1
Jan.
2018
Yellow

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/ 31 Jan. 2018 (Wed.) 「月の夜、ベケットとデデが」

月をもう一枚。

新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演のチラシはこんな感じ。

Obeyの代表作として知られる「 OBEY GIANT」。

今日のピーとニボル。

2016年1月のロビンとピー。

流れてきたツイートにこんなものがあり、ああそういうつながりがあったのかと知る。

@yukikonosu: アンドレ・ザ・ジャイアントの映画が来るみたいだけど、12歳で191cmあってスクールバスに乗れなくなったアンドレを、隣人のベケットさんが自家用トラックで送ってあげてた話は前にしたよね?サミュエル・ベケットだよあのゴドーの。 https://www.thevintagenews.com/2017/03/15/samuel-beckett-winner-of-the-1969-nobel-prize-in-literature-used-to-drive-andre-the-giant-to-school/
2018年1月31日 16:49

 去年、「新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演」のチラシを作った折り、まず「 godot flyer」といった言葉で画像検索して『ゴドー』がこれまでどんな扱われ方をしてきたのか確認したのだったが、そのとき、かなり下位のほうだが検索結果に出てきたのがこの画像だった。好みだったので保存し、チラシ、なんかこんな感じのはどうかなあと検討していた記憶がある(たとえばこんな感じのタイトルロゴはどうかとか)。わたしの作ったチラシでは紫色が使われているが、それもこの絵の色使いからの「引用」だったような気がしないでもない(それはさすがに〈いま〉こじつけてるかなあ?)
で、このアンドレの画像──ボックス・ブラウンによるコミックノベル『アンドレ・ザ・ジャイアント──その生涯と伝説』の、フランス語版の表紙らしい──が、なぜ「 godot flyer」に関連付けられて検索結果に出てくるのかということについては、フランス語だったこともあって当該のページをよく読まずにいたから、そのページにどーんと貼られている「 OBEY GIANT」からの想像で、あるいは Obeyがベケットをモチーフにした何かストリートアートも作っているのか? とか、あさってなことを思い浮かべただけで済ませていた。
なるほど。アンドレとベケットは隣人同士だったという、そういう話なのね。検索にひっかかってきたそのページはフランスの公共ラジオ放送「 France Culture」のもので、「ベケット氏とデデ・ロシモフ」と題されたオーディオドキュメンタリーが公開・紹介されているページだった(「アンドレ・ロシモフ」がアンドレの本名で、フランス語「 Dédé」は「 Andre」の愛称とのこと)

パリから一時間、ヴァレ・ド・ラ・マルヌ地区のなかほどに位置し、ユシーの村の北側にあたるモリアンという集落は、ノーベル文学賞の受賞者であるサミュエル・ベケットと、プロレスの三冠世界チャンピオンであり、Obeyの手でストリートアートの象徴ともなったアンドレ・ザ・ジャイアントという二人の外国人をよろこんで迎え入れた。農村の住民たちは、自身の知る〈小さな物語〉の断片化した記憶と、かの〈巨人〉が遠く響かせるこだまとを結びつけながら、この普通ではなかった二人の人物のことを覚えている。
Monsieur Beckett et Dédé Roussimoff

 で、こちらはコミックノベルの『アンドレ・ザ・ジャイアント──その生涯と伝説』から。

ニボル近況。うるさい。が、とっ捕まえて子をあやすようなかたちに抱きかかえ、夫婦して覗き込んで「鼻がちっちゃい」ことをなじると、不思議と泣きそうな顔になるという評判。
日記をふたつ更新し、ようやく現在時に追い付いた。

13:01
日記。29日付「それはそうとニボルがうるさい」
20:52
日記。30日付「ひさびさ〈昨日の日記〉を書くのではしゃいでいる」@snhray @uehideyamao

依然、ペンがない。

Walking: 4.1km • 5,433 steps • 1hr 2mins 19secs • 193 calories
Cycling: 2.4km • 13mins 22secs • 53 calories
Transport: 70.3km • 1hr 26mins 27secs
本日の参照画像
(2018年2月 1日 23:13)

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/ 30 Jan. 2018 (Tue.) 「ひさびさ〈昨日の日記〉を書くのではしゃいでいる」

まだまだベッドのロビン。2016年1月。

18:14
日記。27日付「小さな声で囁くのは誰か / ウォズニアッキおめでとう」

ニボル近況。わが家にやってきた当初(昨年 11月)に比べ、なんだか顔つきが変わって(目が大きくなった?)、ずいぶんかわいくなったのではないかという評判。うるさい。
さあ追い付いたぞ、現在時だ。「昨日の」日記だ。昨日の日記ともなればおのずと推敲と醸成のための時間は充分でなく──では、二年前のことを〈いま〉書くならそれが充分なのかというとそうではないにしても──、リアルタイムという幻想が呼び込む無用なはしゃぎによって、うっかりしたことのひとつやふたつ書いてしまうのではないかとひやひやしている。
鍵付きアカウントのツイートなのでいちおう配慮するとSさん(結婚したからEさん? だっけ? おめでとうございます)が、夜、「おすすめの冷蔵庫はいねがー?」とくぐもった声を出し、張りぼての包丁を手に、南方あたりの大きな怖い面を付けて軒先に立ったので、「それは南方のお面では?」と思いつつも、ここはひとつ無病息災を願って相談に乗ることにする。むろん、「ものが冷える」ということぐらいしか冷蔵庫について知識の持ち合わせはないので、高校同級の専門家、かの「冷蔵庫作家」こと上山(英夫)君からうまいことアドバイスを引き出し、それをそのまま横流ししてありがたがられようという肚である。上山君からの返事は明けて 31日の朝にあり、まんまとそれを横流ししてやった。
Sさんも上山君も、そういえばひさしく会ってないな。
と、書いていて「あ。」と思い出したが、いま、ことによるとSさんもまた「上山英夫」の名に「あ。」となっているのではないかというのは、前にSさんとしゃべっているときに、Sさんにとっては一面識もないその男の「名前」だけが話題にのぼったことがあったような気がするからだ。
 というその話を語るためには、まずSさんの「左右対称の名前好き」を説明する必要があり、それにあたっては以前に書いた日記の文章を引用するのが手っ取り早いが、引用することで、これまでのイニシャル表記による配慮は瓦解することになる。

それで笑ったのは、「左右対称の名前にあこがれる」という篠原さんの〈趣味〉だ。「すごいと思いません? 『小山田圭吾』」と篠原さんは目を輝かせる。みなさんはいま、文字でこれを読んでいるからあれだろうが、会話のなか、音でだけ「おやまだけいご」と言われれば、追って字面を浮かべながら、これがなかなか「おおー」となるのだ。ややあってから、「あれ? 『吾』はいいの?」となるが、「いや、そこはちょっと大目に見てやってください、五文字もあるんですし」と答える篠原さんはつまり、前提としてまず小山田圭吾が好きらしい。
2012年2月19日付「黒門亭で。トモヨチャンと。」

 あるいはこのときの会話の続きだったか、はたまたべつの折りだったか、「かなりおしい」名前として「上山英夫」が挙がった気がするのだけど、どうだったろう、篠原(礼)さん。
あと付け加えれば、上山君にたいするその感慨はいいとして、篠原さんはべつだん、「ひさしく会ってない」のも無理はないぐらいの近しさじゃないのか、そもそも、俺よ。
今日のかっこいい写真はこちら。シモナ・ハレプのコーチ、ダレン・ケーヒルがツイッターに上げていた一枚で、連れ立って歩く「 Mama Halep and her little rock star daughter」の後ろ姿。

ペンがない。

Walking: 3.5km • 4,958 steps • 53mins 8secs • 166 calories
Cycling: 2.7km • 14mins 29secs • 58 calories
Transport: 69.6km • 1hr 22mins 53secs
本日の参照画像
(2018年1月31日 20:40)

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/ 29 Jan. 2018 (Mon.) 「それはそうとニボルがうるさい」

ひきつづきベッドのロビン。2016年1月。

18:29
日記。25日付「こちらからはそれだけです」

ニボル近況。うるさい。
週末にもすでに文化的な予定が入っていて文化めく見込みの今週、まず今日は通年パスポートで通っている「語り芸パースペクティブ」の第10回。全11回なのでいよいよラス 2、個々の語り芸にスポットを当てる通常回としては最後の今回は「江戸落語」だ。「江戸落語」を「上方落語」(第8回で開催済み。細野さんのライブとかぶったので代わりに牛尾さんに行ってもらった)と切り分け、はたして「江戸落語は『語り芸』か?」という問いを投げかける──それにたいして「否」と回答する視座をもつことで、ひるがえって、では「語り芸」とは何かをあらためて考える──趣旨の回。
解説ゲストは和田尚久さんで(和田さんというと、ユリイカの桂米朝特集に寄稿されていた論考「桂米朝の構図」が印象に残っている)、「江戸落語は語り芸ではないのではないか」というホスト役・玉川奈々福の投げかけを、「語り芸(=前近代)が終わったあとにやってきたのが江戸落語(=近代)なのだ」「近代の産んだ双子の片割れが散文で、片割れが落語なのだ」というふうに和田さんは受ける。まあ、限られた時間でもあり、いきおい話は大掴みなものとなるから即座には首肯しかねる部分もあったが、しかしとても刺激的で、示唆に富む内容。
和田さんの指名だという実演ゲストは三遊亭萬橘。「権助魚」「ふだんの袴」の二席を務め、さらに鼎談でもかなり饒舌に芸談を披露した。萬橘を前に聞いたのは二ツ目の「きつつき」時代で、それ以来だと思う。十年ぶりに接するその高座は「なるほどなあ」というものだった(って、そんな感想もないもんだろうけどさ)
次回は 2月19日でいよいよ最終回。能楽師の安田登さんと、いとうせいこうさんがゲストで「語り芸の来し方、行く末」。

@nanafuku55: 浪曲がこの先どうなるの、落語がどうなるの、という話ではありません。芸能の、はるかなる始原に想像を飛ばします。また、いまの語りの最新の形はどこにあり、新しいものはどこから生まれうるのか、というお話をしていただきたいと思います。
2018年1月30日 11:09

帰り途で便箋と封筒を買う。

Walking: 3.6km • 5,432 steps • 55mins 31secs • 171 calories
Cycling: 2.7km • 14mins 25secs • 59 calories
Transport: 92.2km • 1hr 56mins 58secs
本日の参照画像
(2018年1月31日 12:57)

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/ 27 Jan. 2018 (Sat.) 「小さな声で囁くのは誰か / ウォズニアッキおめでとう」

2016年1月のロビン。二年前もやはり全豪を見ているらしいわれわれ。この赤いユニフォームは誰だろう。

11:53
日記をもう一本と思っていたが書き終わらず、家を出る。きりっとくる寒さ。駅ヨコのヤマダ電機入り口には見知らぬ着ぐるみキャラクターが二体。いっしょに写真を撮るチャンスだという。

そのチャンスを逃しての南武線から、武蔵小杉で乗り換えて一路、横浜・馬車道。東京藝大の校舎内の一室、名は「大視聴覚室」らしいが充分ミニシアター然としてスクリーンと客席とが設えられたその部屋で、東京藝術大学大学院映像研究科による映画専攻12期生修了制作展、つまりは映画を観る。全部で四作品ある修了制作のうちの一本、山本英監督の『小さな声で囁いて』に、大場(みなみ)さんが主演しているのだった(で、わたしが今日観たのはこの一本だけ)。さきに事務的な説明を済ませてしまえば、同作を含むこの「修了制作展」は 3月アタマに渋谷・ユーロスペースでも上映があるとのこと。また『小さな声で囁いて』について言えば、ユーロスペースまでにまだもう少しだけ、ま、大きくは変わらないだろうが手が入る予定であるらしい。といったようなものを、主演女優と並んで観る。面白かった。
公式ページから引くと、『小さな声で囁いて』の梗概はこのようなもの(出来事の序盤までの説明)

11月初めの秋、付き合って5年が経つ沙良と遼は熱海旅行に来ている。有給休暇を使った3泊4日のささやかな旅行だ。遼は沙良と結婚する準備をしているが、沙良は遼と結婚をしたくない。なぜ結婚をしたくないのか自分でも分からない沙良は、旅先でも遼を避けて行動している。二日目の午後、沙良は一人で室内プールに行った。そこで背中に大きな傷を負った山崎という男に声をかけられる。
1/27-28|12期生修了制作展開催! – 東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻

 そうそう、昨年 11月あたりに、どうも熱海にいるらしいと知れる大場さんのインスタ投稿があったのはこの映画のロケ(二週間くらい)だったわけだ。
 それともうひとつ、事前に目にしていた藝大のサイトにはこのような謳い文句があって、

映画専攻は国際的に流通しうるナラティヴな(物語性を持つ)映像作品を創造するクリエイターや、高度な専門知識と芸術的感性を併せ持つ映画製作技術者を育成することを目標としています。
東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻 [太字強調は引用者]

それでまあ「ナラティブ」ということ──ついついジュネット的なそれ──に意識的になっていたということはある。つまり、(いや、これだと全然ジュネット的じゃない=厳密じゃない言い方になるけど、)「 A」「 T」「 A」「 M」「 I」という 5つの章で構成されたこの 110分の物語を、物語るのは誰かといった関心である。
 そうした統一的な語り手を想定しようとするとき、その位置にいちばん据えたくなるのはもちろん主人公である沙良であり、その見方はたとえば『小さな声で囁いて』という作品タイトルが、遼にたいする逆ギレで「怒ると大きな声になるのがみっともない」と指摘する沙良の言葉とつながり合うことや、劇中に唯一、一箇所だけ挿入されるナレーションが沙良のものであることなどと符合するのだけれど、当然ながら、ことはそう単純ではない。
映画の冒頭は走る観光バスの車中で、その窓の外を流れていく風景を固定のカメラがしばらく捉え続ける。そのあいだずっと聞こえているのは女性バスガイドによる観光案内で、手慣れたようでいて気が入っていないとも形容できそうなその説明がこれまた横滑りしていくままに続けられることで、車中の、それを聞いてはいるが耳を傾けられてはいない──案内される風景中のトピックに視線を向けたりはしない──その何者かの意識に、観客は寄り添わされることになる。が、ついに切り替わった次のショットが捉えるのは、通路側の座席で熟睡する沙良の寝顔だ(熟睡する沙良に、もちろんガイドの声が届いているはずはない)。その寝顔を正面からまた充分に捉えたのち、隣の窓側の席で取り残されたように起きている遼へとカメラは切り替わる。これがもし風景沙良というふうに遷移するのであれば(もしくは、沙良の寝顔が遼から覗き込まれるような角度で捉えられるのであれば)、遼を焦点化人物とするかたちで車中のシークエンスに意識的な連続が生まれるわけだが、そうはならず、ここに最初の〈齟齬〉が提示される。そこに挿入される意識の断絶は、文字どおり沙良の無意識=眠りだ。
といったようなことを考えてしまうくらいには、〈文法〉と〈文体〉をもつ映画だった。終映後にスクリーン前で挨拶をした監督が、「この修了制作ではなるべく自分の〈色〉が付かない作品を、と心がけた」といったようなことを言っていたが、「ばりっばり出てるだろ、色」と、この一作しか知らないくせに言いたくなるほどの色であり、文法である。そしてその文法がいよいよわたしのなかで自律し、あれよあれよと動き出したのが後半、沙良のいる「ロマンス座」と遼のいる「芸妓見番」とをカメラが往還し出すところだった。あそこは、すごく「腑に落ちた」のだ。いわばこの映画の〈原始的言語〉について、その〈意味〉はわからないけれども、〈用い方〉はわかったというようなそんな感覚であり、「ああ、なるほどつながるなあ」といった感慨である。だから、初見ではその意味のよくわからなかった研究所(? 2コ目の「 A」の冒頭)のシーンも、再見すればひょっとすると腑に落ちるかもしれないという予感はある。
話は戻るが、そう、あたかも〈語り手失格〉であることを象徴するかのようにして、沙良はよく「眠る」。それでもあくまで統一的な語り手というものに拘泥するならば、あるいはそれはむしろ沙良の〈無意識〉のほうなのかもしれず、そしてその無意識に侵食し、語りを支配しているほんとうの映画的主体がいるとすれば、それは「熱海」という場そのものなのではないかと、そんなことを思う。
観終わって、「映画(への出演は舞台と全然ちがって)はずかしい」と照れることしきりの主演女優と、ちかくの喫茶店へ。紅茶専門店だと謳うそこで大場さんは「ラプサンスーチョン」なる中国茶を、わたしは「イングリッシュなんちゃら」を注文する。あとはまあ、概してくだらない話。なんだっけ、えーと、大場家の正月の風習の話とか。

いやー、しかしこの写真はほんといいね。ハレプの返球がネットを越えず、「勝った」ということを認識した瞬間のウォズニアッキ。(あ、ことによると『小さな声で囁いて』とか「大場みなみ」とかで検索していらっしゃったみなさま、話はもう「全豪」に移ってますんで、ひとつ、すいません。)
帰宅すると第2セットの終盤で、ハレプの執念によってなんとか最終第3セットをテレビ観戦することが叶ったが、それがほぼ奇跡的なことであるほどに途中のハレプの体調不良は絶望的な様子だったという妻の伝。それでもなおファイナルセット、ハレプにもたしかに機はあったほどに両者とも限界ギリギリの、渾身のシーソーゲームの末の、その決着である。これで、「三度目の決勝で初のグランドスラム制覇」(勝っていればハレプにも同じことが言えた)も、「週明けの世界ランキング No.1」もともにウォズニアッキのものとなった。いやまあハレプにとって、「優勝できずに No.1の座だけが残る」という状況よりかはいっそさっぱりする結果だろうけどもと、そんな気の取り直し方ぐらいしかこちとら浮かんではこない。テニスの優勝スピーチでは一般に、第一声のあとまず準優勝者に声をかけ、祝福とねぎらいの言葉を述べる(そののちに優勝の喜びや、チーム・関係各位への謝意を述べる)というのが〈よくある型〉であるように思うが、ウォズニアッキはハレプへの言葉をあとに回し、いよいよ終わり際になって何を言うのかと思えば「 Sorry.(ごめんね。)」を繰り返していた──それにたいしてハレプはつい笑ってしまっていた──のが印象的だった。

22:26
まだちょっと言葉がない。そんなに好きだったんだな、おれ、ハレプ。知ってたけど。

 そうして、やっとこさ(試合終了からじつに 2時間後に)言葉にしたわたしのこのしょぼくれツイートとほぼ時を同じくして、ハレプは、チームの面々とともに笑顔で写るスナップショットをインスタグラムに投稿する(写真そのものが試合後に撮られたものかはわからないが、しかしそうした写真を投稿した)
 そうなのだ。今大会、そのピンチの都度々々において、何度も何度も、とうにあきらめていたのがわたしなのだ。そのわたしとは無縁に、決勝のファイナルセット 4-5、30-40のそのときまでハレプは〈そこ〉に立っていた。決勝までの長い道のりを思うとき、いますでに、もうハレプのグランドスラム制覇はないのかもしれないなあと思っているのがわたしだが、そんな極東に浮かぶ諦念とは無縁に、きっと、ハレプはまた〈そこ〉に立つのだろう。

Walking: 2.3km • 3,778 steps • 48mins 22secs • 109 calories
Cycling: 3km • 15mins 43secs • 64 calories
Transport: 97.3km • 2hrs 23mins 40secs
本日の参照画像
(2018年1月30日 18:03)

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/ 25 Jan. 2018 (Thu.) 「こちらからはそれだけです」

ベッドのロビン。2016年1月。

全豪(オープン・テニス)は大詰め間近。

16:38
なんだよー。くっそー。

というわたしのツイートはジュニアの女子ダブルス準決勝、内藤・佐藤のペアが第1シードの En Shuo Liang (TPE)、Xinyu Wang (CHN)ペアに挑んだ一戦の、決着まもなくのものだ。内藤ペアから見て 4-6 6-3 [7-10]。ライブスコアで追っていたが、かなり惜しかった。結果は動かしがたく、そこを落とさない第1シードペアはさすがだけれど、しかしもうちょいだった。敗戦が何割か増しで悔しいのは、「決勝まで行けばさすがに WOWOWの中継があるだろう」というこちらの夢と欲もまた同時に潰えたからだ。くう。
そして(オトナのほうの)女子シングルス準決勝はそれぞれ順当に、ウォズニアッキがメルテンスに勝ち、ハレプがケルバーに勝つ。現ランキング的にこそ「順当」ではあるものの、ハレプ×ケルバー戦はかなりの死闘──〈強いケルバー〉と〈強いハレプ〉がぶつかったいい試合──だったらしく、気の早いところからは「事実上の決勝だった」という声も上がる。そう言い表したい気持ちもよくわかる素晴らしい試合だったと思うが、これが「事実上の決勝」であるためにはハレプがウォズニアッキに勝ち、優勝する必要があるわけで、はたしてどうか。うーん。わからない。
ハレプに勝ってほしいと、ただ、こちらからはそれだけです。

Walking: 4km • 5,697 steps • 59mins 21secs • 186 calories
Cycling: 2.7km • 17mins 47secs • 60 calories
Transport: 67.8km • 1hr 13mins 7secs
本日の参照画像
(2018年1月29日 17:22)

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/ 22 Jan. 2018 (Mon.) 「雪の日」

家へと向かう袋小路。まっすぐ行ったどん詰まりがわが家。

桃。のうしろのロビンの足。2015年7月。

予報にたがわず大雪。雪のほうから当てにいったというくらいのもので、16時50分ぐらいに会社を出て帰途につく。ときすでに遅く、運行本数を減らした電車内は混雑。1時間強かけて立川に着く。駅前のバス乗り場にも長蛇の列が出来上がっているようだった。もとより本屋に寄るつもりだったので駅から歩く。
ジュンク堂書店(立川髙島屋店)はさすがに人がいなかった。ウィトゲンシュタインの棚へ。大修館の全集も揃っているさすがの品揃えのなか、丘沢静也訳の『哲学探究』、黒崎宏訳の『『論考』『青色本』読解』、飯田隆編『ウィトゲンシュタイン読本』を買ったのは、こないだの「拝啓もてスリムさま」を書くための資料として。買いすぎだと思う。
「拝啓もてスリムさま」を書くにあたってはネットで見つけた関口浩喜「家族的類似性についての予備的考察」(PDF)がたいへん参考になったが、同じ著者が『ウィトゲンシュタイン読本』に寄稿している、「ウィトゲンシュタインの始め方」という文章も面白かった。
さて全豪(オープン・テニス)。推しプ、内藤祐希がシングルス二回戦敗退。予選から勝ち上がりの Hong Yi Cody Wong (HKG)にたいしてシードを守れず、6-4 4-6 0-6という結果。6-4で取った第1セットだが、その 5-2としたサービング・フォー・ザ・セットでまず 1ブレイクバックを許すべきではなかったのではないか、というのがライブスコアしか見ていないこちらの勝手な試合分析。後刻のツイートを読むに、あるいは熱中症気味の急な体調不良が第3セットには影響したのかもしれない。残念ながら Tennis 366さんのチャンネルには動画が上がらず、仔細はわからない。
ともあれがっかり。全豪への興味の大半がこれで削がれたと言っても過言ではないが、そこへもってきてのハレプ vs. 大坂なおみという、どっちを応援すればいいのやらという四回戦が。

16:05
ハレプとなおみちゃん、どっちでもいい。勝ったほうが優勝してくれ。

まあ、贔屓目でなく「あるいは大坂が勝つのでは」と思っていたのはハレプの三回戦がああだったから──長い試合だったからというよりも、足の指の状態悪化もあってすごく調子が悪いように見えたから──だが、蓋を開けてみればハレプが磐石の出来で大坂をしりぞけた。それならそれでよし。ハレプ、これで優勝するとなるとたぶん、大坂、プリスコバ、ケルバー、ウォズニアッキを倒しての優勝となるはずだが、それ、かなりの〈完全優勝〉じゃないか? うーんどうかなあ。きびしい道のりだなあ。
内藤、佐藤南帆という組んだダブルスのほうは勝って、二回戦に進む。

Walking: 4.2km • 6,462 steps • 1hr 3mins 10secs • 199 calories
Transport: 74.4km • 2hrs 3mins 52secs
本日の参照画像
(2018年1月27日 17:14)

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/ 20 Jan. 2018 (Sat.) 「ピーは歩きやすくなったので歩き回っている」

ロビン。2015年6月。ところでロビンは錠剤を飲ませるのが楽だった。飲ませようとすればすぐ、簡単にパカーッと口を開くので、ただ放り込めばよかった。

全豪(オープン・テニス)は二週目に入り、ジュニアの本戦がはじまる。わたしのいわゆる推しプ1]である内藤祐希が無事一回戦を突破し、ほっとひと安心。全豪への興味があさってまで延びた。

1:推しプ

「(イチ)推しプレイヤー」の略。「いわゆる」などと言っているが、そんな言葉はないと思う。たぶん。

全豪は、去年は公式サイトで(ほぼ)全コート全試合ライブストリーミングというものすごい〈ファン接待〉があったのだが、今年はそれがなくなっている。サイトを見るに配信コンテンツそのものはどうも存在してるっぽいのだが、何らかのリージョン判定が噛まされて、特定の(放映権の契約的にそんなことをしても問題ない?)国・地域じゃないと恩恵にあずかれないようになってしまったのかなあと想像している。そんなわけで、ことジュニアの試合のフルの映像にかんしては、かの Tennis366さんの興味関心に一縷の望みが託されるかたちとなるが、しかし〈誰〉なんだろうなあ、Tennis366さんて。
無事、Tennis366さんの関心対象となった内藤の一回戦、vs. Karolina Berankova (CZE)の模様はこちら。

13:18
すでに多くの指摘があるかと思うが、パンクブーブーを足して二で割ったようなチョン・ヒョンである。

これに気づいたのは去年の全米のときで、この知見を披露したところ、「ほーんとだねー! すごーい!」と妻も興奮を隠さなかった。何が「すごーい」のかというと、もちろん、チョン・ヒョンがパンクブーブーのどっちにも少しずつ似ているからだ。そんなことがかつてあったろうか。砂川捨丸・中村春代からビヨン・ボルグまで、古今に漫才コンビもテニスプレイヤーも数多いるけれども、はたしてこれまでにそんなケースがあっただろうか2]

2:砂川捨丸・中村春代からビヨン・ボルグまで、〜

ちょっと何を言ってるのかわからない。

猫のピーを病院に連れて行き、爪を切ってもらう。また何本か肉球に刺さってしまっていたのだった。刺さっていた箇所から多少の出血もあり、それで抗生物質の錠剤を処方されるが、ピーの場合これが厄介だ。元来ウェットタイプの食餌への熱意がさほどじゃないので、混ぜ物があるとなるとまず食べないし、直接口に放り込もうとしても、極端に嫌がって口をこじ開けさせない。
1日2回、5日分も処方されてしまい途方に暮れていたわれわれに活路を与えてくれたのは「チャオちゅ~る」で、錠剤をすりつぶして粉にしたものをチャオちゅ~るに混ぜ、さらに鰹節をふりかけるとさすがにピーもなめ尽くした(ノッていると鰹節なしでも食べた)。青い錠剤なので、混ぜるといかにも食べ物ではない青々としたペーストが出来上がる。最初に作ったときはついヒト目線で慌て、「こりゃもうちょっとチャオちゅ〜るの割合を増やさないとダメかな」と言ったら、「猫は色わかんないんだから」と妻にたしなめられた。

Walking: 1.8km • 2,669 steps • 29mins 49secs • 87 calories
Cycling: 1.4km • 7mins 46secs • 30 calories
Transport: 20.2km • 29mins 54secs
本日の参照画像
(2018年1月26日 19:47)

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/ 19 Jan. 2018 (Fri.) 「ラープの豚」

ほんとうの「ラープの豚」。

2015年1月。このへんから、ロビンを撮った写真の数がぐっと少なくなる。「本日のむかしのロビン」は、あと(全部載っけたとしても)40枚ほどだ。

夜、渋谷で大場(みなみ)さん1]と飲む。

1:大場さん

大場さんにここに登場願う場合、えてして「箸休め」的な扱いになり、何が相馬をはしゃがせるのか「あることないこと書く傾向にある」ことは、当の大場さんによってかねてから指摘されているところだし、今日も指摘されたところである。そんなわけで今回ばかりは襟を正し、もちろん支障のない範囲において、思い出せるかぎり、記述に正確を期したいと思っていることはここでぜひ申し添えておきたい。

おもな話題は以下のとおり。順はちょっと不同。
まず「あけおめ」と、それから「丙午(ひのえうま)」。祐天寺には犬が多いが、それは戌年だからかもしれないという話。椎茸の飼育とマタンゴの来訪。大場さんが年末、テレビで見たという「超入門!落語 THE MOVIE」の話。月亭可朝。奈良ティブ。『 Tripmaster Monkey: His Fake Book』とケーシー高峰。ワサビバカ。荒井由実について。(家鴨田)家鴨さんを想う朝のこと。卒論あるよ、の件。とあるビデオライブラリーについて。「親切心の発露としての家事」とは何か、について。もてスリムさんのことと、ロロの話。買ったばかりの『日本現代怪異事典』から、「この言葉を二十歳まで覚えていると」系の話とか、稲川淳二の怪談とか。「ラープの豚」。西部邁さんの話。作文「不親切な和光市の私」。
いずれも言葉足らずの列挙で申し訳ないが、たとえばこのうちの「もてスリムさんのことと、ロロの話」は、前々回の日記「拝啓もてスリムさま」にちゃんと結実したところのものだ。
「家鴨さんを想う朝のこと」についてはべつに詳述しないが、家鴨さんといえば、毎度ながら思い出したころにまとめて読んでいる Tumblr上の「月記」。その 2017年12月分の末尾に書き下ろされた、「願いは今」がとてもよかった。

夏、中一モリサワ画伯がホワイトボードにさらさらっと描いたイラスト。
それぞれ自分の好きなもの抱えてんのね。
こんな風にみんなが自分の好きなものを抱えられる世の中になればいいなと思いますよ。
私はなにをいっていますか。

思わず泣き笑い心配。
「ラープの豚」は東欧の民話。村の貧しい青年ラープはある日、王様に魚泥棒の嫌疑をかけられてしまい潔白を証明することができずにいたが、知恵のある豚に助けられ、そうして旅に出る決意をする。つづいて王妃が偽者(魔女)であることもあばいた豚は、家で旅支度中だったラープを引き留め、ともに西の森へと出かけて魔王を退治する。西の森の霧も晴れ、いよいよ旅に出ようとしていたラープを待ち受けていたのは、急に話の持ち上がった王女の婿選びで、ここでも豚の活躍と画策により見事婿の座を射止めたラープは、王となり、旅に出る。ここまでが「国内編」。

Walking: 4.4km • 6,248 steps • 1hr 14mins 11secs • 208 calories
Cycling: 1.3km • 6mins 39secs • 29 calories
Transport: 51.2km • 1hr 2mins 51secs
本日の参照画像
(2018年1月25日 23:13)

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/ 18 Jan. 2018 (Thu.) 「事件です / 不思議なことが起こる」

朝里樹『日本現代怪異事典』(笠間書院)

取り囲まれるロビン。ベッドの上と思われる。2014年12月。

「ピー+ニボル」の組み合わせはよく見られるが、「ポシュテ+ニボル」はとても珍しい。はじめて、かもしれない。
ツイッターで知って、朝里樹『日本現代怪異事典』(笠間書院)という本を買う。「戦後から二〇〇〇年前後にネット上に登場する怪異まで日本を舞台に語られた一千種類以上の怪異」を「類似怪異・出没場所・使用凶器・都道府県別など、充実の索引付き」で紹介するという、在野の一個人の手になるとは思えないような労作。ぱらぱら読むだけでも充分に面白い。
冒頭から順に読んでいて、笑ったのは「赤い糸・青い糸・白い糸」という怪異だ。五十音順の収録なので冒頭しばらくは「赤いナニナニ・青いナニナニ」といった調子の類話がわんさかと続き、「もうわかったよ君たち(全国の小学生諸君)」という気分を味わっているところへ満を持して登場する「赤い糸・青い糸・白い糸」は、ちょっとだけあのボルヘスの紹介する古代中国の動物の分類法を想起させもする、そのいい加減さが小気味よい。

 ある学校の男子トイレに現れるという怪異。そのトイレで二番目の個室に入ると蜘蛛が現れて、赤、青、白のどれかの糸が垂れてくる。このとき赤い糸に触るといつの間にか四番目のトイレに移動しており、青い糸に触ると人間の顔をした蜘蛛が二匹現れ、白い糸に触ると不思議なことが起こるという。
朝里樹『日本現代怪異事典』、p.10

急に起こることの範疇が広いよ「白い糸」。
都道府県別の索引ではもちろん、とりあえず出身地の怪異など探してみるわけだが、すると「茨城県下館市」があって、紐付けられているのは「ヨダソ」という怪異である。これも事典の記述が面白いのだが、まずはそのオリジナルとなっていると思われる「与田惣(よだそう)」という怪異のほうを先に紹介したほうがいいだろう。事典の解説にもあるが、こちらはおそらく広く各地に類似の話が伝わる怪異だ。

 愛知県名古屋市のある小学校に現れるという怪異。白いマスクに野球帽を被ったおじさんという姿をしており、放課後に一人残っている児童の肩を叩き、児童が振り向くと「俺は与田惣だ! さかさまだ!」と怒鳴って鎌を振り上げ、児童を連れ去ってしまうという。これを回避するためには名前の「よだそう」を逆さまに読み、正体を暴くしかない。
 常光徹著『学校の怪談 3』に載る。「よだそう」は逆に読むと「うそだよ」となり、この怪異の存在が虚構のものだったことがわかる、という怪談になっている。 同、p.406

 いっぽう下館市の「ヨダソ」はこうだ。

 四時四十四分四十四秒にブランコを見るとヨダソという怪異が襲ってくる。ヨダソは逃げても逃げても襲ってきて、最終的には背中をナイフで刺されてしまう。
同、p.405-406

 うん。類似の話が豊富にあるというなか、なぜこれだけが別立ての項目として扱われているかについてすでに察していらっしゃる方もあるかと思うけれど、事典の解説はこう続く。

 学校の怪談編集委員会編『学校の怪談スペシャル 3』に、茨城県下館市の小学生からの投稿として載る。恐らく与田惣から派生した怪異だと思われるが、与田惣にあった逆さから名前を読めばその正体がわかるというトリックが通用しなくなっているため、より凶悪な怪異となっている。
同、p.406 [太字強調は引用者]

あははは。これはあれだろう、たんに下館の子どもがバカ──もしくは、話を最後まで聞かない──ってことじゃないのか。なにせ、出典として挙げられている『学校の怪談スペシャル 3』は「与田惣」の項にも出てくるのだが、同じ本で取り上げられている投稿でも「香川県木田郡」からのそれはきちんと「よだそう」の話になっており、木田郡の子どもたちの伝聞能力の高さを物語っている。
ちなみにその『学校の怪談スペシャル 3』は 1997年の本なので(合併により下館市が「筑西市」と名が変わるのは 2005年)、投稿者はわたしの 10コ下ぐらいという計算になるか。うーん、よだそう、聞いたことあるような気はするなあ。「うそだよ」のオチがあるバージョンのほうで、なぁーんとなく聞いたことあるような気がする。でも、「四時四十四分四十四秒」という時刻の定番はもちろんのこと、「ブランコを見ると」っていう出現条件のフレーズにもうっすら覚えがあるような気がし、となると、ヨダソも与田惣もわたしのなかでは渾然としてしまう。話の仔細も思い出せないくせに「誰が言ってたっけかなあ」といきおいまかせの回想に手を伸ばせば、そこに当然のように大写しになるのは同級の「ホリエ君」の顔だけれど、それについては、ぜったい偽の記憶もいいところだと思う。

Walking: 4.2km • 5,999 steps • 1hr 3mins 2secs • 196 calories
Cycling: 2.7km • 15mins 45secs • 59 calories
Transport: 70.6km • 1hr 32mins 38secs
本日の参照画像
(2018年1月24日 18:11)

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/ 17 Jan. 2018 (Wed.) 「拝啓もてスリムさま」

本日のむかしのロビン。ロビンどこだよって話だが、左奥にかろうじて像を結んでいる寝姿がそれだ。2014年11月。

夜、KAATでロロの『マジカル肉じゃがミステリーツアー』(以下『マジ肉』)を観る。
「旅シリーズ三部作」の掉尾を飾る作品だそうだが、あいにく前の二作品(『 BGM』『父母姉僕弟君』)を観ておらず、それにかんしては観たあとに読んだ「もてスリム®」さんの「 Melted Butter, Melted World──ロロと世界を巡る 3つの旅」ネットプリント版PDF版がたいへん参考になった。当日パンフにも全然目をとおしていなかったので、篠崎大悟演じる町田家の長男「ワン」の役名が「湾」の字を書くのだということももてスリムさんの文章ではじめて知ったのだが、それでなぜか急に思い出されたのは、柳瀬尚紀訳のジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の、あの冒頭の部分だ。

川走(せんそう)、イブとアダム礼盃亭(れいはいてい)()ぎ、く()岸辺(きしべ)から輪ん曲(わんきょく)する(わん)へ、

 むろん「ただの湾つながり」であり、「湾」の役名がこの柳瀬訳『フィネガンズ・ウェイク』から採られたとは到底思われないが、しかし、これでもかという原文の──つまりひいては「世界」の──多義性に漢字の表意で応戦しつつ、あくまで〈音読されること〉を前提にそれらが線条的に配されていくこの訳文は、今作『マジ肉』の舞台とどこか通底し、響き合うような気がしないでもない。
言わずもがな、『マジ肉』において〈音読されること〉は〈上演されること〉にあたり、そして〈上演されること〉は〈回されること〉とほぼ等価であった。やや奇妙な物言いになるが、『マジ肉』のもつ線条性は、回転によってもたらされていた。

家があって、家のなかにはあたしがいて、あたしのそばには彼がいて、あたしと彼の間に君がいた。君があたしを「ママ」って呼んで、あたしはママになった。ママは50音のなかから最高の音だけを選んで、君ぴったりに並べてプレゼントした。そうして君は「めくるめく」になった。ママとめくるめくは、家のなかのあらゆるものに名前をつけた。洗濯機はエッフェル塔になって、冷蔵庫は水星になった。2人はいつも呪文を唱えるみたいに名前をよんだ。だから名前は2人にとって魔法だった。
次回公演速報!ロロvol.14『マジカル肉じゃがファミリーツアー』 | lolowebsite

という梗概(?)だけは事前に読んでいたから、劇中、湾と「一日」とが〈名付け〉の遊びをはじめ、湾が一日に「なっちゃん」という名(湾自身と妹「めくるめく」の母の名)を与えるにいたっては当然、湾が子であり同時に親でもあるというような〈きれいに閉じた円環〉を予期したわけだが、物語の進行とともに──舞台装置である「家」の回転とともに──、その期待はゆるやかに裏切られていくことになる。回転する家の舞台装置につねに裏側(見えない面)が生じるのに似て、『マジ肉』はあくまで意味の確定/画定(一挙に全体が与えられる世界)を拒みつつ、上演/回転の刹那々々に生成し発展する、〈意味が確定しないからといってけっして無意味ではないもの〉を提示するようにみえた。

境界のはっきりしない無意味に思える語でも、言語ゲームの中でははっきりとした情報になり得るのだ。それが、たとえば「その辺に立ってろ」の「その辺」である。僕の家で僕の妻が「その辺」と言うなら、それは「居間のどこでも好きな所」という意味になる。我々は、自分がどんな言語ゲームの中で生きているのか、はっきりさせられていないのかも知れない。我々が言っている言葉ははっきりしないものなのかも知れない。しかし、はっきりしない言語ゲームの中で、はっきりしない語を使うとき、その意味が有意味になる場合があるのだ。
家族的類似性の基準と徴候「哲学探究」を探求する14: 独今論者のカップ麺

そう、「家族」というモチーフとも当然あいまって、ここでわたしが思い浮かべているのはウィトゲンシュタインの「家族的類似」である。家族は、その構成員全員に共通する〈本質的な何か〉があって(あらかじめ)確定されるわけではなく、個々の構成員間に成り立つさまざまな類似(構成員の何人かは同じ体格を、他の何人かは同じ歩き方を、また何人かは同じ気性をしているというような)の重なり合いとして存在している。そのような家族のあり方を喩えに用い、(言語)ゲームのあり方を説明してみせるのがウィトゲンシュタインの「家族的類似(性)」だ。

──そこで私は、「『ゲーム』はひとつの家族をつくっている」と言っておこう。
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』、67節、丘沢静也訳

この喩えがもたらす重要な帰結は、たとえば「ゲーム」というその家族の外延は明確には定まらない、ということである。

ゲームの概念の境界は、どんなふうにして閉じられているのだろうか? どれがまだゲームであり、どれがすでにゲームではないのか? 君はその境界を言うことができるかな? できないよね。でも、なんらかの境界線を引くことならできる。まだ境界線が引かれていないからだ。(けれども君が「ゲーム」という単語を使っていたときは、境界のことなどで悩んではいなかった)
同、68節

「舞台装置が回転するにつれいくつもの関係性と空間を巻き込むようにして豊かな空間が生まれていき、ドロドロにとろけていく」ともてスリムさんによって総括される『マジ肉』においてもまた、家族は外延の定まらない、ぼんやりとした拡がりとしてそこにあった。

物語が進むにつれ、家族は家族としての結びつきを強めながらも、一方では決まりきった家族のあり方からは解放されている。
 たとえば、奈津子は娘のめくるめくを愛するためなら必ずしも自分が母である必要はないと主張する。祖母子にとってトチは孫であり親友だ。トチにとって奈津子と孝志は両親であり捨て駒だ。
もてスリム「 Melted Butter, Melted World──ロロと世界を巡る 3つの旅」

 このように溶解した関係性のなかで、しかしなお彼女/彼らは無意味になることがなく、家族は最終的にピクニックを果たす。そこにおいて「家族」に外延を与えているのはただ一点〈ピクニックをともにする〉という隣接性だけれど、舞台上の「そこが羊山公園でもいいし、子ども部屋でもいいし、あるいはまた別のどこかでもいいことを」すでにわれわれが知っているいま、「家族」の外延は極限にまで押し広げられて、もはや「世界」と見分けがつかない。
ところでもてスリムさんは『マジ肉』について「見立ての頽落」ということを指摘し、あくまで過去二作品との対比においてだが、今作では、端的にその「具体的すぎる舞台」によってロロ的手法としての「見立て」が存在していない(もしくは存在しても機能していない)と説明する。もちろんこの説明には〈整理〉という側面が強くあり、いったんそう整理してみせたうえで「果たして本当にそうなのだろうか?」ともてスリムさんはつづけるわけだが、あるいはまた、そもそも『マジ肉』が試みたのはより難易度の高い、より強靱な見立てではなかったのか、とも言ってみたい衝動にかられる。つまり、過去作を通じて充分に見立ての〈訓練〉を積んだはずのわれわれにたいし、『マジ肉』は(落語の「お見立て」よろしく)「もうどうぞ好きに見立ててくださいよ、誰が何演っても、どう演ってもいいでしょう、僕は僕でなくても君を愛しますよ」と言っているのではないか、ということだ。もちろん、それにしたって見立てが成立するためには〈何かしらの余白〉が必要なはずだが、その〈余白〉にあたるものこそが〈俳優たちの魅力〉だったとしたら、そのように成立する見立てがあったとしたら、どうだろう。

@moteslim: 三浦さんは「集大成ぽくはしない」と話していたが、達成みたいなものを感じて大変感動しました。あと俳優の面々のかわいさが爆発しているんですよ。まだ観に来てくれないんですか?三浦さんのインタビューはこれです→ https://note.mu/llo88oll/n/n54d117ea1085
2018年1月12日 0:13 [太字強調は引用者]

そう、付け加えておくならばやはり俳優陣がキュートである。そして、このとろけてしまった世界(「 Melted World」)において彼女/彼らがかわいいのは、彼女/彼らがかわいい役をするからではむろんない。あらゆる見立て──〈どの生を生きる可能性もあったわたし=普遍性〉──を呼び込む魅力的な余白として、彼女/彼らそのもの──〈この生を生きるわたし=単独性〉──がそこにあるからである。

Walking: 3.8km • 5,798 steps • 1hr 2mins 13secs • 179 calories
Running: 410 meters • 335 steps • 2mins 30secs • 23 calories
Cycling: 2.7km • 13mins 57secs • 59 calories
Transport: 130km • 3hrs 21mins 30secs
本日の参照画像
(2018年1月23日 20:29)

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