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Oct.
2009
Yellow

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/ 15 Oct. 2009 (Thu.) 「九時十五分」

石原千秋『読者はどこにいるのか──書物の中の私たち』(河出ブックス)

『文藝』2009年冬季号(河出書房新社)

西川史子『日記をつづるということ──国民教育装置とその逸脱』(吉川弘文館)

夜、紀伊國屋書店新宿南店のサザンシアターへ。「河出ブックス」創刊記念トークセッションを聞きに。というか石原千秋先生に会いに。トークセッションは「いまこそ〈教養〉を編み直す 新書から選書へ──新たなフロンティアへの招待」なるタイトルで、河出ブックスの創刊ラインナップに執筆した石原先生(『読者はどこにいるのか──書物の中の私たち』)と島田裕巳さん(『教養としての日本宗教事件史』)、そして現在執筆中という五十嵐太郎さん、永江朗さんの四人がパネラー。終了後に著者の方々のサイン会があり、それを終えた石原先生に声をかけてほんの少しだけ挨拶した。トークセッションの内容は割愛。創刊ラインナップのひとつには紅野謙介先生の『検閲と文学──1920年代の攻防』もあるが、その紅野先生と石原先生とがいま出ている『文藝』誌上で対談を行っていて、まあ、そっちを読んでもらえればだいたい事足りるんじゃないかと思う。
そうそう、その『文藝』にはいとうせいこうさんによる、宮沢(章夫)さんの『時間のかかる読書』の書評も載っています。
石原先生は今年一年、大学のほうはサバティカル(研究休暇)だそうで、『読者はどこにいるのか』のあとがきによればゼミだけやっているらしいが(成城大学でわたしが三年のときも石原先生が研究休暇で、そのとき代打で正規のゼミの授業を担当したのが紅野先生。で、それとはべつに三年生のみを対象に「裏ゼミ」と称して石原先生の非正規の授業が週イチで開かれていた)、そのサバティカルの成果として、今年後半は四冊の本を出すという。四冊っすかあ、だいじょうぶっすかあ。
『読者はどこにいるのか』はタイトルの示すとおり読者論を扱ったもの。これまでさんざ聞かされてきたたぐいのそれと、そしてそれらを整理する上で見えてきた新たな問いというか、石原先生のいま現在の興味のようなものがないまぜとなって再構成されている印象であり、そのなかで、「内面の共同体」という「やや舌足らずな概念」(「おわりに」)が提案されている。うん、たしかに(その命名についても、そこから引き出される「何か」についても)「舌足らず」な感じなんだけど、何かひどく魅力的な視座が開けそうな、そうした予感は漂う。「内面の共同体」という問題提起を受けて考えることなど、書けたらまたあとで書こう。
それと、なかで引用されていた、西川史子『日記をつづるということ──国民教育装置とその逸脱』(吉川弘文館)という本を書名に惹かれて購入。

時計

あ、ところできのうの日記だけど、なぜタイトルが「テントを張りながら」だったのかということが皆目わからなかったのではないかと思う。わたしにもわからなかった。とはいえ、じつを言って「テントを張りながら」というタイトルは「ゴドーを待ちながら」のもじりなのである。だからまあ、いつまでたってもいっこうにテントは張れないのだとひとまず想像していただきたい。
いま、そこへ視線を投げるたびくやしい思いをさせられているのがリビングの壁掛け時計である。電池が切れているのだ。おとといぐらいから止まっていて、妻にもわたしにも電池を替えようという気配が見えない。いつ見ても九時十五分なのだった。その状態でもう三日になろうというのだからいい加減学習してもよさそうなものだが、習慣ってやつは恐ろしく、そうだというのについ、行動の切れ目切れ目でそこへ「何時だっけ?」と視線を遣ってしまう。九時十五分なのである。そうだろうともさ。知ってたさ俺だって。だいたいがそんなに時間を知りたかったわけじゃないんだ。時計を見る者がみな時間を知りたがってると思ったら大間違いだぞおまえ──と、うっかり見てしまった文字盤をねめつける。このさい止まっているのは仕方がないとして、せめて見るたびにちがう時刻を指していてもらえないものかと思うのである。

本日の参照画像
(2009年10月20日 13:23)

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/ 14 Oct. 2009 (Wed.) 「テントを張りながら」

「もきち」特集である。
部分的に毛を刈っているせいか、へんなシルエットなのだった。
お気づきかと思うがすごくでかいのである。ラグドールは大型種で、これからまだ育つ見込みという(現在2歳)。

Twitterをはじめることでブログとの接し方が変わるといった話はよく耳にするものの、そういったこととはおそらく無縁に(なにせあまりつぶやいてもいないし)、ただただ、例のあれでもって間が空いてしまった。例のあれとは何かって話だけれども、まあ、「むら」ってやつだ。熱心に連日更新したかと思えば、ふっつり途絶えて無沙汰をするという繰り返しを、幾度となく重ねてきたこの日記である。「ご無沙汰です」と書き出すのにもとうに飽いて、ではいったいどのツラ提げようかと思案するうちに日々、暮れていく。日記という役目からすれば書くべきことは山とあったのだけれど、どうも文章の書き方をぽかんと忘れており、忘れたふりでもって、そろそろ書き出そうと思うのだ。9月11日のことからになる。

京都の一

9月11日は会社を休んで京都へ。京都造形芸術大学内にある「studio21」という劇場で「地点」の舞台を観る。6月にプレ公演(「行程2」)を観た『あたしちゃん、行く先を言って』の本公演。「太田省吾全テクストより」とタイトルに添えられたこの舞台は、太田さんのいくつかの戯曲および評論からばらばらに引用され、つぎはぎされた言葉から成り立っているのだけれど、その、音にまで分解されたと言ってもいいような、筋などあるべくもないテクストの断片のなかから、なおも「男女」が匂い立つのはこれはいったい何事かと観ていた。「この〈わたし〉があの〈彼〉であったかもしれないし、〈彼女〉であったかもしれない」という根源的な個の代替可能性のうえにこそ立ち現れる、「にもかかわらず〈わたし〉であり〈彼〉である」ということの奇跡が、俳優の身体をとおして、解体され尽くした物語の瓦礫のむこうから、なおも「物語」られてしまうのは何ゆえかと驚いていた。
「行程2」のときには舞台全面をマトリクス上に覆っていたブロックが、今宵はほぼ一本のラインとなって上手から下手へ延びている。上手側にはまだ(?)並べられていないブロックがきれいに積み置かれており、そこからまっすぐに延びて点々と敷かれたブロックの径は、下手に行くにしたがい自制を失うかのように徐々に乱れて、下手の果て、投棄されたようになって積もったブロックの山まで至って途絶えている。──「行程2」から百年がたった。あれからもう百年たったのかと、そんな勝手なことを思って開演を待っていた。
ひどく印象的だった幕切れのシーンの会話を『太田省吾劇テクスト集(全)』で探したが、それは『裸足のフーガ』からの引用だった。悲痛さのようなものをともなって安部聡子さんの口からもれた、「廊下が、ほら坂だわ」のひとことが忘れられない。そう、思い返すほどにあれは、〈百年後〉と〈百年前〉が〈いまここ〉で出会うというような瞬間だった気がしてくるのである。

女3
ちょっとですから、行ってきます。
男2
行くって、いやだよ、おれは。
女3
どうなさったんです、その顔。
男2
いや、ちょっとさ、いやなんだよ、いいじゃないか行かなくても。だれも来てやしないよ。
女3
わたし、御不浄です。
男2
……言わなくてもいいだろう、わかってるんだから。
女3
あなたって、何度言ったらわかるんでしょうね、女だって御不浄行くんですよ。
男2
嘘だろう、どこかへ行くんだな、え。
女3
すぐですから。……あなた、手をかして、廊下が、ほら坂だわ。雨ですべりますから。

『裸足のフーガ』(『太田省吾劇テクスト集(全)』p.217)

京都の二

その11日の晩は、造形大からさほど遠くないところにある児玉君の家に泊めさせてもらった。写真は児玉君とその同居人の愛猫、ラグドールの「もきち」である。

もきち

泊まっておいてなんだが、児玉君とはこれが初対面だ。児玉君がまだ造形大に在学していた2004年夏に、彼が参加した発表公演(『ガレージをめぐる五つの情景』)をわたしはたまさか客として観ているのだが、「それだけ」といえば「それだけ」なうえ、べつにそれで児玉君の顔が記憶に刻印されたわけでもなく(児玉君が演じた「ハラダ」という役については記憶に残っているものの)、ひょんなことからごく最近になってネットを介した交流が生まれただけのわれわれは、そもそも、待ち合わせたとして互いの顔を識別できるのかという懸念をただ「楽観する」ことでもって乗り越えた間柄の者である。
待ち合わせは「studio21」、というか、児玉君たちも同じ回の舞台を観、その後に合流した。歩いて児玉君の家まで。家のちかくの「上海バンド」という中華料理屋で、山村さんとトミーも交え食事。おいしかった。ところでもきちはまったく人見知りをしない。そこそこ夜更かしをしたのち二階の一部屋(ふだんは同居人の居室らしい)をあてがわれて布団で寝たのだが、まもなくもきちがやってくる。ああ、もきち。翌朝、起きるとほどなくパンと目玉焼きが用意され、それをおいしくいただいたのちわたしはふたたび造形大へ。学内にある喫茶店で「地点」の制作の方とウェブについての打ち合わせを小一時間。終わってまた児玉君と合流し、ぶらぶらと案内されたのは太田省吾さんが生前よく通ったというカフェ、「猫町」。そこでランチを食べながら言われたのだが、じかに会うわたしは「文章から想像していたそのまま、寸分たがわぬ相馬」だったという児玉君の感想である。見送られてバスに乗り、京都駅まで。

京都以降

京都駅で生八つ橋を買い込み、新幹線に乗って帰京、その足で遊園地再生事業団の集まりに参加する。「ラボ公演(仮称)」にむけた、ミーティングメンバーによる「戯曲を読む勉強会」である。カトリン・レグラの『私たちは眠らない』を読み合わせ。『私たちは眠らない』には同じ著者による小説版のそれも存在するのだが、日本語訳は出ていない。調べると、「DeLi」という年2回刊行の雑誌があり、その創刊号(2003年8月発行)にレグラの短編小説『スプリンター』の翻訳が、第5号(2005年11月発行)に小説版『私たちは眠らない』の抄訳が載っているらしいとわかり、それを取り寄せる。で、創刊号が先に届き、在庫の取り寄せに時間のかかっているらしい第5号はいまだ届かず。さらにいきおいで、小説版『私たちは眠らない』の英訳本を海外のサイトで注文したのが9月14日だが、24日に「Your order has been shipped!」というメールが来たそれもまだ手元には届いていない。
9月13日は「吾妻橋ダンスクロッシング」へ。今回いとうせいこうさんが何をやるかについては、7月23日の「Music Bar 道」でのトークショーでご自身が予告されていたのを聞いていたこともあって──つまり、奇しくも「9.11」(公演期間が9月11日〜13日)に、「9.11」を特別な日付として受け止めてしまうことそれ自体の思考停止ぶりをつよく非難するポエトリー・リーディングをおこなうというもの──、かつまたそこに康本雅子さんのダンスとの、いとうさんが「勝負である」と意気込むようなセッション要素が加わるから、はじめ、11日と13日の二回分のチケットを取っておいたのだったけれど、前述のように11日は京都に行っていて観られず、13日のほうを堪能した。いとうさん、飴屋法水さん、ほうほう堂、鉄割アルバトロスケットのステージが印象に残る。

怪盗ルーズとタレ脇編集者

かと思えば Yahoo! オークションで、コンタロウの漫画『1・2のアッホ!!』1〜10巻(9巻のみ抜け)と、同じく『ルーズ!ルーズ!!』全2巻とを落札した。いずれもかつて実家にあり、小学生のころに読んだ。いま、読むべきものはほかに山とあるはずだが、いったいなぜ落札してしまったか。一気に読んだね。
9月22、23日は遊園地再生事業団のオーディション。受付など手伝う。当日撮影したビデオ記録など参考に見返しつつ、24日の夜に選考のためのミーティング。だいぶ絞り込んだもののけっきょくその場でも結論は保留となり、宮沢(章夫)さんが持ち帰って熟考のすえ、10月3日のミーティングでいよいよ合格者が決定。

そして、DQ

そんな日々のなか、ドラクエ9はプレイ中途のままほったらかしになっているのだったけれど、むろん、ドラクエばかりが「DQ」ではなく、スーザン・ソンタグ『書くこと、ロラン・バルトについて』に収められた「DQ」というごくごく短いエッセイの、その末尾の段落にはほんとうに涙しそうになってしまった。本文中にその名前は出てこないが、この箇所はおそらく、ボルヘスの小説「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」のことを言っているのだと思う。

 作家とはまず読む人のこと──暴れ出して、始末におえなくなった読者のことである。悪党化した読者。自分のほうがうまくやれると言いだした生意気な読者。それにしても、無理からぬことではある、現存する最高の作家がものを書く仕事についての見事な寓話をまとめあげるにあたって、『ドン・キホーテ』(の一部分)を書こうという途轍もなく野心的な作業に手をつける二〇世紀初めの物書きを発明したのは。もう一度やってみよう。そっくりに(昔と)。他のどんな本よりも、『ドン・キホーテ』こそが、文学なのだから。
スーザン・ソンタグ「DQ」『書くこと、ロラン・バルトについて』 p.171

そう、もう一度やってみよう。そっくりに(昔と)。

本日の参照画像
(2009年10月15日 17:44)

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