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Dec.
2005
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/ 27 Dec. 2005 (Tue.) 「細野晴臣&東京シャイネス」

「細野晴臣&東京シャイネス」を聞きに、夜、九段会館へ。マツクラさんも来ていた。あと、これは当然ながら、エディターの川勝正幸さんの姿も見え、そういえば三、四年前になるか、行くイベント行くイベントにことごとく川勝さんの姿があるという現象に見舞われたことがあったのを思い出すが、今日は久しぶりにその姿を見た。ヒゲにずいぶんと白いものが混じり、眼鏡をかけた細い目でニコニコしているその顔を見、川勝さん自身が有名人なのだから「誰かに似ている」というのもちょっとあれだが、誰だろう似ているなあと思っていたらわかった。大竹まことさんだ。「丸い大竹まこと」がそこにはいた。
とそんなことはともかく、「細野晴臣&東京シャイネス」はよかった。ほんとうによかった。

(2005年12月30日 00:53)

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/ 26 Dec. 2005 (Mon.) 「だめだった」

「かながわ戯曲賞」の公開審査には行けず。行きたかったけれどもだめだった。

(2005年12月30日 00:44)

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/ 25 Dec. 2005 (Sun.) 「Merry Christmas Ms. Alice」

『不思議の国とアリス』のサイトのなかに「ぼくらと遊ぼう」というコーナーがある。「アリス」にまつわる記念日にからめてお題を設定し、「アリス」プロジェクトの関係者や関係者でない人も含めて作品(ムービー、画像、テキスト、音楽などなんでも)を募るコーナーで、まあ閑期の更新ネタといったところだが、その第二弾が12月25日の今日、クリスマスなんだけれども、1871年のこの日は『鏡の国のアリス』が出版された日であるらしい。作品のお題はそのこととあまり関係性がないものの「『不思議の国とアリス』と冬とチェス」と決められ、先般より作品が募集されていた。
企画発案者であるみえさんから習いたてだというFlashムービーが未明に、上山君夫妻からは力作「チェスにちなんだ段ボールパッケージ」の写真が深夜に届き、私がサイトを更新する。
で、そのときにデザイン要素として副題のようなものがほしくなり、勝手に「Merry Christmas Ms. Alice」とタイトル脇にくっつけたのは、むろん「Merry Christmas Mr. Lawrence」(『戦場のメリークリスマス』の原題)のもじりだけれども──今気づいたのだけど、これ脚韻まで踏んでいるじゃないか──、そんなことをしていたらじつに単純な話ながら『戦場のメリークリスマス』が見たくなってしまった。というか、ラストのビートたけしさんのアップが見たくなったわけだが、そこだけ見てもだめだろうなあ。下館の実家に行けば、金曜ロードショーか何かを録画したベータのビデオテープがあったはずだが、あってもなあ。

(2005年12月30日 00:40)

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/ 24 Dec. 2005 (Sat.) 「『ソウル市民』を観たり」

いせゆみこさんが出演するフレデリック・フィスバック演出『ソウル市民』を観に、三軒茶屋へ。なお、向かう途中の新宿駅で田中夢母娘とすれちがったことはフレデリック・フィスバック演出の『ソウル市民』とはまったく関係なく、ここに差し挟んでもしかたがないと知りつつも、なぜだろうついつい報告への欲求を抑えられずにいる。はたしてほんとうに、新宿駅ですれちがった田中夢母娘はフレデリック・フィスバック演出の『ソウル市民』とまったく何ら関係なかったのだろうかという問いさえ用意しかかるが、関係ないよなあ。
当日の折り込みチラシのなかに、来年12月に予定されている青年団による『ソウル市民』三部作連続上演の告知があって、そこに「本物は、あと一年待ってください。」とあったのを、それ、すごいコピーだなあと思いつつ、私は「本物」を観たことがない。さらに言えば青年団の舞台も観たことがない。ある種の演劇をひと括りにして「静かな演劇」と呼ぶ乱暴さが、それでもなお何らかの有効性をもっていたらしい時期、そもそも私はまだ演劇を観ない者だった。じつは戯曲も読んだことがなくて、同時進行する複数の会話が上下二段になって書かれてあるらしいとか、まったく省略のない時間が描かれるらしいとか、そうした象徴的ないくつかのことを伝え聞いているだけである。構造上まったく省略のない、均一な時間が切り取られるのだとすれば、文字通り物語の「枠」を示すものとして重要なのは、どこから始まり、どこで終わるのかということになるだろうか。戯曲上でそれがどう指定されているかはわからないが(読めよ、俺)、今回の「偽物」はまさに「不意に暗転」した。ケレン味さえ感じるような鮮やかな暗転。
むろんそれだけではなく、「枠」はことさらに強調される。プリン型というか、小高い土俵のような舞台が中央にせりあがっていて、観客席はそれを挟んで前後の両側にある。「開演」前に登場した役者たちはその最前列の席に座って、役を演じないときもソデではなく客席へと戻るから、ステージという枠はゆるやかに解消されているが、逆に、その外側にある観客席が今度は舞台を縁取るフレームとして浮かびあがることになる。その自覚を促すように、役者はときおり会話を中断して客席をしげしげと見つめる。その執拗な視線は、「いったい役者たちは舞台の外に何を見ているのか」と問うてその答えを単純に劇の内部に求めることを許さない。あきらかに、見られているのは観客である私だからだ。そのとき問いは、「舞台の一番外縁にいて、見つめられている私はいったい何なのか」というものに質を変える。劇の構造のなかで私は何を担わされているのか。舞台上の「篠崎家」を取り囲み、見つめる「朝鮮人」の目? それともより大きな「歴史」の目といったようなもの?

前回の日記の最後に、

首くくり栲象のあまりのアングラっぷりにはちょっと笑いそうになった。

と書いたのはアップ間際、時間がなくなって慌てて付け足したものだが、それにしても言葉が足りなかったと少し反省している(だいたい、アップした当初は「ボクデス」を「ボスデス」と誤記もしていた。お詫びして訂正します)。というか、宮沢さんが「富士日記2」に書いている説明を読んではじめて、ああそうだったかと合点がいくことがあり、すると私が覚えたあの違和というか、笑いそうになってしまった点もまた、その同じ言葉で説明されるべきことだったと気づく。

黒沢さんは、30年以上踊ってきて、「ダンスがわからなくなってしまった」というのである。たしかにビデオで観たダンスは、かなりわからなくなってしまった人のダンスだと思い、もう黒沢さんから目が離せない。(「富士日記2」12月24日付)

 私には、何ていうんでしょうか、黒沢美香さんが「とりあえず踊っている」ように見えてならなかった。黙々と手順を踏みつつ首をくくる人と、寝ている人、そしてそこにとりあえず踊っている人がいるという構図が、とにかく可笑しく、何だろうこの人のこの感じはと思っていたのだったが、「わからなくなってしまった人のダンス」だと指摘されてみると、なるほどとそのときの感じが腑に落ちる。

『ソウル市民』を観終わって新宿に出る。ルミネのなかにあるブックファーストへ。本を買う目的は妻のほうにあり、それについていったかたちだが、そうした無目的なときにこそ人は本を買ってしまうものである。エスカレータをのぼって最初に目に入る新刊書の棚に、宮沢さんの『『資本論』も読む』と『チェーホフの戦争』が揃って並んでいたのには出鼻をくじかれる思いがしたが──というのはたとえば3、4冊買ってもいいかなと思っていたところがそこで2冊決まってしまったからだが──、結局以下の本を持ってレジへ。

  • 宮沢章夫『『資本論』も読む』(WAVE出版)
  • 宮沢章夫『チェーホフの戦争』(青土社)
  • 太田省吾『なにもかもなくしてみる』(五柳書院)
  • 上野千鶴子・編『脱アイデンティティ』(勁草書房)
  • 北田暁大・野上元・水溜真由美・編『カルチュラル・ポリティクス 1960/70』(せりか書房)

 いったいいつ読むんだ。年末年始でゆっくりとこれらを読むことができればいいが。

(2005年12月29日 01:45)

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/ 23 Dec. 2005 (Fri.) 「吾妻橋ダンスクロッシング Holy Night Special」

こういうかたちのものが上に載っかったあのビルがアサヒアートスクウェア。

吾妻橋ダンスクロッシング Holy Night Special』を観に、浅草へ。会場はアサヒアートスクウェア。吾妻橋を渡る。『文七元結』で文七が身を投げようとしたのが吾妻橋である、と要らぬ説明を妻に垂れる。水上バスが走っていた。昼間はいくぶん穏やかに感じる気温。整理番号83番で呼ばれて建物の入り口からエレベータに向かうと、出演者である康本雅子さんが慌てて駆けてくるところだった。
このダンスの祭典に「alt. (a.k.a. AKIO MIYAZAWA)」として出演するのが南波さん、上村君、田中夢ちゃんの三人で、チーム名にある "a.k.a." というのが "also known as" の略だというのはこないだネットの力を借りてはじめて知った。「〜としても知られる」「別名〜」という意味になる。「赤い宮沢章夫」ではなかった。(が、もし仮にそうだったとすればほかに「青い宮沢章夫」や、「物干し竿と呼ばれる通常よりも長い宮沢章夫」などがいたにちがいない。)
パフォーマンスの冒頭は上村君が小説版『不在』の冒頭、(杜李子の死体の第一発見者である)坂本高哉について描写する部分を朗読し、同時にバックのスクリーンには(まさしくその描写部分を映像化した)映画『be found dead』第5話が再編集されて流れる。いつしか舞台奥には二十数個(?)の、なみなみと水をたたえたコップが一箇所にまとまって並び、南波さん、田中さんも姿を現す。三人はそれぞれ「幸森」「詩人」「杜李子」の、『トーキョー/不在/ハムレット』のときと同じ衣裳を着ていて、水死体として発見されたときと同じ青い服の杜李子は(舞台版においてははじめて)身を横たえる。
「小説版の〈地の文〉を読む幸森」という構図は、物語内現在から時間を経た「いま」、じつは書き手(語り手)として存在するかもしれない幸森の可能性を思わせもするものの、しかし演技的にはあくまで「書物としてすでにそこにある『不在』」を幸森は読んでいるように見え、すると今度は「小説=映画(=複製芸術)」ラインが成す物語世界とは必ずしも同一ではないもうひとつの世界が、あたかもパラレルワールドのようにして舞台上に進行するかのような、そうした印象を受けるけれども、これはまあ完全に〈『不在』との付き合いが長い者の目〉であり、舞台上の「ダンス」はおそらくそうした感慨とは無縁に、ただただ美しく進行する。
青い服を着た女が中央に横たわるなか、朗読を終えた男に代わって言葉を発するのは「詩人」と呼ばれる女であり、男と詩人は、それぞれ舞台奥のコップをひとつずつ手にとっては、それを舞台の見えないマトリクス上に点々と置いていく。あたりまえのことながら、なみなみと注がれた水はときおり振動を受けてコップからこぼれ落ちる。水の振動はせりふ(身体)に、せりふ(身体)の振動は水に、お互いに影響を与えるという繊細なダンスである。いや、その趣向そのものがそのままダンスになるというものでもないのだろう。一連の動きのなかで、ふとしたはずみに、舞台全体がダンサブルなものになる瞬間がある。
奥にまとまって置かれたコップがひとつずつ運ばれだした時点で、ああ、これは整然と全部が舞台上に散らばってそれで終わるのだなと予想が立ち、その予想された終わりへ向けて一種予定調和的な時間が流れるが、あるとき詩人たちは一度一点へと置かれたはずのコップをふたたび手にし、また別の一点へと運び直しはじめる。そのとき、なぜだか知れず全体が踊りはじめた。やがて杜李子も踊り出す。コップを手にして。
コップの水がきれいだった。「朝の水」だと感じた。その朝、松田家のテーブルに置かれていたかもしれないコップの水、だろうか。やがて夕刻が訪れても、それはそこに置かれたままである。

むろんボクデスとチーム眼鏡、康本さんはただただ気持ちよかったし、ほうほう堂もよかった。首くくり栲象のあまりのアングラっぷりにはちょっと笑いそうになった。

本日の参照画像
(2005年12月24日 12:30)

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/ 21 Dec. 2005 (Wed.) 「つい『新潮』を買う」

19日付の日記の訂正。記憶だけで今福龍太の本を『スポーツの汀(みぎわ)』と書き、わざわざ読みまで示してみせたのが失敗で、正しくは『スポーツの汀(なぎさ)』というのが書名の読みだった。表紙にはそのように振り仮名がある(念のため説明しておくと「汀」という字は「なぎさ」とも「みぎわ」とも読みます)。ただ、「みぎわ」という読ませ方のほうが印象に残っていて、それも確認したが、「序 スポーツの汀」のなかに一箇所だけ「汀」の字にルビを振っているところがあり、それが「みぎわ」になっている。

あらためていうまでもなく、陸と海の狭間である汀(みぎわ)という自然環境においてのみ、波という地球物理学的な現象は生じる。

ほかの「汀」の字にはルビがなく、前後の文脈からいっておそらくここでは「水際(みずぎわ)」という語との連関を強調するために「またの読み方」を示したのだろう。このルビでもって記憶が左右されたらしい。

たしか「第1部 クリケット群島」のなかに「ネットサーフィン」という比喩表現をめぐる考察があって、[19日付の日記]

と書いたのも当てずっぽうな記憶で、冒頭の「序」のなかにその論考はあった。そのわくわくさせられる感じを伝えるために私はまた「引用馬鹿」になるが、たとえば、

波という流体による可変的な運動性をとらえ、そのリズムに自らの身体・意識を同調させることによって、陸と海の狭間においておこる「世界の流動」そのものを読むこと……。サーフィンというスポーツの本質をこう定義するならば、それはまさに情報の不可知の海と、それを知識として一体化しようとする主体とのあいだにおいて展開する、情報ネットワークそのものの運動性と見事に対応する。

沖に向かって泳ぎ、波を待ち、見事に波に乗り、波を横切って汀のうねり自体を自らの身体に刻み込んでゆくようなサーフィンのプロセスは、ざわめく水際が示すあらゆる運動情報をとっさに判断して対処する一回性のなかの真剣勝負となる。あらゆる波は別の波と異なり、おなじ波は二度と訪れない。固有の波が伝える一回一回の情報をサーフボードという一枚の接触盤を通して抽象化し、それをすぐさまいかに微細に身体化して受容するかが、サーフィンのほとんどすべてなのだ。

波は一回性の記号であることによって、世界の端緒にたちあがろうとする言葉を私たちに伝える。サーファーとはその世界のざわめく言葉を聴きとろうとする知覚メディアに与えられた名前なのだ。

といった調子である。

サイトに使っているアクセス解析のリンク元統計によれば、先日「犬と言えば」というキーワードで検索してきた人があったようだ。来年の干支に関連した、年賀状のネタ探しといった目的の検索だろうか。ひっかかってくるのは、「Red」の Vol.18 のページ右下にあるこのクロスワードパズルだ
ところで、アクセス解析にあった件のリンク元は Google ではない検索エンジンからのものだが、Googleでも同様に「犬と言えば」を検索キーワードにするといま現在「Red」のページが一番上に来る。通常「ページ内でキーワードを連呼する」のはいわゆる「Google対策」としては得策でないと言われ、あまり連呼しすぎるとかえって「不正に検索にひっかかろうとするページ」であるとプログラムに判断され検索結果からはじかれてしまうというのを聞くけれども、この「犬と言えば?」に関しては大丈夫だったようだ。何が「大丈夫」なのかわからないが。
あー、それにしても「Red」の最終更新日は2004年3月14日か。更新しようかと思うときがないではないのだ。

これは20日のこと。昼間、会社近くの本屋へ行く。ウェブデザイン関係の雑誌を買うつもりだったが、結局手にしてレジに向かったのは文芸誌の『新潮』である。新年号は赤い表紙。表紙でいえば『文學界』の端正さにも惹かれるし、それに『文學界』はなぜだか知らないが新年の特集が「ロラン・バルト」で蓮實重彦の論考が載っているというのも魅力的だったが、べつに会社で読むわけでもないのに何もいま分厚い文芸誌を二冊も提げて帰っている場合ではないだろうと冷静になり、ひとまず『新潮』のほうだけにする。
『新潮』新年号の目玉はなんといっても「休暇中」と題された古井由吉の4ページほどのエッセイだと書けばむろんそれは嘘になるが、しかしなんだかエッセイも小説も関係ないようなことになっているなこの人は。これ、まるっきりフィクションだとしたらびっくりだなあ。古井由吉、ほんとは25歳とかでね。舞城王太郎の270枚『ザ・パインハウス・デッド』も面白そうだが、これは同じ『新潮』誌に以前掲載された長編『ディスコ探偵水曜日』の続編で、どうもその正編のほうを先に読まないと冒頭からいきなりわけのわからないことになっているのだった。
あと、本屋でクルマ雑誌の『NAVI』も立ち読む。といってあれです、えのきどいちろうさんの連載コラムだけ。クルマにまったく関係ない話だというのは毎度のことながら、今号はブログとウェブ上の日記をめぐる文章。「どうして日記という形式になってしまうのか」というのはこういう話が出るたびに指摘されることで、どうしても既視感が漂うのは否めないが、しかし「つねにあらゆる話題に既視感がつきまとう」のがCMC(コンピュータを媒介にしたコミュニケーション)の特徴なのだとすれば、やはりある種の苛立ちとともにこの問いを発し続けることは必要なのではないかとも思う。

ラジオ・ラストソングスの「聖なる奇蹟の夜に」は早いものでもう第3話を迎えた。FTPを利用して以来音源のやりとりは順調で、第3話分のデータは20日遅くに鈴木謙一さんから無事届く。日付が変わってそこそこの時間に更新し、ラストソングスのメンバーに「配信しました」とメール。そのメールへの返信で、謙一さんも上村君もまだほとんど誰からもリアクション(コメント)がないことを気にしていた。
ラジオ・ラストソングスをお聞きかもしれないみなさんに一応説明しておくと、「第1話」とか「第2話」とかある各記事の一番下に「コメント (数字) 」となっているテキストリンクがあり、それをクリックするとコメント記入欄のついた各記事固有のページに飛びます(数字はその記事に対して投稿されたコメントの数です)。ブログの場合「その記事に対するコメント」というかたちになってしまうので、漠然と全体に対する感想など書こうとしたとき「ここでいいのかな」という気分になる場合もあるかと思いますが、そうしたことは気にせず、「聞いたよ」でもかまわないのでコメントをいただければうれしいかぎりです。
といったようなことをこの長文の、しかもいちばん下のほうに書いてもどうなんだということではありますが。

本日の参照画像
(2005年12月23日 11:57)

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/ 19 Dec. 2005 (Mon.) 「薬用ジープ」

13日は妻の誕生日だった。プレゼントは毎回本人の希望を聞いて買うことにしているが、今年は一緒に買い物に出る機会を逸していてまだ買っていない。会社をいくぶん早めに出て、手頃な値段のワインだけ買って帰る。私のほう(11月18日)は今年はセーターを2枚買ってもらった。私へのプレゼントがえてして服飾系のものであるのは、ほうっておくと私がちっとも服を買わないからだ。去年はちょうど『トーキョー/不在/ハムレット』の本公演の稽古前で、連日の稽古に着回すだけの適当な服装がないからと、ユニクロのトレーナーを数着買ってもらったのだった。
14日は「ラジオ・ラストソングス」のドラマ配信予定日で、前回の予告篇は1分ほどの短いものだったから元データのサイズもたかがしれていたが、今回は元音源となるAIFFのデータ(CDクオリティのデータ)が圧縮して70MBほどあり、それを鈴木謙一さんとやりとりするのにひと苦労する。「どうもメール添付ではうまく送れない」と謙一さんから連絡があり、それでうちのサーバにCGIによるファイルアップローダーの仕組みを設置してみたり、最近よくある無料のファイル転送サービスを試したりするがどれもうまくいかない。それらの方法も何回か試せばいずれうまくいったかもしれないもののだんだんと時間がなくなってくるので双方あせり、結局今回は私の会社からほど近い四ツ谷駅まで謙一さんに来てもらうことになった。CDに焼いたデータを手渡し。その直前になって、うちのレンタルサーバはFTP用のサブアカウントを作成可能だったということに気づく。遅かった。次回からはそれを使うことにし、メールでFTPの手順など謙一さんに教える。第1話は無事配信スタート。
15日、「0 1/2計画」のほうでみえさんからたのまれているページを作り始める。『不思議の国とアリス』を予約購入された方には特典として手作りの段ボールパッケージにDVDを詰めて発送するが、そのひとつひとつちがう手作りパッケージを紹介し、予約購入者にそのなかから好きなものを選んでもらうためのページである。基本的に Movable Type を使い、それ用に別のブログを作ってカスタマイズすることを考えているが、「0 1/2計画」で使っている Movable Type はバージョンが2.661なのが若干不便だ。ただ、このバージョンまでは商用利用の場合でも無料で、それで導入の際にこっちと決めたのは私である。そのころはバージョン3.0が出て間もない時期で、「バージョン2.661で充分だよなあ」という気分に充ちていた。いま最新はバージョン3.2で、いつしかだいぶそれに慣れてしまっていることに気づく。なにより、「これが使えると便利だなあ」というプラグインがいまやみな「バージョン3.0以上対応」なのがつらい。がまあ、なんとか2.661でもそれらしいものが実現できるのではないかと頭の中でめどが立ち、デザインに取りかかったのだった。
16日は仕事で大阪に出張。朝6時に東京駅を出る新幹線に乗らなければいけない。逆算していくと家を出るのが4時半すぎである。3時半と4時にセットした携帯電話の目覚ましは5分おきに5回ずつ鳴るから、最後のアラームが鳴るのが4時25分で、それが鳴り終わるのを私は3時半にセットした分の5回が鳴り終わったかのように聞いていたが、「もう4時半だよ」と妻に起こされた。あぶないところだった。
出張の話はそれだけかよと思う向きもあるだろうが次は17日である。「0 1/2計画」の面々による鍋パーティーが明日(18日)荻窪のわが家で行われる都合上、いくつかのスペースを抜本的にきれいにしなければならず、その大掃除日に割り当てられたのが今日だ。昼すぎから動き出し、夜8時までかかってあらかたの人目に触れる場所をきれいにする。なったよきれいに。その掃除の合間に「ラジオ・ラストソングス」の第2話を更新。ラストソングスの上村君はいま「吾妻橋ダンスクロッシング」に「alt. (a.k.a AKIO MIYAZAWA)」チームとして出演するための稽古を重ねる日々だが、その稽古場が荻窪にあり、この日、せっかく近くにいるのだから稽古後にごはんでも食べようかという話になっていたところ、無事に掃除を終えてぼんやりしていた9時半すぎに「今稽古が終わりましたが」とメールが入る。じゃあぼちぼち家を出て稽古場のある方面へ向かおうかと準備していると、さらにメールがあり、「どこか車も止められるお店ないですかね?」。車といったら宮沢さんの車しかないだろうから、するとつまり宮沢さんの車でみんな揃って食事に来るということで、思いもよらないうれしい展開だけれども、駅前のほうでそうしたお店をひとつも思い浮かべられない。断っておくが荻窪のことはあまりよく知らないのだというのも、平日はたいてい、たいがいのお店が閉店したあとに駅に着くような具合だからだ。唯一考えが及んだのがうちの近所にあるジョナサンで、そこを伝える。宮沢さんと南波さん、上村君、田中夢ちゃん、私の5人で食事。
そして18日は鍋パーティー。そのなかで、

自分が今までに購入して読んだ本で
他の人に是非是非薦めたい!と思う本を
お家の本棚から選んで他の人と交換しましょう!
(できるだけ「新しく購入しない」のがいいと思います。)

という、みえさん発案のプレゼント交換企画があって、いよいよ当日になってようやくそのための本を書庫から選ぶ。くじ引きによる交換でその本はなんともうまいことサッカー好きの荒川の手に渡ったが、少しもサッカー好きでない私が読んで身を震わす名著、今福龍太『フットボールの新世紀—美と快楽の身体』(廣済堂ライブラリー)が私の選んだ本。というか今福龍太が面白いということなのだが、

国内スポーツ選手の多民族化や、エスニック・スポーツが世界的に認知されてゆく動きがあるなか、近代スポーツは常に国家主義的な側面を強化していく。だが、そこから逸脱していくフィールドとしてサッカーに可能性を見出す。

という内容。読み直してみないとこまかい部分は思い出せないのだけれど、とにかくそこで展開され鍛えられるのは「サッカー的なるモノ」というわくわくさせられる概念であり、批評というフィールドで自身がフットボールをしようとする(サッカー的であろうとする)かのような美しい文体の連なりがそこを走っていた。これよりも先に読んだのが同じ著者による『スポーツの汀(なぎさ)』(紀伊国屋書店)で、とにかくこれにしびれました私は。たしか「第1部 クリケット群島」のなかに「ネットサーフィン」という比喩表現をめぐる考察があって、それがとにかく刺激的なものであり、私のなかで「ネットサーフィン」という言い方が「恥ずかしい言葉」から「かっこいい言葉」へと見事に価値転換した。[後日註:「『第1部 クリケット群島』のなかに」は間違い。本書冒頭の「序」のなかにその考察はある。21日付の日記に関連の記載あり]
19日。会社帰りに荻窪のブックオフへ寄ったのは30分ほど後れて駅に着く妻と待ち合わせるための時間つぶしだったが、そこで岩明均の漫画『七夕の国』(完全版、上下)を買う。きのうの鍋パーティーで新刊の『ヒストリエ』第3巻が一部の話題になっていた岩明均は、だいぶ以前に『寄生獣』を読んだきりでほかの作品をまったく読んでいない。面白いらしい。『寄生獣』はなぜか高校の演劇部の部室に揃っていて、それを読んだ。徐々に巻が増えていった記憶があるけれども、ちょうど当時連載中だったのだろうか。あれはなぜあそこにあったのか。部室の戸棚のなかに、学級文庫のようにしてそれはあって、田村君などが黙々と読むのを端で見ながら、たしか私はほとんど巻が出揃った時期にまとめて読んだ。あと、『七夕の国』とあわせて、いしいひさいち『鏡の国の戦争2』をついつい買ってしまった。あ、これ、あったかもしれないなあうちに。

これだけのことを書くのにひどく時間がかかる。書く行為が持続せず、どうもいけない。来年は箇条書きから再出発するか。最後になるが「薬用ジープ」なるものについて私は何も知らない。たぶんそんなものは無いのではないか。

(2005年12月21日 12:40)

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