4
Apr.
2017
Yellow

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/ 30 Apr. 2017 (Sun.) 「頑張ろ!決めた!」

これは、きのう掲載した写真と同日のもう一枚。ただ、写真の Exifデータにある撮影時刻情報を信じるならば、きのう掲載した写真からは 17分が経過している。2010年5月。

『落語研究会 桂米朝全集』DVDボックス

『落語研究会 桂吉朝全集』DVDボックス

6:05
起床。
6:44
10時までにはまだ遠い。
18:43
すごいなあアマゾン、そうきたか。

またも早起き。
テニス、内藤祐希選手の予選一回戦が朝 10時から。ライブスコア観戦。22歳でランキング 286位、予選第2シードの Katy DUNNE (GBR)が相手。ま、ランキングどおりに考えるなら分の悪い(無い?)相手ではあるが、そもそもランキングで言ったら参加選手中での最下位がたぶん内藤選手なのであり、「こっから勝ってかないとはじまらない」立場でもある。
3-6 1-6で負け。第1セットはブレイク合戦だったのでゲーム数こそ取っているが、けっきょく両セットとも、キープできたのは 1ゲームのみだった。キープできないとなあ、そりゃあなあという苦い一戦。
冷静に書けば「そうきたか」と意表を突かれるほどのことでもなく、いまどき正攻法っちゃあ正攻法なのだけれど、Instagramのタイムラインに、アマゾンによる広告が表示されるのをはじめて目にする。これまた例によって(閲覧履歴? 検索履歴? に根差した)ターゲッティング広告であるだけでなく、複数枚の写真をまとめて投稿できるようになった最新の表示形式(スワイプで切り替え)も取り入れたそれは、「ああ、うまいなあ。これは相性いいかもなあ」とちょっと感心させられるものだった。とりあえずわたしは落語研究会の DVDボックスの、『桂米朝全集』と『桂吉朝全集』を勧められる。うん。そうだろうさ。おすすめだろうさ、それは。
今日は散歩で IKEAまで。こちらも徒歩圏内である。
で、タイトルに使った「頑張ろ!決めた!」はわたしの言葉ではなく、試合後の、内藤選手の言葉。

Walking: 3.9km • 5,971 steps • 1hr 4mins 56secs • 185 calories
Cycling: 2.1km • 11mins 12secs • 47 calories
Transport: 547 meters • 1min 10secs
本日の参照画像
(2017年5月 3日 07:54)

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/ 29 Apr. 2017 (Sat.) 「ちっちゃいピー、すげえ高い」

ロビン。これはさすがに、生涯最大級に出てる。2010年5月。

5:54
起床。
7:37
承認されるとは思わなかった。
7:55
「消防水利」はまったく人気なかった。「消防水利」じゃなあ。
10:16
日記を更新。26日付「口説き方を知らない」

すげえ早起き。
テニスの内藤祐希選手が Instagramに、これまでのとはべつの新しいアカウントを作り、よければフォローしてねと周知していたのがゆうべ。行ってみると鍵付きのアカウントだったので、こりゃさすがに友達のみを招き入れるつもりのプライベートアカウントなんだろうとは想像したものの、いちおうフォロー申請だけは送っておいた。すると今朝、承認されていたのでおどろく。
ところでわたし、ツイッターでは何度となく、内藤選手のアカウント宛に「おめでとう」だの「残念」だの、試合結果に勝手に盛り上がった挙句のメンションを送っているが、一度としてリプライが返ってきたことはない。たぶんそれ、シンプルで賢い「決め」なんだろうとは想像していて、自身で考えたものか、いまどき大人からそうした指南があるのかはわからないが、つまりリプライで会話するのはリアルに会ったことある人だけ、それ以外のファンにたいしては節目々々にまとめて、「いつも応援ありがとうございます」といった開かれたツイートで感謝を届けるというそうした基本方針なんじゃないかと、そう考えることで、リプライがないことにめげないようにしているわたしだ。
その内藤選手は岐阜のドローが出て、予選出場が決まった。明日。
きのう更新した、消防水利について書いた日記は、常にも増してまったくアクセスが伸びず。「そりゃあ、消防水利について書いた日記じゃなあ」と得心はしている。
あとまあ、今年はずっと、左欄(スマホでは下欄)の写真の一枚目が〈ロビンを振り返るシリーズ〉なので、ツイッターや Facebookの OGP設定で出るサムネイル画像が話題にかかわらず毎度猫の写真であるというのも、呼び込みという観点からいけばあまり得策ではないのだろうなあと思っている。ま、とりあえず尽きるまで続きますけどね、〈ロビンを振り返るシリーズ〉は。
夕方から妻と出かけて、ららぽーとまで散歩。一昨年の暮れにできた「ららぽーと立川立飛」はまったくの徒歩圏内だ。行くのはひさしぶり。中のペットショップを覗くと、ちっちゃいロビン(アメリカンショートヘア)と、ちっちゃいピー(ノルウェジアンフォレストキャット。いや、ピーはちがうけど、図鑑でいうとこの種に似てる)がいた。ちっちゃいピー、すげえ高い。あとまあポシュテも、いたといえばいた(フェレット)
8月9日に国立演芸場で行われる桂南光と入船亭扇遊のふたり会の、先行抽選予約なるものがはじまったので応募しておく。さあ、行くよ、みんな。

Walking: 3.5km • 5,422 steps • 58mins 8secs • 168 calories
本日の参照画像
(2017年5月 3日 05:09)

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/ 28 Apr. 2017 (Fri.) 「あんなに持ってたライターがない」

ロビン。わたしの足に寝る。2010年4月。

6:35
起床。DM読む。
9:15
まじでか。あんなに持ってたライターがないよ。
12:19
日記を更新。25日付「消防水利」
20:24
ああー、あと一人だ。
21:20
さあ、太平記がはじまった。

早起きだった。起きてすぐ、深夜のうちに届いていたとある方からの DM(ツイッター)を読む。つらつら綴られたと思しいその DMはなかなかに長文で、そのこと自体がすでにありがたい。
ていうか、DMっていまもう字数制限ない( 約1万字までいける)のね。
百円ライターというものは、うっかり持たずに出かけてしまわぬよう、つねづね心がけるようにしていてさえ、しばしば、不意に忘れてきてしまうもので、いよいよもう出先で新しいものを買うことはするまいとあらためて律したその行動の集積として、「いちどきにすごく持ってる」ということもまた起こりうる。火を点けようとしてこないだ、胸ポケットに──胸かな? と探るようなつもりで──手を入れたら、三つ入っていてびっくりしたことも記憶に新しい。そして、今日はないのだった。そんなに持っていたライターが、である。
「ああー、あと一人だ」こそは何のことやらわからないと思うが、これはテニスの話。「カンガルーカップ」の名でも知られる岐阜の ITF女子 $80,000の大会が(予選を含めて言うと)今週末からはじまるのだが、その「 Acceptance List」というのは「受け入れリスト」と訳せばいいのか、つまり参加を希望してる選手の一覧のようなものが公表されていて、そこでは選手がランキング順に振り分けられ、「 MAIN DRAW(本戦入り)」「 QUALIFYING(予選入り)」「 ALTERNATES(予選の補欠)」、そして「 WITHDRAWALS(辞退者)」の四つの欄がある。いやまあ、言葉の直訳でもって理解しているだけで、出場者決定のより細密なルールについては知らないんだけど、その「補欠」欄の上から 4番目に、贔屓であるところの内藤祐希選手の名前を先日見つけていたのだ。で、上位の選手で(故障であったり、同時にエントリーしてた他の大会のほうに出ることにしたりで)辞退者があれば、繰り上がって予選に出られることになる、ということなんだろうと思い、思い出しては日々チェックしていたのだが、徐々に繰り上がっていった内藤選手がついに「補欠」欄のいちばん上、「ああー、あと一人だ」という位置にまで来ていたという、えー、そういう話です。
こないだ書いた、岩波文庫の『太平記』の第1巻をいよいよ読みはじめる。これ、ページ下段にかなり手厚い校注が付いているかわりに現代語訳はないんだけど、まあ「なんとかなる」というか、きっとこの先なんともならない箇所も出てくるとは思うものの、このさい多少のことにはかまわず、いっそのこと校注にもなるたけ目を移さずに、とにかく原文の勢いと調子にまかせてしまうのが何よりの醍醐味なのだった。でまあ、じっさい、そんな読み手でも「なんとかなる」ような配慮が校注以外にもいろいろされていて、総ルビに近い状態であるのみならず、各章立てごとに、そこで語られるおおまかな内容を説明した梗概がまず載っている。その梗概で中身はだいたい把握しておいて、あとはもうガーッと原文を読んでいくというと、とても気持ちがいい。通して読み終わったとき、ことによると何ひとつ覚えていないんじゃないかというくらいの紋切り型であり、名調子なのだった。

きょうのひとこと

お母ちゃん、えらい遅なりまして……( 3代目桂米朝「たちぎれ線香」)

Walking: 5.8km • 7,478 steps • 1hr 29mins 1secs • 273 calories
Cycling: 1.9km • 13mins 29secs • 43 calories
Transport: 69.1km • 1hr 31mins 16secs
本日の参照画像
(2017年5月 2日 16:59)

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/ 27 Apr. 2017 (Thu.) 「百年はきっと短い米朝と新落語」

ロビン。2010年2月。

桂米朝『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻(創元社)

桂米朝『桂米朝集成』第1巻(岩波書店)

桂米朝『上方落語ノート』(青蛙房)

19:19
日記を更新。24日付「米朝と志ん朝、ニュートラルなふたりの相似」

駆られ、またぞろ長ったらしいものを書いてしまう。後半で取り上げている『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻はついこないだ買ったものだ。百年を描いた映画を観た帰り、百年を見ていた噺家の本を買い、百年を思った。
ところで、『全集』に付いているスピン(栞の紐)は、定式幕の三色で三本(黒、柿、萌葱)なのだった。きれい。
これも『全集』第8巻の小論・随筆編に収められた文章で、「新作落語について」という 1966(昭和41)年に書かれたエッセイがある。はじめはふんふんという感じで読んでいたのだが、やがて思いがけぬところへ話は至り、あっと思わせられる。

 さて、私の述べた新作落語は、現在までのものについてでしたが、未来の、待望される新作落語はとなると、別に稿を改めて書きたいのです。それはもう一段、高い段階の話芸を示すもの、あるいは過去の無数の落語のうちのよりすぐった佳作名品を高度の技術で演じた落語に匹敵するだけのもの──
 それをつくるためには、私は古典をもう一度新しく演出し研究し直して、「落語」という芸のここ百年ぐらい大丈夫という、型なり演出法なりの基礎固めを行ってからそれに則ってつくりだす、「新作落語」であらねばならないと思っています。新作落語は、新しい落語──まだ聞いたことのない落語というだけでなく、真に新しい狙いと感覚をもった、新しい境地を開いてみせるものであるべきです。新作落語でなく、新落語であること……ゆえにこれはむつかしい大変な問題なのです。
桂米朝「新作落語について」『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻、p.170。初出は『こてん』第5号、関西学院大学古典芸能研究部、昭和41年9月。

 ものすごいことを言い出した、ときに 40歳の米朝である。もとより、人ひとりの生涯で足りるスケールの話ではない。となればもちろん、聞く側とて同じことだ。米朝の夢想したこの「新落語」がはたして成るとして、それはわたしの生きているあいだのことではないだろう。

 新しい落語づくりはむつかしいものです。毎日聞くたびに変わっていく新しさ、新しいギャグを盛り込んでいく新鮮さ、あるいは古典を忠実に守って、しかし新しい演出を加えていくやり方、またはオーソドックスな落語演出法で、何回聴いても変わらない手堅さ……それらに共通して、正しい芸ならどれにでも当てはまるような、法則というか、落語の理念を探り出したい。これが新落語につながるものと私は今、考えています。
同上。

 けっきょくこのあと(いやもちろん、時系列で言えばこのエッセイが書かれるもっと前からだけど)、米朝は「落語の理念を探り出」すためにむしろ過去に参照し、滅んでいた噺、継承の途絶えていた噺の〈発掘〉という方向へとむかう。その〈発掘〉は、よく言われるようにそのじつほとんど米朝による〈創作〉と言ってもいいような作業だったわけで、あるいはそれこそが、米朝にとっての実質的な「新落語」だったのではないかという気もする。
 そう、上の引用で語られるような壮大な「新落語」計画がはたして成ったとして、そのとき、それはいったい「新しい」のだろうか──米朝の言ってるようなものを想像していくと、存外、新落語もまた「毎度古いハナシを聞いていただきます」と語り出されるのではないか(笑)──と、そう思ってしまわないでもない。
それでまあこの「新落語」構想を追いかけて、けっきょくわたしは『桂米朝集成』の第1巻まで買ってしまったのだが、そこに前掲の文章から 3年後の、1969(昭和44)年に書かれた論考があり、その末尾付近にあるこの箇所などは、「新落語」構想のいわば変奏というか、さらに 3年が経ってみての結論と決心のように受け取れるのである。

 ……ここまで進歩してきた独特の話術、特殊な話芸、その力を用いてお客を魅了することができたら、古典落語と呼ばれようと、古くさいと言われようと、大衆芸能でなくなろうと、やれるところまでやってみよう。いや、もうそうなったら真の古典と呼ばれる価値のできるところまで、この話術を磨きに磨いてみよう。私の代では中途半端な段階で了るに違いない、あるいは私の次の世代でもどっちつかずかもしれない。
 また、この私のやり方に反撥して、あくまで泥まみれになっても大衆芸能として、悪戦苦闘する者もいよう。そしてその中から、新しい話芸や手法が生まれてきて、大成させる者ができるかもしれない。そして落語は二分されるかもしれない。そうなったら、むしろ喜ぶべきことと言えましょう。
桂米朝「落語の位置」『桂米朝集成』第1巻、p.112。初出は『帝塚山演劇学』第2巻・第1号、帝塚山大学演劇研究室、昭和44年5月。

 そして 1977(昭和52)年にはじつにあっさりと、

 だから私は古い噺を新しくするということで新落語と名づけてます。これは新作落語ではなく、昔からある噺を削ったり、つけ加えたりして今の人に充分共鳴してもらえる落語にすることをそう言うたんです。
桂米朝「落語の創造論──今日の落語、明日の落語──」『桂米朝集成』第1巻、p.175。初出は『創造』146号、大阪シナリオ学校、昭和52年12月。

と述べてしまうまでになっているのだが、ここに至るまでにあった '66年の夢想と '69年の決心──歴史的につねに「新作」でありつづけた落語と、いま「古典」化を余儀なくされる落語との双方に引き裂かれつつ、たんなるラベリングでしかない「新作」「古典」の謂からは離れて、愛した「落語」そのものをそこから抽出しようとした苦悩と奮闘──にこそ、まずは目を瞠りたい。
少し前、笠木(泉)さんと会ったときにちょっとだけ落語の話になり、新作落語の話になって、「なぜわれわれ(この「われわれ」は、端的にわたしと笠木さんの二人を指す)は、新作を楽しめないのか」というような問いを互いに持ち帰ることになったわけだが、その問いを考える一助にもなるだろうかという、今日はそんな話。
いやあ面白いですね、米朝。

きょうのひとこと

その証拠に松島の現長の雪隠(せんち)へいって下を見ると珊瑚樹が(うわ)ったある。竜宮でババしてるようです。( 3代目桂文三「改良ぜんざい」)

Walking: 3.6km • 5,376 steps • 55mins 31secs • 170 calories
Cycling: 2.5km • 13mins 21secs • 54 calories
Transport: 70.2km • 1hr 19mins 31secs
本日の参照画像
(2017年5月 2日 09:32)

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/ 26 Apr. 2017 (Wed.) 「口説き方を知らない」

ロビン。奥にいる。ほかふたり。2010年2月。

9:09
口説き方を知らない。

朝っぱら。不意に浮かんだフレーズだというだけで、すぐに口説きにかかるべき先のあるでもなく、あったとして、だから、口説き方を知らない。まごまごするんじゃないかな。孫孫。馬子馬子。
掻き口説く、ならどうか。

かき くど・く 4掻き口説く】
(動五)
相手の理解や承諾を求めてくどくどと繰り返し述べる。「涙ながらに・けば/こがね丸小波
iOSアプリ「大辞林」

 うん、あんまりいい口説きようじゃない。
 ほか、掻き曇る、掻き暮れるなど「掻き」はやっぱりなにがしかの接頭語だろうが、元来あんまり意味はなく、たんにリズムをとってるだけのようにも思える。一天にわかに掻き曇り、とか。
相手の背中を掻きながら言う。

 「好きなんだ」

 なんだかわるくないような気もするものの、それはつまり、そもそも「背中を掻く/掻かせる」という関係性がすでに成り立っているからじゃないのか。問題は、「掻かせてくれ」ってところからはじめなきゃならないとすればどうかだ。

 「掻かせてくれ」
 「どこを?」
 「どこでも。頭? 背中とか」
 「いいよ」

ってなるかなー。ならないんじゃないかなー。
 まず、「掻く」が通じないと思うんだ。「かかせてくれ」といきなり言われ、耳にすれば、「描かせてくれ」か「書かせてくれ」だと思うんじゃないか。とすればその返答も「どこを?」ではなく、「何を?」になるだろう。部位を訊かれるのではなく「何を掻くか」を訊かれ、こちらも少し戸惑う。そう訊かれれば、「君を」と答えるしかないような気がする。それで会話は、それぞれのなかでまだすれ違ったまま成立してしまう。
 掻き口説くのもまたむずかしい。

Walking: 4.5km • 6,958 steps • 1hr 12mins 31secs • 211 calories
Cycling: 2.5km • 13mins 26secs • 54 calories
Transport: 68.1km • 1hr 33mins 9secs
本日の参照画像
(2017年4月29日 10:10)

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/ 25 Apr. 2017 (Tue.) 「消防水利」

ロビンとピーとポシュテ。2009年12月。

7:35
起床。
8:42
消防水利。造反有理。
9:23
ふと胸がいっぱいになる。

いよいよどうも長ったらしい文章しか書けなくなっているような気がするので、ひさびさ「 DayOne」のメモ書きを呼び出してみる。
駐輪場の契約更新のためにいつもとちょっとだけちがう道を辿って、「消防水利」の標識に目がとまる。消防水利。これを「しょうぼう、すいり」というふうに、「造反有理」のような調子で読むと、どこからともなく故事が立ち現れてきそうな、教訓が呼び覚まされそうな雰囲気がある。
 消防スルニ、水ハ利ナリ(消防活動するときは、水が便利だ)

 そりゃまあ、そうだよね。
というかこれ、じっさいにも「消防〈のための〉水利」というふうに語が分かたれるのだと思うのだけど、「水利」というのがどうも耳慣れず、いっそのこと「消防水〈に〉利(用)」と──だったらもう「用」も言ってやれよと──受け取りたくもなる。「水利」の語が耳慣れないのはたぶん、なまじっかレ点を打ちたくなる心持ちというのが作用して、「利水」のほうが据わりがいいように感じるからだと思うが、そう思って調べてみると、漢和辞典に熟語として掲載があるのは「水利」のほうで、「利水」は掲載がないのだった(学研『漢字源』第一版、iOSアプリの「漢辞海 第三版」)。ほお。
といったようなことを考えていて、「ふと胸がいっぱいにな」ったわけではない。これは何だったっけなあ。朝の中央線車中、ヘッドホンから YMOの「以心伝心」が流れていたときだったのだけど、何だったっけなあ。まあ、わるいことじゃないですよ。

Walking: 3.5km • 4,328 steps • 52mins 24secs • 164 calories
Cycling: 2.7km • 14mins 9secs • 59 calories
Transport: 69.5km • 1hr 31mins 8secs
本日の参照画像
(2017年4月28日 08:59)

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/ 24 Apr. 2017 (Mon.) 「米朝と志ん朝、ニュートラルなふたりの相似」

ロビン。抱かれて。2009年12月。

先日観に行った米朝一門会についてのツイートと、そののち更新した日記の更新告知ツイートとを、「米朝一門会」で検索して行き当てたものだろうか、@onlygoodnessさんという方に思いがけずリツイートしてもらった。@onlygoodnessさんについてはプロフィール欄の記述から知れるわずかばかりのこと──上方落語(おもに米朝一門)のファンで、京都在住らしいこと──しか知らないのだが、なんだかうれしくなって、二、三の会話も交わした。
で、それをきっかけに過去の自分の日記をいくつか読み返したりもしたのだが、思っていた以上に、こと米朝にかんしては「あんまり書いてない」のだった。だから、ちょっと書いておこうと思ったのが以下の話。とりとめならないし、べつに目新しい話でもない。
どこで読んだものか、いまその出典を探し出せずにいるのだが──記憶では、米朝の何かの噺のビデオパッケージに付いていた、米朝自身による作品解説じゃないかと思うのだが──、「上方落語には、もとは別個の二つの噺を無理やりくっ付けるという成り立ちかたをしているもの、そのために前半と後半で趣きが大きくことなるものが多い」といったような趣旨のことを、米朝が書いていたのがやけに印象に残っていて、その指摘がわたしの上方落語理解のひとつの礎になっているところがある。そうした噺にはつまり、本来は異質な二つの噺の接合面があって、「くっ付ける」の接頭語を借りてわたしのイメージを言うならば、〈くっ、となってる〉部分がある。そのフォルムの具合を指して、米朝が「ヘン」と言っていたか「いびつ」と言っていたか、はたまたそうした評価は何も言っていなかったか、その記憶はなおのことあやふやなのだが、ともあれわたしには米朝が、上方特有の噺のフォルムのいわば「ヘン」さを、「ヘン」さのままに──もちろん近代的な演者の立場から、そうした〈変調〉のある噺をあくまでひとつの統一された噺として違和感なく処理するために苦労させられつつも──愛しているように思われたのだ。
だからたとえば自作の「一文笛」にしても、あれがああしたかたちをしているのは、ひとつにはそうした〈接ぎ木的な自在さ〉への意識があったからだろうと思われる。
わりあい気に入ってる文章なので、自分で何度も引用していて申し訳ないのだが、

▼かつて我々が「プロレス」だと思い、それゆえに「プロレスが好きです」と言ってきたものが、今となって実は「猪木」だったと分かるように──喩えて言えばそういうことなのだが──、ひょっとして我々が「上方落語」だと思っているものは「桂米朝」なのではないか。そう思ってしまうだけの名人が、目の前なのだった。
コーナーの日記/2001年GW特別篇「今しばらくの、うわの空」

というこの 2001年5月の日記(大阪・トリイホールで「古手買い」と「肝つぶし」を聞いたときのもの)で、「猪木」と「プロレス」の比喩を使ってわたしが言っているのは、逆から言うと、われわれが享受し、堪能する「桂米朝」なるものは、ことによると本来の「上方落語」的なものからは遠く隔たった何かなのかもしれない、ということでもあった。そしてそこにおいて、「米朝」的なるものと、「志ん朝」的なるものとが結びつく。「似てる」という物言いの〈何も言ってなさ〉にひとまず目をつぶっていただくならば、端的に言って、志ん朝は米朝に似てるのであり、米朝は志ん朝に似てるのだ。
これは 2001年11月、東京の日経ホールでの独演会(「天狗裁き」「たちきれ線香」)をいっしょに聞いた長兄が、その後に送ってきたメール。

達者で、上品で、明るくて、
人情噺でも泣かせに走らず、どこか突き放したような
ニュートラルな心地よさとでもいうか・・
って、志ん朝さんの誉め言葉ではないですか
方言の違いが災いして、うっかりしていました
芸の質が志ん朝に最も近いのは米朝でありました
志ん朝さんの喪失感1]を味わった諸兄は
米朝さんに行きましょう

たちきれ線香、小糸の三味が流れてサゲまで数分、
妻子を見捨ててきたに足る2]
至高の時間でした

1:志ん朝さんの喪失感

志ん朝の急逝は 2001年10月。「この『戦後』には、志ん生がいない。」とわたしはその日の日記に書いた。

2:妻子を見捨ててきたに足る

茨城県在住である長兄は、娘の誕生日でもあったこの独演会当日、さらには嫁が四十度の熱をだして「どうか行かないでくれ」ともっともなことを言うそのなかを、逃げるようにして東京に出てきた。

両者の高座が「似ている」ことについて、わたしは長らくそれ以上の言葉を持っていなかったのだが、そんななか、『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻にあったこの文章にはちょっとどきりとさせられた。

 さらに大阪のつらいところは、明治以来、標準語教育のおかげで、東京弁はよくわかるが、大阪弁は、関西一円しか通用しない。これも東京落語に押されるゆえんであろう。
 ただし、これは別の見方ができる。江戸落語は江戸の方言、東京の言葉でしゃべられた。大阪は上方の方言でしゃべられた。それが、標準語というものができたために、東京の言葉もこれに影響されて、本来のニュアンスが失われ、普遍的ではあるが、味わいの薄いものになってしまった。元来の江戸言葉でしゃべられたら、おそらく現行の大阪弁よりもっとわかりにくいのではないかと思われる。
桂米朝「上方ばなし『上方落語の前口上』」、『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻、p.148。初出は「上方趣味のなにわ」昭和31年8月号。太字強調は引用者。

 さすがは米朝、見ている時間の射程がちがう。文章の初出は 1956(昭和31)年であり、ここで「本来のニュアンスが失われ」ているはずだと言われている江戸落語は、何も〈昭和の名人たち以降のそれ〉というわけではなく、〈昭和の名人たちそのもの〉のことである。
 さてそこで、志ん朝だ。亡くなったとき、「これで江戸言葉が消えた」といった言われ方もされた志ん朝だが、そういう存在である志ん朝なればこそ、「(江戸言葉の消えゆく)現代」との対比においてではなく、むしろ「元来の江戸言葉」との関係においてこそ捉えられるべきなのではないか。この文章が教えてくれるのは、そうした視座だ。
 つまり、志ん朝の江戸/東京言葉がわれわれの耳に心地よかったのは、たんにその生粋のしゃべり手であったからなのではなく、ニュアンスの〈淵源〉をも覗き得た生粋のしゃべり手として、そのローカル性を〈普遍〉の側へと開いていく意識も持っていたからなのではないか。そう考えたときにあらためて、〈ローカル〉と〈普遍〉との両方を眼差すことのできた「ニュートラル」なふたり──米朝と志ん朝──の相似を、そこにおいても見ることができるのではないかと思ったのだ。
それにしても、米朝の見ている時間の射程は遠い。『米朝落語全集 増補改訂版』の刊行を終えた 2014年、米朝が「あとがき」の最後に寄せるのはこうした言葉だ。

 昔から申してきましたが、私は落語という芸はどんなに時代が変わろうが、なかなか滅びるもんやないと(おも)てます。なにしろ世界に類のない話芸でっさかいな。けど、それをうまいこと高座にのせられるかどうかは、すべて演者次第。
 百年先、二百年先の噺家(はなしか)に、この本が少しでも役に立ったら幸いです。
桂米朝「『増補改訂版』完結に接し(新版あとがき)」、『米朝落語全集 増補改訂版』第8巻、p.284。ルビは原文。

Walking: 3.5km • 4,770 steps • 49mins 42secs • 165 calories
Cycling: 2.7km • 13mins 10secs • 58 calories
Transport: 69.3km • 1hr 12mins 14secs
本日の参照画像
(2017年4月27日 19:14)

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/ 21 Apr. 2017 (Fri.) 「米朝一門会 / 最近の図書館事情 / 罅自慢」

ムーミンマグカップごしのロビン。2009年7月。

わたしも、もっとこう欲のない日記を書きたいものだと、何年かぶりの(桂)ざこばの高座に接したいま、しみじみ思っている。
というわけで、今日も今日とて仕事を放り、向かった先は新宿・紀伊國屋ホール。桂米朝一門会。

強情灸 桂りょうば
代書 桂雀太
一文笛 桂ざこば
〈仲入り〉
蛸芝居 桂米團治
鹿政談 桂南光

 りょうば、雀太はともにはじめて聞く。りょうばは枝雀の長男で、2015年に遅まきながらざこばに入門。雀太は雀三郎の弟子(枝雀の孫弟子、米朝のひ孫弟子)で、2016年の NHK新人落語大賞を本日の演目「代書」で受賞している。
とにかくよかったのがざこばだ。ざこばの「一文笛」は 2012年、米朝一門夏祭りのときに大阪で一度聞いていて、そのときも「いいじゃん、ざこば」と思ったものだが、今夜はさらに上回ってよかった。いや、構成力という点で言えば 2012年のときのほうがより入念だった印象があるのだが、そうした、「こう話してやろう」というような欲がいよいよ消えて、今夜のようにただただ真っ直ぐに演られてしまうとなれば、これはもうどうもこうもなくて、こちらにはなす術がない。
 よく知られるように「一文笛」は師匠・米朝の作った新作(設定は明治で、擬古典)なのだが、ざこばの「一文笛」にわたしが泣かされてしまうのは、そこに〈師匠・米朝との対話〉を聞くからでもある。おそらくだがざこばの「一文笛」においては、「ワイこれ(スリ)しかでけへんねん」という秀がざこば自身に、彼を諭そうとする兄貴が米朝にそれぞれ重ね合わされていて、ざこばは秀のセリフを借り、「こういうふうにしか落語ができない自分」というものを、圧倒的に正しく大きい師匠の背中にむかってぶつけているように思われる。そしてさらには年々、そのぶつけ方にもざこばのなかで変化があるのだろうと想像されるわけだが、2017年の今宵はもうざこばも米朝も渾然として、だからそのぶん、サゲの「じつはワイ、ぎっちょやねん」には前にも増して、〈米朝のドライさ〉が降りてきていたように思われる。
米團治もよかった。こちらもたぶん 2012年以来だと思うが、着実によくなっている──と言いますか、何より楽しそうに演っているさまが、よりダイレクトに高座のよさにつながるようになってきている──と感じられ、うれしい出来だった。
そして南光。南光の「鹿政談」も二度目で、前はこれも 2012年、弟子・南天の襲名披露興行の折りの、ヒザ(トリのひとつ前)での一席だった。そのときの「鹿政談」が、とにかくすげーよかった。いっぽう今夜はトリで、そのぶんフルボリュームといった内容の高座である。総合点ではそれでも 2012年の高座に軍配を上げたい──それはまあ、ヒザという出番が要請する〈軽さ〉と、それでもなおかつ弟子の披露目にあたって、あとに控える弟子に真摯に勝負を挑むというような〈意気〉の、両面がともに奏した出来だったのかもしれない──が、もちろん、今夜は今夜で存分に聞き、とても気持ちよくハネる。総じて、とても幸福な夜だったと想像していただきたい。

@soma1104: はい。ぼくならもう、大丈夫です。米朝も枝雀も、不在としてそこにいるのではもうなくて、何ていうんでしょうか、みんないましたから。ぼくも落語も大丈夫です。かれらがいますから。そんな夜でした。米朝一門会。ほんとうによかったです。
2017年4月22日 0:10

今夜誘っていっしょに観にいったのは「ポ姉」こと、近藤(久志)君の奥さんのシノハラさん。「なぜ、おれじゃないんだ」と近藤君は言うかもしれないものの、まあ、しょうがないじゃないか。しばらく前、ポ姉がそのツイッターで、映像を見てはまったらしい枝雀について連投していたのも誘った遠因としてある。で、ポ姉のアカウントにはいま鍵がかかっているのだけれど、許可を得たので、今夜の感想ツイートをいくつか引いておきたい。というのも、けっこういいこと言ってる(うれしいこと言ってくれてる)からだ。たとえばこんなの。

@po_nee: 噺を進めていく身ぶりや落語の所作というものとは異なる、アクロバティックな身体のリズムや、脱線していくように見える動きが、それでも落語の噺のなかで成立する。それが力強かった。枝雀のグルーヴ感に垣間見えた闇、危うさは枝雀だけの身体性なのだなともまた思う。
2017年4月21日 23:26

 前後の流れからするとたぶん、直接的には雀太の高座についてのツイートと思われるが、なるほどね。で、南光についてがこれだ。

@po_nee: みんなお初だったけれど、南光はもうなんでしょうね、トリプルアクセル、4回転、トリプルアクセル、4回転、4回転、4回転、トリプルアクセル、トリプルアクセル…みたいなずっと高度な芸のその連続性のなかに南光がいて、で、突然の「はぁ!?」に10.00!!!!!!!!!ってなるやつでした…
2017年4月21日 23:39

 いやまあ、「突然の『はぁ!?』」ってのが何を言ってるのか、噺を聞いてないと(聞いてても?)わからないでしょうが、これ、終演後の会話ですでに意気投合済みなんだけど、ポ姉もまたわたしとまったく同じ鑑賞ポイントにめざとく注目していてくれたのであり、それがとてもうれしかった。「ずっと高度な芸のその連続性のなかに南光がいて」というのも、「うんうん、そうそう、そうなのよ」と握手を求めたくなるところであって、今度ぜひ、笠木(泉)さんも交えて一杯やりたい。

@soma1104: @po_nee うん。そうなんだよ。僕が代わりに「ありがとう」と言いたくなる感想だけど、でね、南光はね、ぜったい5回転飛べるんだよ。それを観るために僕は通ってる。(4回転半は観たことある。)
2017年4月22日 0:04

 ちなみにわたしのリプライにあるこの「 4回転半」というのは、2014年6月、立川生志の会に助演したときの「胴切り」を指している。これがすごかった。「まさか」とお思いになるかもしれないが、その夜、わたしは「胴切り」(荒唐無稽な、非常にくだらない噺)を聞きながら、その多幸感ゆえに泣いたのだ。
てな感じで、いい加減長いのでそろそろ切り上げようと思うが、ついでにもうひとつだけ、見巧者によるこんな指摘も拾っておきたい。そうそう、そうでしたねという、ほんの些細な内輪ネタ。

@mkawakami3: りょうばさんの噺には「関口の隠居はん(=ざこば師)」が、ざこば師匠の噺には「前田という名前の医者(=枝雀師)」が登場。さりげなく一門の結束を感じることができ、きっと米朝師匠も笑顔で見ておられたに違いないと、暖かい気持ちで会場を後にしました。
2017年4月21日 23:37

会がハネて、iPhoneの機内モードを解除したところで南波(典子)さんからのリプライを知る。前回の日記で図書館について、「装幀がない」とうっかりしたことを書いたわたしへの指摘だった。

@otocin_t: @soma1104 本のカバー、今はほとんどのところで外してないと思いますよ!オビや箱も、「これはないとまずい」というものは(それをどうやって判断するのかは難しいところですが)残しているんじゃないかと。お近くに図書館があったらぜひ覗いてみてね。私が行ってみたいのは武蔵野プレイスです。
2017年4月21日 21:05

@soma1104: @otocin_t そうなんですね。あんまり利用しないのと、しても古めの本を借りることが多いためか、知りませんでした。あとまあ、行くときはたいがい目的が定まってて、あんまり見て回ってないからか。武蔵野プレイスというと、武蔵野にあるんですね?笑
2017年4月21日 22:01

@otocin_t: @soma1104 はい、武蔵野です。むさしさかいです。
2017年4月21日 22:24

 そうだったかあ。
 前回の日記でその冒頭に『薔薇の名前』からの引用を置いたのはつまり、「図書館といえば」って感じで想起されたのが『薔薇の名前』だったからだが、ことほどさように、わたしの「図書館」理解はそこ( 1327年、教皇ヨハネス22世時代の北イタリアにあるカトリック修道院)で止まっているのであり(笑)、最近の事情となればはなはだ暗い。行ってみようかなあ、武蔵野プレイス
ちなみにいま、利用する機会のあるのは立川市の中央図書館というところだが、そこの貸出システムの簡便さには少なからず衝撃を受けた。基本セルフサービスで、登録者カードのバーコードを読み取らせたのち、本は無造作に、所定の枠のなかに何冊でもまとめて置く。それでもう書名だの冊数だのが認識されて、タッチパネルの案内を二、三押すうちに貸出完了なのだった。なんてこったい。

iPhoneの画面の罅についてはとくに進展なし。罅そのものはこころなしか進行しているように見えなくもないが、アップルストアに行く時間も取れず、そのままにしている状態。
で、罅についてここで報告したところ、リスナーのひとりからは右の写真が送付されてきた。これはなんだろう、「罅自慢」か。右がたぶん iPhone5で、左の「 SONY」とあるほうは Xperiaだと思われる。iPhone5の完膚なき罅も見事だが、それと並べられることで伝わる、Xperiaのほうの「けっきょくやっちまった感」も捨てがたい。何よりの問題は、いまこの写真を撮っているところの iPhoneはどうなのかということだが、それがまだ無事であることをわたしは祈ってやまない。
でもなー、割るんだろうなー、そのうち。このひとは。けっけっけっけっ。

Walking: 5.6km • 7,630 steps • 1hr 21mins 11secs • 267 calories
Cycling: 2.8km • 16mins 26secs • 61 calories
Transport: 68.8km • 1hr 20mins 35secs
本日の参照画像
(2017年4月23日 06:02)

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/ 18 Apr. 2017 (Tue.) 「あてずっぽう / 南波さんという装幀 / 兵藤先生の『太平記』」

キッチンワゴンに乗るロビンとポシュテ。2009年6月。

松風(イメージ)。嘘。猪名川政之助という天保年間の力士の浮世絵。

罅はこんな感じ。

兵藤裕己校注『太平記』第1巻(岩波文庫)

「唯一の過ちを考え出すのではなく、たくさんの過ちを想像するのだよ。どの過ちの奴隷にもならないために」
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』

帰り途、自転車を漕いでいるときにズボンのポケットから iPhoneを落とす。しっかり突っ込んでいなかっただけのうっかりと思われる。歴代を使ってきたそこそこの期間においてはじめて、画面に罅が入った。「大場(みなみ)さんは猿が好き」とあてずっぽうを書いたこと(時系列で言えば、書こうとしていたこと)への、ばちが当たったのかもしれない。

【あてずっぽうの語源・由来】
江戸時代、根拠もなく推し量ることを「当て推量(あてずいりょう)」といい、「あてずい」とも略された。
これが擬人化され「あてずい坊」となり、変化して「あてずっぽう」となった。
当てずっぽう(あてずっぽう) - 語源由来辞典

 するもんだねえ、擬人化。
 というわけで調べてみると当ては外れたが、音の連関でもってつい、相撲の稽古にある「てっぽう」を浮かべないでもない。「てっぽう」よりもさらに威力を増す「ずっぽう」(自然の理に逆らわないの意で「随法」の字が当てられることもある)。これを正面から「当て」にいく「あてずっぽう」は、怪力とともに俊敏さでも売った初代の松風(江戸中期)が得意とした。
 というのはどうか。
「どうか」じゃないよ。
猿は好きでも嫌いでもないそうです。🐵
南波(典子)さんの日記( 18日付)が更新され、こないだ書いた「中学のときに何を読んでいたか問題」についての言及がある。いやまあ、

本なんて全然読まないよー、長い文章苦手だよー、という生徒から、称少年くらい本を読む生徒まで、すべての生徒に喜んでもらえる選書をしなければならないからです。
2017.04.18 Tuesday「本に囲まれて」 | しいたけ園←ブロッコリー

とかあって、「称少年」の実像を(おぼろげにも)知る身としては、どうも「非常に買いかぶられてる」感がぬぐえず、申し訳ないような気分になっている。ちなみに称少年(だけでなく、いまにいたるまでわたし)は、いわゆる速読はできません。また、本をたくさん読んでいるというのも、おそらくは「錯覚」です。実態としては、「本が好き」というよりも「本屋が好き」というほうが近いのかもしれません。
じゃあ、「本屋が好き」という者にとって図書館、図書室はどうなのかってことですが、まず基本、そこには「装幀がない」1]ということがあります。

1:そこには「装幀がない」

オビは言わずもがな、一般に箱やカバーといったものは外されて配架されている。いや、「装幀」はそれだけじゃないってことはあるでしょうが、狭い意味では装幀がない、もしくは欠けている。

 まあ、装幀云々を言う心の根っこにはどうしたって「所有欲」があるわけで、その意味では、このブーイングを図書館がまともに受け取ろうとしたところで甲斐はないのかもしれませんが、ただ、装幀の美しさというのはたしかにあって、コミュニティスペースとしてはときに装幀を扱ってみるというのも、〈出会い〉のきっかけとして有用かもしれません。
 またいっぽうで、装幀がないそのぶん、「あそこには()が詰まってる」というイメージもあります。さらに言うなら、「本屋が好き」と「本が好き」の根源的な差異がここにあるわけですが、そもそも、買って手元に置いたところで、また読んだところで、本なんか〈所有できるもんじゃない〉という感慨があるのもたしかです。いやまあ、その感慨を中学生に持てというのは多少無理がありますが、そうした〈所有できるもんじゃない〉何かを象徴し、想起させる装置として図書館というものはあるような気がします。
 そしてここで、より広い意味での装幀(ブックデザインの意味にまで押しひろげたそれ)を考えるならば、いったいどこからが装幀で、どこまでが本文なのかというのは、にわかに線引きができないものともなります。
 だんだんと何が言いたいのかわからなくなってきましたが、一足飛びに結句を言うならつまりこういうことです。南波さんのつとめる図書室(? なのかな?)においては、南波さんこそがその「装幀」になりうるのです。そして南波さんならば、きっと素敵で、気楽な装幀になってくれるのだろうと思っております。
きのうの「語り芸パースペクティブ」を経て、あ、そういえばどうしてるだろう(何か新しい著作とかはあるのかな)と検索したのが「兵藤裕己」先生の名前だ。わたしが成城大学の学生だったときの、日本中世文学の教授。いまは学習院大学にいるらしい。もともとの研究対象は「平家物語」で、著作には『琵琶法師──〈異界〉を語る人びと』(岩波新書、2009)、『演じられた近代──〈国民〉の身体とパフォーマンス』(岩波書店、2005)、『〈声〉の国民国家・日本』( NHKブックス、2000/のち、講談社学術文庫、2009)などがある。
で、検索してはじめて知ったのだけど、あったよ、最近の仕事が。2014年から刊行がはじまった岩波文庫の『太平記』(全6巻)の、校注を兵藤さんがつとめているのだった。最終・第6巻が 2016年10月に出て、完結したばかりである。「校注」というとちょっと控えめな存在のようにも聞こえるが、どうもその熱量は半端でないらしい。そもそも、近代的な意味での「作者」が存在せず(だから「作者の死」なんて悠長なことも言っていられず)、「諸本」というかたちで伝わるテクスト群(無名で無数の作り手/語り手たち)を相手にしなくてはいけないのが中世文学なのであって、まあ、底本はあるにしても(古態を伝えるとされる「西源院本」が底本とのこと)、それに詳細な註と解説を付してあらためていまに伝えようとするこれは、いわば「兵藤本」とも言えるようなものじゃなかろうか。うん、面白そう。

Walking: 5.9km • 8,202 steps • 1hr 20mins 7secs • 280 calories
Cycling: 1.3km • 6mins 48secs • 29 calories
Transport: 80.3km • 1hr 49mins 42secs
本日の参照画像
(2017年4月20日 20:33)

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/ 17 Apr. 2017 (Mon.) 「語り芸パースペクティブ第一回 / そのあと吉祥寺へ」

「ヒロイさん、めしはまだかね」のロビン。2009年6月。

語り芸パースペクティブ第二回「節談説教を聞く会」のチラシ。

篠田正浩『河原者ノススメ──死穢と修羅の記憶』(幻戯書房)

篠田正浩『路上の義経』(幻戯書房)

終わらない仕事をなかば放り投げて、向かった先は亀戸文化センター。「玉川奈々福がたずねる語り芸パースペクティブ〜この国の物語曼荼羅〜」。これから来年 2月までの全11回、だいたい月イチのペースで開催される企画の本日が第一回。第二回以降は、節談説教、説経祭文+ごぜ唄、義太夫節、講談、女流義太夫、能楽、上方落語、浪曲、江戸落語といった具合にさまざまな語り芸の実演家を招いていく。各回ごとの予約も予定されていたものの、それに先立って発売された通年パスポートが即日完売、すでに残り枠はキャンセル待ちしかない状態らしい。ためらわず予約しといてよかったよ。しかも、届いた通年パスポートの名前欄のアタマには、通し番号らしき「 058」の数字がある。会場である亀戸文化センターの和室は定員が 60なので、ことによると、すごくぎりぎりだったのやもしれない。
ちなみに、次回の第二回のみ会場がカメリアホールなため、この回だけはまだ予約が可能。節談説教(節談説教は浄土真宗用語とのこと。フシを付けて法話を語るもの。本邦のすべての語り芸の母胎となったとされる)を扱うその回は、実演ゲストが説教師の廣陵兼純さん(浄土真宗大谷派満覚寺住職)。なにせふだんは各地の寺に依頼されて説教を行っている方なので、スケジュールが公開されているわけでもなく、自力で聞く機会を得ようというのはかなりむずかしい。これ、すげー楽しみ。

超アコガレの、廣陵兼純先生をお呼びできる!
その喜びに、奈々福はこの回のみ、カメリアホール(キャパ400人)を押さえちゃいました(無謀)。
奈々福が過去聞いた中で最高の声節、そして、語り芸としての愛嬌、あたたかみ、懐の深さ……素敵な素敵な廣陵先生を、一人でも多くの方に聞いていただきたいです。
今年の渾身企画発表。奈々福の語り芸パースペクティブ!: ななふく日記

通年企画のスタートを言祝ぐ第一回の今日は「日本芸能総論」。『河原者ノススメ』や『路上の義経』の著作でも知られる映画監督の篠田正浩さんがゲストで、そのお話を伺う。間際になってやっと『河原者ノススメ』を図書館で借りはしたものの、けっきょくほとんど予習できないまま今日を迎えた。以下、メモ程度に。
田舎芝居の「さしたる用もなかりせば……」にも象徴される、この、われわれのなかに抜きがたくある「判官贔屓」とはいったい何なのか、という大きな問いをまず投げたうえで篠田監督は、安宅(勧進帳)、橋弁慶、さんせう太夫(山椒大夫)といった物語の種々(くさぐさ)をみずから「語る」ように案内していく。

  • 能の「安宅」においては、義経の役は子方(子役)がつとめる。能における子方は、一般には神や天皇の役を担うもの。
  • 弁慶がより Greatであればあるほど、義経はより Nobleになっていく。
  • 判官贔屓とはつまり、〈勝者が悪である〉とする考えであり、〈敗者の正義〉に寄り添う思想。
  • 「京の五条の橋の上」と小学唱歌にも歌われた義経と弁慶の出会いの物語において、広く一般に流布されているのは「弁慶が千人斬りを行っていた(そしてその千人目が牛若)」という『義経記』由来の語りだが、能の「橋弁慶」はそれと異なり、五条大橋で夜な夜な辻斬りをはたらいているのは牛若のほうである(弁慶はその人斬りを退治しようとやってくる)。千人斬りのことを知った母・常磐御前は牛若を呼び、悲しんで、弘法大師伝来の笛を渡して諭す。その場は母の仰せに従った牛若だが、抑制できない殺意を抱え、また五条大橋へとやってくる(観世流「笛の巻」)。幼少の義経が経験した悲惨を思えば、こちらの物語のほうが真に迫っているだろう。
  • 森鴎外が「山椒大夫」として小説化した安寿と厨子王の物語の原話、説教節の「さんせう太夫」についてひとしきりそのストーリーを語ったうえで監督は言う。説教節「さんせう太夫」においては、主人公・厨子王が手にすることになる〈パブリックな権力〉こそが最大の悪である、と。「ひと引きひいては千僧供養、ふた引きひいては万僧供養、えいさらえいと引くほどに、百に余りて六つの時、首は前にぞ引き落とす」。
  • 権力のふるう暴力への恐れこそが、物語ることのつよい動機となる。そして語りはつねに、それら無名の民の恐怖・喜び・快楽を語ることをやめない。
  • 日本最大の怨霊、菅原道真の物語についても。道真や将門など、日本史は数多の怨霊を生み出してきたが、しかしなぜか、義経だけは怨霊にならない。もしかすると、義経は圧倒的な量を語られることによって成仏できたのかもしれない。

休憩を挟んで最後に、奈々福さんが聞き手になっての対談。「近年の語り芸においては〈泣き〉の比重が下がり、〈笑い〉に偏重していく感じがある。本来〈お涙頂戴〉と呼ばれた浪曲=浪花節においてさえその傾向は顕著だが、それはどうしてなのか」という奈々福さんの問いに、監督は即座に、それは戦争が飛行機と戦車のものになったからだよと答える。戦争の形態が変わり、目の前の敵に向かって突撃するかつての肉弾戦から、いまや敵の姿を想像することも困難なものへと変貌した、その変化にともなうものだというような趣旨の発言。ほんとの悲惨というのは、見えないものなんだよとも言い、投下から 30秒で人間が影と消えてしまうその悲惨を、いったい映画はどう描けるのかとつづけた。
また、連綿とわれわれのなかにあってアイデンティティの確保に寄与してきた「祖先崇拝」というもの──万系一世の天皇という物語を生んだのも根っこはこれだ、と監督──が近年ではほどけつつあり、葬儀も簡素化されて、火葬場のみでいいという人たちが現れていることに言及したあとに監督は、間髪おかず、「ぼく自身もそれでいいと思ってます」とカラッとした声で言う。「死後にどうこうではなく、とにかく生きてるうちにサービスを受け、こちらもサービスする。それがいちばんなんです」というその晴れやかな言葉のうちに響くのは、やや矛盾をはらんで聞こえるかもしれないが、いわば〈語りからの解放〉を願う心であるように、わたしには聞こえた(もちろん、そのような解放が可能かどうかはべつとしての「願い」だけれど)
そして話題が小津安二郎に及ぶと、けっして〈物語る〉ことができないセリフ──挨拶とその応答しかないようなセリフ──を書き、役者に言わせたのが小津なのだ、というふうに監督は指摘する。小津さんはロケのとき、フレームのなかに富士山と松の木が入ってくることを徹底的に嫌がった、と。
てな感じかな、ノートに残ってるメモだけで言うと。あるいは趣意を聞き損なってる箇所もあるかもしれず、もちろんすべてのメモ責(文責)はわたしに。
で、亀戸をあとにしてつぎは吉祥寺へ。大場(みなみ)さん──せんだってついに『悲劇喜劇』にも載ったという、わが愛しの河原者──と落ち合い、10時過ぎからしばし飲む。大場さんはゆうべからいろいろあって、それでへとへとになっているようにも、ただ酔っ払っているだけのようにも見える。エイプリルフールにおけるとっておきの嘘の話、シン・ゴジラの話、初代ゴジラの話、白子(「いつ高」)の話、黒沢清は黒澤明の息子じゃないよという話、などなど。
「白子」について書いた先日の日記は大場さんの出演作についてはじめて〈ちゃんと書いた〉日記であり、それ以外、これまで「大場さん」の名をここに呼び出すときにはたいてい〈あることないこと書いてる〉ことが多かった。それで、「書くことがないときに、箸休め的に(大場を)使ってるでしょ」と指摘されたわけだが、たしかにそういう面はあるかもしれない。「だからいーんですよ、今日は。『語り芸パースペクティブ』の話がたっぷりあるんだから無理に大場を出そうとしなくて。どうせあることないこと書くんだから」とも諭されたわたしは、だから今日のところはもろもろの会話や、大場さんがどれだけ猿が好きかなどを詳述することはやめ、後日の箸休めのためにとっておこうと考える。

Walking: 3.3km • 4,881 steps • 52mins 8secs • 157 calories
Cycling: 1.1km • 4mins 45secs • 24 calories
Transport: 82.3km • 1hr 58mins 20secs
本日の参照画像
(2017年4月19日 20:00)

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