2014/3/26(水) 上野鈴本演芸場
- April 17, 2014 10:21 PM
- rakugo
志ん好の披露目、二日目。
〔夜の部・途中から〕
一目上がり 柳家三三
音楽 のだゆき
居酒屋 古今亭志ん橋
権兵衛狸 三遊亭金馬
代書屋 柳家権太楼
〈仲入り〉
口上 下手より市馬=司会、金馬、志ん好、志ん橋、馬風
松づくし 三遊亭歌る多一門
芋俵 柳亭市馬
漫才 すず風にゃん子・金魚
花見の仇討 古今亭志ん好
初のだゆき。
志ん橋、今日の「居酒屋」もよかった。
「花見の仇討」は志ん好では初聴き。なのでまったく予想していなかった噺だ。場面々々が緊密な関係を保って運ばれていくというような、そうした構築性はけっして高くなく、客観的にみて「いい出来」と言えるかはむろん疑問なところもあるものの、途中から、その構築性のなさがかえって噺のでたらめさをうまく照射してくれるような感覚が沸いて、不思議と、じつに心地よく聞けたのだった。つまり、いい高座だったのだと思う。
いい噺にはえてして、有象無象が沸き立つ瞬間がある。有象無象はたいてい愚かで、そして気持ちがいい。南光の「鹿政談」の、浮かれた町役たち。先代正蔵の「中村仲蔵」の、失意の仲蔵が町で耳にする江戸っ子たちの会話。「幾代餅」の店の評判を語り合う者ら。この「花見の仇討」が噺として真に〈成功〉したとき、ことによって噺の主役はあの、木に登ってる見物客なのではないかと、そんな極端なことをも思わされた「花見の仇討」だった。噺のでたらめさ──切断性と非構築性──を鷹揚に泳いでいくということ、そのことがつまり落語の神髄なのではないかと、帰り道、なんとも壮大なことに思いをめぐらした「花見の仇討」だった。
ちょっとだけ、ぐっときている。あと少し。あと少しで、何かが沸き立ちはじめそうな気配がある。
■
帰りぎわ、場内に志ん五のおかみさんを見かけた。そのおかみさんは後日ブログを更新し、「ただただくやしい」という記事を綴る。
上野鈴本へ志ん好さんの口上を観に行きました
切なくて悲しくなるのは分かっていましたが
お客様が少ないと悲しいので友人たちと行きました
志ん五のお客様も地元のお客様も来ていただきました
立派に頑張っていました
涙が出てきました
そしてくやしい、、
なんで生きていないんだ、、、
よしみの青春日記:ただただくやしい - livedoor Blog(ブログ)
甲斐のない想像とは知りつつ、「下手より市馬、金馬、志ん好、志ん五、志ん朝」という、充分にありえたかもしれない披露口上のことを思わないでもない。いったい、志ん五はどんな口上を言ったろうか。ただただ、甲斐のない想像でしかないけれど。
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