足熱図鑑

エッセイ

クダラナイ話

説明すると、このあいだ、「週刊小説」という雑誌に短いコラムを書くという仕事をしたのであった。「そちらでいい方を選んでください」というかたちで、二つ書いて、向こうに渡したのであった。選ばれた方は、先日発売された「12月10・24日合併号」に載っているので実物で確認してもらうとして、もう一個の方を、勿体ないのでここに載せようという次第なのだった。で、以下が、その「クダラナイ話」である。

 二千円札だそうだ。どうも、できるらしい。
 何というか世間の反応というか、そういうものもひっくるめて聞き流してしまっていたところもあって、確かなことは分からないが、二千円札発行という事態に対するツッコミのようなものは、きっとあらかた出てしまっているんだろうと思う。まあ、ボケがボケだけに、「何でやねん」的な、根源的なツッコミが一番無難なところだし、それ以上踏み込んで、あーだこーだツッコむのが何だかハズラカシイ気分にさせられるのも事実だ。
 実際そうした言説があったのかどうか、前述したように確かなことは分からないのだが、容易に思いつく世間的なツッコミのひとつには次のようなものがあるだろう。
 「そんなクダラナイ発想して浮かれてるの、日本だけだよ」
 別に首肯いても構わないのだが、この物言いがどこか何も言っていない感じがするのは、そもそもそのクダラナさを支えているのが、「日本語のシャレである」という点だからだ。「二〇〇〇年だから二〇〇〇円札」というこの発想に関して、うっかりすると人は、「二〇〇〇」と「二〇〇〇」が掛かっていると捉えてしまうかも知れないが、そうではなく、「年」と「円」が掛かっているのである。そりゃ「国際的に通用しない」としても無理はない。かといって、サイズを一万円札と千円札の中間にして、「それはミディアム。そうじゃなくてミレニアム」とかツッコまれればいいのかというと、そういうもんでもないが。
 しかしこうしてシャレの中味を検討してみて、あらためて気づかされるのは、「浮かれている」ということだ。そんな『ビックリハウス』的なシャレ言ってていいのか、二〇〇〇年だぞ来年は。って、「二〇〇〇年だから浮かれる」というのももうひとつよく分からないのだが。どうしてそう浮かれるかなあ、二〇〇〇年。「こないだの二〇〇〇年はよかった」とか、そういう記憶でもあるのか、みんなには。これがまあ、「来年は一九八三年が来ます」とか言われれば、そりゃ浮かれたくもなるってもんだが。

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