットだのアンケートだのに挟まって関連する公演のチラシが手元に来るでしょう。あれが、「月の教室」の場合は袋井高校演劇部のチラシだったわけですね。じゃ、それに行こうじゃないかと、そういう変なフットワークというか瞬発力は持ち合わせております、当方。
▼てゆーかー、「月の教室」終演後の客席には何というか、「袋井市ファン」とでも呼んで一番言い当てていそうな漠然としたものができあがるわけですよ。いや、もっと漠然と「ファン」か。
▼「『月の教室』も見たんだけどね、来ちゃったよ東京から」とか、そういう声を掛けるでもなく、本当に何をしてるんだか私はって感じで帰京。新宿でDVDをあさる。日本信販のおぼえよろしいところを満喫、「リボで」の殺し文句(殺されるのは私か?)でけっこうお買い上げ。


6月7日(木)「結局タバコが旨いということを再発見してどうする」

▼禁煙についての報告。
▼2週間ほど吸わなかったのだった。はじめの2日間ほどはさすがに心掛け、軌道に乗せて、あとはすんなりいっていたはずが、あの手この手のニコチン中毒サイドの、どの手にやられたか定かではないが、ふたたび口にしたのであった。
▼きっかけというのは非常に気分の問題であって伝達しようとすれば難しいが、例えばあれだ、「タバコなんか、いつでもやめられるよ」という思いを、吸い始めたその昔に持っていた。あらためてそのように書けば何ともありふれた話だが、よくよく思い出すと、相当自信満々であったように思えてならない。いったい何の根拠があってそんなことを思っていたのだ私は。(あ、いや、当時の自分にあたってるとかそういうことじゃないですよ。そうじゃなくて、思い返すと何だか当時の自分が非常に「たのもしい」のですね、そんなこと考えてて。)
▼まあ、だから、きっかけの説明に入ろうとしたんだけど、やっぱり話は長くなりそうだな。時間がかかる。
▼2週間吸わずにいて、吸えば、そりゃクラックラする。いや、こりゃあカラダに悪いわ、悪い悪い、というたいへんな実感とがっぷりよつに組んで、旨かったのには困ってしまった。どっちかっていうと、味。クラ~っと来てる状態には「やっべえなあー」って思いの方が強いんだけど、味がね。味がするんだ。ってこれまたありふれた話か。
▼ふつうに、何気なく、ふと、ただ単純に、吸わないでいる。憧れたのはそういう状態だ。何だかヒューヒュー言われそうじゃないか、そんなの。しかしいろいろ、失うには惜しい情景や瞬間や物質的要素など、タバコにはまつわるものが多いんじゃないかとか、別にヒューヒューは言われないのではないかといった考えもろもろ、ニコチン中毒である以上ニコチン中毒サイドの手練手管でしかないじゃないかと見据えて、敵は単純にその一点だ、旨いとか実はまずいとか、「吸わないでいる」という身の処し方にはどうでもいいことだというところの境地を求めたのだったが、しっかし旨いんだもんなあ。まいっちゃうよなあ。
▼何だかんだ言うが、2週間吸わないでいるうちにいつのまにかほどけたものもあって、例えば「食後の一服」は、何がなんでも吸うという場面ではなくなった。「食後の一服」は、あれは大したことないね。


6月6日(水)「引っ越してからは夕刊もとっている」

▼買ってしまったというのは『火山に恋して』。スーザン・ソンタグの小説。富山太佳夫訳。みすず書房の新刊。(すごいね、「みすず」とだけ打って変換すると「美鈴」になるが「みすずしょぼう」と打ってからだと「みすず」「書房」となる。ATOKだから、だろうか。それとも知らぬ間に私がそう学習させていただけか。)朝日新聞、日曜日の「読書」面にその書評があって、それで知った。ついでに書けば同じく「読書」面、「いつもそばに本が」というコーナーがあるが、今週(つまりこないだ)のその欄は古井由吉だ。「上」とあるので、次が「下」なのか「中」「下」と続くのかは分からない(覚えていない)が、もうしばらくは古井である。その前は小林信彦が書いていたりして、要は「私の読書体験」といった感じのエッセイ欄なのだが、そうだというのに古井、「来る日も来る日も、本を読まずにすごした時期がある。」と書いてとんと読書をしなかった日々のことをつづる。
▼朝日新聞ついでに、6月4日付の「天声人語」にも注意を促しておく。「歯痛」について書き、これはもうどう考えても担当者、歯が痛かったのだろうなと想像させられるのだが、あるいはひょっとして、そうしたことと関係なく捻り出された文章だとしたらこりゃよっぽどだぞとも思わせ、とにかく「▼」のたびに何というか「天声人語のタガ」みたいなものがはずれていくリズムが面白かった。
▼と、ここまで書くうちにもう、タバコを三本も吸っている。
▼続くのか、何のことはなく飽きるのかは分からないが、タバコをセブンスターからアメリカンスピリットのオーガニックのやつに替えた。全然イメージの湧かない人のために言い添えておけば、別に「軽くした」とかいうわけではない。「タール15mg/ニコチン1.3mg」→「タール12mg/ニコチン1.7mg」であって、タールが少ないということはどうだとか、しかしニコチンが多いということはつまりとか、そこらへんの知識はないが、ないなりにまあ、どっこいどっこいだろう。
▼してみると「禁煙」がどうとか書いていたアレはやはり冗談だったかと思われるかもしれないが、本当をいえば今日はそのあたりの話をつまびらかにしようと思っていたにもかかわらず、ここまでこうして無駄っ話をつないでしまったぞ。