コーナーの日記

Diary

Title: Superman Red Diary


5月16日(木)「行き止まりから、向こう側まで」

赤信号にはばまれた横断歩道のあちらとこちらで、話をする。お互い、どうせ声など届かないと諦めて、自然、身体を使う。向こう側で待つ女性が、畳んだコウモリ傘の先を掴んで高く揚げ、柄のほうを振ってみせていた。ずいぶんと大仰に振る。そんなことをされて、こちら側にいた女性は、しかし恥ずかしいと顔を赤らめる様子もなく、ただ、分からないという表情で、こちらも同様に大きなポーズで首をゆっくりとかしげてみせた。その仕種は通じたとみえて、向こうでは余計さかんに振った。
あれは、「傘だ」と言っているのですよ、とやさしいような口調で女性に囁きそうになったのを、しかし辛くも堪えていた。もうじき青になる、と頭が働いた。

ちょっと待てよ、しかし、ずいぶん長い赤信号だ。とこれはみんなが思い始めたようで、他の、信号を待つ者らがいっせいに、「長い」ということを口に出したがるふうになった。声を立てず、身振りで会話するふたりの女性のルールに、しかし残りの者らも自ずと乗せられて誰も口には出さないでいる、とそう見えた。何人かは身体を揺らしはじめていた。
じれったい、というにはしかし揺らし方はゆっくりで、「長い」ということの、これが自分なりのジェスチャーだと言っているようにも見えた。反対側で待つ者のひとりに、目立って背の高い男性があって、これはかざすようにした手のひらを自身の頭の先で水平に動かす、身長を測る際の動きをしていた。自分の身体の長さを示して、それで「長い」と言っているのだと、しばらくして合点した。それじゃ「高い」だよ、とついにひとりが声を上げて、それで夢が破れた。そういえば、二車線を挟んだ横断歩道としては向こう側の人たちがよく見えた、と覚めてみればいまさらのようなことを思った。信号は結局最後まで赤だったか、とそんなことがすでに思い出せず、カーテンの外の、晴れているのを不思議そうに眺めた。

これで覚えている全部だ、というところまでを思い出して起きあがった。枕元の眼鏡を取り、雑然もきわまったといったふうの部屋を見渡す。インスタントコーヒーの、すでに四分の一ほど減っているのが目に入る。
湯を沸かそうと流しへ向かう足取りから、しかし、うんうんとうなずくこちら側の女性が浮かんで、そんなシーンがあったかと訝りながら、やかんに水を汲むことになった。どうやら向こうの言っていることが分かったらしく、それに応えようというのだろうが、指で身体の前に大きな四角を描きはじめる。女性の、指先だけが大写しに浮かぶのを脳裡になぞって、いやいや、これは見ていないとかぶりを振った。続きを拵えにかかっている、どうせ夢だと知れて、想像も奔放にすぎる…。


5月15日(水)「(休載)」

(本日は休載とさせていただきます)


5月14日(火)「レジから、行き止まりまで」

左手のなかに弛ませて持った名刺を、右手に遊ばせたシャープペンシルのようなもので叩く、叩く、叩く。そうしてエレベーターを待っている。やがてエレベーターが着いて、降りていく、そのなかでもまだ叩いているか。
名刺は自身のものだったろうか、それともそれを頼りにここまで来た、相手のものだったか。一部にマーカーの引かれているように見えて、すると、後者ということになるのか。この住所だ、ここに尋ねていくのだとマーカーを引くというのも、しかし物が名刺であれば少々あてはまらない。仮にどちらかだったと特定して、しかしそこから先どう分析しようというのか、甲斐もない。すぐに行き止まる。

黄色いマーカーだったと、そこまで言葉にすれば他に記憶はない。とりたてて尾を引くような、そんな光景であったはずもない。無理に尾を引かせようとすれば、相手のほうがそれこそ行き止まる、とは埒もないが、エレベーターのなかをどこまでもどこまでも、降りていきはしないか。すでに到着してドアも開いたが、ひとり、まだ降りている。これでは行き止まったに等しい…。

ご足労をかけましたとは、レジの店員も妙な挨拶をしたものだ。いずれ「いらっしゃいませ」という意味だろうが、しかし「ご足労」ということもないじゃないか。本来ならばこちらからお伺いして…、とあらぬ続きを想像して、しかしお伺いして何をする。いったいどこへ伺う。
一軒々々ご訪問して商いをすべきところですがと、そんな恐縮もあったものか。それとも陳列棚から品物を手にとった客の、そのもとへと馳せ参じてお代を頂戴すべきところ、わざわざレジまでお越しいただいてと、レジで出迎えられて言われてはそんな恐縮か。
商売から出た言葉ではない。場所も状況も、お互いの立場もたまたまで、これは個としての店員個人から出た。お互いこうしてここで出会った、その一期一会の縁のどこかに触れて自然ありがたいと感謝した、その言葉が、口から出てみると「ご足労をかけました」とかたちになっていた。口にした自身も驚いた。あるいは、そんなこともないものか…。

待っていたエレベーターが到着して、ドアが開くと、しかし残りの三方を閉ざされた、どこへも進めない狭い空間がある。「行き止まりじゃないか…」と嘆息して引き返す、その背が見えて、じきに小さくなり、遠くかすんだ。


5月13日(月)「上り坂から、レジまで」

はい、と答えたそれが、思ったよりも大きな声になって自分を呆れさせた。「千円からでよろしいですか?」と訊かれたにすぎなかった。はいと答えようと余計に身構えるようになった、その一瞬の遅れにたじろいだ。それで声が大きくなったと、やはりあり得ぬ話でもない。

あの書き込みにレスを付けようと、思いついた文面をぶら提げて掲示板までおもむくと、件の書き込みはすでに投稿者自身の手によって消されている。宙に浮いた恰好になった文面を、しかし新たな投稿として書き込んで、なにも消すことはないじゃないか、たしかに意の汲み取りにくい文章ではあったけれども、と声を掛けて結ぶ。応えて彼が再度、以前に書いた内容をレスとしてその下に書き足すが、「意の汲み取りにくい」と指摘されたことへの意識的な反応と、そもそもの記憶の齟齬とで、それは元の内容のままではない。
となれば事態は面妖で、「レスが先か、書き込みが先か」ということにもなるが、馬鹿を言うな、書き込みが先にきまっている。「ニワトリが先か、タマゴが先か」と同じで、難しい話ではなく、タマゴが先にきまっているじゃないかと、平生の考えを繰り返して、しかしあれは、と疑念を起こした。先であるということを、そちらがオリジナルな、原初の形体であるというような意味で捉えれば、しかしあの動物が、タマゴの姿で進化の営為を行ってきたとは想像しがたい、とあのフレーズは、そういうことを言っていたのか。
「進化」とはまた、気味の悪い。と今度は語句に引きずられた。

比喩的な意味でより多く用いられ、広く一般にイメージの共有されてしまったこの普通名詞はしかし、その陰に常に用意される「退化」とセットになった、思想的背景の色濃い、危険な言葉としてある。文脈の如何に関わらず、「進化」と口に出すとき、同時にそこでは、裏側に寄りそう「退化」の概念もまた語ってしまっていると、そのことへの自覚はあるか…。
君がバッターで、シンカーを打ちたいと思っているなら同じことだ。シンカーの陰には常に、同時に投げられてミットへと向かうタイカーが見えるのであって、それを打てばいい。そう、そのタイミングで、振り抜けばいい。あはははは。塁には出るな。釣りの小銭をもらったら、いよいよ、帰るがいい。ありがとうございましたと、刻々、ねぎらいだけ掛けてやる…。


5月12日(日)「補陀洛から、上り坂まで」

小雨は、いつも小雨と判る程度に。晴れは、いつも晴れと判るほど。
曇りは、とそこで思案しかねて、待ち合わせの場所まで足を速めたと思うが、その実、緩まっていたかも知れないと記憶は呑気なようになる。思い出せば下り坂であるのに、昼間に歩いた上り坂を浮かべている。すでに歩いているときに、そう思い浮かべながら歩いていたかも知れない。さしていた傘を畳んでまた歩く。
実家のある栃木から車で山梨へと戻る、その途中の少し寄り道になるが、永澤が例の夏目漱石作品集・全10巻を直に手渡しに部屋の近くまで来ていた。青梅街道からほんの少し路地を入ったところの駐車場で待ち合わせとそう決まった。

昼間というにはもう夕刻に近い時間だったか、坂を上っていた。いや、復路でも同じところを通っているから下りもしたはずだが、と道理を思っては、いまさら記憶の恣意を嘆息するふうになった。
上り口のところで、上りきったあたりにとめられた自転車に目を留めて疲れていた。歩みはとめなかった。今しがたまでそこにいた、自転車の主の気配が残って、いや、目に留まったのはその気配のほうだったかも知れない。後ろの荷台には葱がささっていて買い物帰りと見えたが、上りきってみれば、葱ではない、菖蒲とアロエだったと知れた。後手に回った記憶が、あれは葱だろうか、葱ではないようだがと見つめて坂を上り始める自身を捉え返した。
まばらに通る車のライトに雨が浮かんで、また傘を開いた…。

小さい活字で2段に組まれていることもあって、本は思っていたほどかさばるものではなかった。うすい、という印象さえ受けた。けれども10巻入った袋を手に提げて歩けばやはり重い。状態はよく、高級というほどの趣味ではないが函入りの、その函の背が少し焼けているだけで、パラフィンに包まれた中身は取り出してみれば真新しい。どうも母の嫁入り道具だったようだ、と永澤は言った。
ハンバーガーショップまでは川沿いを歩いた。まあひと休みして、と誘ったのはそれもそのとおりだが、こちらは腹が減っていた。


5月11日(土)「火男から、補陀洛(ふだらく)まで」

部屋にはサイフォン式のコーヒー器具があるがめっきり使っておらず、もっぱらインスタントコーヒーで、飲むわ飲むわ、よく飲むと、それはついそう決めかかって、しかしそのわりにインスタントコーヒーの減りの遅い。早いような、しかし遅い。湯を沸かすのをたいそうに面倒がる背がまず浮かんで、やかんを火にかければ今度は沸いてもいい加減、その火を止めに行かない、行くものか。なぜあんなに、遠くで沸く…。

「ごいっしょでよろしいですか?」
元よりこちらはひとりであるのに、そうレジで訊かれたのを不思議とも思わず、別々でお願いしますと応えて、チャーハンと餃子、ビール小瓶の1,350円を払い店を出ると、たしかに、あとに続いて勘定をする者の気配がドアの向こうに残って、知らぬ間にいったい誰といっしょだったのかとガラスのドア越しに、まだレジにいるその連れの顔を覗く、その顔が己自身の顔であればそれは劇的だが、果たして顔は見えない。ずいぶんかかるものだ、と立ち尽くした。

補陀洛と自堕落と、どちらをよりそばへ置いたものか。語呂でもってつらまえてきただけのふたつを膝でも抱くように抱え込んで大事そうにする、その背に女が立った。
ひどく遠くにあると思った補陀洛が近くにあって、さも、すぐ身近で待ち構えるかのような自堕落が、実は手も届きそうにない彼方にある、そんなことはないものか。観音のすむという、その宮殿のあるという霊地と聞けば想像のほかだが、いざ探し求めに行こうと部屋のドアを開ければ、親切な人の立っていて、知らなかったろうが、隣の部屋がそうだと教えてくれる。言われてみれば一度も顔を合わしたことがないと、納得するかも知れないとは、また、考えのいつしか他人事めく。ならば、では、自堕落はどこにある…。
交番で聞きなさいよ、と女が言った。興にのって、知らず知らず声に出していたのを聞き咎められた。「インスタントが空になりかけていたから買ってきたけど、でも不思議ね、これ818円て値札が付いてるんだけど、こっちの、前に買ったほうも818円なのね」
 「それの、何が不思議だ? どっちもコンビニで買ったんじゃないか」
 「インスタントコーヒーが具体的に幾らなのかなんて、まったく気にせずレジへ持っていって、買っているのに、でも、お店はちゃんと同じ値段で売るのね、やっぱり」


5月10日(金)「漱石から、火男まで」

いったい何を書いたものか、書き出す前には到底しまいまで辿り着けそうもなく絶望して、しかし一日の終わるころには、なんとか不思議と書き上げた、漕ぎつけたとひと息つく、そんな日記があるものか。今日もこうして書いていたというそれ自体が、日々の報告となる、そうした日記もあるものだとしかしうそぶいた。

うそぶく、という動詞の正確なところの意味を、ずっと知らずにきたくちでね、今も知らずにいる、と言った者があった。これも今日のことではない。辞書を引くのが面倒だというのではないのだが、まあ、面倒なのだろうな。
あれは、本当はうそなのだけれども、うそと知っていて、しかしそのうそに自身もだまされかかるといった具合に知らず平気な顔をして言う、その平気な顔の中に、他ならぬうそが覗く、とか…。「平気の平左」なんて、まさしく詐欺師の名前じゃないか…。
いずれその男なりの冗談のたぐいだろうと、そのときは取り合わなかったと記憶する。いや、取り合ってやることのほうが冗談に対する遇し方として正しいか、とそんなことだけを二、三日して思った、とそんなような。
要はどうしても「嘘吹く」と、そういう連想から抜けられなくてね、しかしあれは「嘯く」と書くだろう、だからまったく独り立つような意味があって、あるにはちがいないが、どうせこっちの解釈でそんな外してもいないだろう、そう思うとね、わざわざ辞書を開く気にもならなくて…、そうか、そう説明すれば理が通る、と最後はひとりごとのようになって慌てさせられた。

「嘯」は、それ一字で「うそふき」と読ませて、これは狂言面のひとつであると辞書にはある。うそぶくように口を突き出した面、と、しかし辞書もすぐに同語反復に陥るのを、嗤うような眺めるような、しまいに平気なような顔で読んでいた。蚊の精・案山子などに用いる。ひょっとこ(火男)面の原形。
ひょっとこは、そうか火男か、とまたあらぬほうに想いが掛かった。すると尖らせたあの口は、火を吹くのか、ふうふうと、風呂でも沸かすような。こうして一日、吹いている、日の終わるころになんとか沸く、とこれもうそぶくような…。

絶望して、とはしかし、不穏当な。そんな言葉を軽々しく使えば、逆に、おのれの身のほうが浮くぞ、とたしかにあの男の声で聞こえた。食わずに風呂に入れば身が浮くぞ、とだいぶ以前に諫められた、そのときの兄の声まで、なぜだか知らず引き寄せた。


5月9日(木)「セブンスターから、漱石まで」

永澤から電話があった、と思い出した。今日のことではない。

こちらのほうは妹夫婦が実家で暮らすことになったといい、それへ向けて自分の部屋だったところの整理を始めているが、要らぬ本の、しかし打ち遣るにはおよばないと声を掛けてくれる者のあるかも知れないところを尋ねて、いや、君に掛けると決めていたわけではないが、いきおい、受話器を取り上げていた、と最後には自然踏み込むような声になった。今、君の部屋の前まで来ている、とそんなことを付け加えかねないぞ、と響いた。
漱石の、旧仮名遣いの、全集なのだけれども、要らないか。「旧文体の…」と、永澤はそういう言葉を使っていた。仮にも全集と銘打つもので、漱石の場合、旧仮名でないというのはある話なのか、とそれは言いそびれた。「岩波の?」と反射的に返してもよかったが、それでは通じないかも知れないと思い直して、「出版社は?」と訊いた。ええとねえ、昭和出版社。昭和41年刊行の、全10巻の…。

以前、その部屋で過ごしていたころに『こゝろ』だけを途中まで読んだというから、むろんそれではあり得ないが、大学生になる直前のころ、岩波の、新しいほうの漱石全集が刊行されはじめて、これは、漱石テクストの完全な洗い直しを行うと謳っていた。可能なものは自筆の原稿まで立ち戻って直接あたる、なければ初出の、新聞掲載時のテクストを参照するというその態度が、自身の対角線上に置いたものこそが古いほうの岩波漱石全集で、内田百間らが編纂にあたったことで知られる旧全集は、漢字のあて方等に顕著な、奔放に書かれた漱石のテクストを、「漱石文法」と呼ばれることになる鋳型を用いて徹底的に「統一」した、たしかにオリジナルテクストとは呼び難い産物ではあったが、しかし新全集は結果的に、それはそれで、反対方向に振れすぎた、これはこれでよろしくない…。
例えば「生のテクスト」とは、それは、いったい何をいうのか。「生のテクスト」が、「何を生のテクストと呼ぶのか」という解釈に支えられずに、自ずとそこに立っているなど、可能なのか。背後にある解釈の存在を覆って無色透明に響く、「直接あたる」というレトリックの、そのグロテスク。どこかの時点で共有され、今になり「生でない」とされたテクストを、しかしそれが共有された時代に読み、その中を生きた読者の、その時間に敬意を払う、必要はないのか。われわれは直筆の原稿に、無限の敬意を払わなければならないのか。漱石の書いたその原稿を、しかし直に消費した読者はかつて、どこにも存在しなかったということにはどう応えればいい。オリジナルとは、いったいどの地平のことか。
自身も新全集に関わったそのゼミの教授は結局、あれを使うような者は漱石研究者ではない、とまで切り捨てていた。酒の席でのことだった。カルチュアル・スタディーズと呼ばれ当時現れた研究の、方法論への懐疑か、あるいは苛立ちが、どこぞに絡んでいたのかも知れない、とそれはいまさら湧いてきた、自信もない勘繰りだが…。

いや、全10巻とはしかし、少なくはないのか、全集ではないな、と漸く勘をはたらかせていた。受話器はすでにおろしていた。迂闊なものだ、作品集と書いてあったよ、しかし、要らないか。旧文体の…と、売りあるくような友人の背が見えた。自分の子供部屋にあって、『こゝろ』の途中までを読みました、難しかったので、放りだしてそのままです、と、そんな売り声もあるまいに、あれでよく…。


5月8日(水)「雨足から、セブンスターまで」

禁煙をこじらせる、ということはある。禁煙など早くやめてしまいたい、といい加減そのように思うものの、喫わないでいることには喫わないでいることの快楽があり、結局ほどけて一服するが、そうすればまた最初の欲が頭をもたげて、繰り返しになる。それでもなかなかに、喫う間隔はだんだんと間遠になっていき、ニコチンの軽く身体から抜けかかるか、あるいはもういったん抜けてしまったようなときに、喫っている。目眩をともなう、そうした喫煙を愉しむために日々手順を踏んでいるような心地になるころには、とうに中毒で喫うわけでもなくなっている身体が、ほら、不味いじゃないかと反応して興ざめすることになる。元のペースに戻すにも、元のペースがどんなものだったか、覚えているかどうか。
心配にはおよばない、とたしかにそう聞こえた。言ったのはしかし、自分のほうだったようだ。知らぬ、太い声だった。どうやら笑いを含んでいた。
心配とは、何の心配か。覚えもない、とさして腹も探らぬうちに平気なような顔をして、だからこそ「心配にはおよばない」のか、とうっちゃるように気を逸らしかけた。それよりも、どこからあんな声が出たものか。いやそれよりも、あれが自分の声だと、どこで気がついたものか…。よくぞ気がついた、と褒めるようなものでもあるまい。
おととい新宿のHMVで買ったCDのひとつは、中村一義の「セブンスター」というシングル盤で、これはもう出会い頭に、目に留めた足取りが買うことを決めていたと思い出すが、考えてみればそれも事実とは異なるような…。買うことにしたのは、常用するタバコの銘柄がセブンスターであるからで、とすれば、かなり近づいてからでなければその名前が「セブンスター」であるとは知るはずもなく、「足取りが買うことを決めていた」もないものだ。では、色か。ジャケットの色に引かれて、引かれるままHMVの中を五、六歩、あるいたか…。元より、その曲名がタバコの銘柄に由来するものなのかを知らない。曲を聴いてみても、その点については不明瞭なままであり、不明瞭なままだとすれば、タバコとは関係ないのかも知れない。タバコの銘柄として知られた「セブンスター」という名前とその表象するイメージを、これは一切引用するものではない、とすれば、しかし「セブンスター」ではおかしい、単に「七つの星」ならば「セブンスターズ」でなければならないぞ、とは道理のような、子供のようなことを言ったものだ。
よくよく見れば水色をした、しかしはじめ灰色と見えたのは「セブンスター」の言葉の響きに視覚が左右されたか、ジャケットの色に引かれるままHMVの中をふたたびあるく、その足取りがやはりはっきりと浮かんで、足に残った。いや、順序がおかしい、その名前を「セブンスター」とはまだ、近づいていないのだから読んではいない、灰色と見えたのはいずれ照明の加減にすぎない、と繰り返すような声になって、CDを手にとった。


5月7日(火)「雨足まで」

ああ雨だったか、と日のはじまりに過去形の感慨もないものだが、起き抜けに雨音の気配で知れて、あれは休みに入る前に見たのだったか、はるか遠くから引き寄せた天気予報欄を目蓋にかぶせて、ならいいのだ、雨ならいいのだ。
ゴールデンウィークはカレンダーどおりに休んだ。どこへ行く、というほどのこともなく、前半に束の間実家に帰ったほかはずっと東京にいた。二番目の兄が、近々引っ越しをする、というか実家に戻るので、その荷造りを手伝ったりした。
ゴールデンウィークに京都へ行ったり静岡へ行ったりしていたのは、あれはそうか、1年前の話か。もっと随分、古い話のように思えるのは1年の間にいろいろなことがあったからではなく、ただそのように、「古い話のように思える」といきおい書いたことに由来するだけの他愛ない気分で、実際はそれほど昔のこととも思っていないばかりか、1年の長さなど、元よりこのぐらいのものなのかもしれない、と今度はそのように書くそばから、しかし…、とまた接続詞を繋ぎかける。「とはいうものの、では駄目か」と、いっそ呑気なことを声に出していた。
引っ越しの荷造りといえばまず本で、兄の部屋にはスチール本棚7本にゆうに余る量の本、雑誌、漫画があり、それに較べればこちらの部屋などまったく少ないほうだが、必要に迫られて要らぬ本の整理などする兄と対照的に、連休中はうっかりすると本を買っていた。買うだけ買って読んでいないかといえばそんなこともない。取っかえ引っかえ読む。時間はかかる。スジャータの…、とそれは別の記憶。
昨日がひどかった。用があったのは秋葉原で、大した用ではなかったが、それでつい、食事をお茶の水の久しく行っていないカレー屋でとろう、それで歩いて電気街まで出ればいいと考えた。そのカレー屋に久しく行っていないということは、何のことはない三省堂書店に行っていないということで、自然足は三省堂まで向くが、あのへんには、本屋がたくさん建っている。カレー屋を通り越し、まず先に三省堂だなと決めた足取りには、不思議と「そうだ、あれを探そう」というリズムが生まれている。なまじ目的の定まった探し物があると余計にいけない。こっちになければあっちと何軒も回って、その間にもそれぞれの本屋で目的とは全然関係のない本を買っている。書泉と東京堂書店でそれぞれ2冊ずつ買い、それだけ買う間にはだいぶ時間も潰れているので、へとへとになってカレー屋に入る。チキン野菜カレーを注文して、ふと、そうだ秋葉原に用があったのだと思い出した。
2月5日の花、「ぼけ」の、花言葉は「平凡、情熱」である。セットのコーヒーに添えられたスジャータのミルクがそれを教える。そしてそれを書く日記が、あなたの目に留まり…。
秋葉原から新宿へ出て、HMVでDVDを1枚と、CDを3枚、紀伊国屋で本をもう1冊、探していたものは、結局吉祥寺の本屋にあった。DVDをもう1枚、吉祥寺でも買って家路についた。

雨ならいいのだ、と布団の中でそれでも繰り返すうちにだんだんと雨足は遠のくようで、それでも雨の日の、気配だけが枕元にはっきり残って、去年の京都もあれは雨の中だったかと偽の記憶まで拵えかかり、あの雨とこの雨と、まるで聞き分けるような心持ちになっているのを、そんな馬鹿なあの日は照っていた、暑かったではないかと諫めた。出掛けなければならない。