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「ポストゼロ年代演劇の新潮流① チェルフィッチュと身体」全メモ

  • Posted by: SOMA Hitoshi
  • June 1, 2018 5:45 PM
  • culture

 「テラヤマシュージ・リローデッド!」につづく全メモ・シリーズ第二弾。今回は宮沢(章夫)さんの、

@aki_u_ench: これはいま、絶対に聞いておくべき話になると思う。ゼロ年代以降の演劇だけではなく、社会そのものが(本人らの意識とはべつに)語られる予感がする。僕は行けないので是非だれかレポートを。https://twitter.com/simokitazawa/status/993652204044103680?s=21

2018年5月9日 6:29

というこのツイートが念頭にあり、そこそこメモをとったので記事としてお届けする次第。いや、もっと親切ですぐれたレポートとか、連投ツイートとかがとっくにあるんじゃないかと想像されるが、その一バージョンとして、いちおう。
 催しは中西理さんの「ポストゼロ年代演劇の新潮流① チェルフィッチュと身体 ゲスト山縣太一」というもの。中西さんの趣旨は趣旨として、かたやゲスト・山縣太一君の「お客さん、これいま楽しいです?」という、強迫観念にも似たそのサービス精神(?)によってさっそく進行は脱臼され、かつ、これも山縣太一がそういう空気を作り出したということか能動的に手を挙げて発言・質問するお客さんが引きを切らず、開始早々からほぼずっと、お客さんの質問やコメントを受けて、ステージ中央にずっと立ちっぱなしの太一君がそれに応えるというスタイルで進行した。

 というわけで以下、基本的に太一君の発言を箇条書きにしたものをお届けしますが、あくまで「全メモ」(わたしがメモをとったことの全て)であって「全発言」ではありませんし、発言の内容や趣旨を取り違えて要約・肉付けしている可能性も充分にあります。意味が通りやすいよう再構成している部分もあって当夜のトークの時系列どおりではなくなっているいっぽうで、忘れてしまったところや肉付けが面倒な箇所についてはメモ書きの状態のままただ羅列しています。あくまでそういう性質のものだとご理解のうえ、お読みいただければさいわいです。
 では。

  • 行った学校が〈演劇が盛ん〉だったりして、演劇には触れる機会がたくさんある環境だった。けど、暗いなー、つまんないなーという感想しかもてなかった。いっぽうで舞台表現は好きだった。演劇だけなんでこんなにつまんないんだろうと思ってた。親に誘われて一緒に舞台をやったらそれが楽しかった。
  • 演劇をやりはじめたころに衝撃だったのは、先輩の俳優たちが自分のやっていることを言葉で説明できないということだった。「なぜそうやっているのか」「どういうふうにやっているのか」と俳優に訊いても誰も説明できない。これはやばいぞ、と危機感をもった。自分で方法論を作って説明できるようにしないと、と。
  • その〈説明〉ができないから、「うまい俳優」というのも恣意的に、つまらないかたちでしか定義されない。
  • チェルフィッチュには 2001年から参加。〈青年団じゃないこと〉をやろう、という意識はみんなわりとあったと思う。
  • 演劇における対話のシーンでは、向かい合った Aと Bがいるとして、A→ B、 A← Bというふうにお互いがお互いへ向けてセリフを発することが一般的だけれども、ぼくが Aだとして、ときには意識が自分の背中の方向にあったり、必ずしも矢印が Bに向いていないセリフが発せられてもいいはずで、それって日常的なコミュニケーションではごくふつうに起こっているはずのことだと思う。ぼくは舞台上で、こっち(背中方向)の矢印を作りたい。
  • ちょっと過剰なんだけど、ナチュラルに見えなくもない、という感じ。
  • 日常の身体はとても無自覚なものだが、それを自覚的に舞台に乗せようとしたらハードワークが必要になる。そのためのノウハウを、ぼくはまずダンサーの手塚夏子さんからたくさん教わった。
  • たとえば今日、ぼくは自分の肛門を意識するようにしながらここに立っている。それも方法のひとつ。ぼくがいま肛門を意識していることはお客さんには伝わらない(し、伝わらなくていい)が、ぼくの発話や動作にはその意識が作用している。何かそうした作用の影響下でないと、とても舞台には立っていられない、とでも言えばいいか。
  • (岡田利規さんについて、いろいろ言葉を選んだ挙げ句)「うん。いいセンスしてると思う」(笑)
  • チェルフィッチュもぼくも動きに即興の要素は 1%もない。即興はきらい。即興ってけっきょくそいつの十八番を出してくることになるでしょ? それがつまらないし、お客さんに失礼。
  • チェルフィッチュの稽古場ではその日あったこととかをみんなで話して、そこから出てきた動きを取り入れたりもしていたが、そういう動きって賞味期限が短かったりする。
  • セリフに抗える身体が必要。セリフから身体を離す。簡単な〈振り〉だと離れない。
  • 整合性は観客に委ねる。
  • とはいえ、演劇が言葉を内包しているということは大事。
  • 演出家としての山縣太一、脚本家としての山縣太一、俳優としての山縣太一のあいだに乖離はない。それらはシームレスにつながっている。
  • 俳優がもっと作るべきだし、書くべき。台本を渡されたら、その別バージョン(自分バージョン)を丸々もう一本書くくらいのつもりで。ぼくはじっさい書いてた。
  • 俳優よ、もっと作品に関わっていけ。演じるその前に。
  • ストーリーは全然興味ない。意味にも興味ないかもしれない。
  • (演出家として俳優に接するときの姿勢の話になり)いやあ、言えないなあ。俳優のその夜を台なしにするようなひとことは……。そこは言葉に洋服を着せたい。
  • 「俳優の取り分」。「おれの作品」。
  • セリフ言ってる人だけが目立つ舞台にはしたくないというのが、美意識としてある。
  • チェルフィッチュではベース担当、ドラム担当だと勝手に意識してた。
  • 針の穴に糸を通すようなことはしたくない。「セリフは一音も外さず言え」みたいなことを言う演出家がいるが、それじゃだめ。自分のコンディションに嘘をつくなというか、いまのコンディションをベストコンディションなんだと思ってやる必要がある。
  • 居合わせた観客のなかにたったひとり、ひょっとしたらわかってくれる人がいるかもしれないという可能性に賭けてやってるようなものだけど、それでも(百人いれば)百人に伝わるやり方を考えたい。
  • とにかく面白くて、充満していて、何かを伝えようとしているというその感じが舞台上にあればいい。
  • 自分の作品で〈軽さ〉は意識してる。でもそれは、現実と拮抗してる〈軽さ〉じゃないと。
  • (俳優と観客の相互作用の話になり、「でも、大きな劇場で客席も暗く顔が見えないという場合には?」という質問に)でも、「いるな」ってのはわかるし、たとえ見えなくても、見ようとしてチャレンジはできるでしょ、ってこと。いちばんだめなのは「見えてるテイ」でやっちゃうこと。
  • 俳優は台本を読んでるから、つまり「最後までわかってる」。最後までわかってる身体というのは本来的に面白い。
  • チェルフィッチュが売れて海外に呼ばれてたくさんやったんだけど、そうすると「字幕付き」なわけ。お客さんは俳優の発する日本語のセリフを理解できないから、たいていは先に字幕のほうを見て、文脈を理解してから視線を俳優に移すってことが起きる。そうすると、この言葉にたいしてこの動きをぶつけたいってことがやってる側にはあるわけだけど、そのタイミングにズレが生じるのね。本来のその言葉をしゃべってる瞬間じゃなくて(その瞬間は字幕に視線が行っている)、ちょっと時間差があって、その言葉を字幕で読んだ観客の視線がこっちに戻ってきた瞬間に、ドン、っていう。海外公演を多く経験して、幸か不幸か、それが技術的にできるようになっちゃった。で、そのときに、ひょっとして演劇の可能性ってここ(言葉と動きの両方を扱いつつ、ひとりの身体のなかでそれを分離できること)かな、と。
  • 誰も見たことのない、でもきっと、ふだんはそこらへんで起きてるだろうことをぼくはやりたい。

 以上。

@sakuraikeisuke: きのうはSCOOL で山縣太一をゲストに迎えた中西理セミネール。山縣太一の俳優論・演技論・演劇論を身をもって提示、つまり山縣太一じしんの文字通り「パフォーマンス」として「上演」された。 https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/1001689543148474371/photo/1

2018年5月30日 13:59

@sakuraikeisuke: 「レクチャーパフォーマンス」であり、「観客参加型パフォーマンス」。

2018年5月30日 14:04

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