/ 12 Jun. 2006 (Mon.) 「買いすぎた」
■会社帰りに新宿に寄ったのは、紀伊國屋書店とTSUTAYAに寄るためだ。紀伊國屋書店ではまた買いすぎた。この点はぜひみなさんにも注意を促しておきたいが、買いすぎると本は重いのだった。うんざりである。私もばかではないからレジへ持っていくまでにだいたいの量はわかっている。片手で持てない量だ。片手で持てない量の本をレジへ持っていくのは、なぜだろう、照れるのだった。すいませんこんなに、というような具合である。こんだけもらおうか、と「ちょっとしたお得意様」気分で構えてもよさそうなものだが、またそんなに買うんですかとレジの者に呆れられてはいまいか、その心配が先に立って私はついつい下手に出る。というような描写はどうでもいいんだよ。日本の左翼運動に関して、当事者の側から経緯を平易にまとめたというような、資料的な文献はないかと探したが、もうひとつ、どれを読んだらいいかがわからない。閉店の一時間ほど前に行ったせいであまりゆっくり探している時間がなかったのはそうだが、ざっと見た印象では、そもそもろくな本が出ていないように見受けられもした。それこそ、『革命的な、あまりに革命的な』がいちばん「入門」に適しているんじゃないかと思えるほどである。とりあえず、第一次『情況』に掲載された論文を集成した『全共闘を読む』と、もう一冊「手記」的な本を買う。それと、その他の本。
■いま夕方に再放送をやっていてそれで知ったらしいが、妻が先日来ほしいと言っていたのが「すいか」という連続ドラマのDVDボックスで、TSUTAYAではそれを求めた。プレゼントである。入籍2周年記念、は今日じゃないけど。小林聡美、ともさかりえ、市川実日子、浅丘ルリ子、白石加代子、小泉今日子(友情出演)らが出演。第1話と第2話を見た。いいドラマだな。どこか久世の匂いがするのは、それ、たんにホームドラマだからってことか。
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/ 11 Jun. 2006 (Sun.) 「この週末のこと」
■9日、金曜日。夜、「『ネオリベ化する公共圏』(明石書店)刊行記念トークセッション」を聞きに、三省堂書店神田本店へ。神田に来るのはほんとうにひさしぶりだ。めっきり足を延ばさなくなった。あのカレー屋(どのカレー屋?)は健在だろうか。頻繁に足を運んでいたころはたいていお茶の水駅から歩いていたが、今日は神保町駅へ出たのでそのカレー屋(どのカレー屋?)の現在はわからなかった。
■絓秀実さん、花咲政之輔さん、宮沢章夫さんの三氏によるトーク。こぢんまりとした会場に、あれでどのぐらいだろう、50人弱も集まっただろうか。客層がどのようなものかはよくわからない。宮沢さんつながりの知人がちらほら。あとで花咲さんが指摘したところによると、宮沢さんが「おもしろグループ」と呼ぶところの「特定党派」の方が2人、来ていたらしい(で、途中で退席したという)。
■終了後の打ち上げまで参加させてもらう。なんとなく座る位置を確保していたら、絓さんと宮沢さんの間になってしまった。宮沢さんが私を紹介するときに、大学時代にある研究者の教え子だったことがあると言ったところがもうたいへんである。その研究者の評判がここではすこぶる悪い。もう、ね、笑うほかない貶されぶりなのだった。とにかくそれは面白い「場」だったけれど、飛び交う会話をもう少し理解するには左翼運動に関する歴史的な知識が足りない。本を読んで身に付くようなたぐいのものでもない気がするが、ここはひとつそのへんの知識を仕入れたい気分になる。
■10日、土曜日。夕方、笠木さんがうちに来る。オールツーステップスクールの新しいサイトの打ち合わせ、その他もろもろ。笠木さんの側から見たその日の模様は「相馬くんの家にお邪魔するvol.1」を参照ください。
その彼[=相馬:引用者註]のルーツたるものすごい本を見つけてしまう。相馬くん曰く「兄弟三人ともこの本を読んでいる」とのことだ。貸し出し許可が出たのでつい借りて来てしまったが、この本、あまりに凄くて、脱力中のため、本の紹介は次回につづく、ということにしてみる。それにしても、本当・・に・・・・すごい本だったよ。
(相馬くんの家にお邪魔するvol.1|aplacetodie/alltwostepschool2006)
と笠木さんが書いているのは、好美のぼるの『忍者クイズ』だ。子供の時分に親しんだ本である。なぜそれがいま立川の家の本棚にあるのかと問われれば苦しい。なんであるんだろ。内容について手短に説明するのはむずかしいが、ルーツと指摘されることがきわめて腹立たしい、そうした本だ。まあ、相当読んだけどね、子供のときには。というわけで私のなかでは血肉と化してしまっていて相対化がむずかしいから、冷静な視点に立った紹介は笠木さんによるそれを参照されたい。あ、いま思い出したけど、昔、ウェブ上にこの本のパロディ(「Web版名著復刻/好美のぼる『忍者クイズ』」)を作ったんだった。そうか、そのときの資料に実家から持ってきたのだったな、たしか。
■あと、何をしていたかな。順序が逆になるが8日、「富士日記2」の、添削したソース(XHTMLとCSSと、切り分け直した若干の画像)を宮沢さんに送付。
■『薔薇の名前』も読了したこの週末だった。
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/ 5 Jun. 2006 (Mon.) 「三者の憂鬱」
■村上ファンドのニュースをめぐる憂鬱な気分については、こっちの日記ではなくブログのほうに書いたけれども、結局私の場合それは「気分」以上のものではなくて、言及するにあたっての確かな立脚点のようなものは何もないのだった。ほんとうに、村上代表に関しては「顔が欽ちゃんに似てる」ことしか知らない者なのだ私は。いいじゃないか、似てるんだからそれで、と言いたいくらいである。
■私の「憂鬱」はつまるところ、「恣意的な動きをする見えない権力(への想像)」といったものに起因するのだろうが、前掲のブログ記事では私は、地検の側にだけその権力のイメージを付与していた。一方で「富士日記2」を読むと、宮沢さんの憂鬱はもっと深く、両者の側に──そして私にもまたなにがしかの権力があるように、当然のことながら──権力はあったのであり、その力関係の政治的なあらわれではないかと想像してみせている。
しかし、村上ファンドにかんして東京地検が動いた背景には、なにやら、もっとべつのことがうごめいているのを、つい、考えちまう。だって、村上ファンドの顧客には政治家らもいただろう。村上さんも官僚出身だしね。圧倒的な政治力を背景にしていたはずだ。それでのんきに構えていたところ、もっと強い政治が動いたのではなかろうか。
(富士日記2 - 6月5日付)
「つい、考えちまう」という口調で予防線を張るように、これだっておそらくは「まったき想像」なんだろうが、より憂鬱の度合いは深く、それゆえ想像力としてはより真っ当であるようにも思える。いや、だからわからないのだけど、なにも。
■にわか事情通をよそおおうとしてさらにネットを経巡れば、たとえば次のようなブログ記事に出くわす。ニューヨーク在住だという弁護士によるブログの記事である。
「村上氏が残すもの」(ふぉーりん・あとにーの憂鬱)
「村上氏立件へのハードルとその影響」(同上)
なんとここにも憂鬱な人がいた(「ふぉーりん・あとにー」という平仮名のハンドルネームが「憂鬱」にふさわしいかどうかは置くとして)。議論の質が高く、ある視点に立つ者にとっては興味深い指摘がなされているらしいと読んだのはまったくの印象でしかないが、しかしこうした水準での議論が一方では必要なのだろう。って、法解釈とか、そういった話になるとやっぱりわからないんだよ、ちくしょう。判断がつかない。私はアドソか。だから次のような、比較的わかりやすい「図式の逆転」だけを取り出して引用することはかえって「ワイドショー」的振る舞いでしかないのかもしれないけれど、まあ、たとえばこうした見方もあるということである。
村上氏が、何故この段階で認めたのかという点については、いろいろな憶測が可能でしょうが、事実については認めて勾留の長期化を避け、情状を確保しつつ、公判では弁護士を前面に立てて「村上氏立件へのハードルとその影響」であげた167条の構成要件解釈に関する点をつき無罪を争うというのが一つの見方でしょうか。
・・・ただ、もし村上氏が、それすらも争わず、およそ上に掲げたような事実関係[引用元を参照のこと:引用者註]の下でもインサイダー取引に該当するという先例のみを残して、日本を去ったとしたら・・・この「先例」は166条インサイダーも含めて、日本の証券取引実務に落とす影が村上氏が愛想を尽かした日本市場に残す呪いなのかも知れません。
(ふぉーりん・あとにーの憂鬱: 村上氏が残すもの)
ちなみにまた、このなかの、「この『先例』は166条インサイダーも含めて、日本の証券取引実務に落とす影が村上氏が愛想を尽かした日本市場に残す呪いなのかも知れません。」の部分に関しては、別のブログでこうした意見が重ね書きされてもいる。
私もそれを危惧するが、呪いをかけたのは村上氏ではないという点は留意する必要がある。彼は「呪われた」側であって、自分に「呪いをかけられた」ことを公表しただけなのだ。
呪いをかけているのもかけられているのも、我々自身なのだ。
もっとも、追訴という「呪文を唱える」ことが出来るのは、なぜか日本では検察に限られている。それはなぜなのだろうか?
そして検察自身に嫌疑がかかった時に、それを雪ぐのは誰なのだろうか?今回はタイミング一つとっても、「検察はオールドエコノミーの意向を汲んで行動した」と言われてもおかしくない。「そうではない」と有権者を納得させるのは、「私は聞いてない」を証明する以上に難しいことなのではないか?
(404 Blog Not Found:聞いたもの負け)
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/ 2 Jun. 2006 (Fri.) 「どの過ちの奴隷にもならないために」
■ひきつづき、『薔薇の名前』の下巻である。いや、まだ読了したわけじゃない。ちびちびと読んでいる。
■先日も引いた松岡正剛さんの文章によるとウンベルト・エーコはなにしろれっきとした「シャーロキアン」らしいのだが、『薔薇の名前』にも、ホームズ(探偵役)とワトソン(探偵の助手で手記の書き手──そして「ばか」──役)にあたるふたりの人物が登場する。それが年配のフランチェスコ会修道士・ウィリアム(=ホームズ)と、若きドミニコ会見習修道士・アドソ(=ワトソン、ただし手記を書く現在は年老いている)である。では、さっそく「今日のウィリアム」を紹介しよう。会話はアドソとウィリアムのやりとりであり、書き手=アドソに「師」と呼ばれているのがウィリアムである。
「では、あなたは」子供みたいな厚かましさで私はたずねた、「決して過ちを犯さないのですか?」
「しばしば犯している」師は答えた、「ただし、唯一の過ちを考え出すのではなく、たくさんの過ちを想像するのだよ。どの過ちの奴隷にもならないために」
(『薔薇の名前』下、p.83)
きゃー、ウィリアムー。かっこいいー。
■むろん、こうなっては「今日のアドソ」も紹介しないわけにはいかない。ふたたび師弟の会話である。「一角獣」なる動物が想像の産物であることをさとす師に、弟子は食い下がる。
「でも、一角獣は虚偽の産物なのでしょうか? 大変に柔和で象徴的な動物のはずです。キリストと純潔を象(かたど)ったもので、森のなかに乙女を置いておくだけで、生け捕りにできます。なぜならこの動物は、純潔きわまりない匂いを嗅ぎつけて、乙女に近寄り、膝にそっと頭を載せるので、そのまま猟師の罠にかかってしまうからです」
「たしかに、そう言われている、アドソ。だが、それも異教徒の作り話ではないか、というふうにいまでは一般に考えられている」
「何という幻滅でしょうか」私は言った。「森のなかを歩いていて、そういう場面に出会えたら、どんなにか楽しかったでしょうに。森のなかを歩いていて、ほかに何の楽しみがあるでしょうか?」
(『薔薇の名前』下、p.99)
あはははは。エーコのサービス精神だろうか。「何という幻滅でしょうか」は笑ったなあ、これ。