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Nov.
2007
Yellow

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/ 8 Nov. 2007 (Thu.) 「全角スペースの謎」

熊谷(知彦)さんのブログより。

相馬さんの感想を見ていたら、説明のつかない事態に困惑している自分自身が救われた気がした。
何でもひとり 「一つの可能性」感想

 救ってしまった。
 で、そのこととはまったく関係ないんだけど、前から疑問に思っていることがひとつあって、それはこの熊谷さんのブログのタイトルだ。目に見えて意識されるのは「何でもひとり」なんだけど、これ、じっさいには(裏側というかソース上では)「何でもひとり                                 」というふうに大量の全角スペースがうしろに入っている。何かしらの理由があるのだろうと想像するが、どういった理由なのかよくわからない。たとえばトップページにある見出しには「熊谷知彦公式ブログ『何でもひとり』へようこそ!」というふうにあるから、全角スペースを含んだかたちが正式名称、ということでもないだろう。

071108_hitori1.png

 上がそのタイトル部分のスクリーンショットだけれど、タイトルのテキストにマウスを載せるとリンクの下線が現れてわかりやすいように、じっさいには下のように折り返されて2行になるほどの空白が挿入されている。

071108_hitori2.png

 で、あるいは、と想像するのは、タイトルとその下の文字(「今月は、ヨガ強化月間!」)との間を空けたいと考えたのではないかということで、タイトルに余分な全角スペースがない場合、おそらく下のように表示されるはずだ。

071108_hitori3.png

 わからないが、熊谷さんのなかでこれじゃくっつきすぎだなあという判断があり、どうやったら間隔を広げられるだろうと考えた結果、行が折り返されるだけの全角スペースを入れた、ということはあるのじゃないかという私の推理だ。
どうでもいい話で申し訳ないけど。

北田(弥恵子)さんのブログより。

LIVEに来ていた相馬さんから句会の冊子をいただく。
ぱらぱらとページをめくっては飛び出すことばから可笑しさが匂って
相馬さん自身からもなんとういうか、何かを企んでいるよな油断ならない感じがして
だからか顔をついじっと見てしまう。眼鏡の奥で笑う人だ。
北。:執着 - livedoor Blog(ブログ)

 最後の「眼鏡の奥で笑う人だ」は、それ、字義どおりに受け取るなら、「眼鏡をかけてる」ってことと言ってることおんなじじゃないのかと思ってちょっと笑ってしまった。

(2007年11月11日 16:46)

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/ 7 Nov. 2007 (Wed.) 「うとうと」

映画『眠り姫』(七里圭監督)は11月17日より渋谷・ユーロスペースでレイトショー。

渋谷へ。松倉(如子)さんの歌を聴くのもずいぶんひさしぶりだ。映画『眠り姫』の劇場再公開(11月17日より渋谷・ユーロスペースにてレイトショー)を記念する連続ライブ企画のうちの一夜で、伴奏に渡辺勝さんをむかえてのワンマンライブ。開始から20分ほど遅れて会場に着いた。これも映画との連動企画である写真展が開かれてもいる小さなギャラリーがその会場。途中入場になるので曲の合い間に入ろうと思い、閉ざされている入り口の鉄のドアの前で一曲終わるのを待っていたというのは、つまりふつうのビルの一室なので歌声が漏れ聞こえてくるのであり、することもなく3階の窓越しに明治通りを見下ろしながら、ああこの声だなあという感慨にまずドアの外でしばし浸っていた。入ってみるとお客さんは背凭れのない丸イスに座って10人いるかいないか、とくにステージ然としたものがあるわけでもなく、ギャラリーのフラットな床のあちらとこちらで歌い、聴いているのが、なにやらとてもぜいたくなことだと思わせる〈ふたり〉はしかし、どこかしっかりと〈ステージ〉の上にいて──

 いくら寝ても、寝たりない──

というのが映画『眠り姫』のコピーだが、歌声の効用か、たんに寝不足だったということもあるけど、私は聴きながらうつらうつらまどろみはじめて、それがなおさらひどく幸福であり、まあ何と言いますか、「紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだのかよ俺は」ってぐらいに気持ちよかった。それ、よくわからないけど。
北田(弥恵子)さんがカメラを回したりして働いていた。北田さんには会うだろうと思っていたのであらかじめ用意し、句会の、第一回と第二回のときに作った冊子をあげた。三冊目(こないだの分)は、あんまり進んでないけど鋭意制作中。
あ、結婚を祝って、以前に言っていた「はじまりの浩──浩とオイディプス」をしっかり書くというのはどうかと思いついたのだが、これはまあたぶん思いつきで終わるだろう。
『世界の文学25 ロブ=グリエ「嫉妬」・ビュトール「段階」』が宮城県気仙沼市の古本屋から届く。

本日の参照画像
(2007年11月 9日 00:57)

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/ 5 Nov. 2007 (Mon.) 「ビュトールの『段階』」

ミシェル・ビュトール『時間割』(河出文庫)。

タモリ『タモリ』。

3日の土曜日は、熊谷(知彦)さんの出演するリーディングパフォーマンスライブを観に、横浜のBankARTまで。企画・構成・演出の武藤真弓さんともじつは旧知である。『トーキョー/不在/ハムレット』の演出助手をやる前の一年間、日本劇作家協会が開いていた戯曲セミナーの、そのコント部門を受講していたことがあるが、そのときにいっしょだったひとりが武藤さんだ。リーディングパフォーマンスライブは題して、

 マチネ・ポエティカ「一つの可能性」text by ミシェル・ビュトール『段階』

と言い、このやけに説明的なタイトルの感触からすでに予感されるとおり、作品の成り立ちはひどく複雑だ。というか、素材となっている『段階』という小説がまず、ふつうに小説として読んでも複雑な代物であるらしいのであり、けっこうな分量のあるその小説をある意味〈小説のまま〉切り貼りして90分程度のリーディング作品というより刹那的なかたちに落とし込んでいるのだから、語られる物語の内容についていえばあたりまえのように理解できるわけがないし、そこへさらにスクリーンに投写される文字情報が加わるが、たとえば登場人物たちの置かれた状況、相関関係といったものを説明するその文字情報は、しかしもはや説明が目的であるとは到底思われないほどの量にやがて達していくわけで、それより何より、1500円のチケット代に含まれたワンドリンクでもってビールを手にしてしまっている私はとてもいい気分だ。ストーリーなんか追っている場合ではない。
むろん、これがストーリーを追うことで解の見つかるような物語でないことは、劇中において早々と語られもするのであり、その熊谷さんのセリフによれば(って、記憶はすごくあいまいだからかなり私の言葉でまとめてると思うが)、つまりそこに展開するのは「書くということについて書かれた書物(をめぐる物語)」であって、たとえばわれわれの上をただ滑っていくだけのものも含めてありとあらゆる「情報」を捉え、「すべてを書こうと欲望すること」の、危うい、悲愴な魅力が舞台を貫いている。とくに前半にあった、文章における「現在形」がどこまでの〈現在〉を内包しているかというくだりはしびれたなあ。あたしゃそんな話が大好きだよと、レーベンブロイを口に運びながら、回らない頭を重たそうに抱えて男はひどく上機嫌だったという。
「情報」といえば、極めつきは(この舞台では役者が手持ちのマイクを使うのだが)マイクのノイズだろう。何かと反響してしまうのか、キーンという音がしばしば起こり、そのときの役者の反応からするにおそらく純粋なアクシデントとしてのノイズなのだが、しかしここでこそ、冒頭、熊谷さんが「情報、情報、情報!」と繰り返した言葉が活きてくるのであり、あるいはまたエレクトロニカ以降われわれはノイズを聴く耳を持ってしまったということでもあるのか、それこそ私の無関心によって知覚の外へやられ頭の上を過ぎていく、それを指してはただもう「情報」であるとしか言うことができないような純粋な(!)情報として──それを象徴するものとして──マイクのノイズもまた心地よくパフォーマンスのなかに織り込まれていくのを聴いていた。
武藤さんが『段階』という小説の何に共鳴したのかというその核心について考えるには私はアルコールに弱すぎるが、しかし少なくとも、ものすごくビュトールが読みたくなるという一点においてこの舞台は確実に成功していた。で、翌日ネットを歩き、古本屋で見つけたそれ(『世界の文学25 ロブ=グリエ「嫉妬」・ビュトール「段階」』)を注文する。文庫で入手可能な二冊、『心変わり』(岩波文庫)『時間割』(河出文庫)は街中の大きな本屋で買ってきた。『段階』に関して書けば、とある学術雑誌に載っている短い文章「ミシェル・ビュトール『段階』における話者の死について」というのを見つけたが、少し引用すればそこにはこのようにあって、とてもわくわくさせられる(全文は前掲のリンクをどうぞ)

しかし,ここに奇妙な事が起こる.作品のII部で繰り返されるように,本来人称の転換は表面上のものであり,真の話者はヴェルニエでありつづけたはずなのに,III部の後半になると,そのヴェルニエは膨大な叙述の必要からくる疲労のため死の床に伏し,仮の話者とされていたジューレが「書いているのは私だ」と言明するのである.ヴェルニエ自身が作中で認めているように,広大な現実を描くため事実と想像が入り混じった叙述から,事実だけ,想像だけを取り出すことは不可能であり,それは話者の確定をも困難にせずにはおかない.こうして,作品の最終行で,死の床に伏したヴェルニエが発する「だれがしゃべっているのか」という問いが,まさしく作品を締め括るものとなる.
福田育弘「ミシェル・ビュトール『段階』における話者の死について」『フランス語フランス文学研究』No.43(19831022) p.113-114

で、終演後、武藤さんと少しだけ話したが、開口一番むこうが口にしたのは、12月19日に3作品同時に再発されるタモリのアルバム(『タモリ』『タモリ2』『ラジカル・ヒステリー・ツアー』)のことだ。そのことでもう頭がいっぱいだとさえ演出家は言うのだった。
4日の日曜日は妻と、Wiiのゲーム『スーパーマリオギャラクシー』をやって無為に過ごしていた。と、そうしていたら月曜がちょっとたいへんなことになり、会社に泊まって仕事をすることになる。
しかしまあ南波(典子)さんはうまいというか、ちょっと感動的なまでにあっさり書くなあ。あらためておめでとうございます。

本日の参照画像
(2007年11月 7日 02:53)

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