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Nov.
2005
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/ 26 Nov. 2005 (Sat.) 「瑣末」

ふと、なんとなく思い出してみた「瑣」の字。少しちがう。

中学の同窓会に出席するため実家の下館へと向かう東北線なかで、モーリス・ブランショの「謎の男トマ」を読みはじめる。なんとも久しぶりに「小説」に──あるいは「フィクション」に──手をつけた気がする。直前に、電車待ちをする新宿駅構内のコーヒー店で読み終えたのは、ちくま新書の佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』だし、その前に読んでいたのは同じちくま新書の石原千秋『国語教科書の思想』である。何度も書くようだが、石原先生は大学のときのゼミ担である。
ごく久しぶりにネット上の日記を更新するべく、こうしてコクヨの小振りのノートに極細軸の水性ボールペン──まさしくモバイル(!)──でその下書きを書いているとつい、そんなことを説明調で書いたところで読者にとっては期待の外(ほか)ではないかというような瑣末な──正直な話、私はいま、瑣末の「瑣」の字がどうしても思い出せなかった。そこでコクヨのノートには「サ末」と書き、あとで ATOK の知恵を借りて「変換」してもらおうと考えたところだ。「さまつ(sa-ma-tu)」と入力してスペースキーを打つ。求めているところの「サ末」(いや、だからまだ私は「サ」の字を思い出せていないのだが)以外に、変換候補はあっただろうかとそんなことまで考えている。「左松」。左側にある松という意味だろうか。いや、そんな言葉がはたしてあったかどうか。あったとして、ちなみにこれは「重箱読み」だ。ついでに言えば、前掲のちくま新書の書名も正確なところがわからず、確認の手間を惜しんでいまはただ四角く空欄の枠を書いている。註釈のようなかたちで書きはじめたこの話がここまで長くなると、はて、元の文脈はいったい何だったかと俄かにわからなくなっている読者も多いと思い、そこで改めて繰り返すが、そんなことを説明調で書いたところで読者にとっては期待の外(ほか)ではないかというような瑣末な──事柄ばかりが浮かぶ。
その石原先生の近代国文学ゼミナールで一緒だったのが吉沼で、その吉沼は先日の「自主リーディングの会」に奥さんの彩子さんともども初参加してくれた。せっかく日記を再開するのであれば、その「自主リーディングの会」のことも記しておきたいと考えるところだけれども、「謎の男トマ」の衝撃だけでもってここまで無内容に筆をすすめてしまって、いまはもう時間がない。同窓会のこともまた明日、書くだろう。

本日の参照画像
(2005年11月28日 00:18)

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