/ 15 Jul. 2009 (Wed.) 「再現してみせる妻もお調子者になっていた」
■作曲家・萩原哲晶さん(下は「ひろあき」と読ませるようですね)の2枚組CDが出ている模様。『萩原哲晶作品集〜ハイそれまでよ〜』。そういうことなのかは不明だが、今年は没後25年なのだった。わたしはほぼクレージーキャッツでしか知らないが(それならよく知っているが)、ほかにもさまざま人に提供しているらしい。アマゾンの商品ページ、アーティスト名のところに古今亭志ん朝とあるのをいぶかったが、おそらく若いころのだろう、「ソロバン節」なる曲が収録されている。収録曲一覧はこちらなど。「ひょうきん絵書き歌」もこの人なんだ。大瀧詠一のライナー付。
■例のあたらしい牛乳屋(「ものすごくたいへんな牛乳屋のひと」)だけれども、きょうは昼間、前回までの営業担当の人とはべつの、配達担当なのだと思われるおじさんが玄関先を訪ねた。17日からよろしくお願いしますという挨拶だが、ふと宅配ボックスがまだ置かれていないことに気づいたおじさんが、「担当がまだもってきませんか?」と訊き、「ええ。あの、倒れちゃった方なんですけどね、担当されているのは」と妻が答えると、おじさんは言うのだった。「あー、あいつねー。あいつ辞めちゃったんだよなあ」。そうだったか。すると、病院の検査などその後の経過があまり思わしくなかったということだろうか。「若いからなあ、あいつ」とつながりのよくわからないことも口にするおじさんである。ほんとうは、はじめにもらう試供品とはべつに、契約後にサービスとして商品を何本か渡される手筈なのだそうで、それも手の回らないまま若い担当が辞めてしまったから、「じゃあ、わたしがいくつか見繕ってもってきますよ」と、気づけばいつしかお調子者の口ぶりになっているおじさんだ。「このへんの配達は午後三時から五時ぐらいなんですよね?」と妻が(辞めた若い担当から説明されたことを)確認すると、「いやあ、そんなに遅くないよ」とあっさり言う。が、朝届くということではやっぱりないらしく、「二時から三時ってとこかな。いや、一時ぐらいには来られるんじゃないかと思うけどね。一時、うん、でも一時はちょっと確約できないから、一時から三時ってとこだな」。四時とみたね。
■本日の電力自給率(7月15日):98.8%
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/ 14 Jul. 2009 (Tue.) 「やっぱりだった」
■梅雨明け。
■わが家では基本、猫たちは一日二食である。常時皿にカリカリがあるといった与え方をしておらず(そうだったころもあったが、ロビンの二度目の尿道結石のさいお世話になった病院で「あまりいいやり方ではない」と指導を受けた)、朝に缶詰、晩にカリカリを一定量与えてそのつど食べきってもらっている。食欲と食べるスピードは三匹それぞれで、いまもっとも食べるのが速く、ほかの二匹が残したりすればそれを全部平らげてまわっているのが若いポシュテだ。逆に、食にかんしてさほど執着のないのがピーで、自分の食べている皿にほかの猫が近づいてくればすぐにゆずってしまう(それでいていちばんデブなのが解せない)。というわけでまず、少なくともポシュテだけはほかの二匹とべつに与えなくては話にならず、廊下でポシュテに与え、ドアを閉めてから、リビングでロビン、ピーの順に(これは仕切らずに)すこしはなれた場所で与えているのだと想像していただきたい。
■やっぱりだったのはロビンである。食餌にかんしてわがままを言っているのはやはり「味の問題ではない」のだった。
■妻の報告によれば、きょうの晩は廊下のポシュテに普通食のカリカリ(0歳のくせにヒルズの「シニア」)を、いっぽうリビングではふたりともに療法食のカリカリ(ロビンが食べなくなっていた通称「フィッシュテイスト」)をあげてみたといい、するとですねえ、ロビン、まんまと完食したのだった。皿に出してすぐの反応はこれまでとあまり変わらぬものだったらしく、「なんだこれかよ」とほどなく皿から顔を上げると、むこうでピーが何かをむっしゃむっしゃ食べている。あわててそっちへ行き、ピーの皿をうばうと、ピーはすぐにゆずってロビンの皿のほうに食べに行く。おそらく何度か、この皿の交換(中身は同じ)を繰り返したんじゃないかと思われるが、しばらくすると双方の皿が空になっていたそうだ。その短時間にピーがひとりで二皿食べきるとも思えず、なによりロビンが「満足げ」であるから、まあ、食べたのだろうと妻はいう。
■そうなのだな。まったく話は単純というか繊細というか、そういう問題──どうも自分だけちがうものを与えられているらしいのが気にいらないという問題──だったようなのである。で、さらに言えば、そうしたロビンの偏屈にだまされていただけで、じつは療法食(とくにその「フィッシュテイスト」など)、かなり旨いんじゃないのか。ピーもポシュテもよろこんで食べるのだった。
■本日の電力自給率(7月14日):100%
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/ 13 Jul. 2009 (Mon.) 「あれを取る」
■「『夏目漱石財団』なるものについて」。たいへんだなあ。ま、周知の一助として。
■しかしポシュテはあれ、網戸にしがみついてその先何をしようというのだろう。立てる音や、また爪の食い込みぶり(網から引きはなすときにひと苦労する)から言ってもおそらく「よじのぼる」のではなくて、高く一気にジャンプしてしがみつくのだと思うが、で、何をしようというのか。またかと網戸に走り、引きはなそうとポシュテを抱くと、今夜はたまさかそのポシュテの目線の先に明るい月が出ていたが、まさか「あれを取ろう」というのでもあるまい。月夜にかぎったことではないはずだ。
■報告するならば「ドラクエ9」はきのう、一日遅れて妻のもとに届いている。アマゾンで予約し、荷物は発売当日に届けられたもののちょうど出掛けていて受け取れなかった(妻は受け取りの必要ない「メール便」で来るものと勘違いしていた)。出掛けていたのは(その日の日記に書いたように)ロビンの尿検査がひとつだが、ほかに、妻が次兄から製作をたのまれているとある人形(その試作品)のための材料調達をしていた。布やフェルト、ボタンなど、いろいろ買ったのだったが、しかしまだ作っていない。いま、レベル「18」だという。
■本日の電力自給率(7月13日):62.5%
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/ 12 Jul. 2009 (Sun.) 「都議選と少年」
■午前中は地域の少年相撲大会があり、それを手伝う。さすが「神事」というわけで、場所はちかくの神社、境内に屋根付きの土俵が常設されている。大会にむけた練習も先週水曜から金曜の夜に行われていたがそれには出られず。
■朝七時(!)に町会の公会堂に集合し、リヤカーでテントなどを神社に運び入れ、設営。三〇分遅れで集合の子どもたちはまず公会堂へ寄って、そこで慣れた大人たちにまわしを締めてもらってから神社へ。参加対象は小学生(学年別にたたかう)で、うちの町会からは四人の子どもたちが参加。ほかに五つの町会があって(ほんとは全部で九町会あるが、うち三町会が参加者なしで欠場)、合わせて二、三十人の子どもたちである。はじめて参加する者の目にはそれなりに盛況に映る光景なのだが、土地の者らは口々に「今年は少ないねえ」と感想をもらす。往時には子どもが多すぎ、町会の中でまず予選をしなければならなかったころもあったという。まあ、ねえ。
■昨年がだいぶ長かった(午後一時ぐらいまでかかった)とかで、開始時間を早めたところが参加者が少なく、もちろん個々の取り組みはなかなかに沸かせるのだがそんなに長いもんじゃないから、一時間ちょいぐらいですべてつつがなく終了、午前十時をまわるころには表彰も済んで神社をあとにする。
■公会堂にもどってからみんなで弁当を食べた。そのさい二年生の子のとなりになり、その子にクイズを出される。たとえばそれは、「〈とうもろこし〉と〈栗〉と〈と〉は?」という問題だ。問題を復唱していると「ヒント?」というのでヒントをもらう。「〈とうもろこし〉は〈コーン〉とも言います」。で、答えは「コン(コーン)クリート」。ほか、何問か。
■いやあ、何でしょうかねえこの、ある種の子どもたちを魅了してやまない「クイズの愉楽」ってやつは。こちらがすぐに正解を言っても悔しがる様子はなく、逆に嬉々としてやつらどんどん出してくる。「良問を前に熟考する」といった時間が期待されているわけではないらしく、だいたい、なんだそのぞんざいな問題は。というかですね、わたしどうやら「こういう子」だった時期があるらしくてですね、なんといいましょうか、ほんとうに申し訳ない思いでいっぱいです。
■話は変わって都議選。夕方に投票を済ませる。立川に越してからは投票所(小学校)が目と鼻の先にあるのだった。WOWOWでは「インディー・ジョーンズ・デイ」(全四作一挙放映)なるものをやっていて、『最後の聖戦』を見、『クリスタル・スカルの王国』も途中まで見ていたが、ついついNHKの選挙速報にまわしてそれを遅くまで見る(途中からTOKYO MXとザッピング)。というわけで、立川市選挙区(定数2)の結果はこうでした。
得票数 | 氏名 | 年齢 | 所属 | 新現元 | |
---|---|---|---|---|---|
当 | 32,170 | 酒井 大史 | 41 | 民主(生活者ネット、国民新推薦) | 現 |
当 | 27,663 | 宮崎 章 | 68 | 自民 | 現 |
11,442 | 大野 誠 | 44 | 共産 | 新 |
ちなみに前回がこう。
得票数 | 氏名 | 年齢 | 所属 | 現元新 | |
---|---|---|---|---|---|
当 | 24,835 | 宮崎 章 | 64 | 自民 | 現 |
当 | 17,242 | 酒井 大史 | 37 | 民主(生活者ネット推薦) | 現 |
13,548 | 浅川 修一 | 50 | 共産 | 元 |
もちろんじっさいのところはわからないものの、数字だけを見、ごくごく大雑把に捉えるなら、これ、自民・共産は前回(ちなみに前回は過去二番目程度に投票率が低かった)の得票状況とそれほど変わっていないとも言え、投票率が上がって増えたぶんの票がごっそり民主に行ったようなかたちである。立川市選挙区のみの数字で投票率は「9.5%」増え、投票者数は前回より「15,785」人多いので、まあ、だいたいそんな計算が成り立つ。でもって、都全体での結果はご案内のとおりだ。
■うーん。
■しかしなんだ、こうなってみて驚かされるのは公明党の強さだ。候補者全員当選だよ。「不沈鑑」の異名を与えたいほどで、投票率が10%上がったぐらいじゃぜんぜん沈まないのだった(まあ、小選挙区比例代表並立制の衆院選ではまた大きく状況が異なるだろうものの)。
■そうそう、「やけくそ解散」という言葉だけど、あれ、麻生政権を揶揄したいからといって〈われわれ〉はあんまり使わないほうがいいと思うのだ。だって、それを「やけくそ」と呼べるのは、つまり自民党目線に立った場合でしょうよ。
■うーん、小選挙区制なあ。「小さき者」のもつ「小ささ」が必ずしも数の少なさとは一致しないことからいっても、いずれ〈多数決〉でしかない選挙制度とはべつに、「そもそもこぼれ落ちてしまう何か」のことをわれわれ──「わたし」でもいいけど──は見つめないといけないということがあるのだけれど、と同時に、とはいえ「ましな制度」というものはあるはずだと考えれば、たとえば前に調べた「優先順位付連記投票」による小選挙区制など、(なお最善ではないかもしれないが)やっぱりなかなか考えられているよなあとは思うのだった。
■本日の電力自給率(7月12日):67.3%
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/ 11 Jul. 2009 (Sat.) 「健康。ロビンに診断下る。」
■承前(「ほっとする日」7月1日付)。
■膀胱炎の原因である細菌の種類が特定され、それ用の薬を処方されて以降のロビンには、しかしまだ紆余曲折があって、その薬(朝晩に1/2錠ずつ)を飲ませはじめて二日後に、どうにも具合がよくないといった様子でぐったりしてしまったのだった。食欲をまるで見せず、一日何も口にしないのでその日は薬も与えずにいたところ、自然回復するかたちで翌日ふだんの調子を取り戻すが、また二日ほどすると覇気がなくなり、何も食べないという繰り返しになった。一日様子をみるうちにまた回復するのだが、そのさいも同様に薬の投与を一日休んだかたちで、まあ、因果関係ははっきりしないものの要因をもとめれば浮上してくるのは薬ぐらいしかないから、「効き目が強すぎる」んじゃないかという素人判断でもって、朝晩二回と処方されているそれを朝の一回だけに減らしてつづけたのだった。
■いっぽうで「薬が効いている」のもたしかなようで、トイレに行く回数はめきめきと減る。日に二、三度といったところで、たまさか見逃したりするとまったく行っていないような印象さえ受けるが、考えてみればほかの二匹だってそんなものであり、そうだった、前はそんなもんだったよなロビンも、といまさらのことを思い出す。回数が減ると同時に粗相もなくなる。どうやら、トイレが汚いと中でしない(トイレのところまで行き、中には入らずに手前の床で躊躇なくする)というのはクセのように身に付いてしまったらしいが、少なくともトイレがきれいであるかぎりは粗相をしなくなった。
■薬を朝一回に減らして以降はとくに調子を崩すこともなくなったものの、進行の一途を辿るのは食餌についてのわがままぶりで、療法食のカリカリを依然食べないのはむろんのこと、普通食だが病気以前に食べていた缶詰とは異なる、高齢猫向けのパウチ──少し前にはよろこんで食べていたそれ──にもいよいよ「これじゃないな」という態度を取りはじめた。ひとつにはおそらく、「ほかの二匹と同じもの」が食べたくてしょうがないのだろう。断固食べないという手段に訴えてはこちらと駆け引きしつつ、けっきょくいま、病気以前とほぼ同じ食生活を手中に収めつつあるロビンだが、逆にポシュテが療法食のカリカリを見つけてむしゃむしゃやりはじめると、奪い返して食べたりもするのだった。
■そうした日々が十日ばかりあり、いよいよ経過を診るためにきょう病院へ尿をもっていく。で、検査所見はみごと「とてもきれいなおしっこである」というものだった。つまり「健康」ってことである。
■薬が強すぎるのではないか問題について話をすると、たしかに体重から計算した投与量が多かった可能性はあるという。できればもう一週間投与をつづけたいので、以降は一回の量を半分(1/4錠)に減らし、それで朝晩二回与えるよう指示される。尿の状態はすでにすこぶる良好であるので、もしまた具合が悪くなるようなら一週間を経ずともそれぎりで与えるのをやめてかまわないとのこと。食餌のかんしては、どうやらすでにさまざま試してもらったようだし、なにより尿がここまで回復しているのでいったん療法食を切り、しばらく普通食にもどして様子をみるかたちでもいいと言われる。あるいは、pHコントロールの療法食は健康な猫が食べてもまったく問題ない(予防食として与えるケースもある)ので、さらに試すとすれば三匹ともカリカリは療法食にしてしまうという手があるだろうとも提案される。なるほど。これまでの様子からいって、おそらくピーとポシュテは療法食を何食わぬ顔で(あるいはむしろ好んで)食べるんじゃないかと予測され、そうなれば、ロビンも不承不承、納得して出されたものを食べるかもしれない。で、それにあたってはさらに成分の軽い(=味のましな?)「pHケア」という商品があるそうで、次回来院時にサンプルを用意しておくのでそれで試すのがいいのではないかということだった。
■次回はまた二週間後ぐらいに、尿を検査して経過を診る予定。
■本日の電力自給率(7月11日):80.1%
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/ 10 Jul. 2009 (Fri.) 「踏みとどまる」
■会社帰り、紀伊國屋書店(新宿本店)でムーミン・コミックス五巻〜八巻を買う。それとは何の関連もないものの、併せてつい『007 / 慰めの報酬』のDVDも買ってしまった。加えて報告すれば、いざ、じっさいにモノを目の前にするとやっぱり手ののびざるをえないのが『落語研究会 八代目桂文楽 全集』である。あぶなかった。買う寸前までいき、でもなあ、どうせ買うならアマゾンのほうが安いんだよなあとそこを足場に踏みとどまってなんとか購入の〈先送り〉に成功。しかし〈先送り〉している場合じゃないというのはTBS落語研究会のやつら、調子にのってどんどん出してくるからだ。つぎは『六代目三遊亭圓生』の上下巻で、上が9月2日に発売である。これもアマゾンで買うとだいぶ安い。
■まいっか、圓生はべつに。
■わたしのtwitter(ご覧いただければわかるようにまったく活用できていない)にたいし、「tt enomotoがあなたをフォローし始めました」という通知があり、どうやらやっぱり編集者のEさんである様子。というのは「tt enomoto」さんの自己紹介欄にこれまでの主な仕事があったからだ。へえー、あれもEさんでしたか。
■本日の電力自給率(7月10日):18.0%
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/ 9 Jul. 2009 (Thu.) 「ものすごくたいへんな牛乳屋のひと」
■おとといの日記に書いた「ドシッ!」(© 谷岡ヤスジ)というのはこれ。正確にはビックリマークなしで「ドシッ」ですね。促音もなしで「ドシ」の場合も多い。あとまあ、さらに上の状態で「ドーン」とかね。
■実家に帰れば全巻あったはずだが、まあ手元にあったほうが何かと心強いだろうと、ついつい『ヤスジのド忠犬ハジ公』(セレクト版)を買ってしまった。もうだいぶむかし(実家の蔵書だということは高校時代だろう)、生粋の谷岡ヤスジファンであるところの長兄に、最初に読むならこれが〈入りやすい〉んじゃないかと勧められたのがこの『ヤスジのド忠犬ハジ公』である。とはいうものの、厳密には、これがわたしにとって最初の谷岡ヤスジではない。亡き父が毎月欠かさず買っていた雑誌というのが、『オール讀物』と『小説新潮』、『小説現代』の三冊で、大人になって気づくのはまったくたいしたことのない趣味であるということだがそれはそれとして、小・中の時分のわたしにはそれらが、いわば〈すぐ手の届くところにある娯楽〉として機能してもいた。つまりまあ、そのなかに含まれる漫画部分を読むわけですね。で、好きだったのがいしいひさいちの「忍者無芸帖」(『オール讀物』に連載)と砂川しげひさ「しのび姫」(『小説新潮』に連載)、そして「ヤスジのドナンセンチュ」(『小説現代』に連載)である。のちになってふと、「ドナンセンチュ」というそのタイトルが「ナンセンス」の強調形だと気づいたときの誇らしい気分といったらなかったと、そのことは記しておきたい。
■CのTさんからは長文のメール。で、それに長文で返す。
■立川に越してまもなくのころ宅配の牛乳というのを利用していたが、だんだん飽きてくると消費が追いつかないようになり、何本も無駄にするようになったのでやめていた。で、そのときの店とはまたちがう宅配業者から売り込みがあり(商品自体はどちらも明治乳業)、そこは「週三回、一回につき一本から配達」と以前の店よりも最低本数が少ないから、まあ試しに再開してもいいかなということになったのだった。で、支払いが口座引き落としにできるのでその用紙に記入・捺印し、用紙はきょう受け取りにくるというから家で妻が待っていると、昼すぎ、その担当者からひどく暗い声で電話があったという。聞けば、きょうの朝たおれて意識不明の状態だったらしい。病院に運ばれ、いまはもう家に戻っているが、きょうはちょっと用紙を受け取りにいけそうもないと担当者は言う。いやいやいやいや。あなたには是が非でも安静にしていてもらいたいと思うが、なぜ用紙を受け取りに来るのがあなたでなければならないのか──という疑問をしかし妻は口にせず、さらに担当者がつづけるのでその話を聞く。用紙はあす取りに伺いたいと思うが、あすは病院の検査もあって、検査結果によっては伺うことができないかもしれない。いやいやいや。でまあ、宅配がはじまってから、空のビンといっしょに宅配ボックスのなかに用紙を入れておけば回収が可能なのでその方法をとらせてもらうかもしれないということになったのだが、この担当者、さては「配達からなにから、東京の西部をひとりで任されている」とか、そういうものすごいたいへんなひとなんじゃないかと、いまわが家では想像されている。というのも先日、契約する旨を妻が伝えたとき、その担当者がこう説明したというのだ。「ずっと回っているうちに、このへんの配達は午後の三時から五時ぐらいになります」。
■夜、とあるチラシの入稿がある。はじめB5サイズということで作業を進めていたのだが、わりと土壇場でA4に変わる。が、まあ、やっぱりいろいろとA4のほうがいいだろう。チラシの、というかその告知内容の全貌は今月中旬以降にあきらかとなる予定。
■本日の電力自給率(7月9日):49.7%
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/ 8 Jul. 2009 (Wed.) 「ばかばっかりである」
■「いいなあ」と南波(典子)さんにうらやらしましがらうらやましがられた(7月5日付「いま、ムーミンである」へのコメント)そのマグカップがきょう届く。写真の緑色のほう、現在は廃盤デザインであるために少々値段もつり上がっているミイのそれに、南波さんは(というかコメントを読むに、よりうやらしまがうらやましがっているのは旦那さん=佐藤さんのほうらしいが)「いいなあ」をくりかえしている。はっはっは。いいだろう。
■下の写真にある、後ろ姿のミイがどうにもかわいいのだけれど、手には帆船の模型をもっていて、足もとはというとこれ、浅い川か何かだな。両足が水のなかに浸かっているように描かれているし、スカートを掴み、すこし持ち上げるようにしているのもそのためだろう。なるほど、それなら帆船の模型を手にしているわけ(浮かべて遊ぼうということだろう)もわかるわけだ。いや、というのは最初、ぱっと見でこの絵が崖の上にいるようにみえたからで、するといきおい、その次のシーン、崖から滑り降りているのがもう一枚の絵(上の写真)だというふうに読んでしまったのだが、いったいなぜ崖の上で帆船の模型を手にしているのかということをこのさい棚に上げたとして、いざ滑り降りる段になるとすっかり楽しくなってしまい、模型なんかもうどこかにやってしまっている(手に何ももっていない)というこのでたらめぶりが──だからそもそも誤読なんだけど──じつに「ミイらしく」思えたのである。そっか、崖じゃなくて水場かこれ。
■また、南波さんからのコメントにはこうもあった。
コミックスは読んだことないけど、妊娠してからちょっとずつ童話の方をお腹の子に読み聞かせしてますよ。まだ2巻目の『楽しいムーミン一家』の途中ですが、ママとムーミンの関係、ムーミンとフローレンの関係など、泣けるシーンがいくつも出てきます。泣きながら読み聞かせしてます。相当奥深いです。おすすめです。ムーミンの登場人物はみんなそれぞれバカっぽい部分を持っていてかわいいですよ。
これを読んで妻はまず、「南波さんの読み聞かせ」って、それ相当贅沢な話じゃないかと指摘する。まあね。
で、ムーミン(童話のそれ?)がどうやら「泣ける」らしいということに「そうなんだ」とおどろく妻でもあり、というのも、ムーミン・コミックスがもうとにかくやたら「可笑しい」らしいのだった。四巻まで買ったそれ(全十四巻ある)を大事そうに、ゆっくりとしたペースで読み進めていた妻がいよいよ読み終えて、わたしはその後、いちばん上に積まれていた第四巻『恋するムーミン』をすこし手に取り、そのなかの一話目、表題作の「恋するムーミン」を読んだのだけど、なんでしょうかこのジェットコースターコミックは。いや、むろん個々のコマのなかに描かれている時間は、そうはいってもじつにゆっくりと流れるそれであるわけだが、と同時に、コマとコマをつなぐスピードがものすごいのだった。
これはあれか、「ばかばっかりだと話がはやい」ってことか。
「恋するムーミン」では、とくに何の説明もなく村が洪水に見舞われるのだが(で、そのことはさして本題でもないのだが)、ムーミンの家の一階部分がまるまる水に沈んだようなその状況下、ラストちかくのあるコマで、今話の主役であるムーミンとスノークの女の子(フローレン)が語らうその背後のほうに小さく、自分でつくったのだろう家の二階部分から水面へとのびるすべり台をパパがすべって遊ぶ姿が描かれているのには、笑った笑った(で、しっかりとそれを見守るママも描かれている)。
妻が言うには、その次に収録された話「家を建てよう」がまたすこぶるいいらしい。たのしみだ。
■あそうそう、きょうなごまされたのはこのニュース(リンク先はウェブ魚拓)だ。
■本日の電力自給率(7月8日):23.9%
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/ 7 Jul. 2009 (Tue.) 「立川市選挙区はこう行きたい」
■というわけで東京都議会議員選挙だけれど、立川市選挙区はというと、
氏名 | 年齢 | 所属 | 新現元 | 主な肩書き | 当選回数 |
---|---|---|---|---|---|
大野 誠 | 44 | 共産 | 新 | 党支部役員 | 0 |
宮崎 章 | 68 | 自民 | 現 | 都議会議員4期、元都議会党幹事長、農業 | 4 |
酒井 大史 | 41 | 民主(生活者ネット、国民新推薦) | 現 | 都議会議員2期、都議会党総務会長、行政書士 | 2 |
ってことなのである。そっかあ。「定数2」だそうです。するとこれ、「民主と自民が議席を分けあう」ってあたりが容易に想像できてしまい、他の選挙区に比べて(ほかの選挙区知らないけど)盛り上がりとしては「ぬるい」感じなんじゃないのか。とすればですよ、立川市選挙区が盛り上がるにはもちろん、「民主、共産で2議席」でしょう。可能性がないとも思えないのだが、どうだろうか。
前回の得票数はこんな感じ。
得票数 | 氏名 | 年齢 | 所属 | 現元新 | 主な肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
当 | 24,835 | 宮崎 章 | 64 | 自民 | 現 | 都議会議員3期 |
当 | 17,242 | 酒井 大史 | 37 | 民主(生活者ネット推薦) | 現 | 都議会議員1期 |
13,548 | 浅川 修一 | 50 | 共産 | 元 | 元都議会議員 |
ま、このときの宮崎さん(自民)と酒井さん(民主)の票数が今回だいたい逆転するとして、前回浅川さん(共産)に入れたひとは今回も大野さん(共産)へ。でもって、前回投票していない「58.78%」がどーんと大野さん(共産)に入れるってのはどうよ。どーんとね、惜しみなく入れてもらいたい。いい作戦じゃないかな。立川はひとつそれで行きたいと思う。
なお、前々回はこう。
得票数 | 氏名 | 年齢 | 党派 | 現元新 | 主な肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
当 | 28,780 | 宮崎 章 | 60 | 自民 | 現 | 都議会議員 |
当 | 16,234 | 酒井 大史 | 33 | 民主 | 新 | 行政書士 |
13,349 | 浅川 修一 | 46 | 共産 | 現 | 都議会議員 | |
4,392 | 中村 晃久 | 31 | 無所属 | 新 | 会社役員 |
この2001年のときに民主の新人・酒井さんが共産・浅川さんの議席を奪っていて、もうひとつ前、1997年の都議選では「自民、共産で2議席」だったようだ。
■七夕。ってことはあれですよ、母の誕生日。まんまと電話するの忘れる。
■すこし前の日記で、『あたしちゃん、行く先を言って』の京都公演に(上山)恭子ちゃんを誘ったわけだが、それにたいして恭子ちゃんからコメントがついた。あんな、「わけのわからない舞台ですよ」と言ってるに等しいようなわたしの一連の記述にもかかわらず、「行けたらいいなあ」と好感触な返事だ。で、例の話題、「地点」の制作のひとに恭子ちゃんが似ているということについてはこうある。
本人(恭子ちゃん)には否定されるかと思っていたのだったが、そうでもなかった。あっさり同意されてしまった。しかも、あのインタビュー記事の写真は(わたしからすると)「比較的似ていない」わけで、じゃあ、生の田嶋さんに会ったらどうなのか、「ドシッ!」(© 谷岡ヤスジ)ぐらいの衝撃は走ってくれるだろうかと、つい期待を抱いてしまうわたしである。「ドシッ!」は相当だよ、「ドシッ!」は。田嶋さん、インタビュー記事の写真を見たら、本当に似ていて「わっ!」と思いました。
■本日の電力自給率(7月7日):83.5%
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/ 6 Jul. 2009 (Mon.) 「死語とウィキペディアっぽさ」
■じっさいの更新サイクルは「コンスタントに毎日」でないものの、いちおう「日付を欠かさずに」更新してすでにひと月以上経ち、ようやく〈手が書く〉という感覚が取り戻されつつあるのだった──と、そんな調子に乗った発言をした矢先、足下におおきな無沙汰がぽっかり穴をあけるといったことはよくあることだけれど。
■笠木(泉)さんがウィキペディアの「死語」の項を題材にブログを更新しているのを読み、なにをしてるんだかまったくこの人はと思いつつも、ついつい、その「死語」の項を確認するのだった。
まず笑ったのはこの「死語」だ。
アン信じらブル
寡聞にてご存命のころを知らないのだが、ほんとうに死んでくれてよかったと思う。ていうかこれ、どことなく『ビックリハウス』の匂いがするんですがどうですかね、ちがいますかね?(つまりその、「えびぞる」や「まいっちんぐ」と同系列の匂いである。で、残念ながらいま、あったりまえだけど手元に『大語海』がないため確認できない)。
ま、それはそれとして、この「死語」の項の、「死語とされる言葉の例」はほんとうに、ウィキペディアのもつだめな面がわかりやすく(いくぶん愉しげに?)出ている感じじゃないだろうか。問題の大半は「それ、死語かよ」ってことだけど、地味なところでは「説明手腕」の問題とかね。
とらばーゆ - 転職の意。但し女性向け転職情報誌「とらばーゆ」の名称として現在も使用されている。本来はフランス語で「労働」の意。スペルは"travail"。
ひょっとするとこれは記述者自身が勘違いしているのかもしれないが、どうにも説明がよくないというのはつまり、この説明では「とらばーゆ」という言葉が先にあり、情報誌があとのように読めてしまうからだ。じっさいには、情報誌の『とらばーゆ』がその創刊当時に注目を集め、代名詞化して使われたのが「とらばーゆする」などの言葉である。だからまあ、
とらばーゆ - 転職の意。女性向け転職情報誌『とらばーゆ』(1980年創刊)が〈女性のキャリア形成〉といった面で注目を集め、代名詞化して使用された。同誌名は「仕事」を意味するフランス語 "travail" から。
とかね。
のっぴき - 「のっぴきならない事情」などとして使う
つい付け足してしまったのかなあ。「のっぴきならない事情」という用例がそのまま語意の説明になるとすれば、それ、死語じゃないだろう。
昔とった杵塚
えっと、「死語じゃないだろう」ってことはひとまず脇へやったとして、「きねづか」は「杵柄」ですね、念のため。
でもまあ、やっぱり、
よっこいしょういち - 立ち上がる時などの掛け声。横井庄一からか?
には笑うなあ。でもこの記述、ひょっとして「(言いはじめたのは)横井庄一からか?」ってことだったらどうしようとも思うのだった。
■「死語」については、「死語 (言語学)」もぜひ参照されたい。
■本日の電力自給率(7月6日):18.9%
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/ 5 Jul. 2009 (Sun.) 「いま、ムーミンである」
■大丸ミュージアムで「ムーミン展」をやっていたのはついこのあいだのこと(五月上旬。札幌店ではこのあと八月に開催)であって、南波(典子)さんから興奮気味に教えられ、今野(裕一郎)君も見に行ったというそれを見ずに済ませておきながら──つまりそれをきっかけとするのではなくて──、まったくなぜいまさらなのかわからないこのタイミングに、わが家は、かつてないムーミン・ブームを迎えている。まさか『更地』のDVDで岸田今日子さんを見たからだとも思えないのだが──ていうか、ほんと言えばきっかけは明確で、先日家に帰るとその日ルミネで買ったという「リトル・ミイ」のTシャツを着た妻がいて、あ、ミイがふたりいる!というほどにそのミイが妻にそっくりだったからだが──、ともあれ、降って湧いたムーミン・ブームである。
■アレ、ありますね、ARABIA社のマグカップ。あれの、ミイが描かれているやつはいま黄色い地のそれにデザインが変わり、よりかわいい緑色のそれはすでに廃盤なのだそうだが、とある店舗で9,800円の値が付いた新品のそれを、ま、注文してしまったと思っていただきたい。このさい「9,800円のうちに」買ってしまっておくべきだと判断したというのは、このさき、ほうっておけばどんどん高くなるいっぽうだとじゅうぶん予測されるからで、(ミイのそれは去年廃盤になったのだが、)もっと以前に廃盤となった人気デザインのそれなど、平気で二、三万の値が付いているものもあり、ものによっては十万超えという、もう、マグカップ一個がちょっとよくわからない事態になっているのだった。で、ミイのそれ(順調にいけば今週中に届く見込み)はむろん妻用になり、わたしは現行デザインの「ムーミンパパ」を買う。そしていま妻は、『ムーミン・コミックス』の1〜4巻を読んでいるのだった。そうなんじゃないかと思って読んでいる妻に訊くと、やっぱりムーミンパパは相当「ばか」だという。パパがいちばん「ばか」だといい、で、「いま、ムーミン家は西部に来ている」と妻は報告してくれるわけだが、その点では、まったくバカボン家とも通ずるところのムーミン家なのだった。
■朝、町内会の廃品回収に妻と参加。働いた。終わってからまたすこし寝て、午後、仕事を少々。その後出かけて、夜は遊園地再生事業団の月例ミーティングに出る。
■本日の電力自給率(7月5日):62.5%
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/ 4 Jul. 2009 (Sat.) 「で、二日目も観た」
■行っちゃったね、行っちゃいましたねわたしは、新百合ヶ丘へ。むかし狛江に住んでいたときでさえたしかいっぺんも行ったことのなかった新百合ヶ丘に、この二週間ほどで四度も行っている。バランスってやつを考えればこの先もう一生行かなくていいのではないか、あるいは、七月はもっと「読売ランド前」などにも目を向けるべきではないかといったことはともかく、というわけで「地点」の、『あたしちゃん、行く先を言って─太田省吾全テクストより─行程2』、二日目を観る。「公開ゲネ」を含めれば三度目の鑑賞。
■出来不出来といったことではなく、これはおそらく「何度も観るうちに」ってことじゃないかと思われるが、きょうはいよいよ、ラストに際してすこし泣きそうになったのだった。あるいは、はじめてきょうは客席の最後列から舞台を観たのだけど、そのことも関係しているかもしれない。公開ゲネのときには前から二列目、初日は最前列で観た。
■(書いている現在では)公演日程も終了して、いまさらそれ言われてもなあということを書けば、この舞台はどちらかといえば(一回だけ観るのであれば)、なるべく客席の前方、できれば最前列で、間近に観たほうがいいと思う。ひとつには、そのほうがより舞台にたいして視野の届く範囲をせばめることができ、たとえばある瞬間、舞台上のあれこれの進行からはなれて、照明を浴びたコンクリートブロックのひとつをただぼんやり見つめているといったことが容易になるからだ──その瞬間はまったく至福の体験である。
■そしてもうひとつ、役者を間近に観ることができるというのがもちろん最前列の大きな利点なのであるが、そうしてそれこそラスト、舞台最前面に並んで立つ役者たち(石田大さんなんか、ほんとでかいのである)を目前に観るとき、にもかかわらずその彼/彼女らがじつに小さな、遠くにある存在として目に映るということ、そこにこそ、おそらくこの舞台の妙味はあるのであって、最前列にいてなおその感覚がわれわれを襲うということに、ぜひ、おどろかされるべきなのである。
■もちろん、わたしの観る目が舞台にたいしてそのように作用してしまうのには舞台外にある〈テクスト〉からの要請もあって、ちょうどせんだって読んだ太田省吾さんの文章(今回の舞台には使用されていない)が影響しているわけだが、「劇の症状」というその文章(もとは『飛翔と懸垂』[1975年]に所収)のなかで太田さんは、なぜ舞台上の俳優は大声でしゃべり、大仰な身ぶりをするのか、つまり「芝居はなぜ芝居じみているのか」について思考を展開し、つぎのように書くのだった。
それは、単純なこと、おどろくほど単純な根拠によっている。わたしたちは、遠くの相手に向かってなにかをあらわそうとするときには、大声をはりあげ、大仰な身ぶりをしなければならない。それ以外に手がない。このことが〈大仰さ〉の理由なのだ。虫男という人間のあり方にとって、人と人との距離は遠い。私と他人、私と私の距離は遠いのだ。
太田省吾「劇の症状」『プロセス─太田省吾演劇論集』p.39
なかに出てくる「虫男」という物言いがすこし唐突かもしれないので補足すれば、それはその数ページ前に書かれる、こうした記述からつながっている。
ひとりの男が落ちていた。
自己看視の遠隔運動はつづいていた。抽象的生活がつづいた。だが、これ以上の高みはないと思われるほどのところまで昇りつめたときだった。ひとりの男が落ちていた。下界に豆粒ほどの男があった。生きもののようであるから小虫ほどのといった方がいいかもしれない。しかもそのわたしに似た男は居眠りしていた。そう見えた。なにか高尚なことについて考えていたのかもしれないのに、上空からは虫男。その頭脳と称するものが煩悶を抱いていると主張したところで、それはただじっとしていることであり、居眠りとどこに区別があるのか。おや、動いたな。手だ、手をあげているのだ。ああ、手かい、手をあげたのかい。おそろしいがそういうことだった。それは手をあげているということ、ただそれだけのことであった。どのようなことのためにあげたのか。崇高なもののため、叫ぶため、誰かを殴るため、頭のフケを落とすため、アクビをするため。見わけがつかぬ。
朗らかだ。
抽象的な考えはごく小さな具体をもって割れた。
空虚といっていいほど晴れやかだ。
この朗らかさ、晴れやかさが、はじめてわたしに劇的な論理へ手がかかったと思わせた。
これからが劇だ。
同上、p30-31
そして、『あたしちゃん、行く先を言って─太田省吾全テクストより─行程2』を観終わった際にもわれわれはまったく同じことを思わされ、震えるのである。ああ、まったくだ、「これからが劇」だ、と。
■本日の電力自給率(7月4日):86.0%
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/ 3 Jul. 2009 (Fri.) 「『あたしちゃん、行く先を言って─太田省吾全テクストより─行程2』の初日を観る」
■『あたしちゃん、行く先を言って─太田省吾全テクストより─行程2』を観る。よかった。ほんとうによかったし、そしてわたしは田嶋さんに、「恥ずかしいので(わたしのことは)あんまり書かないでください」と釘を刺された。笑顔でもって、しっかりと刺された。だからもう、田嶋さんのことはあまり書かないようにしようと思うのであり、京都に住む児玉君が同居人(以前に「地点」の舞台に出たことがあるらしい)から聞き出したさらなる田嶋さん情報のことなど、それこそきょう間近で田嶋さんとしゃべり、あーなるほどね、わかるよそれ、おれもそれに一票だなとつよく言いたくもあるし、ついてはどう児玉君このあと、うち立川だけど、寄ってく? 時間だいじょぶ? とさえ言いたいところだけれど、そこをぐっとこらえ、舞台の感想のほうにすすもうと思うのだ。
■なにしろいま、急遽週末の予定をかえて明日も観ようかどうしようか悩んでいるわたしがいるのであり、だからその、また観たいのだ。わたしが「また観たい」というときはきまってそうだが、舞台上を生きる役者に「また会いたい」のである。
■いちおう説明しておくと、公演タイトルにある「行程2」というのは「プレ公演の二回目」(あるいは三浦基さんが強調して用いる言い方でいけば二回目の「お試し会」)を意味している。二度のプレ公演を経て、それこそ『トーキョー/不在/ハムレット』(以下、『不在』)と同様、ほぼ一年がかりで本公演へとむかうプロジェクトが『あたしちゃん、行く先を言って』である。『不在』とすこし事情がちがうのは、『あたしちゃん、行く先を言って』では『行程1』(わたしは観ていない)と『行程2』でことなるテクストが用いられていることだ(『不在』ではひとつの戯曲に一年間つきあった)。『行程1』と『行程2』をもとに、本公演ではあらためてテクストが編み直されることになるだろうという現時点での見通しらしい。『行程1』と『行程2』はまったくことなる姿をした作品であって(だったそうだ)、そしてまた本公演も、あるいはいま観ている『行程2』とはがらりと変わった舞台になるかもしれない(というか、おそらくなるだろう)というのは、言われずとも、『不在』やその他の作品をとおしてひじょうに「よくわかる」ところのわたしである。だから、あくまで「通過点」であり「お試し会」であるところの『行程2』をそれ単体の舞台として評価されることに、あるいは当事者側にはある種のとまどいもあるかもしれないものの(プレ公演を打つというのは「地点」でははじめての試みらしい)、とはいえ、たとえば『不在』のとき最終的に、なんだかんだいって「準備公演」(四回目、最後のプレ公演で、もっともわけのわからない舞台だった)がいちばんよかったという声が一部のお客さんからは聞かれたりもしたように、まあその、「すごいプレ公演」というのは生まれうるものなのだった。
■すでに書いたように今回わたしは「公開ゲネ」を観ているのだけれど、それよりも数倍よかった。いや、誤解のないように言っておくが、公開ゲネの時点で相当感動させられたのである。しかし、それから一週間を経た「いま」であるきょうは、それを上回ってぐっとよくなっていた。このさい知ったふうなくちをきかせてもらうなら、それ、「稽古」ってやつだろうな。この一週間、ものすごい量の時間が稽古に費やされたにちがいないと想像される。構成や内容の面でいえば、前半はほぼ公開ゲネから変わっていないとも言えるのだが、しかし、ぜんぜんちがうのだった。開演直後、石田大さんの「歩き」がもうまったくちがうものに見えて、それでやられてしまった。
■公開ゲネのときとの大きなちがいを言葉にするなら、公開ゲネにはどこか「オムニバス」感があったのだった。全体が三つぐらいのブロックにわかれ、各ブロックごとに「うねり」のようなものを感じさせてそれはむろん感動的なのだが、それらがあくまでオムニバス形式に並置されているといった印象があって、全体をとおしての「うねり」は希薄だった。そしてきょうは、その全体をとおしての「うねり」があったのである。後半部分にかんしては構成自体もすこし変わって、そのなか、「ゲネからのとある変更」があったわけだが、そこにはほんとうに感動させられてしまった。「うねり」の頂点はむろん、安倍聡子さんがいう、「ね、あたし案内するわ。十年もガイドブック見てくらしたんだもの」(『硝子のサーカス』からのカットアップ)である。
■ラスト、舞台の最前面に正面をむいて立つ六人の俳優は、〈ここからわれわれはどこへでもいける。「劇」はいま、はじまったのだ〉ということをはっきり示していた。だからおそらく、本公演ではその可能性のうちのひとつである〈どこか〉へすすもうともするのだろうが、ひとまずいま、ここに〈ゼロの演劇〉が立ち上がったのだとわたしは興奮する者であり、何よりもう一度、〈彼/彼女ら〉に会いたいのである。
■本日の電力自給率(7月3日):33.9%
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/ 2 Jul. 2009 (Thu.) 「母と会う、など」
■朝、妻とふたり雨のなかをてくてくと歩いて市役所へ行ったのは、太陽光発電に関する補助金申請をおこなうためだ。国から出る補助金、都から出る補助金にくわえて、立川市の場合には市の補助金制度もあって、トリプルでもらうことができる(といっても、それでもぜんぜん足りないほどに太陽光発電のパネルは高いのだが)。国と都の申請は購入先である販売代理店が代行してくれるのだが、市にかんしては代行してもらえず、自分たちでやることになっている。わたしの怠惰と、その他なんだかんだがあって必要な書類を揃えるのにだいぶかかってしまった。立川市にかんしては(国や都もそうかもしれないが)、補助金として充てられる予算枠(四月開始の今年度の予算枠)が決まっていて、仮にそれを超える数の申請があった場合にはつまり早い者勝ちとなるから、ま、まだだいじょぶだろうとはいうものの、気分的にそうのんびりもかまえていられないのだった。市役所本庁の建物ではなく、そこから少しだけはなれたテナントビルの一室におさまってある、「環境対策課」というところへ案内される。
■準備万端で赴いたつもりが、二点ほど足りない書類があると教えられる。うちひとつは、これのことだと思って持っていった書類がそれではなかった。ただ、書類不備があっても申請自体はきょう受け付けてくれて、あとの不足分は郵送すればよいとのこと。その後わたしは出社、妻のほうはそのあしで国立の「ダクタリ動物病院」までロビンの薬を取りにいく。
■母がきょう、とある用事のために東京に出向いてきて、その出向いた先というのがたまさかわたしの勤める会社のごく近くだったため母の用がすんだあとに会い、喫茶店でいっしょにコーヒーを飲む。いろいろと、すませてきた用事のことを報告してくれる母だ。へえーって話である。兄弟ではわたしだけ母とはなれて暮らしており、そうして常と変わらずいきいきとしゃべる母を見ていることのほうにわたしの興味はあるのだった。
■母はiBookを使っていて、この日記も読んでいる。妻と同じで「むずかしいとこ」は飛ばしているそうだ。興味があるのはもっぱら猫の話題と、それと最近ではユニセフの話(「男の子よ!」)や、ビルマの話(「64 for Suu again」)がよかったらしい。「いいこと書いてる」と母に言われる。母はいまガールスカウトの茨城県支部長なるものをやっているのだったが(で、ちなみに亡き父はボーイスカウト運動にかかわっていた)、ちょうどいまガールスカウトでも、ユニセフとその年間テーマを共有しあうかたちでいくつかの活動を展開しているさなかなのだそうで、そんな折りに「男の子よ!」を読み、それがテーマにかかわってくる問題を簡潔にまとめてもいるから(そうか? ま、そうか)、じぶんが今度支部長として書く原稿に使えるなと思っていたらしい。で、いざ参考にしようとして、日が経ってからあの日記がどこにあったかと探すとよくわからなくなってしまったという。そうかあ。そりゃウェブデザイナーとしてのわたしの反省点だが、しかしこれ、たんに「書きすぎ」ってこともあるだろうか。
■「ニブロール」の映像ディレクターである高橋(啓祐)さん(いま、仕事でフランスだそうだ)からメールをもらう。先日の「『五人姉妹』雑感」をとてもよろこんでもらえたらしい。
白と黒の話はね、いわれてどきりとしました。
そういう意識はなかったんだけど、映像はすべて白黒でなくてはいかん!と
なぜかずうっと思ってて、公演後そのこといわれて
それっ! ぼくがいいたかったのはそれですよと、
ぼくのなかでつながらなかったのものがすべて整理された感じです。
というのはそのメールの一節だが、ほかにもたくさんうれしくなるようなことを書いていただいた。そんな高橋さんが映像を担当する、ニブロールのあらたなプロジェクト(?)「ネコロール」は7月20日(祝)と21日(火)、六本木「スーパー・デラックス」で。
7月20日(祝)21日(火)V.I.I.Mプロジェクト「ネコロール」
PM7:30 START! @六本木スーパーデラックス
- 映像
- 高橋啓祐
- 音楽
- SKANK/本澤賢士
- 振付
- 矢内原美邦
- 出演
- ミウミウ/稲毛礼子
- 衣装
- Nibroll about street
ニブロールの映像ディレクター・高橋啓祐による愛猫ユニット「ネコロール」第1弾!
「ネコのことを考えるということは、そのまま人生について考えることだ!」といわれて、うなづけるアーティストたちによる映像+LIVE+パフォーマンス!
今回はニブロールのメンバーを中心に、ニブロールとはまったく違ったアプローチで描かれる新しい世界にご期待ください。
相当ばかですね。あと、将来的なことを考えると、「『ネコのことを考えるということは、そのまま人生について考えることだ!』といわれて、うなづけるアーティストたちによる」って、これ、ものすごい規模のユニットになるんじゃないか。ま、行きましょう、これも。
■夜、床屋へ。桃をまた二個食べる。などなど。
■本日の電力自給率(7月2日):11.5% さすが梅雨、ここのところさっぱりである。
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/ 1 Jul. 2009 (Wed.) 「ほっとする日」
■「できました。世界初、アルコール0.00%」というコピーの、キリンから出ているノンアルコール・ビールテイスト飲料の名前は「KIRIN FREE(キリンフリー)」だが、どうなんでしょうか。それ、英語感覚で受け取って訳せば、「キリンじゃない」ってことになるんじゃないか。「これ、ちっともキリンの味しませんよ」といったニュアンスである。
■ともあれほっとしたというのはロビンの件だ。膀胱炎の治療にあたり、これまで何種類か処方された抗生物質がどれも効果がなかったため、病院で直接採取した尿を専門の検査センターにまわし、菌の培養をおこなっていったいどんな菌がいるのか(どの抗生物質が効くのか)を調べてもらうことになり、そのさい、あるいは細菌性の膀胱炎ではない可能性(腫瘍などができている恐れ)もあると示唆されたのが先週末のことだが、その培養検査の結果がでたと病院から連絡があって、原因とおぼしい細菌が見つかったとのこと。珍しい種類の菌だったってことなのか、そこは不明だが、これまで処方されてきた抗生物質がどれも見当はずれだったことがはっきりわかり、あらたに「これぞ」という薬が処方されることになる。薬はあす、妻が取りにいく。あはは、そっかあ、見当はずれだったかあ。先週もらってきた薬も効かないとわかって、きょうの夜は何も飲まされることなく夕飯をすませるロビンなのだが、するといきおい、「いろいろ飲んだからなわしも。いよいよ治ったか」というような顔をしてこちらを見るので、妻とふたり、「ちがうよ。無駄だったって、ぜんぶ」と笑いながら教えてやる。ま、治るまではわからないものの、ひとまずほっとした。
■注文してあった桃が山梨から届く。二個食べる。うまいのだった。
■本日の電力自給率(7月1日):8.4%
■六月下旬の日記へはこちらから。