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Jul.
2018
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/ 14 Jul. 2018 (Sat.) 「これぞ紛れもないフレニール『枝分かれの青い庭で』」

J. L. ボルヘス『伝奇集』(岩波文庫)

J. L. ボルヘス『詩という仕事について』(岩波文庫)

J. L. ボルヘス『アレフ』(岩波文庫)

熊谷知彦ソロ・パフォーマンス『枝分かれの青い庭で』(作・演出:平松れい子)を観に、南青山のほうへ。かつては熊谷知彦好きとして知られたわたしだが、最近何公演かは見逃してもいて、ほんとうにすごくひさしぶりの熊谷さんだ。事前の公演案内に、

作者・平松れい子が、アルゼンチン作家「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」の幻想小説に触発されて書き下ろした本作品。
熊谷知彦ソロ・パフォーマンス『枝分かれの青い庭で』

とあり、ボルヘスの何だろう? と検索してどうやら「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」らしいと知れたので『伝奇集』所収のそれを読み返した。あはは、あははと読む。
で、その「トレーン、ウクバール、〜」だけれども、ほんとうに面白い。いま、わたしは『枝分かれの青い庭で』のことを差し置いて、「トレーン、ウクバール、〜」の面白さをこそ触れて回りたい衝動にかられているほどで、ひょっとするとわたしは近々会う人たちにたいし、あたかも最近見つけた面白いインスタアカウントでも教えるような調子で、このボルヘスの短篇のことを紹介しはじめてしまうかもしれないが、しかし、はたしてそんなことが可能だろうか。すでに極限にまで〈要約〉されて語られているようなあの小説を、さらにかいつまんで語るというようなことが。
さて『枝分かれの青い庭で』は内容的には、「たった一冊の百科事典のなかにだけ発見される『ウクバル』なる項目」というその一点にボルヘスの短篇の痕跡が認められるだけで、それ以外はほとんど「トレーン、ウクバール、〜」と無縁の物語世界が構築されているが、そうでありながら、じつにボルヘス的な仕掛けに満ちてもいる。
冒頭、開演前の案内(携帯電話の音が出ないようにとか、場内の室温は大丈夫かといったようなこと)を作・演出の平松さん自身がしゃべっているところへ熊谷さんが入ってくる。長机と椅子とがあるその演技エリアはちょっとした DJブースのようになっているのだが、「熊谷さんにはちょっと機材チェックなどしていただいて」という平松さんの説明が入ることで、いまはまだ〈開演前〉なのだという強い了解が作られる。そうして熊谷さんが準備をしているあいだの時間をつなぐように、平松さんが熊谷さんに世間話を仕掛けるのだが、その会話は熊谷さんの俳優としての来歴、平松さんとの関わり、そして俳優業のかたわらでずっと続けてきたさまざまな派遣の仕事のことへと移っていって、やがていま現在派遣されている職場の話に行き着く。たとえそこに紛れ込んでくる事実との齟齬に気づかなかったとしても(というのはつまり、熊谷さんのじっさいのプロフィールや近況を知らなかったとしても)、まあ、次第になんとなく、熊谷さんの饒舌ぶりなどから、あ、これは〈はじまってる〉んだなと気づくバランス(ないしアンバランス)になっているのだが、このようにして巧みに仕立て上げられるところの〈俳優・熊谷知彦という語り手〉こそが、まさにボルヘス的語り──作家であるボルヘス本人の一人称が装われつつ、しかしどこからどこまで(どの固有名詞まで)がほんとう(実在)なのかわからない、ノンフィクション的な枠組みを用いてリアリズムの否定に挑む語り──の立体的な表れとして、まず、ある。
ちなみに、受付時に配られる簡素な当日パンフレットには挨拶文や物語の導入となるような案内がいっさいなく、代わりに熊谷さんと平松さんそれぞれのやや詳しめのプロフィールが書かれてあるだけなのだが、これもまたおそらく、冒頭部の仕掛けに寄与する伏線として周到に用意されたものだろう。というのは、そこにある熊谷さんのプロフィールを事前に注意深く読んでいれば冒頭部の会話に現れる〈事実との違和〉に気づきやすいということがまずあるからだが、さらに言えば、冒頭部を経て終演後にふたたびこの〈真のプロフィール〉に戻ってきたとき、むしろ、〈この真のプロフィールははたしてどこまでが真なのだろうか〉というような、とぼけた不安定さを覚えさせられるからでもある。
これはけっきょくツイートしなかった感想だけれど、観終わった直後の「下書き」では、作品の印象はまずこういう驚きとしてわたしの口(指)を衝いた。

15:02
物語からもっとも遠く離れた「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」から着想を得て、こんな紛れもない物語が紡がれるとは。というような、『枝分かれの青い庭で』。

 けれど、投稿する前に読み返してみて、いったい「物語」という言葉が何を指しているのかわれながらよくわからなくなり、語用上の厳格さに欠けるというか、何か言い当てられていないような気がして思い直す。
それで、『詩という仕事について』というボルヘスの講義録から「物語り」と題された章を読んだのはたんに「物語」という言葉からのつながりだが、まあ、さして思考の整理が付いたわけでもない。それどころか、思考はさらに派生して収拾の目途がなく、たとえば、ボルヘスの語る次のような詩人の姿に、ついつい舞台上の熊谷さんを重ね合わせたくもなってしまう(この講義でボルヘスが扱っている「物語」は、直接的には「叙事詩」のことだ)

詩人たちは忘れているようですが、ある時期まで、物語を語ることこそが本質的なことであり、その物語を語ることと詩を口ずさむことは別の事柄とは見なされなかったということです。ある人間がある話を語り、それを歌う。聞き手たちは彼を、二つの仕事を試みる人間とは思わなかった。むしろ、二つの側面を有する一つの仕事をしている人間と考えた、あるいは、二つの側面など端から無いと考えた、いやむしろ、その全体を一つの本質的なものと考えたのでしょう。
J. L. ボルヘス『詩という仕事について』「 3 物語り」(岩波文庫)、p.75

「トレーン、ウクバール、〜」に戻れば、まあ、やはりひとつの肝となるのは「フレニール」(とさらに無説明に出てくる「フレーン」笑)をめぐる記述だろう。

何世紀にもわたる観念論の支配は、現実に影響せずにいなかった。〔〕二人の人間が一本の鉛筆を捜している。第一の人間がそれを見つけ、何にもいわない。第二の人間が、これに負けないくらい本物らしいが、しかし彼の期待にいっそうぴったりした第二の鉛筆を発見する。これらの第二の物体はフレニールと呼ばれ、形がくずれているが少々長めである。〔〕トレーンにおいては事物はみずからを複製する。同様に、人々に忘れられると輪郭が薄れ、細部が消える傾きがある。乞食が来ているあいだはそこにあり、彼が死ぬと同時に消えた戸口は、その古典的な例である。時には、数羽の鳥や一頭の馬が円形競技場の廃墟を救った。
J. L. ボルヘス「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」、『伝奇集』(岩波文庫)、p.31-33、太字強調は原文

 派生の各段階において周期的な特徴と差異をもつフレニールの、その増殖と現実世界への侵食が語られるとき、トレーンは宇宙の完全な鏡像となって、その円環が完成する──「わたしのウクバール発見は、一枚の鏡と一冊の百科事典の結びつきのおかげである」「世界はトレーンとなるだろう」。序盤に出てくるトレーンが、ウクバール国の文学が生み出した「架空の地方」のひとつと説明されるのにたいし、そののちに再登場するトレーンがひとつの「宇宙」(架空の惑星)として解説されることの齟齬は、つまり、それぞれがともに、別々の〈フレニールとしての現れ〉なのだと考えれば何も不思議はない。
『枝分かれの青い庭で』もまた同様に、ボルヘスの短篇から派生/複製された紛うことなきフレニールなのだと、考えれば考えるほど、そんな思いに囚われていく。
と、ここまで、『枝分かれの青い庭で』の直接的な中身にはすっかり触れないまま来てしまったが、どうも熊谷さんは「再演する気満々」であるらしいから、中身にはぜひ、またべつのその庭で出会ってもらえたら幸いだ。

本日の参照画像
(2018年7月17日 12:10)

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/ 13 Jul. 2018 (Fri.) 「へごろはいま / 新しい水飲みふたつ / エアコン来日ほか」

以下、もろもろ。

へごろはいま

へごろ(ピー、写真)だけれども、まあ、つつがなく療法食生活を送っている。朝・午後・夜・寝る前(ヒトが)の 1日だいたい 4食がすべて療法食のカリカリ。ほかの二匹もそれに付き合うのだが、うちポシュテだけは朝、そのカリカリでなく缶詰をもらっている。ピーは、たとえ好物でもほかの猫が食べている皿を奪うことをしない(ばかりか、自分が食べていた皿でも譲りまくりな)ので、ポシュテが食べ残さず、すぐに平らげてくれればまったく問題はない。この降って湧いた療法食生活を予期できず、直前にもうっかり買い足していた缶詰がわりとたんまりあるので、それを消費してくれるポシュテの存在はたいへんありがたいのだった。
というのも、ニボルがねえ、前にも書いたかもしれないが、あるときからぷっつりと、まったく、缶詰を食べなくなっていまに至るのである。野良の出で、うちに来てしばらくはあれだけ何でもガツガツ食べていたというのに、いよいよ家猫としての〈油断〉を謳歌するのか、よくわからない選り好み(シロウト目に缶詰はまったくおいしそうだ)を発揮して、あらゆる缶詰にプイとした態度を示している。療法食も含めてカリカリは大好きで、また、ヒトの食卓にもあいかわらずガツガツくるのだけれども。
で、ピーの療法食生活も二週間を過ぎ、ここらでまた尿検査をして経過を診ようという頃合だ。多少でも数値が改善していればいいのだがなあ。

新しい水飲みふたつ。あるいは風流人、ピー。

これはピーを病院に連れて行き、それで療法食生活が降って湧くよりも前の話で、思い返せばだいぶ前から目にしていたピーの振る舞いなのだが、水を飲もうとするさい、水の入った容器(当時はふつうのどんぶり)のフチに手をかけ、手前に引き寄せるということをやるのだった。以前には「水の量の少ない」ときに(あたかも催促のように)それをやっている印象があったが、最近は充分に入っている状態でもそれをするようになり、ときおりはそれでどんぶりを倒したりもして、加えて「じいさん」呼ばわりがすっかり板に付いてきた年齢のことがあるから、さてはこれは、首をかがませて水を飲むのがつらくなっているのではないか、「容器の高さ」の問題なのではないかとヒトどもが考えたのである。
それで最初に買ったのが写真左側の自動給水器(規格や仕組みにほぼ差のない似たような商品が山と出ているが、これは MOSPROというブランド名のものだ。中の容器に 2L水が入り、小型のモーターで吸い上げて写真のように噴水式に垂らし、循環させている。落ちて容器にもどるあいだに濾過フィルターがかまされていて、2、3日なら水の交換が不要(フィルターは 1ヶ月ごとに交換)。中央に刺さっている花びらのようなパーツを外すと、真ん中にもこもこと湧き水のようにして水が出るかたちになる。モーター音はほぼ無し1]。まあ、キッチンの流しから水を飲むような楽しさと、水の新鮮さが元来の(猫への)アピールポイントなのだが、作りの必然から水面の位置も高く、これはうってつけなのではないかと購入に踏み切った。

1:モーター音はほぼ無し

少し詳しく書けば、水がたっぷり入っているうちはその小型のモーターが完全に水に埋もれるのでほぼ無音。水が減ってモーターが水面から顔を出すとやや音は大きくなるが、チョロチョロと水が落ちるその音のほうがまさってほとんど気にならない程度である。

が、ピー、この水を飲まない。ポシュテもニボルも飲んだのだが、ピーは落ちる水を見守りこそすれ、ついに飲むに至らず。どうも飲むものではなく観賞用の何かだと捉えているフシもあって、チョロチョロというその涼やかな〈音の風情〉にただ耳をあずけている感じがないではない。風流人、ピーである。
でまあ、飲まないのは材質=プラスチックがそそらないのだろうか、やはり陶器がいいのだろうかとさらに買い足したのが写真右側の器。これはただの水飲み用の陶製食器だが、背が高く上げ底になっていて、猫工学的に配慮されているのが売りである。結果これが〈正解〉で、ピーは気に入ってこれを飲んでいる。ばかりか、ポシュテやニボルももっぱらこっちを飲むようになってしまい、自動給水器はすっかり、猫もヒトもその〈環境音〉を愉しむものになってしまった。チョロチョロというその水音のヒーリング効果は高く、「マイナスイオンが出ている気さえする」と妻は滅多なことを言う。
さて冒頭にもどってピーの手クセの話だけれども、飲みやすい器に変わったことで「手前に引き寄せる」その行動がなくなったかというと、これがどうも依然(頻度は減ったものの)たまにやっているっぽい。こうなるともう、残ったそれは「クセ」としか説明がつかないか。あるいは、性格(?)によって世間の猫にまま見られる行動パターンのひとつなのかとも思い、病院に連れて行った折り、先生にそのピーの水の器を手前に引きずる行動を描写してみせた(「ああ、たまにいますね、そういう猫」といった反応を期待した)のだけど、甲斐なく、「そうなんですかあ」と聞き入られてしまった。

エアコン来日── 2018.7.7

この夏、ついにエアコンが来日。来日というか、うちに来た。じつをいってリビングのそれが、先の冬シーズンから動かなくなっていて、冬はこたつと古いデロンギで乗り切ったものの、いよいよ、これは、ねえという時期にさしかかったので新しいものを買った。それの取り付け工事が 7日に。
モノは日立の「白くまくん」シリーズのやつ。「くらしカメラ AI」だとかそういったイマドキな機能が満載で、どうもまだ扱う側がその機能を把握しきれていない(うまく操れていない?)感は大きいのだけれど、まあ、涼しいは涼しい。そして心なしか、ピーが活発になったような気がするのだった。じいさんお前、暑かったのか。
野良出身で〈家猫としてのはじめての夏〉を迎えるニボルもまた、「(なんかエアコンないっぽいんで、)どうなることかと思いやしたぜ」といった顔をこちらに向けていた。

ほか、いろいろ

3日に『 14歳の国』のリーディング公演があり、8日には牛尾(千聖)さん、善積(元)君、内田(智也)君と落語(南光・南天ふたり会@横浜にぎわい座)を聞いた。
サッカーのワールドカップがはじまって終わろうとしていて、ウィンブルドンもはじまって終わろうとしている。内藤祐希のガールズ・シングルスは三回戦敗退。

@soma1104: ウィンブルドンの内藤祐希、三回戦の相手が手強そうだ(シニアツアーばかり回ってる人のようで、1月の$15,000ハードではマクナリーやアップルトンに勝っている)。とはいえ、今大会の目標といったらもう「イガに雪辱する」ことしかないわけで、そこへ向け、ここはひとつねじ伏せてもらうしかない。
2018年7月11日 10:21

というわたしのはしゃいだツイートもむなしく、逆にねじ伏せられてしまった。ちなみに今大会のドローでイガ(・シオンテック)と内藤とが当たるとすれば決勝しかなく、この「イガに雪辱する」というのは「優勝する」の意である。連戦に耐えるだけの体力の不足、というのが、当人が課題としていちばんに受け止めたところらしい。で、その内藤に勝った相手──レオニー・コング──はそのあとカティー・マクナリーにも勝って、こりゃイガ対レオニーの決勝(シニアツアーをおもに回り、ジュニアのランキングを持っていない者同士の決勝)もあり得るぞと思っていたら、ほんとうにそうなった。ガールズ・シングルスの決勝は明日( 14日)。内藤がいなくなったのでわたしはイガの応援に回っている。
そしてわたしの関心はいま、「トランスジェンダー」方面にむかう。

(2018年7月14日 10:58)

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