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2014/4/28(月) 池袋演芸場、あるいは「茶の湯」のこと

  • Posted by: SOMA Hitoshi
  • May 2, 2014 8:16 AM
  • rakugo

 志ん好の披露目、八日目。母と。

〔昼の部〕

子褒め 古今亭きょう介

真田小僧 古今亭志ん吉

たらちね 古今亭志ん陽

幇間腹 古今亭志ん丸

奇術 松旭斉美智・美登

出来心 古今亭志ん橋

長短 柳家さん喬

漫才 ロケット団

親子酒 柳家小さん

〈仲入り〉

口上 下手より圓丈=司会、小さん、志ん好、志ん橋、市馬

三味線漫談 三遊亭小円歌

狸賽 柳亭市馬

代書屋 柳家権太楼

シンデレラ伝説 三遊亭圓丈

紙切り 林家正楽 若駒=鋏試し、内村航平選手の鯉のぼり、若武者、真打披露、日本地図

茶の湯 古今亭志ん好

 代演なし。アタマから。前半はみごとに古今亭でかためて、実質、志ん橋一門会の様相(出てないのは志ん八だけだ。出りゃよかったのに(笑))。とりわけ志ん陽がよかった。わたしにとっての今日イチは志ん陽だったかもしれない。志ん吉も好印象。

 圓丈、「何だか毎日来ているというような、披露目の通というような方がいらっしゃいまして、もう何のネタ演ったらいいかわかんなくなるんですけども」とマクラで振るわりに、入ったネタはおなじみの「シンデレラ伝説」。で、「縄のれんちゃん」(赤ずきんちゃんのもじり)のところが今日は「珠のれんちゃん」だった。新味はそこかい、と笑う。

 「茶の湯」。志ん好で聞くのは二度目。一度目は昨年 5/29の「落語しんこうどう」(独演の勉強会)でだが、そのときとけっこう作りというか、演出の要諦というかがちがっているような印象を受けた。

 ところで「茶の湯」といえばわたしは一昨年 3/28の落語研究会で小三治のそれを聞いていて、だから基本的な噺の理解はそれに依っている。その小三治の高座に接した興奮を記したツイートがこちら。

@soma1104: いまさらでナンですけれど、3月28日の落語研究会の小三治、茶の湯、よかった。完成度ってな言い方をするなら「そんなに高いほうじゃない」とも言えたが、そういう問題ではなかった。ことに長屋の人物たちが登場し、茶の湯の「世界」が広がって以降は、噺そのものの良さ、闊達さだけがそこにあった。

2012年4月15日 11:34

@soma1104: また例の調子で「小三治やばい」を繰り返す石原君には帰り道、「ご常連」の方々が辺りにいなくなってからだが、「これなんだよ柳家って」というような恥ずかしいことも言ってしまった。あと、「茶の湯、〈いい話〉だよね」ってのも石原君とうなずきあった。

2012年4月15日 11:36

 この「茶の湯、〈いい話〉だよね」というところに最終的にはつながるのだが、この噺のむずかしさというか、要諦のひとつは、ご隠居と小僧の定吉とがそれぞれどれだけ自分たちの「茶の湯」を信じているか(信じている設定にするか)という点なのだと思う。理屈でいけば、もっとも信じていない──でたらめだということを知っていておかしくない──のはご隠居なのだし、定吉もまた、自分たち以外に被害者を出そうとご隠居をそそのかすあたりでは〈信じていない側〉にまわるような顔を見せがちになる。しかし、それでもなお彼らは──というか、この噺の登場人物たちは最後のお百姓も含めて全員が──あくまでもこの「茶の湯」を信じていなければならないのだとわたしは思う。
 ご隠居は、厳密には「これで合っているか自信がない」のであってまったく信じていないのではないし、なるべく多くを巻き添えにしようとする定吉もまた、自分はもうそれを飲みたくないし、茶の湯の客になると腹を下すというこの状況を面白がってもいるが、それが茶の湯なのだということ──あるいは少なくとも、こうした流儀があるのだということ──自体は受け入れているように見える(でなければ、最初に「客として若旦那を呼ぼう」という提案はしていないと思われる)。「なーんだ、また茶の湯か」というサゲの言葉を発するお百姓は一般に〈上流志向型スノビズムの対極にある存在〉として説明されるが、しかしそこでは、彼自身に風刺や皮肉の意図はないということこそがポイントなのであり、物語の〈外部〉にいる彼のなかにも、得体の知れない脂ぎった饅頭のようなものを厠の窓から外に投げることとイコールな「茶の湯」はきちんと存在していないといけない。
 もうひとり、お百姓と同じくらいに〈外部〉にいていいのが「拳固持参」の鳶の頭だけれど、彼を含めた長屋連中のドタバタは、これはたんに「またべつの次元のバカ」(笑)である。

 そうして全員が「茶の湯」を信じたそのとき、利休饅頭の描く放物線の長さだけの〈宇宙〉は完成するように思え、人間の愚かさをめぐるある普遍性が語られるようにみえてそのじつこのうえない(その瞬間、その場所にしか出現しえなかったろう)単独性が語られるというこの「落語」も完成する。「茶の湯」がいい話だというのは、たぶんそういうことだ。──比して、ご隠居や定吉を〈信じていない者〉にしてしまうのは、いわば「一般性特殊性」の軸で笑わせるということになって、それはちょっと、面白くないのである。

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