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Jun.
2018
Yellow

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/ 26 Jun. 2018 (Tue.) 「へごちゃん、療法食生活が決定」

妻のもらってきたサンプル。

きのう採ったピーのおしっこを妻が病院に持っていく。院長がひと目見るなり「かなりじゃりじゃりしてる」となって(目視で?)、ピーの療法食生活があっさりと決まった。
「足を洗えたと思ったらまた逆戻りだ( Just when I thought I was out they pull me back in.)」は『ゴッドファーザー Part III』のマイケルのセリフだが、いまのわたしの思いでもある。去年 1月に亡くなったロビンは晩年長らくヒルズの「 y/d」という療法食を食べていたが、それは、それだけを食べ続ける生活を送らないと意味のないタイプのものだった。問題は「療法食は高い」ということなのだが、〈それだけを与えないといけない〉ということがその問題に輪をかけるのは、多頭飼いの厄介さで、おのずと〈三匹全員にそれだけを与える〉しか手がなくなるため、つまり消費量が三倍になるのである。
そのロビンが亡くなって y/dの縛りがほどけたあとは、ピーが前の病院で勧められたことのある、ロイヤルカナンの「消化器サポート(可溶性繊維)という療法食(便秘用というか、ほんとうに太くて長いうんこがするっと出るようになる)をメインに据えつつも、それはほかのものを食べても効果がゼロになるわけではなかったため、「ジャンク」とわが家では呼んでいるところの、ふつうの、うまそうな、やっすいカリカリもいろいろ併用して、経済的にはずいぶんラクになっていたのだった。

今回ピーが病院に処方されたのはロイヤルカナンの「マルチファンクション」というシリーズの、「 pHコントロール+満腹感サポート」というやつ。これも〈これしか食べちゃいけない〉というものだ(そうでないと pHがコントロールできない)。妻から送られてきたそのサンプルの写真を見、すぐにネットを検索したのはつまり、ものによってはアマゾンなどで(病院で定価で買い求めるよりは)安く扱われていることがあるからで、先に挙げた y/dも、消化器サポートもあるときからはアマゾンで買うようになっていたのだったが、この「 pHコントロール+満腹感サポート」、ぜんぜん見つからない。同じロイヤルカナンの似たような効能の商品( pHコントロールのシリーズで、ここによくまとめられているは容易に見つかるのだが、それとはパッケージデザインも商品型番も異なるようである。
で、このとある動物病院のブログ記事に行き当たってついに事情を了解したのだが、この「マルチファンクション」シリーズはロイヤルカナンの比較的新しい商品で、いよいよ〈完全動物病院限定のシリーズ〉なのだった。いや、これまでの療法食だってもともとはみんな動物病院限定──というか、薬局の薬剤師みたいに、売り場に獣医師がいないといけないというタテマエ──だったらしいんだけど、徐々にネットとかホームセンターとかで売られるようになってその扱いがなあなあになっちゃったんで(そのためのトラブルもままある)、業を煮やしたロイヤルカナンが仕切り直し、「これはもうほんとに動物病院だけ」って売り出したシリーズなんだそうな。
じゃあ、まあ、しょうがねえ。
もらってきたサンプルをピーはうまそうに食べ、そんなわけで、ふたたび〈全員で療法食〉の生活がはじまる。ロビンとちがってピーは、われ先にとは食べない(ほかのポシュテ、ニボルが来たらすぐに皿をゆずってしまう)ので、そのへんで多少の工夫は可能だと思われるものの、まあ、基本的にはみんなで同じ療法食のカリカリを食べることになる。

本日の参照画像
(2018年7月13日 14:51)

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/ 25 Jun. 2018 (Mon.) 「へごちゃん採尿 / 仮チラシ / 解題」

承前というわけでピーの採尿。これがなかなかしない、トイレに行かないと妻の経過報告。これだけ行かなければ翻って膀胱炎など(現時点では)起こしていない証拠とも言えそうだが、ピー、見られるのを嫌っているフシもあって、あるいは妻の気の逸れているうちにそそそーと二階に上がり、そっちのトイレでしている可能性もなくはない。で、けっきょく夜になってやっと、リビングの猫トイレに入った。じき、じょーっという音が聞こえたので屋根付きのトイレのその屋根を外し、ペットシーツの、裏のつるつるした吸わないほうの面を上にしておしっこの出ているあたりに差し込む。あまりうまくは差し込めなかったが、まあ、なんとかその上にかかったおしっこを採尿器具に吸わせて任務完了。採ったそれは冷蔵庫に入れて保存し、明日、病院に持っていく。
早稲田小劇場どらま館の制作をやっている宮崎(晋太朗)君とやりとりをしつつ、『 14歳の国』の仮チラシを作る。明日 26日に早稲田で宮沢(章夫)さんが出るトークイベントがあり、そこで配るためのもの。直前での開催告知となった 7月3日のリーディング公演を案内するのが主目的だが、『 14歳の国』の公演自体もこれが情報解禁の一発目となる。その仮チラシはこちら──と、この日記にもっと即時性があれば掲載しているところだが、すでにそのリーディング公演も終えているいまそれを載せても仕方がないので、本公演の情報がよりアップデートされた最新版の仮チラシを載せておこう。スマホの方はピンチアウトして、拡大させてご覧ください。

深夜のツイート解題。

26:18
シリーズ・技。払い腰(50分後)。
27:14
ヤァ!

きっかり 50分後にツイートできてもいないし、からっきしな出来だが、これはほんとうは腰が痛かったのだ。やけに痛く、それで「腰が痛い」とつぶやこうとして、つぶやけばいいのだけど、「腰が痛い。」というだけのわずか五文字を推敲しているうちにとうとう原形をとどめず、こうなってしまった。推敲の、だめな例である。

(2018年7月 9日 14:57)

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/ 24 Jun. 2018 (Sun.) 「モメラス『青い鳥』 / へごちゃん」

モーリス・メーテルリンク『死後の存続』(めるくまーる)は残念ながら現在絶版(?)。

きのう行けなかったモメラスの『青い鳥』へ、夜。

世界中の人々に親しまれた童話劇を幼少期のメーテルリンクが川底で体験した「光」の記述をもとに再構成した、モメラス版『青い鳥』。
モメラス - モメラス第3回公演『青い鳥 完全版』 利賀演劇人コンクール2017 優秀演出家賞受賞作品...

 この「川底で体験した『光』」というのは、モーリス・メーテルリンクが子どもの頃に運河で溺れて死にかけたときのいわゆる臨死体験で、最晩年に書かれた「水死」というエッセイにその記述があるのだけれど、憧憬のような感情とともにそのエッセイに描かれる光──そして、モメラスの舞台の底に鮮烈に漂った仄青い光──が〈生の領域の臨界〉を示すのだとして、それでも、あくまでそれは生の領域に属している。臨死したとはいえ生還したメーテルリンク少年の見た光は、つまるところ〈生〉の側のものでしかない。
予習のためにと思い、メーテルリンクのエッセイ『死後の存続』(めるくまーる。原著は直訳すれば『死』というタイトル。訳者あとがきには「水死」の全文が載っている)を買い込んであったが事前にはさほど読めず。ただ、導入部(「 1章 死に対する不当な扱い」)を読むだけでも、メーテルリンクの〈姿勢〉というものが何となくわかったような気にはなる。たとえばそれは、次のような物言いに示されるところの姿勢だ。

まず、死に先行し、死そのものと関わりのないすべてのものを追い払わなければならない。われわれは、末期の病苦を死のせいにするが、それはまちがっている。病と、そこに終止符を打つ死との間には何の関わりもない。病は生の領域にあるものであり、死の領域のものではない。
p.10、太字強調は引用者

 この単純な事実の確認──しかしハッとさせられる指摘──にはじまり、メーテルリンクが何度もそこに立ち戻ってみせるのはつまり、死──そこにかぶせられる不当なレトリックをすべて取り払ったところにある、死そのもの──は〈不可知〉なのだという前提である。病が生の領域のものであるように、われわれが知っているのはどこまでも生の領域のことであり、死の領域のいっさいをわれわれは知らない。「そんなことを言ったら、死については何も言えないじゃないか」ということになるわけだが、その不可知の〈死〉というものを想像するとき、そこに〈非−生〉としての過剰な意味とイメージを無責任に与えるのではなく、むしろ、既知の〈生〉のイメージこそを用いるべきではないか、というのが、メーテルリンクの姿勢なのではないか。
その姿勢は、まったく文脈の異なる言葉ながら、ふと流れてきた次のようなツイートととも響き合うところがある。

@hinakoozaki: 直感的には死に魅入られてはいけない。
死という享楽に惹きつけられれば、言葉の外側に行ってしまう。
多くの問題は言葉の中で起きているし、言葉によって解決可能である。
2018年7月6日 22:13

〈死〉と〈生〉の境にある光。つまりそれは鏡のようにそこにあって、こちら側とまったく同じ世界がむこう側にも広がっているのだと想像すること。それがメーテルリンクの、そしてモメラス『青い鳥』の言っていることのように思われた。
という『青い鳥』の話は書けたらまた続きを今度。
で、話はさかのぼり、『青い鳥』を観るために横浜へ行くその前に猫を病院に連れていく。

16:00
ピーと病院に。

 愛称は本名から遠く隔たって、わが家ではいまもっぱら「へごろ」「へごちゃん」と呼ばれているところのピーは 15歳、オス。ハタチだったロビンが去年亡くなったあとは最年長となり、「じいさん」呼ばわりもすっかり板に付いてきたところだが、今夏、例年よりも抜け毛が多いような気がしていたところへもってきて、首の後ろあたりにハゲたようになっている箇所を見つけた。それで皮膚病か? と連れていった次第だけれど、あからさまな赤みなどがあるわけではない。痒がっているかと訊かれれば、そんな気はする。また腰回りを中心にフケがだいぶ出ていたりもするが、じつをいってそれは「前からそう」だったりする。といった問診の末、それで仔細がわかるかはわからないにせよ、歳も歳だし、もっとも基礎的な検査として血液検査とレントゲン、エコーはやっておきましょうとなって、思ったより時間がかかることになったためそこで妻に来てもらって交代、わたしは横浜へ向かった。
「腎機能系の数値がやや高め」というある意味年相応な懸念を除けば、検査結果は〈わりと健康そう〉という総合評価だったが、それはそれとして近いうちに尿検査もすることになり、スポンジに吸わせるタイプの採尿器具をもらってくる(お腹から直接採尿するという手もあるものの、あまり溜まっておらず、また肉も邪魔をしてダメだったとのこと)。皮膚炎(?)への対症としては 2週間効く抗生剤の注射(コンベニア)を打ってもらい、ステロイドの錠剤を処方された。ステロイドはにがいので食事に混ぜるという手が使えず、妻があらためて、薬の飲ませ方(口を開けさせ、そこに放り込むやり方)を教わってきたのだった。

本日の参照画像
(2018年7月 8日 02:35)

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/ 23 Jun. 2018 (Sat.) 「サンドリヨン!」

音楽劇「サンドリヨン」のチラシ。節穴であるところのわたしはたったいま、何かぼんやりとした文様のようなものだと思っていたもの(後ろのイラスト)について、「あ、ガラスの靴か」と気がついた次第。

13:53
市民会館だぜ。間に合わないかと思ったぜ。

油断していたらぎりぎりになった。いつもの習い性で北口駅前の駐輪場に自転車を止め、そうして徒歩で向かうと市民会館──ネーミングライツのアレでもっていまは「たましんRISURUホール」──は多少距離がある。自転車のまま市民会館まで行けばよかったのではないかというのは後世の人が考えたことであり、わたしは走った。市民会館に来るのはたぶんこれが二度目。2008年10月に小米朝改め米團治の襲名披露公演で来たのが一度目で、それ以来のはずだ。本日は、オペラグループ「オペリーナ」の第二回公演、『音楽劇「サンドリヨン」〜シンデレラたちの物語〜』に駆けつけた。市井のおじさんおばさんがフランス語で歌い、日本語で芝居をするその〈小さなオペラ〉に、「構成・演出」というクレジットで稲毛(礼子)さんが参加しているのだった。
まあ、いわゆる〈晴れの舞台〉感は観る側としても折り込み済みであり、個々の出演者にたいして、「大丈夫だろうか、はたして楽しめているだろうか」とふと心配してしまうのはとりわけ序盤、どことなくムスッとした表情に見える人などもいて、それはひょっとして「かしこまっている」という状態なのか、たんなる緊張か、あるいはむしろ「素の状態がそれ」なのかとも想像するが、とにかく「楽しんでくれていればいいのだが」とお節介な思いを抱えずにはいられない。と、そんな顔つきだった人があるとき、ぱっと楽しげになる瞬間があったりして、その破壊力といったらない。
そんななか稲毛演出は、冒頭のシーンからしていろいろ周到に考えているなあと思わせるもので、たとえば舞台上の彼らは何者なのかという根本のところにかんして、稲毛さんはおそらく、何もてらわず、と同時にしっかり一枚虚構のレイヤーを挟むことも忘れずに、〈今日この場で、サンドリヨンの音楽劇を発表することになった者たち〉なのだと規定したのではないか。その設定から自ずと彼らは〈役者〉として振る舞う──四人の俳優でサンドリヨン(シンデレラ)役のバトンを渡していく構成もそれを補強する──のだが、といって彼らはプロ(の役者そのもの)ではなく、これは冒頭に抱いた印象なのだが、彼らが発表会をすることになった〈この場〉とは〈どこかの森〉であり、〈彼ら〉はすなわち〈妖精〉なのだと了解してわたしは観ていた。
面白かった。終演後に声をかけた稲毛さんからは「〈いろんな意味で〉面白かったんでしょ?」と返されたが、そうなのだ、出演者個々の人としての魅力も、そのさまざまなドタバタも含め、まさしく舞台上の〈いろいろ〉をすべて抱え込むことに成功したように見える佳品がそこにあった。市民会館を出ると降り出していた雨もいっそ心地よい湿りと感じられ、わたしは気分よく、傘を広げる。
そのあといったん帰宅し、一時間ほど寝てからふたたび家を出る。モメラスの『青い鳥』を予約してあったのだが、うっかりこれもぎりぎりになった。乗ろうとしていた南武線を一本逃す。で、横浜で走るのを良しとして素直に一本後の南武線で行けばよかったのだが、八王子に出て特急の「はまかいじ」に乗れば早いと、乗換アプリの甘言に釣られたのが失敗だった。揚々と八王子に着いてから確認すると、はまかいじの運行が大幅に遅れている。だからといって普通の横浜線ではもとよりすでに 19時開演に間に合わず、あっさりと万事休す。あきらめてモメラス制作宛にメールでキャンセルを入れ、予約を明日夜に変更してもらうことにした。申し訳ない。

本日の参照画像
(2018年6月27日 00:57)

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/ 22 Jun. 2018 (Fri.) 「緊張 / ジョンソン&ジャクソン / ノンマルト」

ノンマルト。

そしてアンヌと真市少年。

緊張。
それで夜、渋谷。ジョンソン&ジャクソンの『ニューレッスン』を大場(みなみ)さんと観る。大倉孝二、いとうせいこう、ブルー&スカイ、小園茉奈、池谷のぶえ(当日パンフ記載順)という面々。面白かった。スカしもすればボケもする、〈意外に真摯〉な作りの笑いがいよいよナンセンスに肉薄する、その舞台の密度に技を見、弛緩ぶりに思想の強靱さを見た。いったいどうなっているんだろうという驚きとともに、まさしく新たな〈レッスン〉に参加した思いだ。こころおきなく笑った。
で、終わってまた大場さんと渋谷で飲む。

23:51
そのあとは、ひさしぶりに、ウルトラマン、ウルトラセブン、怪奇大作戦について懸命に語ってしまった。なにがしか伝わっただろうとは思うものの、たぶん、「もういいよ」という境を越えて喋っていたのだろうと思う。

まあ、ソコに話題が至るだけの正当な道筋はちゃんとあるのだけどそれはちょっと省くとして、つまり「恐怖の宇宙線」とか「故郷は地球」とか、「狙われた街」とか「ノンマルトの使者」とか、「死神の子守唄」とかの話をしたのだった。で、いよいよ「霧の童話」の説明に手をかけようとしたところで「しまった、大場さん眠そうじゃないか」ということに気がついた。
いや、じゃなくてね、たぶんあれなのだ、相馬の声は聞き取りずらい──から、聞き取るのに労力を使わなくて済む静かな店に入ろうと毎回そう思っているのに、気づくといつも騒々しい店にばかり入っている、焼き鳥ばかり食っている──という大場さんの発言を聞いて、おのずと声量の大きくなるような、熱っぽく語ってしまうような話題を選んだ結果があれだったんじゃないかと思うのだ。
というか、毎度店選びは大場さんに任せ、わたしは世間知らず顔でただひょこひょこ付いていっているのだけど、大場さんにそんな店選びの意図(実を結んでいないとはいえ)があったとは、つゆも(なにせ実を結んでいないだけに)知らなかった。そうだったのか。
おまけの思い出しメモ。あ、これ写真にしたいなとふと思う景色が今日はいくつか。そうしたときに咄嗟に iPhoneを構えるような俊敏さがこの右手にはない。

本日の参照画像
(2018年6月24日 23:46)

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