September 27th, 1999
目の前のこの野放図
当サイトを古くから御覧の方はまたかとお思いのことだろうし、最近来たような方は何のことだか道に迷ったような気分に違いないが、また、「エッセイコーナー」と名のつくものを別途あつらえてしまった。
あつらえてはしまったのものの、さして深い理由があってのことではない。新機軸を打ち出そうといった気概があるわけでも、勿論ない。新機軸も何もエッセイである、エッセイコーナーなんだから。無い袖は振れない。どう転んでもエッセイ。ポケットからなけなしのエッセイ。
まあ理由を挙げるとすれば、毎度のことで恐縮だが、前のページデザインに飽きた、といったところだろうか。いや最初は、単純に今までの「俺とシーニュ」に新しいエッセイを載せようと、モニタに向かっていたのである。
だが、どうもいけません。だいぶ間をおいたせいか、エッセイそのものよりもHTMLの書き方、タグの置き方みたいなものに意識が行ってしまって、あーでもないこーでもないやっている。いや、別にHTMLを忘れちゃったとかではないんだけど、ただ、あーでもないこーでもないやっている。こうなるともう駄目で、デザインに飽きが来ているのだと見切りをつけ、イチから作るのが早道である。
デザインなどどうでもいいではないか、エッセイコーナーなんだからエッセイで勝負すりゃいいではないか、というのはもっともなところだし、のぞむところでもあるのだが、とはいえ、何というかその、そういう物言いが指すところの「デザイン」とは、「デザイン」のニュアンスがちょっと違うんですよ、という反論もしたいところではある。
私があーでもないこーでもないやっていたのは、つまり活字メディアで言うと「製版」とか、そういう段階の話なのではなくて、もっと手前の、「原稿用紙を用意する」みたいな行為なんである、気分的には。まず原稿用紙がないとナーンモ書けない、みたいな当たり前な事態が「あーでもないこーでもない」の正体なのであり、だから、いわゆる凝ったデザインとか、きれいなデザインとかが問題ではないのだ。
何となく、そのあたりから「個人ホームページというメディアの持つ特質」なり、「HTMLをめぐるレトリックとウェブマスターの態度」なりの話に接続できそうな気配ではあるが、それはまた次の機会ってことにしてくれないか、って誰に言ってる。
まあ、それらこれら、煎じつめてしまえば「形式と内容は不可分」みたいな話なのかも知れない。
ところで今さら何なのだが、前の、「俺とシーニュ」のデザインはよくできていた気がする。フレームとJava Scriptで、それ以前のエッセイコーナーとかも呼び出される仕組みで、便利だったように思う。
それをやめてなぜこれか。
よく分からないのだが、とにかく今の私にはこの「原稿用紙」らしいのだ。おかげでエッセイコーナー、四つ目。といっても、四つそれぞれ別々に連載を続ける、みたいな話ではないので、それほど紛らわしくもないのかも知れないが、しかし四つはなぁ、といった気分にもなるんである。四つはなぁ。少し落ち着いてみちゃどうか、俺。
まあ、外枠というか、デザイン部分だけを変え、過去のエッセイもそれに統一して一個のコーナーにまとめるという手も無いではないが、単純に作業は面倒くさいし、「前はこういうHTMLを書いていた」というのが何というか「歴史」として成立してしまうといった部分もあって、それはやらない(註:「やらない」と書いてますが現在はやってます)。そうして、またひとつHTMLが増えていくのだ。
何と言ったらいいのか、そんな感じのことを考えていたら、急に「インターネットは野放図だ」という思いにとらわれてしまった。いや別に、「はびこるネット犯罪」だの「飛びかうポルノ画像」だの、そういった「インターネット無法地帯」的なことを言いたいのではない。そうではなく、もっとこう「のほーず」という音にそって、筆者は物言ってるんだと思っていただきたい。つまりこういうことだ。
インターネット、見渡すかぎりHTMLなんである。
気がついたらとてつもなく野放図なところに立たされていた気分だ。地平線の向こうまでずーっとHTML。見渡すかぎりの一面のHTML。黄色いかも知れないな。
何を言ってるんだか自分でもよく分からなくなってきたので、今回はここまでである。まとまりのあるような無いような話で失敬したが、新しいエッセイコーナーを作ったというそのこと自体からエッセイのネタ一本ひねりだすあたり、俺もやるもんだと思うことにしたい。