/ 15 May. 2017 (Mon.) 「Apple Music」
- 9:31
- Yellow。8日付「とどかないこと」。
- 17:35
- Yellow。9日付「チェイス家の時間」。
- 25:47
- blue。「 Opera was Reborn」。
■「満を持して」とはこのことではないかと、町の声もしきりだ。Apple Musicの利用を開始。あー、こーゆーふーになるのかーと、いまさらいろいろ。
■適うことなら手当たり次第に聴いて、何かぜんぜん知らないような曲に出会いたいというのは、衝動としてたいていあるものの、まだなかなか思うようにそのインターフェイスを泳げていないというか、そうはいってもなかなか「人は手当たり次第には聴けない」ものなのだった。「 For You」なんてなことを言われると「おれにはかまわないでくれ」と返したくなるのだけれど、とはいえ「趣味」はあって、そこが厄介だ。己の趣味をねじ伏せるだけの、音楽的知識/音楽的記憶の持ち合わせもないしね。
そうじゃなくてサァ、キミの言い方ちょっとおかしいよ、そうじゃなくてサァ、ぼくなんかは、ま、一日にね、一日に 8時間ロック聴きまくって生活してるわけですよ。そうすっと、すごいよくわかるのは、いいものもある、だけど、悪いものもあるって感じだなあ。
SNAKEMAN SHOW [5] / YMO『増殖』
いや、こういうものをすぐ再生できて、確認できるのはやっぱり便利ですけどね。引用して、だから何だってことはとくにないです。
■みんなこれ( Apple Music)、どういうふうに聴いてるのかな? そもそも、未知の何かを探すというような用途では、べつの媒体を丹念にあたっているのだろうか、やっぱり。
■やっぱアレよかったよなあ、Samurai.fm。終わっちゃったけど。
■そんなわけで、たいして遠くまで泳いでいないというのが丸わかりな一枚だけど、とりあえず Four Tetの『 Rounds』( 2003年) がよかった。2曲目の「 She Moves She」はこれ聴いたことあるよなあと思っていたが、デイジーワールドディスクのコンピレーションアルバム『 audio sponge 1』( 2003年)に入っていて、それで聴いていたということか。
■そんなところです。
Cycling: 2.2km • 10mins 15secs • 48 calories
Transport: 70.2km • 1hr 23mins 43secs
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/ 14 May. 2017 (Sun.) 「The world is not divided」
- 8:20
- おはようごさいます。
■さあ、もう、今日はこれだけでいいんじゃないですかね。
世界は、東西に分割されてはいない。あなたはアメリカ人で、私はイラン人で、互いを知らないけれど、でも私たちは話し合い、互いを申し分ないほどに理解し合える。あなたと、あなたの政府との間にある差のほうが、あなたと私の間にある差よりも大きい。私と、私の政府の間にある差のほうが、私とあなたの間にある差よりも大きい。
そして、私たちの互いの政府同士の間には、まったく差がないのだ。
マルジャン・サトラピ、イラン人漫画家 ※以上、訳は相馬訳
■ツイッターで高山(玲子)さんが「お誕生日おめでとー」と言っていて、誰宛かと辿ると温又柔さんという方だった。で、その温さんのツイートを見ていたら、上のやつがあったのだ。
”You can love your country without having to love your government”と検索していたら、マルジャン・サトラピの名言と出会った。痺れる⚡ https://twitter.com/WenYuju/status/863498859313377280/photo/1
2017年5月14日 5:59
もともと検索していたという、「あなたがあなたの国を愛するにあたって、あなたの政府を愛さなくちゃいけないことはない」、ってのもいいね。
■お誕生日おめでとー、温さん。
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/ 13 May. 2017 (Sat.) 「お前を SSLにしてやろうか?」
- 19:19
- blue。「サイトを常時 HTTPS化」。
■てなわけで、web-conte.comのサイト全体を常時 HTTPS化させた。まあ、「共用のレンタルサーバでも独自ドメインでの SSL接続が可能」という技術状況がすでに時の移り変わりを思わせるわけだが(さくらインターネットがその対応をはじめたのは 2015年2月)、そのことに加え、SSL/TLS証明書の取得コスト自体が下がることでもその敷居は低くなっている。まあ、証明書と言っても種類はいろいろあって、ドメインを持っているその法人の実在証明みたいなことまで(人が介在して)ちゃんとやるものは依然相応の値段がするけれども、いちばん単純な(証明書が即時に発行される)ドメイン認証だけならばすごく安くなっていて、2016年6月にはエックスサーバーが、「無料で独自 SSLを利用可能」と謳うまでになっている。
■さくらはというと、(さくらに代行してもらっての)ドメイン認証の取得が年額で 1,500円(税別)。これもまあ「手の出る」価格ではあるものの、ただ、ワイルドカード式の証明書にはレンタルサーバ側が対応していないので、サブドメインを作っているような場合にはそれごとに 1,500円がかかることになる。うーん。
■てなことを思っていた矢先、遅ればせながら、Let's Encryptのことを知ったのだった。Let's Encryptは、TLSや HTTPSの普及=「ウェブを 100%暗号化すること」を目指す団体( Mozilla、Akamai、Ciscoほか多数が出資)が運営しているオープンな認証局で、ここではドメインさえ持っていれば、無料で証明書を取得できる。2015年9月にベータ運用が開始され、2016年4月に「ベータ」のラベルが外された。自動処理による取得/更新を想定していることもあって、証明書の有効期間は 90日間とやや短いものの( Let's Encryptでは 60日ごとの更新を推奨)、うっかり忘れるということさえなければ、手動による作業でもたいした手間はかからない。
■先達のおかげもあって、証明書の取得自体(ターミナルを使って、UNIXコマンドを用いて行う)はとてもすんなり行き、「もういくらでも SSL化してやるぜ」という万能感にさえ包まれるが、ま、手間なのはそっから先で、サイト全体にわたり、内外のソースを「 http://」で参照していたものを潰していく作業に半日ほど費やす。
■で、最後に、「常時 HTTP接続」を実現させるためのリダイレクト処理を .htaccessで。これも先達の助けがなければたいへんなことになるところだった。
■それと、これはちょっと経ってから、RSSフィードがサーバエラーを起こしていることに気づいた。うちの場合、「 blue」とか「 Yellow」とかでそれぞれ生成されている RSSを自前の CGIで統合して一本の RSSにしているのだが、この CGI内の処理と、リダイレクト設定とがバッティングを起こしていた模様。すでに修正済みなので、以前からの RSS講読者であれば、HTTPS化後もそのままでフィードの取得が再開されているはずだが、もしうまく取得できていないようならこちらを登録し直してください。
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/ 12 May. 2017 (Fri.) 「We’re a multitasking generation / 待てよ? 冷蔵庫ってメディアか?」
ロビン。2011年4月。
PC向け新デザインで使っているフィギュアの画像は拾いもの。1970年代の人形で、Etsyのこちらで売られていた。ま、ほんとはあのカツラは「赤毛」だけどね。
Elise By Olsen
- 4:51
- こんな時間だよ。
■明け方まで何をしていたかというと、「ハーポがしゃべった!」のレスポンシブ対応(スマホ対応)である。対応させた。ずいぶん前からそのような状況になっているのは把握していたが、「ハーポ・マルクス」で Google検索したときに、「マルクス兄弟」の日本語版ウィキペディア、英語版ウィキペディアに次ぐ3番目に、うちのこの「ハーポがしゃべった!」が出てくることにたいして、あらためて申し訳ない気持ちになったのである。PCブラウザで見たときのデザインもちょっと変えた。
■いや、そういうこっちゃなくて、まず第一に翻訳作業を進めろよって話であることも承知しているのであって、それも、ちょびちょびやろうかなという気にはなっているのだった。そういうこと、これまでに何度も言ってるような気もするものの。
■こないだの、「じゃじゃーん」がやりたくてわざわざお呼び立てしてしまった児玉(悟之)君のツイートだけれども、そのつづきのような日記が書かれていて、わりと興味深く読む。
少し前、こんな記事を目にした。「10代の中高生はあまりTwitterやりたくない?その理由が「ヒエラルキーが可視化されるから」」。
おれは、Twitterを使い始めて10年目に差し掛かるが、この記事からわかるのは、もうTwitterのタイムラインは多様な位相の言葉をまとめる濁流ではなく、現実世界と同様に、区画整理された中での立ち位置とふるまいが有効なメディアになってしまったということだ。
本来、こうした役割はmixiやfacebookのものだったはずである。ウェブからの閉鎖が目的のSNS、それらへのカウンターカルチャーだったからこそ魅力的だったのだが、茨の道だったのだろう、マネタイズの難しさがなによりの原因だったとは思うが、静かに野心が消えていくのを見るようだ。そしてだからこそ、Mastodonが代わりとなってしまうという因果。〔かなり略〕
——ところでコミュニケーションはどこに行った?
どこにも行かないのだ。ずっとそこにある。それで、不意打ちのコミュニケーションにまんまと感激し、初めてのようにときめいてしまうのだとすれば純朴すぎるだろう。ときめきの効用はいつも一瞬ですぐに醒める。それで醒める夢なのかあるいは呪いか。なにを言っているのかわからなくなってきた……。いつだってそうだ。
Wed May 10 2017 – KODAMA Satoshi
ほんとは、〔かなり略〕した部分をこそ面白く読んだのだけれども、その部分はまあ、自身の言う「正体」なるものから身をかわし続け、掴まらずに駆け抜けることを身上としているような文章なので注釈を加えるというのがなかなかむずかしい。
だもので、比較的ものを言いやすい(気がしてしまう)冒頭の「 10代」云々についてバトンを受け取ってみたいが、これ、よくよく考えてみると──というのは、児玉君の考察をというよりも紹介されているトゥギャッターの記事、とりわけそのタイトルに集約されるところの物言いについてだけれども──、「ヒエラルキーが可視化されるから」「やりたくない」というその 10代がいるツイッター空間において、その可視化に苦しさを覚えず、享受して空間形成をしている層もまた 10代なわけで、だから、「 10代の中高生は〜やりたくない?」という、年齢による一般化にはちょっと無理があるというか、語る(トゥギャる)側の欺瞞があるように思われる。
これはもちろん国内に限った話なのだが、Twitterと日本、あるいは、Twitterと(マルチバイト文字としての)日本語などについて考えることはなかなか面白く、その在り方と変容が体現する鏡の平面度は高い。
同上
そう、これはやはり〈鏡像〉なのであって、10代の彼らを〈子ども〉として描き、ツイッターのよりスマートな利用法を語ってみせることで〈大人〉であろうとする者の姿──自身のうちにあるものを他者化=非タイムライン化することで切り離して、見ないようにしているその姿──こそが、ここで語られる「 10代にとってのツイッター」には投影されているように思われるのだ。
■と、年甲斐もなくついつい 10代の側に肩入れしてしまうのは、わたしがいま、内藤祐希と Elise By Olsenというふたりの 10代のファンであるからだ。
性別、年齢、国籍、そういったものと無関係な新しい世界に私たちは生きてるの。それがそのままであってほしい。
インディペンデントマガジンとその女性編集長たち『Recens Paper』 エリス・バイ・オルセン(16) | GINZA | LIFESTYLE
“You need to work ageless and across generations.”
“Having internet friends, I felt like I had this crew behind me—even though it wasn’t physical, it was still there.”
“We’re a multitasking generation, and that’s perhaps also the reason that I can run a magazine.”
New Age: Recens Paper founder Elise By Olsen on defying generational genres — Freunde von Freunden
■そういえば Elise By Olsenは、ツイッターはやってないっぽいな。
■ 10代の彼らとわれわれとのあいだに、ツイッターへの関わり方をめぐる世代的な差異があるとしたら、それはやはり、彼らにとってはツイッターが、はじめからそこにあったメディアだということだろうか。はじめからそこにあったメディア。それは、われわれでいうと何なのだろうと考える。
たとえば冷蔵庫だ。あれはわれわれにとって、はじめからあった。よく冷やしてくれた。これまで、心から冷えてほしいと思ったものなどないが、それも、われわれにとって冷蔵庫が所与のものだったからかもしれない。言うなれば、10代にとってのツイッターは、われわれにとっての冷蔵庫である。
■(ツイッターもまた冷蔵庫と同じように、)大きいのもあれば、小さいのもあるのだ。
Cycling: 2.6km • 15mins 54secs • 58 calories
Transport: 69.8km • 1hr 32mins 29secs
-
ロビン。2011年4月。
-
PC向け新デザインで使っているフィギュアの画像は拾いもの。1970年代の人形で、Etsyのこちらで売られていた。ま、ほんとはあのカツラは「赤毛」だけどね。
-
Elise By Olsen
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/ 11 May. 2017 (Thu.) 「ハイデガー『時間か場所』」
- 8:35
- ハイデガー『時間か場所』
- 12:20
- カラナズシモ。
- 20:56
- 2ヵ月半?
■今日のメモは意味不明なものが多い。
■ま、いずれ主著のひとつだろうとは思われるものの、いきなり、ずいぶんと投げやりな姿勢になっていやしないかと気にかかるのが、ハイデガー『時間か場所』だ。大著ながら、当初の執筆計画の「序」にあたる部分しか書かれなかったとも言われる『存在と時間』のその壮大な構想のもと、「現存在にとっての時間性」という問題を扱ったハイデガーが、急に、「待ち合わせ」レベルにまで話を小さくして挑んだのが『時間か場所』である。どっちかは、せめて教えてもらわないと困るという切実な声が現代にまで響くようでもあり、同時に、どっちかさえ確かなら会えるのだという当時のハイデガーの思想的「自信」もうかがわせる。まあ、翻訳はきっと法政大学出版局あたりから出てるんだと思うが、いったい「現存在にとっての待ち合わせ」とは何なのか。
■「カラナズシモ」は、ちょっとパス。「必ずしも」の誤打というだけではない何かを思いついてメモしたはずだが、さっぱり覚えていない。
■「 2ヵ月半?」はメモらしく言葉足らずなだけで意味不明ではない。テニスの内藤(祐希)選手が Instagramのストーリー(って言うんだっけ?)で、「 2ヵ月半日本バイバイ」とメッセージを書いていたのだった。そろそろ長旅に出発するのだろうとは思っていたが、全仏まで終わってもそれでまだ一ヶ月ぐらいのことであり、二ヶ月半とはなかなかである。と、迂闊なことを思っていたが、そっか、ウィンブルドンまでずっとあっちにいるのか。
■本日の棟梁。
https://metropolitana.tokyo/ja/archive/1506
2017年5月11日 3:17
この工事は50年に一度行なわれるらしい、『そっかあれからもう50年経ったのか』とぼんやり思い返してた。けどそんなに生きてなかった。なんでそんなふうに思ったんだろ変なの。
2017年5月11日 3:26
@decoyamadecoco 思い出すよね、50年前の京都、一緒に葺き替えたよね。
2017年5月11日 8:00
@soma1104 わあああぁぁぁ、とと、棟梁!!!
2017年5月11日 8:31
■思い出すなあ、京都の夜。あのころはノミもカンナもなかったからなあ。
■で、『時間か場所』での苦闘とその反省のうえに立ったハイデガーは、「やっぱり、まあ」といった筆さばきで、『時間と場所』を書くのではなかったか。
Cycling: 2.4km • 13mins 26secs • 53 calories
Transport: 70km • 1hr 39mins 17secs
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/ 9 May. 2017 (Tue.) 「チェイス家の時間」
- 16:16
- 日記を更新。6日付「魚力(うおりき) / 行き着くところはチェビー・チェイス」。
■書いてた日記が日記なので、チェビー・チェイスをめぐってそこそこネットサーフィンをすることになり、それで最後の最後に、ツイッターのアカウントがあることを知る。2014年の元日が初ツイートで、そこから今まで 54ツイートしかしてないのだが、その発信頻度の低さにかえって、「あ、いる。本人だ」という感慨が増すところもあり、はるか極東でブログに勝手なことを書き並べたことの申し訳も込めてフォローする。ちなみに、そのアカウントのプロフィール欄はこうなっていた。あはは。
役者、作家、音楽家、夫、父、あと、とてつもない不器用者。 〔原文:Actor, writer, musician, husband, father and tremendous slouch.〕
Chevy Chase(@ChevyChaseToGo)さん | Twitter
■で、そのツイートの多くは「 WhoSay」という、「著名人のみなさんはここを通じて写真とかビデオとか発信すると(著作権保護とかの面でも)便利ですよ」といったことらしいあちらのソーシャルメディアサービスを使ってのものだが、そのうちのひとつ、「チェイス家の時間」はほんとうにすばらしいビデオだ。たぶん、右手前に映っているのが奥さんのジェイニー・チェイスで、投げ出した足の爪をその奥さんに切ってもらいながら、チェビー・チェイスがカメラ(スマホ?)を回しているのだろう。左奥の女性はちょっと判然としないが、文脈からすればおそらく娘──次女のケーリー・チェイス?──で、その彼女が遠くのほうで、延々とお手玉に失敗するというただそれだけの動画。音声を消して再生すると、これ、相当の演出(失敗指導)が入っているのではないかと錯覚するほどにくだらなく、完成度の高い一品になっている。
Cycling: 1.9km • 10mins 10secs • 42 calories
Transport: 70.7km • 1hr 30mins 39secs
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/ 8 May. 2017 (Mon.) 「とどかないこと」
- 9:15
- 大人しく。大人しく。
■とどかないこと、というのはあるよね。思いとか。言葉とか。
■おずおずと差し出した、この利き手のようなものがただ宙にあって、宛所を失っている。いや、失ってるわけじゃないが、不達だということをいまさら知って、宛名をかすれさせる。片思い、と言ってしまえばそれまでで、気分にはとてもなじむけれど、べつに恋になぞらえたいわけでもない。ただただ、のんきに暮らしたいだけなのだけれど。
□児玉(悟之)君が日記を更新し、口の悪い、嫌な感じの日記というのを書いていて、それへの憧れと対抗心から、こちらは元気のない、しょげた日記を書こうとしてみる。
■いや、やっぱりこれは恋で、片思い、なのかな。土台が、そういうことなのかな。
□しかしですね、口が悪いとほら、感じは良くないながらも、ぽんぽんぽんぽんと急き立てられるようなリズムのなかに言葉が呼び出されつづけるという面があるけれども、元気がないってのはね、なにせ元気がないのでね、まずあんまり言葉が出てこないっていう困難がある。
■
□ほら。
■うーん。
□出てこない。出てこないというのはわたしが、「本当は」しょげてないからなのか、「本当に」しょげてしまってるからなのか。理屈でいけば後者か。しょげちゃってんのか、おれ。
@Otsumuyan あ!いえいえ、誤解されるような内容ですけど誰かに向かって言ってるものじゃないです、あれ。日記はホントに自分のために書いてて、もし何かを批判したい時はちゃんと書きます。なんというか、文章って同じ調子で書いてると使う言葉が定まってきちゃうんで、気まぐれに調子を外してるだけなんです…。
2017年5月8日 12:42
児玉君は件の日記を、文章練習のようなものだと説明するわけだけど、ほんとにしょげてちゃあ練習にならないというか、どうしたもんか。わたしのほうが、比べ物にならないほど「同じ調子で」「言葉が定まってきちゃ」ってるというのに、だ。
あれ? こっち(□)のほうがしょげてきちゃったな。「とどかないこと」の話はどうした?
■それはどうでもいいというか、ま、しょうがないよね。差し出した手はいったん引っ込めるけれど、それもしょうがないというか、言葉と違ってそのままにしておけないからね、手は。
□
■ヘイ、ごきげんはいかが?
Cycling: 2.6km • 14mins 59secs • 57 calories
Transport: 69.6km • 1hr 17mins 40secs
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/ 7 May. 2017 (Sun.) 「リツイートとブースト / じゃじゃーん」
- 18:19
- 日記を更新。5日付「夢だけど、夢じゃなかった」。
■児玉(悟之)君のツイート。じゃじゃーん。
twitterって、タイムラインという仕組みの性質上、何が語られているかよりもどういう位相から語られているかが前景化してしまうから、特にリツイートなんかは内容よりも位相をずらしたその意図に意識が向いてしまう場合が多い。それはもう、機能不全と捉える他ないのかもしれない…。
2017年5月5日 11:46
いや、「じゃじゃーん」は、あんまりふさわしくなかった。
■リツイートというと、これは 2009年、まだ公式に提供されるリツイート機能がなかった当時の、「 RT vs. via」という記法をめぐる覇権争いについてのこちらの記事(「思想のないRTより、粗相のないvia」)に書いた、この思いがやはり頭をよぎる。
〔略〕「RT」の抱える最大の(そしてじつは唯一の?)問題は、それが、すでにそれに慣れた者以外には「意味のとおらない記号」だということである。けれど、それはむしろこのように考えることが可能ではないだろうか。「RT」という記号を理解しないまま(それを飛ばして)自身のつぶやきを読む者がいること、そのことの覚悟をもってこその「再つぶやき」なのであり、「つぶやかせる」のではなく「つぶやく」以上、あくまでそれをつぶやく「声」はわたしのものなのだ、と。
web-conte.com | blue | 思想のないRTより、粗相のないvia、太字強調は原文
公式のリツイート機能はこののちほどなく、2010年のアタマごろに実装されるのだが、その実装にたいしてしばらくのあいだ反発心があったのは、公式リツイートがその表示上、もとの発言者に再度「つぶやかせる」という装いを用いているからだった。むろんそんな反発もとうにほどけて、いまでは何気なく公式リツイートを用いているけれども、それでもリツイートするにあたっては、いまでも「それを自分の声に乗せて発せられるか?」ということを基本的には意識している。
■だから、わたしがついぞ手を出さないでいるのは(と断言できるほど記憶がたしかでもないのだが、基本やらないようにしているのは)、批判を加えるために、賛同しないツイートをまずタイムラインに呼び寄せるというあのリツイート手法だ。まあ、手法としては理解するのだけれど──それこそそこにあるのは、自身がつぶやくのではなく「相手につぶやかせる」ものとしてのリツイート理解だろうけれど──、自身の声をともなう「つぶやき」なる比喩を後生大事に抱えてしまっている身のわたしとしては、ちょっと採用したくないやり方なのである。
■ところで、2015年4月からできるようになった公式の引用リツイートは、こちらはちょっとかつての「 via」を思わせる。
■でまあ、冒頭に引いた児玉君のツイートだが──それに応答するようなふりをして、そのじつ、児玉君の発言趣旨とはあんまり噛み合ってない話をしているなという自覚はあるのだが──、これ、直後につづくのは「マストドン」の話なのだった。じゃじゃーん。
Mastodonはそのあたりの問題を解決する可能性があるのかもしれないが、それってなんというか、iPhone6→iPhone5S、ニンテンドー3DS→ニンテンドー2DS、みたいなことっぽいよな…。うーん…。
2017年5月5日 11:52
やっぱちがうな。「じゃじゃーん」いらないな。
■「そのあたりの問題を解決する可能性」云々はおそらく、マストドンの「インスタンス」概念について言っているのだと思え、たしかにそこに──たとえばいまさっき、「マストドン」の語にたいしてリンクを張ろうとして、さてどこに張ればいいんだ? とちょっと戸惑ったりすることに──まず、マストドンの楽しさはあるだろう。で、そのことに加え、さっきまで書いていたこととのつながりで言うと、マストドンが「ツイート」を「トゥート」に、「リツイート」を「ブースト」にそれぞれ言い換えているところにも、センスのよさ、みたいなものを感じるのだった。とりわけ(「リトゥート」ではない)「ブースト」は、いよいよ音=声の比喩から離れて、もはやそれがどちらの声であるのかをたいした問題とはしない勢いを示すのと同時に、それがはっきりと〈増強、加速、後援、励まし〉であることが示されていて興味深い。
■あ、それで、「吠える」という訳で説明されることが多い「トゥート( toot)」だけど、「吠える」はいわば意訳であり、辞書にあたると「ラッパや警笛などをプーッと吹く、鳴らす」といった語義が出てくる。でまあ、パオーンと鳴く象のイメージがそこに重ねられているだろう(「ラッパを吹く」の意の「 trumpet」には、「象が吠える」の意もある)ことから端的に「吠える」と訳しているのだろうが、とはいえ、ここはひとつ「吹く」や「鳴らす」といった語のイメージも、できれば残しておきたいような気がする。
■あっちでちょっと吹いてくる、みたいなね。
■では最後に、最近のリツイートからわたしの〈声〉を、あらためて。
人は色んな仕方で消されていく。ハナから想定されない場合もあれば、いるのに「皆無」とか言われたり。いるっつうの。
2017年5月9日 12:55
この「いるっつうの」などはぜひ、わたしの声で(も)再生していただきたいところだ。
誰になんといわれようと、ここぞと思ったその時には、あなたの魔法を断固、行使しなさい。その時がいつやってくるかは誰にもわかりませんから、いつでもあなたの魔法に磨きをかけておきなさい。強く優しく美しく、そうでなくとも微笑みを。さぁ、晩御飯の支度をしましょう。
2017年5月8日 18:20
これはねえ、リツイートにあたってちょっとだけ悩んだのは、わたしがふだん「晩御飯の支度」をほぼしない人間であるという点だが、まあ、比喩的な物言い──〈日々の行い〉としての晩御飯の支度──なのだという言い訳と、「したらどうだ、おれ、晩御飯の支度」という自戒も込めての、わたしの声バージョンである。
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/ 6 May. 2017 (Sat.) 「魚力(うおりき) / 行き着くところはチェビー・チェイス」
肩乗りロビン。2010年11月。
「マリオカート8 デラックス」( Nintendo Switch)

わたしの御用達、ルドウィッグ。
『 03 TOKYO Calling』1990年5月号(通巻 6号目)の表紙。モデルは前田日明。
『 03』の文化欄、「 03'S CLIPBOARD」のコーナーに取り上げられた「チェヴィー・チェイス」。執筆は宮沢章夫。
- 6:04
- 日記を更新。4日付「Live from New York, it's Saturday Night!」。
■そういえば書いていなかったと思うが、わが家、Nintendo Switchは導入済みである。ゼルダはとうに(妻が)クリアしている。
À 39 ans Macron a fait : banquier, ministre de l'économie et maintenant Président
J'ai le même âge et j'ai même pas fini Zelda 〔引用者訳:マクロンの 39年間といえば銀行家から経済相を経て、いまや大統領。かたや俺、同い年。ゼルダさえ終わってないときた。〕
てなわけで、この彼には勝っていると言えるわれわれだ。ま、われわれのが歳も上だけれども。
■で、「マリオカート8 デラックス」がきのう届いて、いまはそれをちょびちょびやっているところ。わたしの使用キャラクターは「ルドウィッグ」。風情が飼い猫のピーに似ているというのがおもな選抜理由である。なお、マリオカートの元世界王者による攻略アドバイスがこちらにあるが、目下、ここに挙げられているような戦略性とはまったく無縁のところで遊んでいるわれわれだ。
■きのうの文章ではトトロ役を担ってもらったロビンだが、かねてよりわれわれのなかでは、猫バスにもそのイメージが重ね合わされてきた。イメージのなかでは相当な大きさであるロビンが、お腹の横をぐわーんと開け、あとの二匹を中に乗せる。すると額の行き先表示が回転をはじめて、そこそこもったいぶったすえに出るのは「
■ 4日付の日記を更新したあともしばらく、「サタデー・ナイト・ライブ」(以下、SNL)の映像を YouTubeで漁っていたのだが、けっきょく、行き着くところはチェビー・チェイスのフォード大統領ネタだったりもする。あれはしかし、なぜ面白いんだろうか。
■この、「不器用なひと」というジェラルド・フォード大統領のパブリックイメージについては、いったい卵=フォードが先か、ニワトリ=チェビー・チェイスが先かってなくらいのものなんだとおぼしいが、それでもいちおう〈出典〉たる映像はあって、外遊先のオーストリアの空港で、大統領専用機のタラップから足を滑らせて転げ落ちた(のが中継され、全米のお茶の間に流れた)この動画がそれ。
これを見て、「上手いなあ」と思ってしまうくらいにはニワトリが先なのだけれど、しかしだいたいが、これ「だけ」──他にも不器用エピソードはあるらしいが、にしても「不器用」というその一点だけ──をひたすら引き延ばし、誇張するチェビー・チェイスの大統領ネタは、これ以降生み出されることになる歴代の大統領ネタとはちょっと一線を画すような特異なモノマネというか、そもそも似せようとする気があるのかも疑わしいような何か[※1]であるように思えてくる。以降の SNLの大統領/政治家ネタではコメディアンたちがメイクやかつら等でいちおう外見を寄せているのにたいして、チェビー・チェイスのフォード大統領はほぼ、32歳のチェビー・チェイスのまんまである[※2]。
- ※1:似せようとする気があるのかも疑わしいような何か
それはどこか、いしいひさいちの描く政治家たちを思わせもする。しばしば〈一点突破〉を試みる彼のキャラクターたちもまた、〈似顔絵風刺マンガ〉といった土俵にはハナから乗っていないように見えるときがある。たとえば父ブッシュのときの副大統領、ダン・クエールは「ばか」という設定で、顔は原辰徳である。
- ※2:チェビー・チェイスのまんまである
そういえばその初登場時(?)のコントでは、「彼は合衆国大統領ではありません……が、彼自身はそうだと思っています」というテロップが冒頭に出る。
■ここでふと思い出し、『
そうした役者たちは、幾種類もの眼鏡やカツラを自前で用意し、演じること=自己を消し他者になることを、ゲームのように楽しむ。私は彼らの、そのような稚気が好きだ。自分を前面に出す役者の傲慢さより、その無邪気さが好きだ。
と書く。それとともに、小文の結びにあたっては、
けれどその無邪気さが、ときとしてそうした役者の弱点にもなる。無邪気なだけでは役者はアピールできない。傲慢さが彼を観客に印象づける。彼でしかない人物のなかにこそ、私たちは彼を発見するからだ。
とも書くのだが(全文はこちら)、チェビー・チェイスによる「ただひたすら動作を失敗させつづけるひと」こそは、フォード大統領でもなんでもない、「彼でしかない人物」としてわたしの目に映るのだった。
■さてこちらは何年も前のわたしのツイート。
チェビー・チェイスの「受話器が掛からない」がほんとうにすばらしい。 http://youtu.be/AkvR7N086oo
2013年8月16日 21:19
この動画のことも思い出して見たくなったのだったが、リンクを張っていた YouTube動画は非公開扱いになったかしていま見られなくなっている。それで、もっと丁寧につぶやいておけばなあと悔やんだのは、いたく感銘を受けたことだけはいまなお鮮烈に覚えているものの、内容については「受話器が掛からない」というそのことしかもはや残っておらず、これ、いったい何の動画だったのか── SNLのコントだったのか映画のワンシーンだったのか──、探す手がかりが無いに等しいのだった。
■でもまあ、見つけましたよ。
■「 Five-Timers Club」という SNLのコントがそれ。Five-Timers Clubというのは SNLのホスト役を 5回以上務めた人だけが入会できる特別な会員制クラブで、いちばん最初の登場は 1990年12月8日の放送回。そのときが 5回目のホスト役だったトム・ハンクスが、モノローグのなかでメンバーズカードをゲットしたことを告げ、そこからクラブの様子を伝える VTRコントへとつながる(そっちの回の映像はこれ)。で、こちらは 2013年3月9日の放送回、ジャスティン・ティンバーレイクが 5回目のホスト役で、やはり手に入れたメンバーズカードを示し、コントに移ると、そこにはポール・サイモン、スティーヴ・マーティン、チェビー・チェイス、アレック・ボールドウィン、トム・ハンクスらが登場する。ダン・エイクロイドとマーティン・ショートも出てくるが、彼らは 5回務めてないのでそれぞれバーテンダーと給仕である。というようなコントなのだが、やはり、ここにおけるチェビー・チェイスの、「受話器が掛からない」はすばらしいのだった。
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/ 5 May. 2017 (Fri.) 「夢だけど、夢じゃなかった」
- 5:39
- 起床。
- 9:45
- 日記を更新。3日付「路線を間違えてトロッコに乗っとったら」。
■タンポポに似た、タンポポでないことはわかるが名を知らない、よくあるあれが、家の近くの道に、アスファルトの隙間に生を受けたにしては盛大に茎を伸ばしていて目に留まる。
■このゴールデンウィークには片そうと思っていたこたつをいまだそのままにしているのは、なぜかここ数日ポシュテがそこを好むようになってしまったからだ。こたつ布団に内側から凭れかかり、寝ている位置がこちらにむかってせり出していてそれと知れる。
■ゆうべ、寝室の妻がとなりの部屋から猫の物音とおぼしいものをときおり聞いて、ポシュテがいるものとばかり思っていたが、降りてきてみるとこたつ布団がせり出していた。撫でて確認するが居る。「ずっとそこだよ」とわたしも証言し、ピーはピーでまたべつの所定の場所にいた。「となれば、ロビンではないのか」と語り合っていた。
■ゆうべ、ロビンがやってきた。それで夜中、あとのふたりを連れ出して、三人してタンポポに、
こんなことをして、
こんなふうにしたのではないか。
■というのが、われわれの目下の結論である。
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/ 4 May. 2017 (Thu.) 「Live from New York, it's Saturday Night!」
- 6:24
- 起床。
- 8:54
- 要約作業中。
- 11:17
- 12時半までには書き終えたい。
- 11:33
- あー。人物名忘れた。ま、出さなくても書けるか。
- 15:15
- 日記を更新。2日付「パークス・イン・ザ・パーク」。
■右はきのう撮った、べつになんでもない写真。
■メモとツイートだけ取り出すと、なんだか半日ほどずっと日記を書いていたかのようだが、合間々々にほかのこともしている。というか、集中できずにほかのことをしてしまい、ぐずぐずと書いていた。でも書いたさ。がんばった。
■ 13時ぐらいから内藤(祐希)選手のダブルス二回戦(がもう準々決勝だけど)をライブスコア観戦。2-6 6(3)-7で残念ながら負け。このあとはジュニアの大会にもどって、5月下旬からイタリア、ベルギー、フランス(全仏)とヨーロッパを回る感じだろうか。
■ WOWOWで『ゴーストバスターズ』のリブート版をやっていて、見る。面白いじゃないですか。サタデー・ナイト・ライブが見たくなる(キャストについてはぜんぜん知りませんが、たぶんそういう人たちなんでしょう)。
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/ 3 May. 2017 (Wed.) 「路線を間違えてトロッコに乗っとったら」
- 5:18
- 日記を更新。29日付「ちっちゃいピー、すげえ高い」。
- 8:02
- 日記を更新。30日付「頑張ろ!決めた!」。
- 10:45
- 起床。
- 21:04
- 日記を更新。1日付「書くことがないので、というのも失礼な話だが」。
■ゆうべ寝たのが早くて、夜中の 3時ぐらいに目が覚める。そのまま起きて日記など書いていた。それからまた寝て、起きる。
■これはきのう( 2日)の話だけれど、内藤(祐希)選手がダブルスの本戦一回戦に勝った。4-6 6-2 [10-4]。よい勢い。で、今日は試合なし。
■オンラインチャット(画面右下のやつ)で、(家鴨田)家鴨さんに「消防水利」よかったよと声をかけられた。ありがたい。
■午後、散歩。またららぽーとまで。
■『ユリイカ』の 2015年6月号(特集=桂米朝)の、桂ざこばのインタビューがいい。「大阪の梅田から京都へ行くのに京阪で行くひともあれば、阪急で行くひとも JRで行くひともある」という電車の喩え話。引用したいのだが、よさが伝わるようにと思うと、これはもう〈話芸〉になってしまっているのでほぼそっくりを引かねばならず、すごく長くなるのでやめておく。手に入りにくいものでもないので、興味を惹かれた方はご自身でどうぞ。
うちの師匠とは違う南海沿線の空気のお師匠さんもいて、ああ、南海電車もええもんやな、近鉄もええもんやなと、いろいろあるわね。けれども、最終的な行く先は同じ落語家やから決まってはると思う。
桂ざこば(聞き手=編集部)「師匠と勉強」『ユリイカ』2015年6月号、p.87。
ほか、この「桂米朝」特集には、一門から月亭可朝、桂米團治(以上、インタビュー)、桂吉坊(小文)が登場している。ふだんならまあ、『ユリイカ』なんだし、もっとほかの(外部に位置する)書き手にページを割いたらいいんじゃないかとも思うところだが、これがなかなか、それぞれがそれぞれの言葉で面白かった。可朝のインタビューもすごくいい(なんだったら、可朝はけっこう「外部に位置する」しね)。
■ところで、『ユリイカ』が没後すぐの噺家を特集したのは 2012年2月号の立川談志( 2011年11月没)につづいて米朝が二人目。それでいくと思うのは、「そういえば志ん朝( 2001年10月没)は特集されなかったな」ということだ。小さん( 2002年5月没)もなかった。
やっぱり志ん朝のときがいちばん、特集しようという気もおきないくらいに編集部もショックだったのだろうか。
2015年5月27日 23:31
とは以前(米朝が特集されると知ったとき)の冗談だが、まあ、たんに「ユリイカがそういう特集を組むようになる前に死んだ」ということか。
■次々号あたり、圓歌特集だったらなあ、ビックリするなあ。
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/ 2 May. 2017 (Tue.) 「パークス・イン・ザ・パーク」
- 7:33
- 「私たちが一番やりにくいのは大道です。露天です。これはもうどうしようもない。ところが夜なら演れるんです。夜は暗闇というものが全部を包んでくれて、ライトが当りますとそこだけが高座になる」(桂米朝「落語の創造論」『桂米朝集成』第1巻)
- 9:48
- 日記を更新。27日付「百年はきっと短い──米朝と新落語」。
- 12:15
- それどこ。
- 17:13
- 日記を更新。28日付「あんなに持ってたライターがない」。
- 18:34
- 吉祥寺。
- 20:03
- もんくすふーずはまだあった。
■起床時刻のメモは残ってないが、かなり早い時間に目が覚めて、それで出社前に「米朝と新落語」をめぐる文章を書いていた。その途中、参照していた米朝のエッセイのなかからまたべつの一節を取り出してツイートする。それだけ引用しても何のことだかわからないので前後も含めたが、何と言っても痺れたのは、「ところが夜なら演れるんです」というこの実演家の放つ言葉のかっこよさだ。そこにはちょっとばかり、今夜観に行くつもりの野外劇への意識もあったかもしれない。
■大学時代、次兄とのふたり暮らしで、吉祥寺にはしばらくのあいだ住んだことがある。夜にある野外劇の会場、井の頭公園の西園にある競技場──「それどこ」となったところ──は、当時ついぞ行かなかったというだけで(もしくは行ったことを忘れてるだけで)、兄と住んでいたその部屋からほどない場所にある。駅から来て「万助橋」のバス停を過ぎ、まだそのまま吉祥寺通りを道なりに少し行ったところに部屋があった。あ、そうそう、(三鷹市)下連雀。部屋からさらにちょっとだけ行ったところ(部屋からで言うと、最寄りのタバコの自販機よりも近い位置)に「三鷹の森ジブリ美術館」ができる、その少し前の頃のことだ。
■野外劇の予習のためにと、26日には映画『 PARKS パークス』を観た。ときならぬ桂米朝ブームのために陰に隠れたが、
百年を描いた映画を観た帰り、百年を見ていた噺家の本を買い、百年を思った。
4月27日付「百年はきっと短い──米朝と新落語」
とこっそり言及したその映画は『 PARKS』のこと。以来、ここのところはそのサウンドトラック をずっと聴いている。鳴っている。
■『 PARKS』は、この 5月に開園 100周年を迎えた井の頭恩賜公園( 1917[大正6]年5月1日開園)を舞台にした映画で、2014年に閉館した「バウスシアター」のオーナー、本田拓夫の企画ではじまったもの。公園脇のアパートに住む大学生の「純」(橋本愛)のもとに、そのアパートに以前住んでいた女性が亡き父のかつての恋人だったのだという「ハル」(永野芽郁)が訪ねてくる。父についての小説が書きたいのだというハルに促され、その女性「佐知子」(石橋静河)について調べるうちに、佐知子の孫「トキオ」(染谷将太)を含めた三人は遺品のオープンリールに辿り着く。そこに録音されていたのは 50年前の恋人たちの歌声だった。
君と歌いたい曲がある それはこんな曲で
僕らの物語が この公園から始まる
テープの損傷のために途中までしか聞き取れないその曲の続きを作り、完成させることにした三人は、そうして、公園の過去と未来をつなぐ〈記憶と夢の冒険〉へと足を踏み入れていく。
■といったようなお話で(要約おつかれさま、おれ)、事前情報からさてはまあ、「曲が完成して(それが歌われて)メデタシ、メデタシ」といったような内容なのかと期待の地平を作っていると、それは見事に裏切られることになる。その裏切りの予感は、あるいは冒頭、自転車に乗って公園を駆けめぐっていた橋本愛の服がふと切り替わっていた瞬間から、すでにあったのかもしれない。ああ、これは巧妙な〈枠〉が仕掛けられた映画なのかもしれないぞ、用心しないといけないぞ、と。でまあ、予感のとおりに映画は、「なんだか鈴木清順っぽいな」という途中々々の印象とも相俟って、終盤、「物語についての物語」「語りをめぐる語り」といった迷宮のなかに雪崩れ込んでいくのだが、それについちゃあ──「ほんとかよ?」ということも含めて──じっさいにスクリーンでたしかめていただくとして。
■その映画『 PARKS』のスピンオフ── spin-offの原義としての副産物、副作用に近いそれ──として制作され、今夜一夜かぎりで上演されたのが「ロロ」による舞台『パークス・イン・ザ・パーク』だ。三浦直之が脚本と演出をつとめ、篠崎大悟、島田桃子、望月綾乃(以上、ロロ)、大場みなみが出演した。タイトルに正確に表されているとおり、今作において映画からスピンオフしたのは「映画内の何か(キャラクターなど)」ではなく、物語についての物語であった『 PARKS』にまったくふさわしく、「映画そのもの」である。映画『 PARKS』は、劇中の男女──ひょんな流れから、形式としての「告白」を成立させることなく付き合い出すことになったふたり──が、付き合いはじめて一年目のとある日に吉祥寺の映画館で観た/観ている作品として言及される。その意味で、映画『 PARKS』は劇中において、その実在の固有名のなかに完全に封じ込められているとも言えるわけだが、それは、映画のなかの「恋」の要素が、50年前の過去の時間のなかに完全に封じ込められている(映画冒頭、純=橋本愛は「すでに」フラれている)ことと、逆の相似をなすかのようでもある。
■映画と同様、舞台の『パークス・イン・ザ・パーク』でも複数の〈時間〉が同時に扱われるが、そこにおいて〈未来〉もしくはある種の〈永遠〉の位置にあるのが、「このあともついに、何年経っても『告白』を果たすことがないであろう男」である。男としては、その告白およびプロポーズの不成立(とはいえ形式として成立しないだけで、ふたりは付き合い、結婚するのだが)を、自身の優柔さのせいではなく、それぞれの場面で会話に割って入ってきた(そして、告白とプロポーズとをそれぞれ実質的に成功させた)見知らぬ女たちのせいだと主張するのだが、その「ついに告白できない」=「恋は、つねに/すでに成就してしまっている」という状態がある種の〈永遠なる時間〉に結びついているのだとすれば、告白を成立させない役の彼女たち──弁天たち?──もまた、つねに/すでに、恋の原初に立ち会う者として、永遠の、百年の時間のなかにいるだろう。
■ともあれ。舞台も客席もなく、何かが「地続き」であることを──たとえば公園からの帰り途、はたしてこのふたりは「告白」を済ませたんだろうか、それともまだなんだろうかというような、微妙な距離を会話に響かせて前を歩く、にこやかな男女のやりとりを聞くなどもして──感じさせたその夜が、とても幸福な、百年の時間を包んでいたことはまちがいない。
Cycling: 2.5km • 14mins 52secs • 56 calories
Transport: 69.8km • 1hr 23mins 23secs
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/ 1 May. 2017 (Mon.) 「書くことがないので、というのも失礼な話だが」
■あ、メモがなにもない。ツイートもしてない。
■ゴールデンウィークは暦どおり。なので今日、明日は出社。
■要らないの声も多々あるかとは思いますが、本日の、岐阜の内藤(祐希)情報。シングルスの予選にはきのう敗れたが、ダブルスの予選にもカードが組まれ、今日試合がある。今大会、ダブルスの予選は一回勝てば本戦入り。オーストラリアの 19歳、オリビア・チャンドラムリアと組んで、Ji-Hee CHOI, Nicha LERTPITAKSINCHAI (KOR/THA)と戦う。3-6 6-1 [10-8]で勝利。いやー、なかなかにこれが興奮。進んだ先の本戦一回戦は明日に組まれている。
■ 7月8日、今年で第五回を数える恒例の南光・南天ふたり会@横浜にぎわい座。そのチケットが発売開始。ネタ出しは南光が「蔵丁稚」、南天が「代書」だ。さあ、これも行くよ、みんな。
■ところでその南天はというと去る 4月23日、自身初となる「サンケイホールでの独演会」を開催したばかりであるとのこと。1971(昭和46)年の「サンケイホール開館二〇周年記念・桂米朝独演会(第一回)」以来、大阪のサンケイホールは米朝ならびに米朝一門にとって非常に縁の深い会場のひとつであるのだが、そこで「独演会」を開く/開けるというのは、一門の者にとって特別な意味と重みをもった出来事であるらしい。
というような話をなぜ始めたかというと、その過日の「第一回 桂南天独演会」で配られたプログラムに載っていたという、師匠・南光による「ごあいさつ」をここで紹介したいからだ。以下に打ったのが、ツイッター経由でその写真が流れてきた「ごあいさつ」の全文なのだが、これはちょっとねえ、泣きますよ? いいですか?
本日は、第一回 桂南天独演会にお越し下さり、ありがとうございます。
いま私は、自分が初めてサンケイホールで独演会をさせていただいた時に、師匠の枝雀がとても喜んでくれた事を、思い出しております。
「サンケイ企画さんが、君を噺家として認めてくれたから、独演会をしてくれはるんや。君は今、一人前の噺家になったんや。良かったなぁ、良かったなぁ」と、涙を浮かべて下さいました。私はその時、なんで師匠が僕の独演会を、こんなに喜んでくれはるのやろ?と、ちょっと戸惑いを感じたのを覚えていますが、今、あの時の師匠の気持ちが良くわかります。
私は、こう見えても実はシャイで、直接よう言わんので、この場を借りて言ってやります。
「南天、おめでとう!君は立派に一人前の噺家になりました。この口うるさい師匠の元で、よう頑張って、ここまできましたね。もう、教える事は何もないです。本日、満員のお客様の前で、君の全てを出しきりなさい!」
私がまだべかこの頃です。彼は、高校を卒業して、弟子になりたいと言ってきましたが、私は断りました。私は、誰が来ても一度は断るのです。その人に、才能があるか無いかは、わかりませんが、師弟というものは、先生と生徒のように、ある期間だけの付き合いではないのです。一生関わり合うものなので、気が合わないとやっていけません。それでも、ある種の情熱を感じた人は、受け入れるようにしていました。
彼は、あっさり帰って行きました。しかし、四年後に大学を出て再び来ました。私は、そこでもう一度断りました。ところが今度は「なんとしても、べかこさんの弟子になりたいのです」と言ってきました。私も負けてられません「僕は弟子を取らないから、誰か他の噺家のところに行きなさい」と言うと、「他の噺家さんではダメなんです。べかこさんの弟子になりたいのです!」この言葉と目の輝きに、私はパッションを感じ、入門してもらいました。
彼の前に、三人の入門者がいましたが、自ら辞めたり、こちらから辞めてもらったりしました。仲間うちから、厳し過ぎるとか、あなたみたいな人は、師匠になれないと言われたりしましたが、彼は私の弟子を勤めあげ、見事な噺家になりました。私が、間違っていなかったと証明してくれ、私を『師匠』にしてくれました。
南天は、私の誇りです。
師匠が、弟子を褒めるのはみっともない事ではありますが、今一番面白い噺家、桂 南天の落語ワールドを、たっぷりとお楽しみ下さい。
桂南光「ごあいさつ」、「第一回 桂南天独演会」プログラム。
ちなみに出典というか、参照したのはこちらのツイート。およびこちらのブログ。
南天さんにとっては勿論 会場をうめた南天ファンにとっても 待ちに待った独演会は 心に残るとても良い会でした。「私を師匠にしてくれました・・・南天は、私の誇りです」この南光師匠の献辞と遠く近く響く地車囃子が頭から離れない(*'▽'*) https://twitter.com/fu528/status/856185657177194497/photo/1
2017年4月24日 1:39
Cycling: 2.4km • 11mins 37secs • 52 calories
Transport: 69km • 1hr 29mins 35secs