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2003/11/30 Issue
私はこの10月、宮沢章夫さんのテキスト・リーディング・ワークショップに参加していたが、そこで取り上げられた戯曲のひとつが別役さんの『マッチ売りの少女』だったということを、別の戯曲セミナーでお会いする機会があって話した(別役さんが講師のひとりで、私は生徒)のだったが、すると別役さんは「へえ、あの人いま京都じゃないの?」と言い、「いまはこっちにいるみたいですよ」と説明すると、「ああそうですか、よろしく言っといてください」と足早に去っていったのだった。

はて、バス停では本が読めただろうかとそれがわからなくなった。読んではいけないとか、よろしいとかの話ではなくて、あそこは夜、明るかっただろうかということである。それが思い出せず、まあこの都市だ、まっくらなバス停というのもどうにも像が結ばないじゃないかと考えながら、しかし、夜に浮かんで明るいバス停というのもどこか、そんなにまでしてという気にさせられる、ため息をつかされそうだと文庫をしまった。

「いまそこにある電話」は鳴っていた。いままさに鳴っているのだった。写真を撮っている場合だろうか。誰かから掛かってきている。出るべきではないのか。

「キチジョージでスパーク中?こっちはようやと客先撤収。これから会社にもどってひとふんばりします。」
なんと前回の更新は3月なのだった。気づけばもう12月も近い。その間、私はいろいろしていた。

→句会(合評)の模様はこちら。
と、いきなり上山君の話をはじめたところで、上山君など知らないという人もあるだろうし、いや上山君なら知っているという人もいれば、私が上山ですという人もいて、さらには「林なら知ってるけど」と言い出すやつなどほっておけばいいが、そうではなく、いま私がしたいのはおめでたい話だ。おめでとう、上山君。お祝いは何がいい? 誕生日はいつにする?
「ありのまま」を描くと言われた明治・大正期の自然主義が、むろん「ありのまま」ではなかったことは言うまでもなく、またたとえばある小説においては「かぎりなく執筆する現在時に近づいていく」といったメタレベルな要素を引き寄せてしまうという面白みの可能性を抱えていたことなど、いろいろ指摘すべき点はあるものの、しかしそれらがまとめて括弧付きの「ありのまま」として受容されたのはまちがいなく、だとすれば、そこでは「ありのまま」はおそらく魅力的だったのだ。そしていま、その(依然括弧付きの)「ありのまま」が魅力をもつメディアとしての「個人ホームページ」があるのではないかと、いま1ページ作り終えつつ思っているのだった。
■ほんとうにひさしぶりの更新。だいぶ多くのリピーターを失ったのではないかとその自業自得を思うが、それで思い出すのは「はてなアンテナ」というやつで、あれを利用したページからのアクセスがうちにもままあるわけですが、そうか、あれだと不定期にひどく間隔があくようなサイトでも更新のあったことに気づきやすいのだな、と妙にありがたい気持ちになってしまった■「今週の高菜社」に使った句とその合評の模様は、前回のあとがきで予告していた第2回の句会(前回の更新からまもない3月22日に開催)のもので、どうにも時間は経ってしまっているものの、せっかくなのでストック的に使わせていただいた■また、これも前回の更新からまもなく、「今週の2冊もっている文庫本」シリーズの流れになるわけですけど、高菜社の同人でもある友人の吉沼からやけに読み古したような『三四郎』の文庫本が1冊、予告もなしに郵送されてきた。ま、笑ったわけですが、これはさすがにこれだけ間があいてしまい、流れも何もなくなってしまったので使わず。送った甲斐もなく申し訳ない。というか、送ってくるなよそんなものを■だから更新できなかったというわけでもないが、引っ越しをしたりもしていた■で、引っ越し後、NTTのBフレッツを導入。「BフレッツはWindowsXPではやけに速い」(「富士日記」2003年6月23日分を参照)といった話もあり、それはちょっと思い当たる節もあったりするが、とりあえず Mac OS X で使用しているわが家では、まあこんなものなんでしょうという速さ(15~25Mbps)である■などとだらだら書いている場合ではないな■ではまた■