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Jul.
2006
Yellow

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/ 11 Jul. 2006 (Tue.) 「ドアが開いて乗客は一喜一憂する」

そこにいても、風はこないのだよ。

じっとりとした夜である。家ではいまだクーラーをつけていない。日中は会社にいてその冷気の恩恵に与っているから、これが丸一日家にいたとしたらつけていなかったかはわからないが、それでもこれまでの土日はなんとかやり過ごしてきた。扇風機のすばらしさよ。扇風機は、「弱」のさらに下の「そよ風」というやつで、弱風を送ってはしばらく止んで、また弱風に戻るというそれに、首を振らせている。いつかどこかでたまらず、これを「弱」に切り替えれば、そこから先は転げ落ちるようにしてクーラーのスイッチを押すところまでまっしぐらだろうか。猫は自分で涼しいところを見つけて寝ている。いや、そこがどういう兼ね合いでどれほど涼しいのか、こちらにはちょっと判然としない場所もあるが、その寝顔は涼しそうにも映る。かと思えばまったく暑そうな顔で考えもない場所に巨体を横たえていることもある。
夜、電車をひと駅乗り過ごした。閉まりかける扉の向こうに見えるプレートのあの文字は、あれは「立川」じゃないかというふうに気がついて、ひと駅先の「日野」まで行った。終電だったので折り返すこともできずタクシーに乗る。三割増の深夜料金で1,500円ほど。寝過ごしたわけではなかった。途中で座席にありついたのがあだとなったか、本に夢中になっていた。しかも夢中になっていたのは奥浩平『青春の墓標』である。ばかか私は、と日野へと走る電車のなかで思う。
それにしても、電車の冷房は、あれはなんとかならないものか。いまにはじまった話ではないものの、あれはやっぱり寒いよ。「弱冷房車」にはまったくほっとする。どうせならいっそのこと「暖房」の車輌も用意したらどうだろうか。「冷房」「弱冷房」「暖房」の車輌があって、どの車輌がどれかはわからない仕掛けだ。その日によってちがう。ドアが開いては一喜一憂である。暖房だった者の落胆はひとかどではない。って、乗らなきゃいいんだけど。(あの、あれですね、この連想は「クイズ・ドレミファドン」の「セイロクマン」とか、ほら、あれですね。)

本日の参照画像
(2006年7月13日 02:49)

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/ 10 Jul. 2006 (Mon.) 「『いま』を愛することはやっぱりむずかしい」

いいんですよこれが、ほんとうに。コーラスでトム・ウェイツも参加。

高森さんが「ヨミヒトシラズ」を閉鎖。真摯なお別れの挨拶がトップページに残された。すぱっとした終わり方だ。ところで、おそらくだけど、「web-conte.com」はこうならないだろう。「更新できないので閉鎖します」という心性はよく見かけるところだが、それにはあまり納得しないのである。「更新できなくとも閉鎖はしない」という態度を、おそらく私はとることになるだろう(ここで言う「閉鎖」は、「今後更新がないことを宣言すること」ではなく、「過去のコンテンツへのアクセス可能性(リンク)を閉ざすこと」である)。それはいわば「アーカイブの思想」だ。だから、友人の永澤がかつてはじめて自分のホームページを作ったとき──最新の日記が書かれたトップページが一枚だけ存在し、更新のたびにそれが上書かれて常に最新の日記しか存在しない、という体裁だった──、そこに「アーカイブ」という概念がまったくないことにすごく驚いたわけだ。それはそれで新鮮だった。だから、まあ、人それぞれである。
ちなみに、高森さんの過去の日記が読みたいという欲望には、若干ながら「Internet Archive Wayback Machine」が応えてくれる。表示が文字化ける場合はブラウザの文字エンコーディングを手動で「Shift JIS」に変更してください。
2日、ブログのほうに「ブラジル敗退」という記事を書いたことでもわかるように、私はその日、ワールドカップの「ブラジルーフランス」戦をテレビで観ていた。それにしても、「結果」を愛するのではなく「いま」を愛することの、なんと困難なことであるかというのは、その「ブラジル敗退」という記事自体がいやらしく露呈している。

私のワールドカップが終わった。わが家はかなりうなだれている。われわれが愛すべきは「いま」なのだから、その意味で結果は問題ではないが、しかしこの試合で、ブラジルはどれだけ「いま」とともにあっただろうか。NHKのアナウンサーが仕立て上げる「物語」に毒されていたのは単に私のほうなのかもしれないが、しかし選手たちも(ロナウジーニョでさえも)またどこか、「8年前の決勝で敗れたフランスへのリベンジ」というまったくどうでもいい「物語」のなかへと、自らの試合の「意味」を回収してしまっていたように思えてならない。われわれが見たいのは「いまーここ」においてのみ充足する美しさであり、因果的に再編成された「物語」などでは少しもない。そこはここではないのだ。そしてその一方、今大会かぎりでの引退を表明しているジダンが向き合っていたのは終始「個としての自分」だったということだろうか、彼がひとり、「いまーここ」をプレーしているようでもあった。
「ブラジル敗退」

 おそらくはこの私の文章自体が、この試合に「物語」としての枠組みを与えようとする欲望から自由ではないのであり、その欲望はどう考えたって「結果」への動揺から発している。「あーあ、ちくしょう、負けちゃったよ」ってことですよ、要するに上の文章は。

「結果」を愛するのではなく「いま」を愛すること。それはたやすいことではない。なぜなら私たちは「いま」というものの正体を、なかなか知り尽くせないからだ。だが、「いま」を愛することなくして、過去も未来も愛することはできない。
今福龍太「結果を愛するのではなく」『フットボールの新世紀 美と快楽の身体』(廣済堂ライブラリー)

で、フランス—イタリアの決勝もうつらうつらしながら観ていた。後半はうつらうつらが激しくなって、ちょうど「ジダン退場」のところを見逃し、「どうやら頭突きをしたらしい」というぼんやりした情報のまま、翌朝、賢明にも観戦せずに睡眠をとった妻に結果を伝えた。その妻の反応がなんとも頼もしい。「で、延長後半にジダン退場」「退場?」「なんかね、頭突きしたみたい、相手選手に」「怒って?」「そうじゃないかな」「じゃあしょうがないね。よっぽどのことがあったんだよ」と妻。ニュアンスを説明すると、この「じゃあしょうがないね」は「退場(レッドカード)になってもしょうがない」ではなくて、「頭突きをしてもしょうがない」ということである。笑ったなあ。そうだよ。この「今福龍太かぶれ」であるところの私が擁護しなければならないのもまた、このジダンのある意味子供っぽい振る舞いのほうであるにちがいないのだ。
というようなことを考えているときに、「反逆児ジダンの頭突きを支持! 21世紀サッカーのために」というブログ記事を目にする。今福龍太の「二〇世紀最後のワールドカップのために」にリンクを張りつつ、筆者はまさに「今福調」のサッカー批評を展開する。以下はその途中から。

 警告を受けないギリギリの範囲でネトネトと削りにくるディフェンスプレイと、審判には聞こえない執拗な言葉の攻撃で挑発をしかけてくるウザイ相手に対し、マルセイユの路地裏の少年に戻ったジダンは、思いっきり頭突きを炸裂させた。それも全世界、全フランス国民が見守るテレビカメラの目の前で、隠れることなく。
 そこにはフェアプレイやスポーツマンシップという、近代スポーツが掲げる美辞麗句の背後にある帝国主義的なイデオロギーに対する反逆、そして、サッカーが本来持つ美しさや快楽を抑圧し、「負けないこと」を至上価値とする近代サッカーの横行への反逆があった。そして、そのまま試合を終えれば、たとえ優勝しなかったとしても、間違いなく「英雄最後の勇姿」として称賛を浴び、栄光のサッカー人生に輝かしく幕を下ろすことができたはずである。しかし、ジダンは、それさえも拒否した。というより、そうした過剰に美しい「英雄」の物語として自らを飾り立て、消費してしまうメディアの力にこそ、ジダンは頭突きを食らわしたのかもしれない。
 いずれにしても、お子様ジダンが見せてくれた最後のお辞儀に、サッカーをつまらなくするな、という強いロック魂を見た思いがして、僕は救われたのだった。
take2o2 memo: 反逆児ジダンの頭突きを支持! 21世紀サッカーのために

そうそう、今福龍太といえば、何年か前の日経新聞に「神はブラジル人?」というエッセイを寄せていたらしいという情報を先日つかみ、それ読みたいなあと思っていたのだが(さいわいなことに国立国会図書館は仕事場から一駅だが、最近はそこまでフットワークが軽くない)、これも、その記事を(たぶん全文ではないけど)引用してくれるブログ記事に出会った。
ブラジルのセレソン(ナショナルチーム)はどこか決定的に「キャラが立ってる」ように思えるのだが、どうだろうか。試合に出ていた選手に関してはほぼ全員、すんなりと名前を覚えてしまったことにそれは象徴される。申し訳ないが、日本代表の顔と名前はほとんど一致しない私だ。って、それはたんに興味の強弱の問題か。どうでもいい話で恐縮だが、「もし言い寄られたら拒否できるだろうか度」でいけば、私の一番はキーパーのジダだ。かなりセクシーである。
ちょっと前に「富士日記2」で紹介されていた、Gavin Bryars の「Jesus' Blood Never Failed Me Yet」にいま、どっぷりと浸かっている。いや、ほんとうに仕事がはかどるよこれは。曲のタイトルのことなどすっかり忘れていた私は、宮沢さんが先月の21日に「精神の安定のためにはこの音楽がとてもいい」と日記でこの曲を紹介したとき、知らない曲だと思っていたのだったが、聞いてみたら知っていた。というか、これは『トーキョー/不在/ハムレット』の「リーディング公演」で、その次の「映像公演(『be found dead』)」でできあがる桜井圭介さん作のいわゆる「詩人のテーマ」がまだない当時に、「詩人の独白」のシーンのバックに流されていた曲である(あ、記憶違いだったら、演出助手のくせにすいません)。どういう曲かというのは、Amazonのページにあるカスタマーレビューのひとつがなかなかわかりやすい。

本作品はもともとホームレスの老人の唄を基に1975年に作った約25分の作品で、CDが登場し長時間作品の収録が可能になったため1993年に録音し直したとのことです。"Jesus' blood never failed me yet, never failed me yet, Jesus' blood never failed me yet, never failed me yet, this one thing I know, for he loves me so. "という僅か25秒の歌を延々と繰り返し、これにだんだんオーケストラが加わったりコーラスが入ったりして盛り上がっていく曲で、一応チャプターがついていますが連続した一つの作品です(25秒が延々と約75分続く曲と思ってください)。
Amazonのカスタマーレビューより

 あと、Amazonでは一部試聴も可能。
余談。それで、むろん最終的にはAmazonでCDを購入したのだけど、ちょっと商品の到着を待ちきれずに、先にとある方面から入手してそれを聞いていたのだった。で、入手先のもとのデータがそうなっていたのか、データ転送のさいにおかしくなったのかは不明だが、それには冒頭近くにデジタルノイズが入っていた。スケッチ・ショウなどが「音」として使っているあの「プチプチッ」というやつ(もっと適当な擬音があるはずだが思い浮かばない)。結論からいってむろんそれは「本物」の(意図的ではない)デジタルノイズなのだが、でも、大きな音で聴けば逆に、それがけっこう絶妙に入っていて楽しめるのだった。すごいな、「デジタルノイズを聴く耳」を作ってしまったエレクトロニカなるものは。ね。

本日の参照画像
(2006年7月11日 12:38)

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