10
Oct.
2009
Yellow

最近のコメント

リンク

広告

/ 23 Oct. 2009 (Fri.) 「小田亮先生に会いに。あるいはフラクタルな感動の瞬間」

この日の小田亮先生である。首都大学東京大学院社会人類学研究室のサイトから拝借。

むずかしいぞ。そしてかっこいいぞ。リンク先のアマゾンに行っても「出品者からお求め」いただくしかないのだけれど、ともかくおすすめなのはこの一冊である。小田亮『構造主義のパラドクス野生の形而上学のために』(勁草書房、1989年)。

手に入りやすさ、とっつきやすさで言えばこれだろうか。小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書)。そういえばレヴィ=ストロース、もうじき一〇一歳なのだなあ。

夜、会社を少し早めに退けてから京王線で南大沢へ。以前一度だけ来たことのあるアウトレットパークのその背後に、首都大学東京の南大沢キャンパスはあるのだった。学祭まであと何日というような看板を横目に、五号館三階の集計作業室というところをめざす。いくつもの研究室が並ぶフロアにある「なるほど、集計作業室か」という案配の部屋だった。廊下にわらわらと学生たちが溢れて準備をしているそのなかに、小田亮先生もいた。大学を卒業して以来だから、その顔を見るのはもう十年ぶりぐらいになるはずだ。
「東京都立大学・首都大学東京 社会人類学研究会」という長い名前の会がここで開かれており、今回招かれて発表をするのが小田先生だということをネットで知ったのがしばらく前のことだ。研究室のサイトに仮題として載っていた題目は「ネオリベラリズムと二重社会論」。「どなたでも参加できる、オープンな研究会です」とサイトの案内にはあって、これはちょっと行かねばならないだろうときょう、心待ちにしていたそれへ馳せ参じたというのが前段の描写である。レジュメをもらって隅のほうのパイプ椅子に座る。レジュメに印刷された題目は「二重社会論あるいはシステムを飼い慣らすこと」。
「行ってよかった」と、会がはね、南大沢の駅まで戻ってきて「これから帰る」と妻に電話したあとで(「はあ?何してんの?」と妻)、Twitterで思わずそうつぶやいた。あの場に居合わせた学部生や院生の方々にとってどれだけピンと来る話だったかはわからないものの、わたしはとにかく興奮していた。とくに、質疑応答のなかで小田先生が口にしたいくつかの事柄がたいへん刺激的だったのだ。
小田先生の言う「二重社会論」についてはたとえばこちらを参照していただきたいが、その理論的枠組によって示されるところのものは、どうやら、ひどく単純で、ごくごく基礎的な〈何か〉──ものの見方、態度、あるいは希望それ自体──であるように思われてならない。

 「真正性の水準」とは、レヴィ=ストロース自身のことばによれば、「3万人の人間は、500人と同じやり方では一つの社会を構成することはできない」という、一見素朴で単純な区別である──だが、この単純さが重要となる。
小田亮「『二重社会』という視点とネオリベラリズム──生存のための日常的実践──」『文化人類学』第74巻2号(2009年9月)

 最近のいくつかの論文を読めばわかるように、小田先生はそれらのなかでくり返しくり返し、基本的にはただひとつのことを述べている。いや、「最近」どころか、少なくともこの十年、小田先生は同じひとつのことをめぐって、それを言葉にしようとしてきたはずだ。本質主義批判をつうじて登場した〈文化相対主義〉と、それへの批判として現れた〈戦略的本質主義〉との応酬に、それこそ「単純な」解を差し出そうとした「真正性の水準による区別の導入」というアイデアは、すでに十年前、成城大学の教室でわたしが耳にしていたものである──いま思えば、当時はまだそれにたいして「二重社会論」という呼び名が与えられていなかっただけで、そのアイデアから二重社会論まではあと半歩もないような距離だった。
以来、ホームページに掲載された大部の草稿「Web版『日常的抵抗論』」をはじめ、2006年にはじまったブログのいくつかの記事、去年『思想』誌のレヴィ=ストロース特集号に掲載された論文「『真正性の水準』について」、今年行われた講演の発表原稿「社会の二層性あるいは『二重社会』という視点──小さなものの敗北の場所から──、そしてつい先日『文化人類学』誌に載った論文「『二重社会』という視点とネオリベラリズム──生存のための日常的実践──(この日先生から一部いただいた)と、そのつど小田先生はその〈何か〉の輪郭を描くために外延を丁寧に辿り、問いを微分し、微分することによってときに対象の全体像そのものからは後退もしてみせつつ、論をすすめてきた。そしてその過程に付き合うなかで、わずかながらわたしにもその〈何か〉が掴みかけてきたように思うというのは、フラクタルな文様がそうであるように、微分されて全体から遠く隔たったはずの細部が、瞬間、全体と重なり、全体を照らしていることに気づかされるからである。そのときになってはじめて、すべてはあの十年前の教室のなかにもあったのだということに思いが至ることになる。こう言ってよいなら、それはとても感動的な瞬間なのだった。

時間的普遍性

話をきょうの発表にもどそう。
鍵概念となるのは、「一般性 − 特殊性」と「普遍性 − 単独性」というふたつの軸である。「一般性 − 特殊性」の軸は「非真正な社会」(法・貨幣経済・マスコミュニケーションといったメディアを介して想像された関係、あるいは〈システム〉)の側に寄り添い、いっぽう「普遍性 − 単独性」の軸は「真正な社会」(〈顔〉のある関係のなかで結ばれ、想像されるつながり)の側に重なる。
 たとえば「個性」というものを考えてみよう。「個性を育てよう」などと使われるところの個性だが、それはけっして代替不可能な何かではなく、他人との比較によって規定されるところの属性のことであって、その個性をもつことによって生まれるその人の「特殊性」は、同じ個性をもつ他の誰かによって替えがきくのである──「役者」も「うまい役者」もこの世にはあまたいるのであり、たとえ「世界でいちばんうまい役者」であったとしても、その人が死ねば、「世界でいちばんうまい役者」には他の誰かがなるだけのことなのだ。つまりそれは、その人がもつ複雑さを数量化し、「一般性」という土台(その代表が法であり貨幣である)に載せて比較できるようにしたうえでの「特殊性」なのである。だからたとえば、男で、日本人で、三十三歳で、会社員で、ウェブデザイナーで、異性愛志向で、既婚で、三男で、遊園地再生事業団というものにかかわっていて……というような属性をどれだけこまかく挙げていっても、その人のもつ「単独性」=「個のもつかけがえのなさ」には到達することがないのである。
 そのいっぽうで、個がそれぞれにかけがえのない存在であることはあきらかだ。それは「特殊性」によっているのではなく、「単独性」によってそうなのである。その人がかけがえがないのは、「世界でいちばんうまい役者」だからでも、「世界でいちばん速く走る」からでもない。そうした属性にかかわらず、人は、〈顔〉のある関係のなかにおいて互いにかけがえがなく、代替不可能なのである。
さて、質疑応答に入ってはじめに出た質問は、「一般性 − 特殊性」という軸は理解できるし、「特殊性」にたいする「単独性」もわかるが、では、「単独性」と対をなすものとしての「普遍性」とはいったい何のことなのか、というものであった。そのことに関してはわたしも発表を聴きながら同様の問いを頭に浮かべたのだが、そのとき考えてみたのはこういうことである。
 つまり、「単独性」が「個の代替不可能性」のことを指すのだとすれば、それにたいする「普遍性」とは、「個の〈根源的な〉代替可能性」のことではないのかということである。やや思考実験めいた話になるのだけれど、個が根源的に代替可能なものであるというのはつまり、〈わたし〉は〈彼/彼女であったかもしれない者〉としていまここにいるということである。生まれる時と場所がちがっていれば、あるいはほかの何かちがっていれば、当然のことながら〈わたし〉は〈彼/彼女〉として存在していたはずなのだ。そして、「にもかかわらず〈わたし〉である(わたしはいまここでわたしであり、彼は彼である)」ということのいわば奇跡が、返す刀で「個の代替不可能性」を生むことになる。その意味で、まさしく普遍的な事実であるところの〈どの生を生きる可能性もあったわたし=普遍性〉こそが、〈この生を生きるわたし=単独性〉を生む地平なのではないか。
 ──といったようなことを、わたしは質疑応答の最後で手を挙げ、発言したのだったけれど、それにたいする小田先生の指摘がまたぐっとくる。
 そもそも小田先生の使う「一般性 − 特殊性」と「普遍性 − 単独性」という用語は柄谷行人の議論(『探求 II』)から借用したものであり、また、「個の根源的な代替可能性」とそこから生じる「個の代替不可能性」との関係性についても、基本的には柄谷のその論のなかにある考えなのだけれど──そしてそれは基本的に「おっしゃるとおり」なのだけれど──、今回「単独性(=代替不可能性)」を説明するにあたってそれらの議論を用いなかったのは、つまり柄谷の論では、つきつめていくと「〈他者〉が要らなくなってしまう(「個」だけでもって「単独性」が成立してしまう)」懸念があるからだというのである。なるほど。
 だからこそ──と、わたしはいまひるがえって整理するのだけれど──、「にもかかわらず〈わたし〉であること」の奇跡は、つねに同時に、「にもかかわらず〈彼/彼女/あなた〉であること」の奇跡を目の前にしつつ感得されなければならないということではないだろうか。
もうひとつ。質疑応答のはじめの質問(「普遍性 − 単独性」の軸における「普遍性」とは何か)に答えて、「たぶんいちばん正しい答えはこれですね、『普遍性』は要らない(笑)。『一般性 − 特殊性』と『単独性』だけでいい。いや、論理としてね、もういっぽうも対になってると美しいから入れたんだけど」と、じつに痛快な答え(それこそまさに〈範列的言説〉!)を披露していた小田先生だけれども、そのあとにふと付け足した、「普遍性という言葉でぼくがイメージしているのは、〈いまこの時代に世界中のどこででも見られる〉というような空間的普遍性ではなくて、〈歴史上すべての時代において見られた〉というような時間的な普遍性だということです」というひとことにも、わたしはじつにはっとさせられたのである。

……)けれども、二重社会という視点からとらえる希望はもっと単純なものだ。それは、直線的な時間軸による〈もう − ない〉という見方そのものを拒否する。それは、非真正な社会における見方である。つまり、「問題 − 解決」型の思考が役に立たないことを認めつつ、非真正な社会のシステムから浸透してくる「自己選択」や「新しさ」や「オーディット文化」のもつ時間軸を、真正な社会において「つねに − すでに」という時間的普遍性の軸へとずらし、その強迫性を無にしてしまう実践にこそ、「希望」があるとするのである。
同上

いいかげん長いよ

会の終了後、小田先生に挨拶して少し話をする。さすがにわたしの顔を覚えてはいなかったが、石原ゼミにいたこと、ブログに何度かコメントした者であることを言うと、ああそうだったんだということになる。控え室がわりの研究室で一服しながら世間話。
単著を執筆中であると五月ごろにブログで報告していた小田先生だが、その作業は予想どおり遅滞しているという。単行本だそうで、来春ぐらいに上梓できればいいのだがという目下の見通し。たとえば『崖の上のポニョ』が、公開にさいして〈『風の谷のナウシカ』から二十四年〉といった謳われ方をしたように、それが〈『構造主義のパラドクス』から二十一年〉というような本になることをわたしは勝手に期待する者である。
ほとんど唐突な最後の引用は、たんにここに書き写したいがための引用である(ほんとうは流れのなかでそこまで話をもっていきたかったが、さすがにちょっと憚られる日記の長さになってしまった)
システム(この場合には貨幣)を飼い慣らす実践の一例として、小田先生が紹介するのがアフリカ・スーダン南部のヌアー社会における、〈貨幣の「牛−化」〉というひどく魅力的な事例である。ヌアーでは「1980年代に牛が商品化された」が、そこで起こったことはたんに一方的な「牛の商品化」だけにとどまらず、他方では商品の側が「牛−化 cattle-ified」され、さらには貨幣が「牛−化」されたのだという。いや、そう言われてもおそらく何を言っているのかわからないだろうこの〈貨幣の「牛−化」〉という事態は現象それ自体としても非常に面白いのだけれど、その解説はここでは省かせていただく詳しくはこちらを。ページの中ほどにそれに関する記述があります)

 貨幣を「牛−化」するというやり方は、グローバルな資本主義という巨大なシステムを前にすると、とるに足らないものであるかのようにみえるかもしれない。また、そのやり方がいつまで保持されるかもわからないし、それ自体はヌアーというローカルな社会でしか成り立たないやり方である。けれども、その区別によって、非真正な社会と真正な社会を区別しながら同時に、二重に生きることが可能となり、そのことによって非真正な社会に包摂されながらも、「ユニセントリックな」資本主義経済のシステムへの一元化を免れることが可能となっているのだ。それは、貨幣やシステムを追放することを夢想するのではなく、巨大なシステムに対抗するために同じ大きさや一般性を追求するのでもなく、媒体の変換によってそのシステムと真正な社会とのあいだの区分線をたえず引きなおし、そのあいだにグレーゾーンを生みだしながらその区別を維持していく日常的な実践である。あいだにグレーゾーンをつくることが、それを「同化的な接続」に見せてしまう理由となっているが、そのグレーゾーンや混合は、一元化を意味しているのではなく、ふたつの社会の様相を二重に生きることの結果であり、同時にその二重性を保つ方策でもある。
同上

本日の参照画像
(2009年10月30日 04:25)

関連記事

/ 18 Oct. 2009 (Sun.) 「西荻窪へ」

えのきどいちろう『我輩はゲームである。〈其ノ壱〉』(Vジャンプブックス)

西荻窪はかつて住んだ町のひとつだ。夕方、約一年ぶりに西荻窪へとやって来たのは、ネットサーフィンをしていて知った「西荻ブックマーク」という催しのためである。月イチペースで開かれているらしい本をめぐるイベントの、きょうは第36回だそうで、「コラムニスト、なのである」というタイトルのもと、ゲスト・えのきどいちろうさん、進行役・北尾トロさんによるトークショーがある。町の本屋が所有しているちょっとしたイベントスペース(定員25名)が会場だった。
トークはあいだに休憩をはさんで三時間弱にわたる。「エッセイとコラムのちがいは?」という北尾さんからの問いを起点に、『中大パンチ』以前の高校時代の思い出から現在にいたる「コラムニスト人生」のあれこれについて語ったあと、休憩後の第二部は、ごく最近「雑誌をつくる」と決意したらしい北尾さんのその構想をえのきどさんが聞き出しつつ、「どうっすかこれ、この雑誌、みなさん」と企画会議ふうな場と時間になる。
「エッセイとコラムのちがい」についてのえのきどさんの答えはかなり明快なものだった。一般的なイメージがそうであるように「コラムは短い」ということがまずあるのだけれど、その物理的な条件に要請されるかたちで派生したより本質的なコラムの特性として、えのきどさんは「読者のちからも借りて書く」ということを言う。あるトピックをイチから説明して書くだけの長さが(えてして)ないコラムにおいては、そのトピックについて読者があらかじめもっている(だろう)情報やイメージ、その喚起力にたよらざるを得ず、そこから、「読者のちからも借りて書く」という〈コラム的〉な技法が生まれるのだという。「ぼく自身はかなり〈エッセイ的〉なワザ──つまり、ワタシ語り──を使って書くほうのコラムニストだけれど」とことわったうえで、えのきどさんはコラムをそのように説明するのだった。
それにしてもうれしい驚きだったのは第一部のラストだ。あらかじめ予定されていたわけではなく、その場のサービス精神でもってえのきどさんが勝手にはじめたふうだったが、たまさか最前列の客が手にしていたえのきどさんの近著『我輩はゲームである。〈其ノ壱〉』を「貸して」と受け取ると、ぱらぱらめくったのち、「じゃあ読みます」と、自作のコラムの朗読をはじめたのである。それが、「月」というコラムだったからわたしはうれしくなってしまった。なにせその本のなかで、わたしがもっとも好きなコラムがそれだからだ。
去年の暮れに初単行本化された『我輩はゲームである。』は、しりあがり寿さん(イラスト)とのコンビで子供向けのゲーム雑誌『Vジャンプ』に約15年間(現在も)連載されているコラムである(なにせ15年にわたる連載なので、単行本はベスト版的な編集になっている)。朗読されたその「月」というコラムは、2008年7月の「Vジャンプ15周年記念号」に書かれたもので、創刊時(「我輩はゲームである。」も創刊まもなくに連載開始)の15年前というと、1993年のことだ。雑誌の購買層は小学生(中・高学年?)で、コラムのなかでえのきどさんが「若い読者」と呼んでいるのは、つまりその小学生たちのことだと思っていただきたい。

 我輩はこの15年というものを回想する。度々思い出してみるのは、門前仲町・深川不動に隣り合った公園のベンチなのである。当時、ようやく人並みに所帯を持った我輩は、公園の裏手の貸家に住んだ。猫の多い町だった。
 若い読者に話して聞かせたいのは、月明かりのことなのである、我輩はこの15年、何も大したことはしていない。15年は過ぎてしまった。読者には想像がつかぬだろう。それは本当に風のように過ぎてしまった。あるいは何かとりかえしがつかない物事のようにどうしようもなく過ぎてしまった。
 あの当時、スーパーファミコンで夜を明かし、妻と家族の真似事を始めた頃のことだ。くたびれ果てると必ず公園へ行った。夜の公園だ。いつも同じベンチに座った。傍らに妻がいるときも、ひとりきりのときもあった。

 (略/いや、ここすごく大事なんだけど、全文引用するわけにもいかないから略)

 と、突然、自分が盛大な月明かりに照らされているのに気づく。見上げるとぽっかり月が出ている。月は欠けているときも、まんまるのときもある。そのとき、胸がいっぱいになる。ああ、そうか、そうだなぁと思う。月だなぁと思う。少しも悲しくないのにほんの少し悲しい。何もないのにほんの少し幸福だ。自分はいつも月の下にいた。それと気づかなくても月の下にいた。
 15年の間には忙しく立ち働いたときも、ヒマを持て余したときもある。友を得たし、友を失った。思うように生きてきたけれど、それほど思うようにはならなかった。

 (略/同様)

 我輩の見る月と、若い読者の見る月と、同じかどうかは知らない。我輩は神様じゃないからなぁ。我輩は我輩で、こっちで生きてるんだから。若い読者とそっくり同じ痛み、そっくり同じ興奮、そっくり同じ一切合切を感じとれるとはあんまり思えない。
 けれど、月は出ているんだよ。それは呆れるくらいぽっかり出ている。そして、誰にでも門前仲町のベンチはある。15年たって、我輩が言ってやれるのはこのくらいの話だなぁ。これは本当の話だ。15年間、月は出ていたんだから。
えのきどいちろう「月」『我輩はゲームである。〈其ノ壱〉』(集英社)

全文は、ぜひ買って読んでいただければなによりです。

本日の参照画像
(2009年10月24日 14:40)

関連記事

/ 17 Oct. 2009 (Sat.) 「『パンドラの匣』を観る」

原作の『パンドラの匣』は河北新報朝刊に連載された新聞小説。昭和21年発行の単行本が現在、河北新報出版センターから復刻されている。ぶんか社文庫の装幀はちょっとどうなんだという方など、いかがだろうか。旧字旧仮名遣いだけど。

菊地成孔さんによるサウンドトラックは iTMS のみでの販売。 菊地成孔 - 『パンドラの匣』オリジナルサウンドトラック - EP

太宰が書いた『パンドラの匣』の、さらに元になっているのが『木村庄助日誌』。

母方の祖父母の遠忌が昼からあり、菩提寺のある北千住へ。母と会う。食事をし、コーヒーを飲んで親族らと別れたあと、その足で新宿へ出た。テアトル新宿で、冨永昌敬監督の新作『パンドラの匣』
はじまってほどなく、「あれっ?」と思わせられたのは原作との大きな設定のちがいがそこに仕掛けられているからだが、その「脚本化」の妙味はどこか市川崑監督のそれ(わたし『炎上』観てないんで、たとえば金田一シリーズとか)を想起させもし、観終わってまったく納得させられるのは、つまり『パンドラの匣』は、その改変によってこそ「映画になる」のだということである。

映画『パンドラの匣』

 太宰治の原作『パンドラの匣』(書簡体小説である)において、主人公「ひばり」が手紙を書き送る相手は作中でただ「君」とだけ呼び続けられるひばりの親友であり、健康道場(結核療養所)の塾生(患者)である「つくし」とはべつの人物なわけだけれど、映画においては「君=つくし」であるというふうに両者が組み合わされ、新たな人物として造形されている。もちろんその改変は、終盤、助手(看護婦)の「竹さん」が嫁に行くというくだりとも不可分に編まれていて、竹さんが嫁ぐ相手も原作と映画では異なるのだけれど、それ、見事な「映画化」だなあというふうに思ったのである。
 竹さんの結婚相手についてはたしかに原作においても不意をつかれるのだが、その「不意のつきかた」はきわめて小説的なそれであるように思え、映画(いかにひばりの書簡をナレーションとして入れようとも、カメラはたやすく〈ひばりに焦点化した語り〉を超え出てしまう)においてはまたべつの「不意のつきかた」が必要だったろう。そしてこの改変処理においては、しかしなお、竹さんとその結婚相手とが物語の〈枠〉として機能するという構造(小説に関しても、おそらくそうした枠組みからの〈読み〉が可能なんじゃないかと思う)が、その構造をたもったままじつに映画的な〈枠〉へと変換されているのだ。
 健康道場の描写をつくしの退場(退院)からはじめ、入れ替わりに竹さんがやってくるという動きの導入(これも改変)が〈枠のはじまり〉であれば、〈枠のおわり〉はもちろん竹さんの退場であるというわけだけれど、さらに言うならば、その〈枠のおわり〉は編集によってふたしかな時制のなかに置かれて、「そうはいくかい」とばかりにはぐらかされてもいる。
ところで「改変」ということでもうひとつ、冨永監督がパンフレットに寄せている製作秘話によると、はじめの脚本段階では「『ひばり』が防空壕の中で喀血する場面」が存在したというのだ。予算やスケジュールの都合から「泣く泣くカットし」たそうなのだが、これなどはさしずめ「幻の改変」と呼べるものだろう。というのも、原作を素直に読むかぎり、ひばりが防空壕のなかで喀血する描写はないからである。

さうして、深夜、僕はまた喀血をした。ふと眼覺めて、二つ三つ輕く咳をしたらぐつと來た。こんどは便所まで走つて行くひまも無かつた。硝子戸をあけて、はだしで庭へ飛び降りて吐いた。ぐいぐいと喉からいくらでも込み上げて來て、眼からも耳からも血が噴き出てゐるやうな感じがした。コツプに二杯くらゐも吐いたらうか、血がとまつた。僕は血で汚れた土を棒切で掘り返して、わからないやうにした、とたんに空襲警報である。思えば、あれが日本の、いや世界の最後の空襲警報だつたのだ。朦朧とした氣持で、防空壕から這ひ出たら、あの八月十五日の朝が白々と明けてゐた。
「幕ひらく」・3

 その場面に対応すると思われる記述がこれだが、このときのひばりは「庭へ飛び降りて吐い」ている。喀血がおさまった「とたんに」警報が鳴り、それを受けて防空壕へと避難した(で、警報が解除されて外へ出ると「八月十五日の朝」だった)という事の順序になるわけだから、けっして防空壕のなかで喀血してはいないのである。にもかかわらず、冨永監督は映画化にあたり、「『ひばり』が防空壕の中で喀血する場面」を撮ろうとしていた。それがいったいどんな「画」になっていたかはもはや知ることができないが、おそらくすぐれて映画的なシーンだったのだろうとまず夢想されるのと同時に、この「幻の改変」の存在によって腑に落ちるような心持ちがするのは、これは完成した映画にある、八月十五日の玉音放送のシーンで感じたとある「ひっかかり」のことなのだった。
 あそこでなぜカメラは、玉音を伝えるラジオの〈内側〉に位置し、スピーカーカバー(?)の網目ごしに人々を見つめなければならなかったのか。つたない直感以外の何物でもないけれど、ことによってこのラジオの内側のカメラこそが、撮られることのなかったあの防空壕のメタファー、イメージの残骸なのではないだろうか。
といったような感想ではきっと伝わらないだろうけれど、ともあれ楽しいのである。観ていただきたい。わたしの考えたコピーは、「もう百年は現れない映画」だ。同等の作品と出会うには、おそらく太宰治の生誕二百年まで待たねばならないだろう。あるいは案外、再来年あたりに冨永監督による『グッド・バイ』が封切られないともかぎらないけれど、そのためにはまず『パンドラの匣』が成功しなければならないから、ともあれまずは『パンドラの匣』を観ようじゃないか。わたしはそうだなあ、あと二回は観たい。
終わってロビーに出ると冨永監督がいた。「どうも」と近づくといつものようにぬんと手を差し出してくる監督である。ま、このひとは会えばたいていまず握手なんだけど、このとき、わたしの側にちょっとした躊躇が生まれたというのは直前にトイレに行っていたからで、洗った手がまだ少しだけ濡れていることを咄嗟に思い出したのだった。というわたしの都合もあって握手はいつもより軽めのそれになったのだが、いや、それだけじゃないな、いつになく監督の握手にそれこそ「かるみ」があったのはそのせいばかりでないだろう。それは「あたらしい男」同士の、とても、いい握手だったのだ。

映画『パンドラの匣(パンドラのはこ)』公式サイト

本日の参照画像
(2009年10月21日 21:34)

関連記事