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2005
Yellow

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/ 15 Sep. 2005 (Thu.) 「AirMac Extreme ベースステーション」

日記でもって「閑話休題」もないものだが、話は変わり──日付が変われば話も変わろうというものだが、このようにまとめ書きしているとそう前置きしたくなる気分になる──、アップルの AirMac Extreme ベースステーション (新規ウィンドウ) を買ったという話である。わが家の無線LANによるネットワーク環境の改善を図った。
すでにだいぶ前から無線LANにはしていて、それは corega というメーカーの無線ルーターを使っていたのだが、なにかと調子が悪かった。思い返せば AirMac Express (新規ウィンドウ) (通常のオーディオセットと Mac を無線でつなぎ、iTunes の曲を部屋のスピーカーから流したりできるもの)と併用するようになってから調子の悪さは倍加したように思え、ルーターのほうでいえばマシンがスリープ状態から復帰したあと無線ネットワークを再認識するまでにひどく時間がかかるようになったり、AirMac Express(AirTunes)はといえばしばしば曲が途切れてじつに気持ちが悪いし、かと思えばぷっつり途切れてまったく認識しなくなるといったことが頻発していた。
でまあ、ネットワークのこまかい按配については明るくないものの、つまるところこれは「相性」というやつだろうかと考え、「アップル純正」であるところの AirMac Extreme の導入に踏み切った。
いや、いままでの厄介事が嘘のようにすこぶる調子がいいのだった、「純正」は。

(2005年9月24日 01:04)

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/ 14 Sep. 2005 (Wed.) 「マダムハニームーンバンド、みたび」

新郎・荒川泰久(ヤス)。
新婦・里沙さん(リサ)。

高校の同級、荒川の結婚式が17日に控えている。それに向け、またもや友人たちと組み、結婚式の余興のためのユニット「マダムハニームーンバンド」の出し物を準備する日々だ。マダムハニームーンバンドの第1弾は昨年初夏の(これも高校同級である)上山君の結婚披露合宿、第2弾は今年春の私の結婚式と、「バンド」の構成メンバーである友人たちのそれぞれの祝宴に臨んで新郎・新婦を除いた残りの面々が集まり、「余興用の何か」を準備するという歴史の浅い習わしである。
今回は映像(パソコンを使い、Final Cutから静止画をスライド式に出す)と人形劇。そこに音楽担当班が伴奏を付けもし、そして最後に新郎を呼び込んで新郎自らに「乾杯」を歌わせるというよくわからないてんこ盛りな内容である。台本づくりと映像の制作、総合演出的なところを私が担当する。
そもそもは、前もって全員で集まり、何か撮影をして本番はそれを流すだけという「映像作品」案がはじめにあったのだが、スケジュールがあわず、結局集まって撮影している時間がなくなって流れた。で、代案の「人形劇」というのは上山君のアイデアによる。なんのことはなくて、人形劇だと演じ手の人間側が身を隠せるので台本を見ながらしゃべれる、台詞を覚えなくてもいい、練習時間がほとんど取れない状況にあっては都合がいい、というだけのことで「人形劇」なわけだが、しかしなかなか面白そうだということになった。
もうひとつ「人形劇」案を後押しした要素に、新郎の荒川がセサミストリートに出てくるキャラクターに似ている(なんとなくだが、しかし似ている)ということがあって、劇中に出す「新郎」役にその人形を使い、話を組み立てられるということがある。「新婦」役にもセサミストリートのキャラクターにちょうどよいのを見つけ、そのふたつは amazon で購入。残りの人形をどうするか迷ったあげく、新宿の東急ハンズで適当にムーミン、ラスカル、ミッフィー、くまのプーさん、スティッチのハンドパペットを買ってきた。で、それらのキャラクターをもとに台本を書き、専用のメーリングリストに流したのが1週間ほど前である。
むろん、ことは水面下で、(最後に新郎に「乾杯」を歌ってもらうという段取りを除いては)新郎新婦に対しては内容が漏れないように準備を進めるのだが、この日記を書いている現在はすでに本番を終えてしまっている状態なので詳細が書けるわけだ。(といって、新郎新婦が仮住まいしている栃木のレオパレスにはパソコン環境がないらしく、実家に置いたままの iMac をさわって新郎がメールチェック等するのはごくたまにらしいので、この日記がリアルタイムに更新されていたとしても見られる可能性はかなり低いのだったが。)
というわけで、これがその「マダムハニームーンバンド」第3弾の台本である。実際の上演に際しては音楽班との絡みもあり、多少の変更・追加・削除を行ったが、だいたいこのままである。
いや、その、前述のとおり「ラクだから人形劇」という選択だったはずなのだが、結局あまり「ラクでない」台本になってしまった。短いからなんとかなるだろうけど、これ、やっぱり台詞を覚えた上で動かないとうまく間がとれないし、うまく間がとれないとちっとも面白くならないよ、という代物(まあ、それを言えばだいたいなんだってそうですが)で、練習時間に乏しいなか、まったくの素人たちに割り振ってやるにはちょっときびしいだろうかと反省するものの、まあ受けなかったらすべて私の責任である。そもそもねらいが「笑い」にあるということも何か間違ってはいないのか、もっとこう、ふつうに「祝う意志」を見せたらどうなんだということも反省されるべきだろうが、まあそれもすべて私の「癖」である。
と、心配はそれだけではなく、聞くところによれば披露宴会場はかなり広いらしく、お客さん(ご列席の皆様)の数もかなりあるようで、そんななかちまちまと人形劇をやってはたして「届くのか」という根本的な問題があり、いまさら間際になってそうした「装置」的なところを心配するのだったが、まあそれはそれ。
夜、スライドに使う画像を作る。

本日の参照画像
(2005年9月23日 15:33)

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/ 13 Sep. 2005 (Tue.) 「靖国問題」

お盆に実家に帰省した折りの写真ストックから。下も。
義姉の膝であそぶ姪。

ここのところ友人・知人のサイトをまめにチェックしておらず、たとえば「上山君の日記、読んだ?」と妻に聞かれてはじめてそれを見に行き、ようやく今日「1 1/2計画」の告知を知ったような感じである。
しかし上山君(夫妻)の日記といえば、まったくいまさらながら言及しておきたいというのは8月15日付けのそれで、つまりふたりはその日、また別の友人に誘われて靖国神社に参拝に行ったのだった。そのことに関して、サイトではふたりがそれぞれの視点から別の日記を書いているが、

境内に入る門をくぐったところで、まもなく正午ですから、黙とうをしましょう、というアナウンスが入る。それが耳に入った途端、反射的に、走って逃げてしまった。

 と書く恭子ちゃん(上山夫人)が、つづけて、

 日本の首相が靖国神社にお参りすることについて他の人がいろいろなことを言うのを、私はあまり快く受け止められない。靖国神社にお祀りされている人が、どんな人だったか、ということが、問題になっている。でも、人は死んだら、物になるだけだ。土とか、水とか、空気になる。そして、あたらしい命はそこから生まれる。私も、そうして生まれた。だから、それはとても尊いものだ。そういうことを宗教の言葉では、死んだら仏になるとか、カミになるとか言うのだと、私は思っている。

 と書くのを読みながら、私は正直なところ苛立ったのだった。そうじゃないんだよ。「靖国問題」というのはそういうことじゃないだ。ひどく「良心的」に見える上記のような言説のなかに問題が回収されてしまうとき、それは結果として「靖国の精神」と呼ばれるあの嫌悪すべき思想(「お国のために」という言葉に表される思想)に与してしまうことにしかならないのだ、と。けれども、そのように苛立つのは少し気が早かった。恭子ちゃんは次のようにつづける。

 けれども、そういう死んだ人に会いに行こうというときに、「国」という言葉が出てくると、抵抗がある。よく分からないけど、死んだ人に直接関われなくなるように感じる。靖国神社は奥に進めば進む程、「国」という言葉に満ちていた。たしかに、「国」というものは、ある。「太平洋戦争」もあった。「8月15日」もあった。その続きに私があることは、知っている。でも、人間は「国」じゃない。「太平洋戦争」でもない。「8月15日」でもない。とにかく、ここに眠っている人たちがいるのだ、その人たちに会わなければいけない、と思った。
 それで、黙とうできなかった。

いま、首相の公式参拝をめぐりその是非を問うというかたちで問題化されている「靖国問題」においてわれわれが問われているのは、つまるところ、「戦争がしたいの? したくないの?」ということだ。と書くと、「周辺諸国の抗議に対して断固たる姿勢を見せる(一戦まじえる)気概があるのか、穏便にすませたいのか」というニュアンスにとられる可能性もあるから厄介だが、むろんそういう意味ではなく、もっと根源的な問いとしての「あなたの家族・子供・知人を戦争に行かせたいのか、行かせたくないのか」である。
まず基本的なところを確認しておきたいが、靖国神社に祀られているのは「すべての戦争被害者」ではない。広島・長崎の死者も、東京大空襲の被害者も、民間の死者たちは、いっさいそこには含まれていない。靖国神社が祀るのは「お国のために死んだ(と靖国側が判断した)軍人」だけである(そもそものはじめから言えば、明治維新直後、維新戦争をつうじて亡くなった「新政府側の戦死者」を慰霊するために建てられたのが靖国神社──当時は「東京招魂社」──である。そして言うまでもなく、「新政府側」というのは「天皇側」のことである)。また逆に、日本の植民地となった周辺諸国で「皇民化」を強制され、心ならずも日本軍として戦争に駆り出され戦死した日本人以外の人たちがそこには含まれている。その人たちが、死してなお日本の祭神として──その民族との関係において「加害者」である日本人と同列に──祀られることは故人にとって屈辱以外のなにものでもないとして、現地の遺族らが靖国神社に対し「合祀の取り下げ」を要求しているケースがあるが、靖国神社はそれらの要求にいっさい応えようとしない(これは少なくとも「一宗教法人」の振る舞いとは言えない)

首相の靖国神社参拝について論じるときに、まず念頭に置かなくてはならないのは、現在も継続しているイラク戦争である。靖国神社であれ、別のかたちのものであれ、戦没者の追悼施設は戦争を遂行するための施設であって、首相の靖国参拝問題は、過去の歴史認識を巡る問題である以上に、現在と今後の戦争にかかわる問題である。靖国神社に関して小泉首相は「不戦の誓い」などという妄言を弄しているが、靖国神社の存在そのものがひとつの軍備であり、公人の靖国参拝が戦争準備行為であるという客観的な事実を見逃すわけにはいかない。国家の戦争を再生産するために戦没者は追悼されねばならず、生の再生産装置の傍らに死の再生産装置があるからこそ、男たちは徴用され兵士になることができるのである。ある皇軍兵士が軍事行動に際して「靖国で会おう」と誓い合ったという話が仮に事実だとするならば、それは明らかに戦争の誓いであり、靖国神社が戦争を推進する軍事施設としてあり続けてきたことを証明している。そのような腐った誓いを今後も可能にするのか、許容するのか、これからの若者たちにそのような誓いを強いるのかどうかが問われているのである。
──矢部史郎「六〇年前の亡霊にではなく、学生に賃金を。」(『現代思想』2005年8月号所収)

いやまあ実際のところ、「靖国問題」にはものすごく多くの論点があるのであり(たとえば『現代思想』の「靖国問題」特集号には18本の論文と1本の対談が収められている)、その根幹にあるものはまちがいなく「戦争がしたいの? したくないの?」という選択だとしても、そのことを言い立てるだけではおそらく説明不足で説得力を欠くのだし、ほんとうはもっとじっくりと文章にしなければと思うものの、いくら「紙幅にかぎりのない」ウェブとはいえ1日分の「日記」──「日記」か、これは?──でまかなえるような問題ではないのであって、その意味でひとつ参考文献を挙げておくならば、むろんこれ、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書) (新規ウィンドウ) である。
同書の最終章において高橋は、靖国の「代替施設」として検討が進められている「(無宗教の)国立追悼施設」について考察を加え、そしてその結果、しごく単純な、単純であるがゆえに感動的ですらあるひとつの答えを取り出してみせる。『現代思想』に収められた対談のなかで高橋自身が説明している言葉を借りればそれは次のようなことである。

 私は「国による追悼」を少なくともこの本(引用者註:『靖国問題』)の中では頭から否定しているわけではありません。「普通の国」による追悼は必ず「第二の靖国」になる、ということです。集団的追悼について言えば、人間の死、特に大量の死を様々な形で経験した共同体、それは家族から始まって地域社会や様々なレベルに及びますが、集団的追悼がそれ自体悪いとは言えない。国による追悼は一〇〇パーセント悪とも言えないだろう。しかしそれには条件がある。国による追悼が国家による顕彰となって、新たな戦争に国民を動員し、遺族に死を受け容れさせるための装置として機能する、つまり「第二の靖国」になるということであれば、反対せざるとえない。
 そうならない究極の条件は、国家が常備軍を持たないことです
──「討議 〈靖国〉で問われているもの」(『現代思想』2005年8月号所収)、太字強調は引用者

本日の参照画像
(2005年9月21日 03:18)

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/ 12 Sep. 2005 (Mon.) 「選挙がすんで日が暮れて」

やはり選挙結果には憂鬱になるよ。
夜、DVDで『2001年宇宙の旅』 (新規ウィンドウ) のオープニング(サル部分だけ)を観ようと思ったのは、土曜日(10日)に立川の映画館でティム・バートン監督の最新作『チャーリーとチョコレート工場』 (新規ウィンドウ) を観たからで、その劇中にはオマージュとして『2001年宇宙の旅』のワンシーンとあの音楽(R・シュトラウス/交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」〜序奏)が非常にくだらないかたちで使われていた。ちなみに、ロアルド・ダールの原作『チョコレート工場の秘密』 (新規ウィンドウ) は柳瀬尚紀の新訳で新装版が出ている。
面白いですよ、『チャーリーとチョコレート工場』は。
これは以前に川島雄三監督の作品をほめるさいに使った言葉で、要は「どこがどうすばらしい」というのを言語化できずにいるところを誤魔化して言うわけだが、やはりティム・バートンはべらぼうに「映画がうまい」と評したくなるひとりだ。あと、ヘレナ・ボナム=カーターの魅力。

2000年10月15日の私の日記より)
阿佐ヶ谷で、川島雄三の『愛のお荷物』と『暖簾』。森繁が! 山田五十鈴が! 円谷が! 中村メイ子が! いや、中村メイ子はちがうのだが、そんなこんなであっという間だったというのを、あるいはいつまでもつづいていてほしかったというのを、なんと言ったらいいのか、やはりべらぼうに映画が上手いのだなこの人は。

日曜日(11日)は夕方から投票に出掛け、帰ってきて居間で昼寝をするうちに、気づくとテレビの「選挙特番」がはじまっていた。いきなり「自民圧勝」を予測するテロップがおどっている。まあ、なんやかやで深夜まで「選挙特番」に付き合ってしまった。基本的にはNHKとTBSとを行き来して見る。TBSには久米宏が出ていて、筑紫哲也とのダブル司会である。「ニュース23」の枠に久米宏が特別出演というかたちか、あるいは「ザ・ベストテン」の枠に久米以外がごそっとやってきたのかそこはわからないけれども、自民圧勝という重苦しい状況のなか、このふたりのコンビによる司会がいちばん腹立たしくならずに見ていられた。あと、TBSには後半、姜尚中がコメンテーターとして登場し、結局あまり発言する機会はなかったものの、何を言うだろうかとその存在に惹かれて見ていたのだった。
まったく関係ないものの、いま「姜尚中」の漢字が思い出せず、調べるために「かんさんじゅん」と打って Google 検索したところ見つけたのが、この「かんさんじゅんカコイイ」 (新規ウィンドウ) というはてなダイアリーの日記だ。まあそうだよね、かっこいいよ姜さんは。あと、こわい。
いま、会社への行き帰りの電車の中などでちびりちびり読み進めているのは『はじめからの数学』 (新規ウィンドウ) というシリーズの翻訳書で、その第1巻の「幾何学」だ。「現代思想」誌の「靖国問題」特集号(2005年8月号) (新規ウィンドウ) に刊行案内が挟まれていて知ったもので、こうした本には単純にあこがれを抱いてしまうのが私であり、その程度には私は「文系」だ。「中学生でも読める文章」「数式はいっさい出てこない〈読み物〉」と謳われて、出版社が青土社ならさらに手は出しやすい。いやー、やっとわかりましたよ「非ユークリッド幾何学」ってやつが(「わかった」というよりか「知った」ということだが)
いま制作中の3Dアニメーション『不思議の国とアリス』 (新規ウィンドウ) のなかで兄(そうまあきら)は、「またしても平行線だ」とひとりごちるドジソン(=ルイス・キャロル)に対し、アリスに「平行線は交わるじゃん、知らないの!?」と言わせているのだが、このときのアリスの台詞の論拠になっているのが非ユークリッド幾何学で、つまり「非ユークリッド幾何学上においては平行線は交わる」ということなのだが、このよくわからない言葉に対してよくわからないままに、どこか神秘的でさえあるような響きの心地よさを感じ取っては納得してしまうのが「文系」ってやつである。バカを告白するついでに言えば、「グノーシス派」という言葉にも似たような響きがありますね。
いやー、そういうことだったんですね、非ユークリッド幾何学というのは。と、いたく膝を打っているこのごろである。

(2005年9月16日 16:48)

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