/ 11 Apr. 2011 (Mon.) 「〈顔〉と〈希望〉のしぶとさ」
■なにしろ、これが今年に入ってはじめての更新になるというご無沙汰である。じつを言ってひと月前のあの日、わたしは似たような書き出しでもってこの日記を更新しようとしていた。そのとき書こうとしていたのは iPad2 の話題や、AppleTV にまつわるあれこれで、それらについてはまたいずれあらためて書き直すだろうけれど、ひとまずいま、書こうと思うのはそれらではない──という程度には、わたしもまた影響を受けているものの、しかしそれは〈断絶〉と呼ぶようなものではない。依然としてわたしは過去に支えられている、と感じたのは3月の終わり、紀伊國屋書店の書棚の前に立ったときだった。ここでは何ひとつ、断絶などしていないのだと語りかけてくるようなその書棚はじつにたのもしく、予定していたものも、していなかったものも次々に掴んで、けっきょくその日は以下の本を買った。
- 岡本 浩一、宮本 聡介[編]『JCO事故後の原子力世論』(ナカニシヤ出版)
- アーサー・クラインマン、ほか『他者の苦しみへの責任』(みすず書房)
- ハンス・ヨナス『責任という原理──科学技術文明のための倫理学の試み』(東信堂)
- ハンス・ヨナス『アウシュヴィッツ以後の神』(法政大学出版局)
- ヤコヴ・M・ラブキン『トーラーの名において──シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』(平凡社)
- クリフォード・ギアツ『解釈人類学と反=反相対主義』(みすず書房)
- 永田貴聖『トランスナショナル・フィリピン人の民族誌』(ナカニシヤ出版)
『他者の苦しみへの責任』と『責任という原理』は、ツイッターでフォローしている方のつぶやきにあったもの。『JCO事故後の原子力世論』は、これはもう不謹慎と呼ばれるならば「そうかもしれない」と応えるしかないような〈言説分析〉的興味からで、つまり「放射能=こわい」といった物言いについて、史料をもとに言説分析をおこなったものがあれば読みたいという欲求から、その資料として。そして今回もまた、あれこれ考えるうちにそこへと至ってしまったのは「真正性の水準」「〈顔〉のある関係」といった問題群で、たとえば『トランスナショナル・フィリピン人の民族誌』はそこに通ずるものである。
■10日、都知事選で石原慎太郎氏が四選を果たした夜、ツイッターの公式リツイートで流れてきたつぶやきにこうしたものがあった。
@eizo: 10年ぐらい前、消費税が論点になった総選挙があった。その当時、橋本龍太郎が自民党総裁だった訳なんだけれども、インタヴューを受けた老人がカメラに向かって「橋本さん、消費税やめてよ、投票するからさ」ていうのを聞いてしまい、その時、日本の選挙は論理じゃないっていうことを学びました。
4月10日 11:14 PM
このツイート(およびリツイート)はもちろん、「橋本さん、消費税やめてよ、投票するからさ」と発言する老人の非論理性/非合理性を否定的に紹介するかたちで石原氏の再選を嘆息してみせているわけだが、しかしわたしは、嘆息しつつも、同時にこれをべつの角度から──この老人の発言を肯定するかたちで──リツイートしたい思いにも駆られたのである。カメラにたいして「橋本さん」と話しかけたその老人の声は、まるで知り合いの町会長か何かにむけて発せられているかのような響きを放ち、つまりそこでは、選挙という大規模で非真正な〈システム〉のなかに、〈顔〉を介した、小規模で真正な社会における「ローカルな想像のスタイル」が平然と根をのばしていることをみることができる。むろん老人と向かい合ってあるのはテレビカメラであって、じっさいには対面的なコミュニケーションは成立しないし、この図式は逆に、システムの側がローカルなネットワークに巧妙に侵食している状態だとも指摘できるわけだが、であればこそ、これが、「近代以降、ひとは、真正な社会と非真正な社会という異なるあり方をした二つの社会を二重に生きている」というそのごくあたりまえの事態を示すものだとして、わたしはここに現れる真正な社会の「しぶとさ」のほうをこそ強調したいと思うし、そこにこそ希望をみる。
■10日、高円寺の反原発デモに参加したが、じっさいにそのなかに身を置いてみればなおのこと、15,000人規模とも言われたその全貌は到底把握できるものではない。おそらくこのデモにおいては「数」を集めることがひとつの目的であり意義だったはずだが、と同時に、あたりまえのことを言えば、その数が「(その場に)集まる」ことはそれ以上に重要である。さまざまな人がいて、思い思いの振る舞いがあった(エキサイトしようする人があれば、それをなだめようとする人があるという意味においても「思い思い」である)。「15,000人」の外延ははっきりしない。それは一挙にカテゴリーを与えられ、外延の確定された「15,000人」ではなく、それぞれの個を基点として、いっしょに来た家族や友人、あるいはこの数のなかのどこかにいるはずの友人たち、そして何よりも、たまさか列で隣り合わせた人々の〈顔〉を介して、伸縮自在なネットワークとして〈想像〉された「15,000人」である。われわれはけっして「役割」によって有機的に連帯したのではなく、類似性/隣接性によって機械的に連帯したのだ。
それ[=機械的連帯/引用者註]を隠喩的関係と呼んでもいいでしょう。隠喩は類似性によって成り立ちますが、隠喩が隠喩であるには、比喩するものと比喩されるものとの間に根本的な差異がなければなりません。根本的な差異を前提としつつ、ただ共に存在するだけで成り立つ類似性によって、機械的連帯は生じるのです。
戦略的本質主義を乗り越えるには(3) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
もちろんその「数」を組織し、システムの側からの変革へとつなげることは一方で重要であるが、と同時に、そこにいたひとりひとりは均質な「票」などではなく、それぞれに代替不可能な個であり、〈顔〉だったはずだ。石原氏再選という事態も手伝って、デモに否定的/懐疑的な人々からは「で、デモに行った人は投票したの?」といったつぶやきが投げかけられていたが、しかし、そもそもあの日高円寺に集まった全員が、均質に「投票権」を与えられた「国民」であったと考えるのは大きな間違いだろう。そこには、システムの側から「国民」と認定されていない隣人たちも多くいたはずなのである。
■デモのあと、駅前で赤羽(健太郎)さん [@k_akahane ] や、南波(典子)さん [@otocin_t ] らとしばし立ち話。南波さんは家族三人でデモに参加していたのだった。あ、そうそう南波さん、「しいたけ園←ブロッコリー」の4月3日付の文章、遅ればせながらあのあとに読んで、祝ってもらっていたことをやっと知ったのでした。毎年々々、どうもありがとうございます。
■記憶にあたらしい〈顔〉をもうひとつ。7日の深夜に大きな余震があったとき、わたしはちょうど帰途にあった。立川駅で中央線の車輌を降りようとしたときに誰かの携帯から緊急地震速報のアラームが聞こえ、その後(妻の証言によると速報から揺れがくるまでに一分ほどあったというから)、構内を歩いているあいだのことか、自転車を漕いでいるあいだのことだったか定かではないが、とにかく揺れにはまったく気づかなかった。そうして家のほうへ向かいながら夕飯を食べる店を探していて、たまさか灯りの見えた、はじめて入るとんかつ屋の戸をがらがらと開けると、カウンターで何やら書きものをしていたらしいご主人に「いやー、いまのは揺れたねえ」と開口一番言われたのだった。「気づきませんでした」と応えると、「やってるよ、いま」とご主人は店内に置かれたテレビを指し、それから店内の揺れがどうだったかを説明してくれる。わりと細かなものが飾られた店内はしかし何ら散乱しているふうでもなかったし、話を冷静に聞いてもさほどひどい揺れではなかったように聞こえるものの、「(震度)5ぐらいあったんじゃないかな、ここらは」とご主人は言いきる。折しもNHKの画面には各地の震度を伝えるテロップが上部に出ていて、茨城のあたりが「4」だと告げているにもかかわらず、また、ご主人もまちがいなくその画面に視線を投げているというのに、まったく何も見ちゃいないし聞いちゃいない。「このビルはねえ、古いからね、しっかりしてるんだよ。この一階なんてめったに揺れないんだから。それが揺れたからねえ、5ぐらいだよ」と続けるご主人に、わたしはやはり〈顔〉のことを思い、もう笑いながら相槌を打っていた。〈顔〉とはつまり「関係の過剰性」のことであり、ある「めんどくささ」のことでもある。最大余震の深刻さをずいぶん軽減させてくれたそのご主人の〈顔〉に、わたしはなにがしかを学んだ気がするのだし、そのことに比べれば、キャベツの色が悪かったことや、おしんこが凍っていたことなど、このさいたいしたことではないのだ。
■飽きて長らく記載していなかった太陽光発電の成績も書いておこう。3月のトータルでは自給率が43%(発電量:422kWh/消費量:963kWh)。4月の自給率はいまのところ55%、11日は48.3%だ。