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2003/02/05 Issue


いわゆる「第三芸術」運動(その名称は桑原武夫の「第二芸術論」を想起させるもので、なかば自虐的に響くわけだが)は、昭和45年、「ホトトギス」の同人であった前原吉二郎によって提唱され、翌年、「ホトトギス」をはなれた前原によって雑誌「高浜」の発刊をみたものの、その年の暮れには自然消滅するに至った。
俳諧連歌の発句が独立して「五・七・五」というごく短い形式を手にした「俳句」に対し、前原は「まだスピードがたりない」と主張、さらに頭の「五」のみを取り出して、それが「第三芸術」という新たな形式であるとしたのだった。
「『古池や』とそこで切って、われわれは毅然としていればいいのだ」(前原)
「第三芸術」には困難がともなった。それは「述べられることがほんとうに限られる」ということであり、例えば、「どうしても『ただの名詞』になってしまうのを避けるため、五文字以上の言葉を扱えない」といった問題や、あるいは「手応えがない」といった問題が同人からは指摘された。
そうした困難のなかから前原自身が紡ぎ出した句には、例えば、
「月に会い」
「鐘や誰」
があり、同人たちは「おー」などと言ったものだったが、運動はほどなく行き詰まりをみせる。「五文字じゃ言いたいことが言えなかった」(前原)の言葉を残して会は解散、前原ら主だったメンバーの多くはその後、小説家に転身した。
