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Oct.
2007
Yellow

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/ 2 Oct. 2007 (Tue.) 「ポリュネイケス再考」

まあいずれ飽きるのだろうとは思うけれど、それまで、書くことの思い浮かぶうちは浮かぶにまかせ、『ニュータウン入口』についてまだ考えてみようと思う。いま、私のなかにある問いはこうしたものだ。ポリュネイケスはどこへ行ったのか、あるいは、そこにいるのか。

洋一
はあ……、(腰を降ろそうとしたが)あれ、もう一人、いませんでした?
加奈子
なに?
洋一
もう一人……、鈴木さん……でしたっけ?
和子
誰?
洋一
いなかったか? ほら、女の人。

皆、顔を見合わせた。

『ニュータウン入口』/25場「聖家族」

根本洋一のセリフがふとわれわれに気づかせるように、登場人物が勢揃いしたかのようなラストシーンに、しかし、姿のない者らがいる。洋一がかろうじて指摘するポリュネイケス、直前の場面で白い衣装をまとい、あたかもポリュネイケスの分身であるかのようにふるまっていたイスメネとオブシディアン(黒曜石だった彼女はしかしもう黒くない!)、ポリュネイケスをふたたびその手に取り戻すため、ついに劇の外(映画)へと踏み出し、歩き出したアンティゴネ、──そして鳩男である。
鳩男もまた劇の外へと追いやられるが、彼はしかしそのことによって救われた。鳩男を追いやったのは「日本ダンス普及会」であるかのように見えて、池(〈鳩が泳いだ〉のではなく、〈鳩が泳ぐことのできる水だった〉と考えることもできる)を準備したのは、直前の場面にあるようにポリュネイケス(ら)であるようでもある。アンティゴネに池(水)のありかを尋ねられても答えず、「見てください、こんなに手が汚れてしまった」と途方に暮れてみせる洋一は、池を目にしなかったか、あるいは池を目にしていながら、それで手を洗えばいいということに気づかない者であり、その彼に〈母の言葉〉とともに手を洗うための水(池)を与えるのはポリュネイケス(ら)である。けれど、ポリュネイケス(ら)のその行為がはっきり〈善意〉であると言い切れないのは、その水がアンビバレントな作用のしかたをみせるためだ──それを泳ぐことのできた鳩男は救われたが、一方で洋一はそれを手に受けることで、「私たちは、もう、家族と同じなんですからね」と加奈子に言われることになるその関係性のなかに身を置く、決定的な契機をむかえてしまう。
ラストシーンに姿を見せない者ら──彼/彼女らはみな、劇中でポリュネイケスを見ることができていた者である(むろんそのほかに、Fとカメラマンにも見えていたが、彼らは劇のなかに──あるいはその〈境界線上〉に──とどまった)。オブシディアンについてははっきり「見えていた」とするのがむずかしいが、けれど、

オブシディアン
わたし、なにもしゃべりません。だって私はここでビデオを貸しているだけだから。
アンティゴネ
……

『ニュータウン入口』/21場「ニュータウン」

 と語る彼女の哀しさはポリュネイケスの孤独につうじるとも言え、じっさいこのセリフどおり、「見えているのだが見えていないことにし、話しかけることはしない」という劇中においてまた特異なポリュネイケスへの対応の仕方をする者なのかもしれず、あるいは洋一とは逆に、ラストに際して「ポリュネイケスが見えるようになった」者なのかもしれない。
さて、アンティゴネと鳩男は劇の外へとむかった。では、ポリュネイケス(ら?)はいったいどこへ行ったのだろうか。

洋一
いませんでしたか? たしかにいたような……、いたと思うんだけど……、でも……、いや、いなかったか。わからない。

『ニュータウン入口』/25場「聖家族」

 ひとつの考え方は、アンティゴネと同様に(しかしまた別の方向へではあるが)どこかへと向かい、ニュータウンをあとにして「もうその場にはいない」というものである。むろん「では、どこへ?」という問いがひきつづき残りはするものの、けれどこの考え方はある意味、われわれに安心感をもたらすものでもある。なぜならもうひとつの考え方として、どこへも行ってはおらず、「まだそこにいるのだ」ということも言えるからである。
ラストに際してついに「心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入をきめ」た洋一に、もはやポリュネイケスの姿を見ることはできないのであり、かつ、洋一(およびダンス普及会の者ら)に見えていないだけで、ポリュネイケスは変わらずそこに立っているのだとするこの考え方がある恐ろしさをともなっているのは、ほかでもなく、観客であるわれわれにもまたポリュネイケスが見えなくなっているからだ。そのときわれわれは、あらためて、不意にニュータウンに立たされる(『ニュータウン入口』!)
われわれに見えていないからといって、カメラマンとFにも見えていないということにはならない。おそらくは見えているのだろう。「ああそうだ、ニュータウンはいつだって穏やかだ」とFが言い、カメラマンに背を向けるが、ひょっとするとそのとき、Fはダンス普及会のなかにいるポリュネイケスを見つめたのかもしれない──あとは、映画が示すとおりだ。F=アンティゴネがポリュネイケスに語りかける。アンティゴネの耳にもポリュネイケスの声は聞き取れないが、しかしその目は、たしかにポリュネイケスを捉えている。

(2007年10月 3日 15:06)

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