コーナーの日記

Diary

Title: Superman Red Diary


4月23日(火)「前ポケット・終章、そして次へ」

はずみで、いじっていた携帯電話をリュックの中に放り込んだ。バイブレーションで報らせるモードのままであるから、むろんこれでは着信に気付かないが、とリュックのジッパーを締めながら思う。といって普段から電話に気付くほうではない。
自分の側から見て左の、ジーパンの前ポケットに押し込めるのが常だが、座って圧迫しすぎるようなときにいけないのか、それとも立った折、なまじ余裕がある場合にいけないのか、ともかくバイブレーションの震えが腿まで伝わらずに、たまに取り出してみて確認しては、いつの間に着信があったのかと思わせられることはしばしばある。その時刻なら、俺も知っている、と液晶に浮かぶ着信履歴を見ている。今これは震えているのだろうかとジーパンの上から手で押さえてもみる。そのようなとき、たいていは震えておらず、電話はかかってきていない。

手のひらに触れて携帯電話がそこに、左の前ポケットに震えずに確かに存在するということが、「かかってきてはいない」という「不在」を示すというのもおかしな捻れじゃないか、と驚嘆しそうになって、まてよ、その携帯電話が今はリュックの中ではないかと慌てて苦笑を浮かべる。思い浮かべる。街を歩いていて携帯電話が前ポケットに入っていないというのは随分本当に久しぶりなことだ。結婚指輪を外したような。それで独身時代に戻ったようだと人の言うような、と比喩の浮かぶにまかせては、だんだんと苦笑が荒々しいようになりかかった。(つづく)

「つづく」ってなんだよ、と予定していた突っ込みをいれようとするものの、でも、日記なんだから、そりゃ、「つづく」だよなあ。

どかっと立て続けに書くかと思うと、どかっとまとめて更新が絶える。まず直すべきは、この極端な更新ペースか。それともタバコをやめるとかそういうことが先か。
「多者の交換日記」の方の日記も2件、いただいているが交換できずにいるというのも書けないからだが、じゃあ上に載せた文章はなんだという話であって、つまり上のやつを交換すれば済んだ話じゃないのか。しまった。


4月15日(月)「セックス・アンド・バイオレンス(あるいは、若々しいネタ)」

イヤーン。

いまさら気がついたが、左側のページ内ナビゲーションの部分[後日註:現在はありません]は日々長くなっていくのであって、こうして毎日書くとなるとその伸び方も並ではないが、そうするとだんだん、その下の「関係のない美術館」と銘打ったスペースが下へと下がって、そろそろ「最新の日記」分のスクロールでは「最新の画像」にまで届かなくなっているのではないか。すると、「画像も追加されているだろうか、とさらに期待してスクロールする行為」というものもあるいはユーザーの間に発生しかねず、そうなればこちらとしても、せっかくスクロールしていただいたのに追加されていないじゃ申し訳ないなといった気分にもなるが、知ったことか。
ちなみに私は、ジーパンの前ポケット、自分の方から見て左に、マナーモードにした携帯電話をつっこむのが常だ。

コノヤロー。


4月14日(日)「寺ではないのだ」

夜まで茨城の実家にいる。主に留守番だが、寺には、なかなかに人が来る。来る者らにその都度、「実はここは寺ではない。寺のように見えたかもしれないが、寺ではないのだ」と告げて、怪訝そうな背中を見送るのを留守番とは言わず、つまり、私はそうしたことをしていたのではないが、「ここに寺があるぞ」と大声を出し、町なかを駆けて回って寺を空けるのももとより留守番ではない。
何を書いてるんだかわけが分からないのだったが、それというのもつまり、古井由吉の『忿翁』にいよいよ手をつけはじめたのだった。ってそんな失礼な話もないけど。
「笑芸人」という雑誌のVol.6(2002年春号)が「ありがとう名人芸 古今亭志ん朝」という特集を組んでいて、それをパラパラ読んでいると、各界から寄せられたコメントの中に古井由吉の名前があって少し驚いた。交流のあった仲というのではなくて、古井の側がファンだったということらしいが、そうすると安直にも思い当たるのは「漱石と三代目・小さん」であったりもするが、まあそんなことはどうでも、その追悼の文章というのがとても「古井由吉」な文章なのだった。しかもかなりぐっと来る文章。


4月13日(土)「Mac ユーザー」

昨日は会社に泊まり、起き出して午前中、荷物をまとめてまず秋葉原へ向かう。身につけているものといえば、(アタッシュケースのようなものに入っているので傍からそれだと特定できるわけでもないが)PowerBook G4 と、(ポケットの内だが、しかしこれは耳へと延びる白いイヤホンであるいはそれと分かり易いかも知れない)iPod で、これはもう、まったくの Mac ユーザーだ。あと、メガネもかけていたが、となると、メガネもまた「Mac ユーザー的」な何かということになるか。むろん、iPod を使い、Mac ユーザーが聴くのは「アキラのツーレロ節」以外にはない。
午後、いったん部屋に戻り、それから茨城の実家へ。
夜、夕立。などと書けば、急に日記らしいのは不思議だよ。


4月12日(金)「泣きたくなる」

というタイトルでスタートする心地はどうか。たまにはそういう路線。センチメンタルだ。今日はセンチメンタルで行く。だからきっと文章もしめりがちにちがいないし、メソメソした物言いがうんざりするほど続くだろう。
ばってん、いったい何が「泣きたくなる」というのか、そこのところすらまだ語られる前だというのに、接続詞に「ばってん」はまずかった。せっかくのセンチメンタルがぶちこわしだよ。

メガネは明日の土曜が引き取り予定だったが、電話してみると「もうできています」という話で、夜、取りに行く。これで無事、「何を買うべき?」というアンケート投票から発生したところの一連の流れがオチを迎えたかに見えるものの、まったくぶちこわしであることに実は iPod も買ったのだったということをそろそろ報告しておきたい。
センチメンタルがそうさせた。センチメンタルってやつはまったく。

で、iPod も今日届いた。10GBの方。これまでとくにその動向をチェックしていたわけではないから、背面の銀色のところにレーザーで好きな文字を入れられるというオプション(プラス 6,000円)があることも Apple Store に行ってはじめて知ったが、そうかあ、そんな急に入れろと言われてもなあ、という感じで、いやまあオプションだから別に入れなくてもいいんだけど、やっぱり入れずに後悔するよりは入れて後悔した方がいいだろうと先輩も言うので、最初は「戦争反対。」とでも入れようかと思ったけどそれはやめて、「バスで帰ろうよ」と入れてもらった。まったく借り物の言葉だけれど。
「先輩」って誰?

というわけでもう30分である。


4月11日(木)「買っていた」

「ここしばらく何も買っていなかった」と昨日書いたが、嘘もいいところだった。PowerBook G4 というとてもでかい買い物をしている。別に忘れるようなことでもないと思うが忘れていた。
まあ、でかい買い物はともかく、本とかCDとか、日々生起するようなショッピングがなかったということだ、と次にはそう反論しかかるものの、「コーナーの日記」を読むかぎり、そんなことも全然ないように読めるのであって、とくに本など、相変わらずばかばか買っているようにしか読めないのはどうしたことか。おかしい。解せない。当人全然そういう感覚ではなかったのだが、今年になってからの日記を読み返してみるに、何だかいろいろ買っていそうな雰囲気であって、たしかにそう読める。そんなことないような気でいたのはいったいどこから湧いた気分だったか。でたらめな話である。

やはり、リニューアルしたからには当分の間、日記もコンスタントに書いて「情熱の持続するさま」といったものを多少は見せないことには、ちょっと人の行動としてどうなのかということになるんじゃないか。というわけで書く。読み返してみて思い出したが、当初のコンセプトは「安易な更新」だった。安易に書く。そして、ああ書くんじゃなかったと後悔する。
例えば書くにあたって時間制限を設けてみる。30分というのはどうか。30分たったら、どういう状態であろうとできたところまででアップしてしまうルールだ。有無を言わさない。あるいは30分たって何も書けていないときもあるかもしれないが(スタートと同時に寝てしまったり等)、それでもそれをアップだ。すると傍目には何も更新されていないように見えるが、実は更新されているといった現象も起きる。

左側の、ページ内ナビゲーションの下の部分[後日註:現在はありません]は、こういうふうに使うということでどうか。とくに意味があるわけでもなく、どこかにリンクが張られているわけでもないが、かといって日記の内容と関係があるわけでもない。気まぐれな、デジカメだのみのスペースで、「題名のない音楽会」に模して言えば「関係のない美術館」だ。


4月10日(水)「相手を喜ばせることができる一切の事柄の総計」

というのが、ミシェル・フーコーによる「愛」の定義だそうで、なぜそんな紹介から始まるのかといえば、なんというかつまり、とてもいい言葉じゃないか。
といってフーコーを読んだわけじゃなくて、これは孫引き。上野千鶴子と小倉千加子の『ザ・フェミニズム』という対談本を読んでいたら、その一番最後に出てきた。
ついこのあいだまで、フェミニズム関係というか、要は上野千鶴子関係なんだけど、基本図書的な部分をちゃんと読もうじゃないかという手始めに『女という快楽』(勁草書房)とか、それから小倉千加子の『セックス神話解体新書』(ちくま文庫)とか、そういったところを買ったりしていたが、結局まだ読めていないのは他にもたくさん本を買いがちだからで、気がつくと古井由吉の新刊(『忿翁(ふんのう)』)など出てしまっている。
それからこないだ買ったのはモフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室)で、これも読まねばならない。読んでいない。

あと、CD。
出ていたことなど全然知らなかったものがやたらあり、それらをまとめてレジへ。
古い方のスネークマンショウが聞きたくなって、『増殖』とか、その辺を買うつもりで出掛けたのだったが、CD屋はそれどころではなかった。雪村いづみの3枚組アンソロジーに、大滝詠一企画・監修の小林旭初期作品集(全4枚で、買ったのは店頭にあった3枚)、それと daisyworld のコンピレーションアルバムなど、いつの間に出ていたのか。
『増殖』はなかった。

メガネはというと、阿佐ヶ谷の東京オプチカルで注文し、次の土曜にできあがってくる予定。引き渡しまでにそれだけかかるということから察せられるように、伊達(+コンタクトといういつもの作戦)ではなく、度付きレンズをいれてもらう。といって、最近のメガネ屋事情というものはもっと、レンズ込みで格安価格の即日渡し、みたいなことになってるんだろうけど、なかなかそういう店を利用するまでにいたらず、いつも阿佐ヶ谷へと足を向けてしまうのはやはり何かだまされているだろうか。これで、東京オプチカルで買うのは4本目。高いよ、東京オプチカルは。そして楽しい。
で、結局のところ、相馬はやたら買い物をしているのではないかということになるが、それは本当の話で、やたら買い物をしているのだったが、考えてみるとここしばらく何も買っていなかった。
CLUBKING から「非戦 T-Shirt」届く。

というわけでデザインを変え、外部リンク多めでお送りしてみたのはご覧のとおり。なお、古い分の日記もこれに準じさせてある。ので、古い日記で、自身のデザインについて言及しているところなど一部つじつまのあわなくなっている箇所があるかと思うが、この際それはそれということで。


4月3日(水)「足らない」

拾い上げ、ふたたび円筒の容器に戻すと、ツマヨウジは、あきらかに少なくなっている。


4月2日(火)「ツマヨウジは散乱する」

こたつで眠り、朝起きると、私の上にツマヨウジが散乱していた。そうか、それであんな夢を見たのかと納得しかかって、あんな夢というのがどんな夢だったか覚えていないことに気づく。としたら?

4月1日を機に気分も一新し、とにかく毎日書く、という当コーナーの性格付けを再度前面に出していこうじゃないかと、意気込んでいたね私は。たいへんな意気込みようであって、いわば再スタートだ。文体も変えていこうじゃん。
けれども、すでにこの項は「4/2」であって、今「2ってこと?」と思った者には「分数じゃないのだ」と言っておくが、何ら文体は変わっていないし、つまり「4/1」分を書き損ねているわけで、意気込みはすでに頓挫している。「4」ということではない。
「じゃん」がいけなかった。「じゃん」では、書きにくい。「4/1」分は「じゃん」の前に敗れ去ったとさえ言えるが、「じゃん」は別に文体ではないし。

「そこのところが聞きたい」に投票していただいた皆様、ありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

なぜ唐突に「桑原茂一」なのかということについて付け足せば、まあ、「media CLUBLKING」というのが桑原茂一さんの主催するサイトなんだけれども、そこで購入することのできる「非戦 T-Shirt」というやつを買ったりした。そのTシャツはまだ届いていないが、別の、偶然検索に引っ掛かってきたレコード屋さんのサイトで「スネークマンショウ21」のCDを注文したりもし、これは今日届いて、聞きながら仕事をしたりしていた。
つまりあれだ、私が今、「ちょっとしたものを買いやすくなっている」というのは本当の話だ。
せんだって父の遺産が口座に振り込まれたのであって、それでちょっと、本なども買ってしまいがちなのだが、やはり、危険なのはTシャツではないか。なんだかネットでよく売っている、ような気がするのはまったく気のせいかもしれないが、夏がひかえていることでもあり、「しなくてもいい、ちょっとした無駄な買い物」と言えば「数千円のTシャツ」でほぼ決まりだろうな。もう、出会いがしらにばしばしクリックし、ばかばか「買い物かご」に入れていくのではないか俺は。
というのは嘘で、本当はそんな景気の良い話なのではなくて、本などで半分使ってしまい、遺産は残り6万3千円だ。大事に使わなければいけない。