9
Sep.
2005
Yellow

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/ 27 Sep. 2005 (Tue.) 「気になるクリエイター」

『MACPOWER』10月号・表紙

また肺が痛かった。たばこか。たばこなのか。
自分のサイトを更新しないでいる間は、よその個人サイトを見に行くのも頻度が減る。といってネット環境そのものから離れているわけではない。自分のところを書くまではちょっとよそに顔向けできないといった、よくわからない感覚がある。ブラウザのブックマークを開きつつも、見ている顔の前でカーソルの動きが鈍る。なんだか億劫なようになる。
きのう宮沢さんの「富士日記2」 (新規ウィンドウ) を開いたのも、ちょっとひさしぶりのことになる(今月の上旬に見たきりだったか)。で、そこには「こそこそやる研究会」についての話があり、そのネーミングをめぐって読者の方からメールで案を送ってもらったというようなことが書かれていて、それで自分もネーミング案を送ってみようと思ったのは、ここのところしばらくお会いしていない宮沢さんに、たんにメールがしたかっただけである。ああ、この用件でメールすればいいかと、それでネーミングを考えるものだから、本末転倒で、むろんろくな案はない。まさかまるごと日記のなかに引用されるとは思わなかった。送ってよかった。
その宮沢さんが「ノート 〜コンピュータとMacにまつわる思考の遍歴〜」という連載を持っている『MACPOWER』誌の10月号を買う。左欄に載せたのがその表紙だが、そこには、文字にすると次のように書かれている。

あの人が気になっている、
あのクリエイター特集。

テイ・トウワ
常磐 響
小山薫堂
糸井重里
高城 剛
リリー・フランキー
藤本やすし
小西康陽
桑原茂一
青木克憲
小島淳二
長谷川踏太
桐島ローランド
宮沢章夫
箭内道彦
川崎和男
中村拓志
永島京子
ナガオカケンメイ

 一見すると、「あの人が気になっている、あのクリエイター特集」という企画にこれだけの人が参加しているかのようであり、宮沢さんもまた「あの人」のひとりとして特集記事のなかで気になるクリエイターの名を挙げているかのようだが、そうではない。実際に誌面を見てみると宮沢さんはいつものようにその連載コラムを執筆しているだけで、つまり、上記のリストは連載執筆陣も含め10月号に登場する主だった名前を並べているものだとわかるのだった。ちなみに宮沢さんの今月の原稿は「iTunes Music Store」というタイトルで、その iTMS が日本でサービスを開始した直後に松崎しげるの「愛のメモリー」が売上ランキングの上位に登場したというあの出来事を扱っている。とはいえ、そのコラムは雑誌全体のなかぐらい、ちょうど特集記事につづいてあるような位置に置かれているため、それもまた「あの人が気になっている、あのクリエイター」という枠組みのなかにあって、同じテーマを共有しているかのようにも読めるのだった。つまり、そうした枠組みのなかで読者は「宮沢章夫がいま気になっているクリエイターは松崎しげるである」という強いメッセージを受け取るのだったが、まあ、それは実際そうなのだからしかたがない。

本日の参照画像
(2005年9月28日 12:58)

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/ 26 Sep. 2005 (Mon.) 「ここらで端折る」

9/18(日)
家でのんびり。先日実家に帰ったさいに、しばらく前からiBookユーザーになっている母にアップルの「iSight」 (新規ウィンドウ) をプレゼントした。「iChat AV」 (新規ウィンドウ) というソフトを使っていわゆるテレビ電話をするための専用カメラである。夜、「じゃあ、やってみようか」と電話したのち、荻窪と下館とでテレビ電話。

9/19(月・祝)
所用で立川へ。そのこととはまったく関係ないが、妻が「GAMEBOY micro」 (新規ウィンドウ) の本体と「ドクターマリオ&パネルでポン」、「スーパーマリオブラザーズ」を買う。夜、また下館とテレビ電話。きのうより早い時間帯だったので向こう側には姪っ子たちも現れ、かなり面白がっている様子。

9/20(火)
9/21(水)
9/22(木)
働いていた。ホームページばかり作っていた。

9/23(金)
昼に起き出し、夕方から出掛けて妻の実家に行ったのは明日の法事に出るためだ。途中、新宿で妻は「GAMEBOY micro」用に「MOTHER1+2」を買い、電車のなかで冒険をはじめる。私は高橋哲哉『国家と犠牲』(NHKブックス) (新規ウィンドウ) を読了(これについては後述)。妻の実家では毎度ながらいろいろ食事を振る舞われる。妻の実家のほうでも「パソコンを買ったらどうか」という話(主に妻から母親への働きかけ)は以前からあったが、それをにわかに後押ししたのが「荻窪−下館」間を結んでいま一大ブームを巻き起こしつつあるテレビ電話(iChat AVのこと)で、一大ブームはウソだが、とにかくそれで購入に至る弾みがついてしまった。以前「パソコンを買ったらどうか」という話が出たときに妻が想定していたのはWindowsだが、一転、iBook (新規ウィンドウ) で話はまとまる。「iSight」で「iChat AV」をやりたいという外堀が埋まってしまっているので自然な流れだが、そもそも「会社がWindows」とか「まわりがみんなWindows」とかそうした状況がまったくない環境なので、だったらMacのほうが「なんとなく使えてしまう」インターフェースをもっているのではないかと判断する(なにしろ、岸さんでも使えるのがMacだ)。あとまあ、Macのほうが私がサポートしやすくていいということもあるし。むろんいまはネット環境もないのでADSLも引かなければいけない。夜、私が持っていったPowerBookをAIR-EDGE(旧AirH") (新規ウィンドウ) でネットにつなぎ、アップルストアで iBook(12-inch: 1.33GHz)とその他もろもろを注文する。

9/24(土)
法事は11時から。昼には終わり、食事をして戻る。今度はKDDIのサポートセンターに電話し、ADSLを申し込む。開通までには3週間〜1ヶ月かかるとのこと。そうこうするうちアップルからは商品を出荷した旨のメールが届く。早いよ。iBookだけが無駄に早く届いてしまうことになる。iBookはしばらく箱のままどこかに置かれて、ADSL開通後にあらためて私が来ていろいろセットアップすることになるだろう。夕飯に豚しゃぶをごちそうになってから荻窪に戻る。

9/25(日)
また家でぼんやりとしていた。午後の早い時間に下館から電話があり、また「iChat AV」。やりたがっているのは姪っ子たちである。夜、上山君と永澤に電話。荒川からはかかってきた。それぞれに「iChat AV やろうよ」と呼びかける。上山君は「iSight」はすでに持っているが(だいぶ前に私があげた。そもそもはわれわれ夫婦が結婚前に1個ずつ持ち、テレビ電話をしていたのだが、同居するようになり要らなくなった一方を大阪に越した彼らにあげた)、使うのにOSのバージョンアップをする必要があり、上山君が重い腰を上げてくれるのを待っている状態。永澤はもうすでにやれる環境がある。救急病院に就職し、すっかり忙しい人になってしまったのであとは時間が合うかどうか。荒川は、まあまだちょっと先の話になるだろう。旧iMacを所有しているが OS 9 だし、それは実家に置きっぱなしになっていていま住んでいるところにはネット環境がない。来年1月に新居が建つというので、そのタイミングで新しいMacだの、ネット環境だの、おそらく整えるのだろう。

というわけでいま、時代は「iChat AV」である。あと、「靖国問題」。
ブログのほうの「Yellow を更新しました」の記事コメント欄 (新規ウィンドウ) ではいま「靖国と盆」をめぐり、兄弟で話をしている状態だ(「あ」という署名は「あきら」で私の次兄、「ま」は「まさし」で長兄である)
そのなかの長兄の文章には次のような箇所。

あれは(あの類は)日本に限らず、近代国家というものの根拠付けにとって(それがそもそも無根拠であるが故に)必要不可欠なものなのではないでしょうか。故に近代国家の首相としての行動は、残念ながら驚くに足りず、当然のことであると思います。

 そう、そうなのだ。しかし──、とそこからに問いをすすめるとき、いまなにより参照されるべきは、ふたたび高橋哲哉の『国家と犠牲』(NHKブックス) (新規ウィンドウ) である。「靖国問題」から出発してさらにその根底にある普遍的な問題──「犠牲」の問題──へと問いをすすめ、「さらなる批判的探究の足がかりを作ること」を目指して書かれた同書は、現代日本にかぎらず、国家に普遍的に見られるところの「犠牲」の論理を古今東西の言説のなかに丹念に見つめて、その「克服の困難さ」をあらためて確認する。だから、最終章において高橋は、いったん次のように書かなければならないのである。

 このように考えると、どうしても次の結論は避けられないように思われます。すなわち、いずれにせよ、人は「絶対的犠牲」の構造のなかで決定しなければならないのであって、その外部は存在しない、という結論です。
 (中略)
 非暴力平和主義もまた、「絶対的犠牲」のアポリアを免れるわけにはいきません。平和主義はもしそれがアプリオリに、あらゆる事態に対して自動的に適用されるのであれば、もっとも無責任な態度のひとつになってしまうでしょう。その場合には平和主義は、他者を尊重するように見えながら、実際はいかなる他者の呼びかけにも応答していないといわざるをえません。
 イサクの犠牲は、アブラハムが刀を振り下ろす瞬間にさし止められます。しかし、「絶対的犠牲」の構造が終わらないことは、そこにも示唆されていました。イサクの代わりに別の他者が、すなわち雄羊が全焼の犠牲に供せられたのでした。
 犠牲なき国家、犠牲なき社会、そして軍なき国家、武装なき社会。これらがいかに実現困難なものかが分かります。(太字強調は原文、以下同じ)

 そしてつづけて、「では、私たちは犠牲を要求し、それを正当化し、聖化・聖別さえする(略)国家に対し、批判を断念しなければならないのでしょうか」と問いかける高橋は、しかしそれに答えてきっぱりと態度を表明する。「そうではないでしょう」と。

 私の認識はこうです。あらゆる犠牲の廃棄は不可能であるが、この不可能なるものへの欲望なしに責任ある決定はありえない、と。
 (中略)
 かつて魯迅は『狂人日記』のなかで、「人間が人間を食って」生きている社会の戦慄を描きました。もっとも戦慄すべきことは、「人食い」に戦慄する自分自身がその「人食い」の社会のなかで生きてきたこと、また生きていることでした。「絶対的犠牲」の構造とは、私たちの生と社会のいたるところに「人食い」があるということを意味しています。魯迅はしかし、「人間が人間を食う」社会に絶望しつつ、しかし希〔まれ〕な望み=希望への問いを最後に発したのでした。

人間を食べたことのない子どもがまだいるかもしれない。
子どもを救え!

 私たち自身のなかに、「人間を食べたことのない子ども」への問いを見出すこと。「人間を食べたことのない子ども」への希望を目覚めさせること。

いやまあ、『隠し砦の三悪人』でいえば「裏切りご免!」にあたる部分をごそっと引用してしまっているわけですが、議論の詳細については同書をお読みいただければさいわいです。

(2005年9月27日 12:46)

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/ 17 Sep. 2005 (Sat.) 「荒川の結婚式に出る」

余興で、自身ドレス姿のままベースを演奏する新婦。いっしょに写っている新郎は何をしているわけでもない。
「フラ」を踊るみえさん。
各テーブルの真ん中にはこのようなロウソクが。場内暗転し、このロウソクが七色に光を変えるなか、ディズニー的な音楽に乗って新郎新婦入場という演出があった。

高校の同級である荒川泰久と、里沙さんの結婚式当日。朝8時半にぎりぎり起きてわれわれ夫婦と恭子ちゃんと3人、下館(私の実家)から電車で宇都宮へ。次兄夫婦はそれとはべつに車で楽器等の荷物を載せ移動する。10時15分ごろに会場の東武ホテルに到着。10時半から12時ぐらいまで、実際の会場を使い余興の練習をさせてもらえることになっていて、われわれ3人が一番乗りだったが追ってぞくぞくと「マダムハニームーンバンド」14日の日記に関連記事あり)の面々が集まってくる──田村は栃木から、上山君は大阪から、永澤は長野から、吉沼夫妻は東京から、そして宇都宮それ自体は都心から遠いと言うには憚られるものの近いというわけでもない、つまるところ「面倒」な、微妙な位置にあった──。式は2時半から。時間はない。
神前式につづいては、いまどきちょっと珍しいのではないかというほど、結婚式と聞いて思い描くところのケレン味(イベント性?)にあふれた、そうした意味で「オーソドックス」な披露宴がはじまった。「なんでこの人が私の友達なんだろう」(褒め言葉)という具合であり、また、吉沼の言を借りれば、

もしこれが80年代で、演出の選択肢に「ゴンドラ」があったら、まずまちがいなく乗っていたね、彼らは。

 という按配である。
余興の時間に入り、まずはじめは新婦が所属しているガールズバンド「うらら」の演奏。新婦自らも演奏に参加し、ドレス姿でベースを弾く。そのあと、前日に妊娠が発覚したばかりの目出度い人、みえさん(私の義姉)が単独で「フラ」を踊り、ここでいったん新郎新婦が時間差でそれぞれお色直しのため退席するが、そのさい新郎は槇原敬之の曲を歌いながら退場するというやりたい放題を見せる。新郎新婦が再入場したのちが余興の第2部で、いよいよ「マダムハニームーンバンド」の出番である。
いやー、だめでしたね。いろいろ準備不足というか、考えが甘かった。披露宴の帰り、上山君は「だから、『笑いに来ていない』お客さんを笑わせるのがいかに難しいかってことだね」と、結婚式の余興についての反省の弁とも思えない、ちょっとどうなのかと思うような言葉を口にしていたが、まあ、だいたいそういうようなことである。
やっぱり人形劇はスケールが小さかった。2本向けたスタンドマイクではほとんど声が拾えず、「宴もたけなわ」であるところの各テーブルはうるさい。肉声でなんとか届くのではないかという判断が甘かった。テンポが悪くなろうとマイクは手に持たせるべきだった。頼みの綱は新郎で、事前の要望としては「俺(新郎)を楽しませてくれればいい」ということがあり、まあ最悪そこにだけ伝わればいいかとも考えていたが、どっこい高砂にいる新郎のところにはどんどんと人がビールを注ぎに来てしまうのだった。冒頭の映像(スライド)でそれなりに注意をこちらに惹けるのではないかという考えも当てが外れる。人形劇をやる舞台エリアとスクリーンは離れたところにあるのだが、舞台近くの席でせっかく注目してくれる一部の視線はガタガタと机を準備したり、楽器の音出しをしたりする舞台側のほうへ向いてしまっていて、いざはじまってもなかなかスクリーンに気づいてくれなかったらしい。「それでは後方のスクリーンにご注目ください」のアナウンスが一言あれば、ということだが、考えが至らなかった。そしてまあ、私も段取りと台詞を一部まちがえた。
最後、新郎を舞台に呼び込んで「乾杯」を歌わせるという無理やりな構成が、しかしわれわれを救う。「主役」が歌い出せば、そりゃあ注目は戻るし、盛り上がるのだった。そりゃそうだよ。
というわけでいろいろ反省。もう人形劇はやりません。メンバーのひとりである田村が来年5月に式を挙げることが決まっていて、次の「マダムハニームーンバンド」はもうそこと決まっているが、そのときにはこの反省をぜひ生かしたい。生かしまくりたい。うーん、やっぱり事前に何かビデオ作品を録ってそれを流すだけというのがラクで、手堅いだろうか。
まあ、そんなこんなで、おめでとう荒川君、里沙さん。

本日の参照画像
(2005年9月27日 01:51)

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/ 16 Sep. 2005 (Fri.) 「下館へ。靖国問題ふたたび」

ひさしぶりに新幹線を使い下館へ。

明日に控えた荒川の結婚式は、栃木の宇都宮にあるホテルが会場だ。「マダムハニームーンバンド」の余興14日付けの日記を参照のこと)の準備もあり、今日のうちに下館(茨城)の私の実家に帰る。実家の向かいに住んでいる次兄夫婦も明日の式に呼ばれていて、「マダムハニームーンバンド」のメンバー(音楽班)である。それから、同じく音楽班の恭子ちゃん(上山君夫人)も単身下館まで来てくれることになった。上山君、永澤、吉沼夫妻は都合上当日の朝に宇都宮入りするしかなく(上山君と永澤は仕事。吉沼はなんとかなるらしいが夫人の彩子さんがいま矢内原美邦さんのワークショップに参加していて、それがちょうど今日あり、夜遅くまで横浜にいることになるので無理)、結局全員揃うのは明日の10時半である(式は14時半から)。当初は田村(栃木在住)も下館に来てくれる予定だったが、田村は「マダムハニームーンバンド」の余興とはべつに通常のスピーチもたのまれていて、その原稿を書かねばならないとかで来られなくなった。
音楽班(次兄夫婦と恭子ちゃん)の演奏を、出し物の人形劇のなかでどのように挿入するかといったことをまったく打ち合わせておらず、それを決める作業と若干の練習を兄の家でする。終わったのは未明の3時近く。

で、私はちょうどこの日、この「Yellow」のまとめ書きをはじめていたところで、新幹線のなかで途中まで書いた13日付けの日記をその場でみんなに見せていたりしたが、「靖国問題」を扱ったそのかなり硬直気味の感のある文章を前に、兄はしなやかな口調でこう言ったのだった。

「靖国」ってさあ、あれ、たぶん「お盆」だと思うんだよね。

 よりにもよって8月15日なんかに終戦しちゃったもんだから、日本人としてはつい「お盆」感覚で「参り」たくなるんだよ、とつづける兄の論旨は、つまるところ次のような答えに行き着くところのものだ。

「参り」たくなっちゃったら、(靖国ではなく、個々の菩提寺の)お墓に行けばいい。

「靖国問題」という言説群のなかにあって一見ひどく「のんきな意見」のようにも聞こえるが、しかしこれをきちんとした批評の言葉のなかに置いたとき、たとえばそれは、次のような言葉に連なってくるはずのものなのではないか。

 例えば大災害があったとします。そのときに消防士などが亡くなったときにどうするのか。それを国家が、何らかの施設で「あなたのお陰で」というようなものは今のところはない。戦争の死者だけを、国家はなぜ追悼や慰霊をする施設を求めようとするのか、そこが問題です。国家は何故そういうものを求めるのか。憲法九条で日本は非戦国家だという宣言をした。実態はそうでないとしても、それは武力を持たず、交戦権も否認し、戦争を放棄し、要するに主権国家というものを自ら制限した。これは、二〇世紀途中までの全世界の国民国家のあり方とは異なる国のあり方を指し示した。憲法制定者がどこまで意識していたかはわかりませんが、後の世代はそう受け止めるべきだと思います。国のために死ぬということを、戦後の日本は国家としても個人としても選択していない。だとすれば、そのための国家施設というのはもともと不要です。これは子安宣邦さんの論(『国家と祭祀』)と重なりますが。
 ですから、「代替施設」という考え方自体がおかしい。靖国神社の代替の国立の施設を新たに求めるということは、つまり新たな死者を予定しているということにほかならない。私は共同体の集団的追悼にも疑問を持っています。それは共同体に国家が介入してくる危険性を排除できないと思っているからです。
──「討議 〈靖国〉で問われているもの」(『現代思想』2005年8月号所収)での田中伸尚の発言より。太字強調は引用者。

本日の参照画像
(2005年9月24日 02:47)

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