足熱図鑑

エッセイ

コーヒー一杯、横光利一

 ちょっと思いをめぐらしてみて異議を唱えたくなる事態のひとつに、「夏目漱石が千円で、福沢諭吉が一万円」というものがある。逆ではないのか、と思うのである。
 まあ、漱石には、どこでどう間違ったか「身近な国民作家」というイメージが出来上がってもいるので、そうしたイメージからすると「千円」というあたりが馴染みがあって手頃なのではないか、といった判断があったのかも知れないし、また、「じゃあ漱石はいくらなんだ?」と言われればそれはそれで答えに窮するのだが、しかし単純に、夏目漱石、福沢諭吉、一万円、千円、とだけ紙に書いてあって「線で結べ」と言われたら、漱石と一万円を、福沢と千円を、個人的には結びたくなるところではある。
 で、話は急に飛躍するようでまったく申し訳ないが、そうした個人の価値判断による、貨幣制度への「文学」の導入、いわば「文学至上主義経済」といったようなものを思いついたのでお知らせしたい。
 どういうことかと言えばつまり、夏目漱石だの森鴎外だの、島崎藤村だの横光利一だののお札が出回るんである。で、それがいくらなのかは決まってない。使う人それぞれの文学観によって、相対的に、藤村10枚で漱石1枚、とか決めてもらうのである。
 このシステムを施行するにあたり、問題は、文学観は人それぞれだということだ。細かいのがないから大きいの出してお釣りをもらおうと思い、「漱石」を出したところが「足らない」と言われるかも知れないし、また商店によっては「宮本輝」でもって「芥川」あたりがお釣りで返ってくるかも知れない。『大菩薩峠』を書いたからといって「中里介山」が「大きい札」かというと、そういうことでもないらしい。まあ流通、一気に立ちゆかなくなるんであるが、レジをはさんでは熱い文学談義が交わされることだろう。
 やがては国際市場もこれを導入である。南米各国が急成長をみせ、ロシア経済一気に立ち直ったりする。ウォール街の金融アナリストたちは、市場の動向をさぐるため月イチで読書会である。月イチでいいのか。

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