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Mar.
2019
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/ 10 Mar. 2019 (Sun.) 「大坂なおみと完璧主義」

インディアンウェルズで大坂なおみの初戦。シードで一回戦が免除なので二回戦から。前々週のドバイで負けた相手、ムラデノビッチとのいきなりの再戦。センターコートの大トリで、むこうでは土曜の夜だが、こちらは日曜の昼。
フォルトになったファーストサーブのボールが打ち返されて手元に戻ってきた場合に、そのボールでセカンドサーブを打つという大坂のスタイルは依然変わらず。テニス選手の多くはこれをしない。より状態の良いボールを選ぶ意味合いか、一度ミソのついたボールにたいして縁起を担ぐ心理か、ちょうど足元に転がってきたボールでもそれをボールパーソンのほうに押しやってポケットに用意したボールを使う選手が多いなか、大坂が気にせずにファーストサーブのボールを使うのをはじめは彼女らしい〈無頓着さ〉なのだと思って見ていたが、あるとき考えが至ったのは、ひょっとして、よく指摘されるところの彼女の〈完璧主義〉がそうさせているのではないかということだ。失敗したボールだからこそ、そのボールでやり直したい。どのボールでも勝たないといけない。というような、そういったあれではないかと。真相は知らない。やっぱりただの無頓着であるようにも見える。
全豪のクビトバとの決勝では途中で一度だけ、そのスタイルが崩れたように見えた1]ときがあり、無意識にルーチン(?)が失われたことにたいして思わず「大坂、敗れたり」という気分になったものだが、そのときわたしはクビトバを小次郎に、大坂を武蔵に見立てていた。いや、いきなり逆なんだけどさ、その二人にあてはめるとなるとクビトバが小次郎じゃないすかね、やっぱり。どことなくパリッとしているというか。ユニフォームの色かなあ。って、どの「作品」の佐々木小次郎像に引っぱられてるんだがいまいちわかりませんが。
何の話だっけ。
試合は〈ド緊張〉の大坂が、それでもドバイよりかははるかにいい動きを見せてムラデノビッチを押し切る。好発進である。

1:そのスタイルが崩れたように見えた

リアルタイム観戦時にはそう見えたが、あとで見返すと、猛烈な勢いで取りに駆け寄ってきたボールパーソンがすぐ目の前まできていて、さすがにその献身をむげにするわけにもいかないという感じでファーストのボールをそっちに渡していた。なのでこれも〈いつもどおり〉の範疇と言えたようだ。

wta 1.
2 - 0
wta 65.
10. Mar 2019, 13:00
Ended   after 1h 21m
1st set 2nd set 3rd set 4th set 5th set
6
3
6
4



0h 38m 0h 42m
(2019年3月12日 13:07)

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/ 9 Mar. 2019 (Sat.) 「またやってしまった」

あ、これはきのう( 8日)の話だけど、南波(典子)さんがライブチャットを使って短信をくれた。のだったが、チャットのステータスを「オンライン」にしておきながら、すぐに手が離せないことをしていてほんのちょっとしか応答できず。またやってしまった。
南波さんの短信は『ベルリンは晴れているか』の、「ぎゃ」となった箇所がどこかという話。あー、なるほど。ソレも「中盤」でしたっけね。
で、それよりも気になったのは南波さんが「ブログにコメントを入れようと思ったんだけど、うまく入れられなくて」と前置きしていたことで、あれ? コメント欄うまく動作してないすかね? 勝手がいまいちわからないとか? あるいはこの「うまく入れられなくて」が、「人目に触れるコメント欄で、うまいことネタバレにあたらないように書けなくて」ってことならば、そりゃまあ、「そうでしょうね、ソレですもんね」って話だけれど。
ちなみに南波さんが使ったライブチャットというのは、スマホでご覧の場合は画面の右下に浮いている、青の丸いボタン。ボタンのアイコンがややわかりずらいのだけれど、これがバルーン(フキダシ)になっているときは「オンライン」で、どこかのモニタの前にいる(はずの)わたしと即時にチャットができる(はず)。さりとてあまりおもてなしもできないのだが、気軽に使ってもらえればさいわいだ。メールのアイコンになっているときは「オフライン」。
南波さんからのチャットが来たときに何をやっていたのかというと、「麻雀格闘倶楽部」というスマホのオンライン麻雀ゲームだ。そんなものをやっていて手が離せず、ほんとうに申し訳ないかぎりである。いや、そんなものをやっている場合でも、チャットのメッセージはスマホに通知があるので来たことがわかるのだが、ちょっとね、こちらはこちらで相手(対戦相手)のあることなのでね、立直(リーチ)をかけるまでは手が離せなかった。それでもまだ、「上海」や「二角取り」をやっていて手が離せなかったという事態よりかは幾分ましだと思うけれども(いずれもどう考えても手が離せる、時間浪費専用 PCボードゲームだ)、いや、ほんとうに申し訳ない。

(2019年3月11日 21:43)

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/ 8 Mar. 2019 (Fri.) 「少年たちは新宿ピカデリーをめざす」

いやー。朝、会社に向かう中央線車中では席も確保し、ゆったりとした気分で『宇宙の果てまで離れていても、つながっている』を読んでいたのだけれども、途中からすっかり読書どころではなくなってしまったというのも、斜め前に立っていた少年二人の会話が気になってしかたなかったからである。うーん、高校生なのかなあ。それとも中学生だろうか。
そこそこの声量で、かつ特有の──何と言いましょうか、趣味にまっすぐな──口調だったからわたし以外の耳目も充分に集めていたはずだが、話を総合するとどうも二人はこれから新宿ピカデリーに向かうところのようで、お目当てはウルトラマンなんちゃらの新作映画と、その舞台挨拶であるらしい。
あとになってピカデリーのサイトへ行くと、「ああ、これだな」というのがすぐに見つかる。『劇場版ウルトラマンR/B セレクト!絆のクリスタル』で、本日封切り。舞台挨拶についても案内がある。

上映終了後に舞台挨拶がございます。
登壇者:平田雄也(湊カツミ役)、小池亮介(湊イサミ役)、其原有沙(湊アサヒ役)、眞鍋かをり(湊ミオ役)、内田雄馬(ウルトラマントレギア役・声の出演)、武居正能監督、ウルトラマングルーブ、ウルトラマントレギア

スマホで舞台挨拶にかんする情報を確認しているらしく、誰さんが来る、誰さんも来ると興奮しているが、「さん」付けの徹底をはじめとしてとにかく作品、出演者、スタッフへの敬意が半端ない二人だ。とりわけ、よく知らないが、「内田さん」への二人の敬意は大きい。「知ってると思うけどさ」と、先程来情報量においては優位に立っているほうの少年がいらぬ前置きをして言ったのは「内田さんのお姉さん、グリッドマンの歌をうたってらっしゃるんだよ」という情報だったが、初耳だったらしいもう一人の、その情報の受け止めは意外なものだった。「じゃ、きょうだい二人ってわけか」。
笑ったなあ。「そこかい」と笑ったのだったけれど、これ、あとから気づくのは『ウルトラマンR/B(ルーブ)』の主人公が「湊兄妹」(湊家は長兄・次兄・妹の三人兄妹)だということで、その兄妹愛が作品テーマのひとつらしいことである。「じゃ、きょうだい二人ってわけか」と感心したように言い、その情報の切り取りにおいてファンとしてのすぐれた反射神経を見せた彼とその友人は、そうして意気揚々と新宿で降りていった。

(2019年3月11日 00:37)

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/ 7 Mar. 2019 (Thu.) 「魔眼の匣の殺人 / 七緒」

今村昌弘『魔眼の匣の殺人』(東京創元社)。

『七緒』vol.57、2019春号(プレジデントムック)。

緒方貞子さん。

緒方孝市監督。

『魔眼の匣の殺人』を読み終えた。
いまこれを書く前に、『屍人荘の殺人』(同じ著者の前作)の読後にはどんなことを書いたんだっけと確認したが、何しろネタバレへの配慮で漠としたことしか書いてないもんだから、自分で読み返してもどこの何に感心してそう書いているんだかいまいち記憶が呼び起こされないという、日記としてはちょっと甲斐のないことになっている。まあ、今回もそんな感じになるんじゃないかと。
まずははい、たしかにみなさんのおっしゃるとおりで。『屍人荘の殺人』より面白いっす。「史上初、デビュー作にして3冠!」という惹句が帯に踊った前作(その後、「本格ミステリ大賞」も受賞して四冠)のシリーズ続編でありながら、その天井のようなハードルを(わたし自身は、何しろ前述の日記でその四冠作品を「佳品」呼ばわりしているくらいなのでさほどのハードルを設けていたわけではないものの)軽々と、心地よく上回ってきた印象。非常にロジカルな組み立てで「こうでしかありえない」というふうに設定/指摘される犯人=《フーダニット Who done it》が基点となり、その上にこれでもかと積み上がっていく事件の成り立ち=《ホワイダニット Why done it》という、その構図がとにかくすばらしい。物語的事実としてはもちろん、両者の関係は逆である──状況のなかに動機が生まれ、動機が犯行を生み、犯人が生まれる──わけだが、それを逆転させて語る「語り口」こそが「ミステリ」なのだと、あらためてそんなことを言ってみたくもなる。
だから、いちばん「ぎゃっ」となったのは犯人の素性にかんする伏線回収の部分だ。「オカルトの逆襲」という言葉が浮かぶ──逆襲されるのは読者であるわれわれ)。そして、「予言者と恐れられる老女」についてのある暴露にかんしては、うん、手記のその一文にはたしかにひっかかりを覚えたんだよ。もう少し粘ってそのひっかかりに付き合っていれば、あるいは気づけていたかもしれないなー、などと。
最後に堂々と予告されている次回作──風呂敷を広げてみただけで、現時点はノーアイデアなのではないかと想像するが──がとにかく楽しみであり、これでいよいよハードルは上がった。次もおそらく飄々とそれを乗り越えてくれるんじゃないかと期待するけれども、仮に〈超常的な何かの存在を仮構した上に成り立つクローズドサークル〉というシリーズの特徴を維持するとすれば、それ、あと何があるかなあ。
『屍人荘の殺人』は映画化されるんですってな。キャスティングの葉村譲=神木隆之介、剣崎比留子=浜辺美波というのはなんとなく妥当な感じを受けるのにたいして、明智恭介までもが中村倫也なのは原作イメージからするとちょっと「かっこよすぎやしないか」というところだが、でも、明智恭介という人物について「なるべく位置エネルギーを大きくしとかないといけない」だろうことを想像すれば、まあ、そうなるかという納得感はある。
話変わって。本日から店頭に並んでいる最新号の『七緒』に、大場(みなみ)さんが着物とメイクのモデルとして登場していると本人の告知インスタで知り、書店で確認する。

@soma1104: 「七たび生まれ変わって、緒方になる」の『七緒』、見ました。
2019年3月7日 21:42

プレジデント社から出ている季刊誌の『七緒』は 2004年秋の創刊で、「七たび生まれ変わって、緒方になる」のこの「緒方」は当初、女性ではじめて国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子を指すと説明されたものだ。緒方貞子に「活躍する女性」の新たなロールモデルを見、いつか必ずわれわれも緒方貞子になるのだという決意を込めたかたちだったが、「七たび生まれ変わって」という表現が災いした。犬養毅を曾祖父にもつ緒方の〈血統的エリート〉としての側面と結び付けられることで、「けっきょく〈生まれ〉なのか」という批判を呼び込むことになったのだ。そこで現在ではこの「緒方」を、元プロ野球選手で現・広島東洋カープ監督の緒方孝市、あるいは広く緒方姓一般を指すものとして説明していて、緒方孝市のようになりたい女性、もしくはとにかく緒方姓になりたい女性に向けたライフスタイル情報誌という、よくわからないことになっている媒体ではあるものの、少なくとも、大場さんに罪はない。
ところで、

@obami23: @soma1104 「着物からはじまる暮らし」のほうの七緒もぜひ
2019年3月8日 0:12

というこのリプライをもらってからあらためて自分のツイートを見て、「緒形」と書いたつもりだったのが「緒方」になっているのに気づいたわたしだ。「緒形拳にあこがれる人たちの雑誌」といったことをここには書くつもりだったのだが、タイプミスにより再考を促されることになって、

@soma1104: 怪我の功名、としたい。
2019年3月8日 2:34

というこのツイートにつながる。さて、結果は?
いや、それはそれとして 25ページの「ほんわか」、なんか引きつったような顔じゃない? 気のせい?

本日の参照画像
(2019年3月10日 02:46)

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/ 6 Mar. 2019 (Wed.) 「怪奇大作戦」

『怪奇大作戦』ブルーレイボックス。

白石雅彦『「怪奇大作戦」の挑戦』(双葉社)。

買っちゃいないのだが『怪奇大作戦』のブルーレイボックスが出た。本日発売。ひとまず購入を見送っているのはすでに DVDボックスを持っていることに加え、これもウルトラシリーズ同様、WOWOWでやったりしないかなー、という淡い期待1]を寄せているためだ。ちなみにうちの「相馬ライブラリ」には DVDボックスから全話と、あと「狂鬼人間」は VHSからダビングしたものが入っている。

1:淡い期待

ウルトラシリーズ各作品のハイビジョンリマスター版を WOWOWでやったときはブルーレイに先行するかたちでの放送だったと思うので、すでにそのパターンを外れている今作は「やらなそうだなあ」とも思っている。

欠番扱いであることで有名な第24話「狂鬼人間」は、DVDボックスにひきつづき今回も収録されていない。この「狂鬼人間」(山浦弘靖脚本、満田かずほ監督)に出てくるのは「狂わせ屋」を名乗る女性科学者で、彼女は「どうしても殺したい相手がある人」を顧客に、自作の特殊な脳波変調器を用いて、その依頼者の精神を〈一定期間だけ〉変調させることを請け負う。「狂わせ」られた依頼者はその足で目的の殺人を達成し、裁判で心神喪失状態であることが証明されて無罪になったのちに短期間で〈正気〉にもどるという、そういう犯罪の話である。
この回のこととなるといつも、高校同級の永澤(悦伸)がかつて口にした至極もっともな感想──「最後の的矢所長のセリフさえなけりゃなあ!」──を思い出すのだが、永澤、それどこに書いてたんだっけなあと探すと、2006年11月5日付の当サイトの日記に行き当たる。ひさびさに読み返し、へんな日記だなあとわが事ながら思ったのちに事情を思い出したが、これ、「日記を募集」した回の日記なのだった。「 11月5日の相馬の日記を募集します」として投稿フォームから日記を募り、けっきょく知人 4人から投稿があったものを編集してひとつにまとめた内容が上のリンク(だから、へんというか、一瞬「こんなの書いたっけ?」となるのも無理からぬ代物)。で、投稿してくれたうちのひとりが永澤で、その永澤パートに「狂鬼人間」への言及があるのだが、つい懐かしいので、ここでは編集する前のオリジナル全文を引いておこう。おそらくだが、永澤はこれ、その日の自身の日記を素直に書いて寄こしたのだと思う。

今日は予定外の仕事.
やっと会う約束まで出来たのに,それがつぶれてしまったよ.
帰ってきて,「狂人間」をみる.おしいなあ,いつ見ても.
的矢所長が,最後の一言さえ言わなければなあ.
ここで出てくる変調器.原理はわからないものの,きっと,脳波を加速させて狂わせるんだろう.
今日は,仕事でお一人お見送りをしたのだが,モニター波形がゆっくり,そしてゆっくり遅くなって終わっていくのと対照的に思えた.突き詰めれば,我々の命やら精神活動やらは,波の強弱でしかないのだなあ.

なんだよ、すっかり永澤の話になってしまったけれど、永澤はどうするんだろう、買うのかな、ブルーレイボックス。買ったら貸してくれ。すぐ(ディスクサイズを)倍にして返すからさ。
ちょっと無視できないほどひどい的矢所長の一言2]はともあれ、『怪奇大作戦』は面白いのでぜひ見てもらいたい。もちろん実相寺昭雄監督の 4作──「恐怖の電話」「死神の子守唄」「呪いの壺」「京都買います」──はどれも手放しで面白いし、おそらく〈最高傑作〉の座は「死神の子守唄」と「京都買います」のあいだで争われるのだろうけれど、〈代表作〉ということでは、わたしは「霧の童話」と「かまいたち」というふたつの極北を推したい。これは妻とも意見の一致をみるところで、『怪奇大作戦』の醍醐味のひとつはなんといっても、〈解決してねーじゃんかよ〉という点にあるのである。
『ウルトラQ』からはじまるウルトラシリーズにおいては一般に『ウルトラセブン』をひとつの作品的ピークとする見方があり、あくまでその見方に立てば、『セブン』のあと少しあいだを空けてはじまるのが〈ゆるやかな衰退のはじまり〉としての『帰ってきたウルトラマン』──という図式になるのだが、その『セブン』と『帰ってきたウルトラマン』のあいだ、『セブン』の直後に円谷プロが作ったのが『怪奇大作戦』であり、巨大ヒーローの系譜としてではなく円谷プロ作品の系譜として見たとき、ひょっとしてその頂点と見なすべきは『セブン』ではなく、『怪奇大作戦』のほうなのではないかというのは、後者を見た誰しもが抱くところの思いだろう。
ブルーレイボックスに続き、13日には白石雅彦『「怪奇大作戦」の挑戦』(双葉社)も発売される。

1968年9月15日、第1話「壁ぬけ男」の放送で円谷プロの新シリーズ「怪奇大作戦」は幕を開けた。怪獣も宇宙人も登場しない新路線に戸惑っていたのは、視聴者だけでなく、金城哲夫をはじめとするスタッフも同様だった。一方で「マイティジャック」の失敗が、若き才能が集う〝梁山泊〟の先行きに暗い影を落としていた。それでも彼らは、切磋琢磨の中から、テレビ史に残る珠玉の傑作を送り出していく。金城哲夫、上原正三、実相寺昭雄、円谷一、飯島敏宏60年代後半、夢の映像工房に集った若き才能の角逐と光芒。その足取りを丹念に分析し、「そのとき何があったのか」を再構築する。
アマゾンの「内容紹介」

とのことで、永澤、こっちはどうだろう。面白そうじゃないか? ぜひ買って、読み聞かせてくれてもいいぞ。

2:的矢所長の一言

「日本のように精神異常者が野放しにされてる国はないんだ。政府ももっと考えてくれなくちゃあね」

本日の参照画像
(2019年3月 9日 11:37)

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/ 5 Mar. 2019 (Tue.) 「死ぬ人も出るだろう」

ウラゲツの言いなりの結果、『宇宙の果てまで離れていても、つながっている』は今日届いた。

熱くなってこたつから出てきたニボル。

カール・グスタフ・ユング [1875 - 1961]

日記のためのメモがいくつか。それをもとに。

10:57
わお。マクナリー。

テニスはいよいよインディアンウェルズが開幕し、その予選にはわれらがイガ・シオンテックに加え、カティー(キャサリン)・マクナリーが出ている。ふたりとも予選一回戦を勝ち、もう一回勝てば本戦という今朝の二回戦では、おそらく突破するんだろうと思っていたイガが負け、マクナリーがチャンスをものにした。マクナリーはねえ、インスタとか見てると、なんかいいんすよ。うまいこと言えないので「なんか」を言語化するのはいままだあきらめておくけれど、いいんすよ、なんか。いい子なんですよ、きっと。

24:00
モールで遊んでるポシュテが好き。

「モールで遊んでるポシュテが好き」なのはニボル。キセルの掃除道具であるモールが袋ごと猫の手に渡り、放っておいたらいくらでも袋から取り出して遊んでいる。遊んでいるのはポシュテ 9歳。たしかに猫玩具の「ねこじゃらし」に似通うところがあり、ヒトが手に持って鼻先あたりで振ってやると、そのビヨンビヨンする感じがねこじゃらしである。で、これをポシュテ 2歳にやってみると意外にも興味を向けない。ふだんあらゆるものをオモチャにしていいかげんうるさいのはニボルなのだが、ひとつにはどうも「転がすと音のする、重みのあるものが楽しいらしい」ことがあって(だから字義どおり「うるさい」のだ)、重みのまるでないモールは眼中に入らないのかもしれない。いくらニボルの目の前でモールをビヨンビヨンさせてもそれに食いついてくるのはポシュテで、ニボルは、その遊んでいるポシュテのほうが楽しく、ポシュテに食いついている。

26:48
それはユングっぽく言うと、

相手が夢見の話をしたのを受けて、「それはユングっぽく言うと、……」と切り出すのは自然な流れだと思うが、それにつづけて、その話の感想を「ユングっぽく」言うというのは、はたして通じるものだろうか。まず何よりも声を似せるのである。そのうえで、できれば言い回しもそれっぽくしたい。いや、そんなふうに「ユングっぽく」したところできっと相手には通じないだろうと思うが、わたしとしては、中高でユングと同窓だった者たちが「ああ。ぽい、ぽい」と言ってくれるような特徴こそを捉えてみたいのであり、だから、これを行うにあたっては、中高でユングと同窓だった方々にも四、五人、立ち会ってもらう。言っても皆さんお年で、そう長時間連れ回すわけにもいかないだろうから、ふだんはホテルにでも待機していてもらい、わたしが夢見の話をされたらすぐに人を遣って呼んできてもらうかたちになろうか。とにかく急いで来てもらうが、皆と同じようには走れず、遅れて来る方もあるだろう。駆けつけた同窓生たちは皆ぜいぜい言って、肩で息をしている。なにせ 144歳だ。死ぬ人も出るだろう。しかし、そこまで多くの協力を仰ぎ、たいそうな注目を集めたなかで、いったい何を感想として言えばいいのか、ということは最終的な問題としてある。もともとやりたかったのは「いい夢だね」ぐらいのことを「ユングっぽく」言うということなのだけど、もう、そんな感想じゃ許されないのではないのか。なにせ、おれ、たいしてユングっぽくないのだ。進退、窮まったなあ。
といったようなことを、深夜、大場(みなみ)さんのこのツイートを目にしたときに考えたのだったが、どう考えても「何言ってんだ?」という話であり、リプライとしては実を結ばずに、ただ「いいね」を押すにとどめる。

@obami23: 毎日毎日、動物が夢に出てくる。今日で捨て犬捨て猫拾って4日目。
2019年3月6日 0:18

それは、ユングっぽく言うとあれだね、……

本日の参照画像
(2019年3月 7日 20:22)

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/ 4 Mar. 2019 (Mon.) 「今月のウラゲツの言いなり」

『吸血鬼百科』より「ドラキュラ伯爵登場」のイラスト。相当クリストファー・リーだが、かっこいい。

ウラゲツなぞと馴れ馴れしいが、「ウラゲツ☆ブログ」は、月曜社という出版社の小林浩さんが投稿・運用しているブログ。その「注目新刊」の記事──自社の新刊の宣伝ではなく、広く各社の新刊に目配せする内容──には毎度、ほんとに散財させられているけれど、今日もまたいいように買わされてしまうわたしだ。11冊紹介されているうちの 3冊という、けっこうな打率でお買い上げ。
今日の記事で紹介されていたのはこの 11冊(ウラゲツ☆ブログでは、書名のリンクは基本的に版元サイトの商品ページに張られているが、以下ではアマゾンに張り替えさせてもらっている)

 ウラゲツの「注目新刊」の魅力はなんといっても実物の背表紙を並べて撮った写真にあるので、それも引いておこう。

 さて、わたしはどれを買ったのでしょう?
 答えは少しだけもったいぶるとして、ところで『ロシア構成主義』についてはこう説明がある。

なお本書の、カバーと帯が斜めにカットされているのは初版のみの仕様とのことです。
注目新刊:バエス『書物の破壊の世界史』紀伊國屋書店、ほか : ウラゲツ☆ブログ

 あははは。いったい世間にどれほど、その「初回特典」に飛びつくやつがいるんだって話だが、ここにいたんだなあ。
答えは『宇宙の果てまで離れていても、つながっている』と『ロシア構成主義』と『あたかも壊れた世界』。アマゾンで注文して明日を待つか、はたまた夜、本屋に駆け込むかではいつも少し迷い、今回は後者に。ほんとうに閉店間際、店内の検索端末もシャットダウンされたところへ滑り込んだのでおとなしく全部店員に探してもらったが、すると、いちばん欲しかった『宇宙の果てまで〜』は明日、3月5日の発売だとのこと。あとの 2冊を買い、『宇宙の果てまで〜』はすぐさまアマゾンによろしく頼んだ。
いやー、しかしさあ、もちろんドラゴンブックスの『吸血鬼百科』にだって興味は惹かれ、『書物の破壊の世界史』なんてきっと面白いに決まっていて、『ハバナ零年』の帯の惹句ときたらこんな調子なのだから、まったく毎度々々書物のやつめ。ウラゲツめ。

カオス理論とフラクタルを用いて、電話がキューバで発明された事実を証明せよ!?

1993年、深刻な経済危機下のキューバ。数学教師のジュリアは、世界で最初の電話がハバナで発明されたことを証明する、イタリア人発明家アントニオ・メウッチの重要な自筆文書の存在を知る。その文書をめぐって、作家、ジャーナリスト、そして元恋人までが虚々実々の駆け引きと恋を展開するが……
キューバ出身の新鋭作家が、数学とミステリーの要素を巧みに織り込んで挑んだ代表作。
[2012年カルベ・ド・ラ・カリブ賞受賞作]
ハバナ零年 カルラ・スアレス(著) - 共和国 | 版元ドットコム、太字強調は引用者

本日の参照画像
(2019年3月 7日 03:34)

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/ 3 Mar. 2019 (Sun.) 「やっと日記っぽくなる」

頭痛がして一日こたつでぐずぐずし、ほぼ何もしなかった一日。どことなく風邪っぽい感じが抜けないようでもあり、頭痛はたんに肩凝りからきてるようでもあり。
「やった」と言えるようなことといったら何だろう、「相馬ライブラリ」がらみの単純作業ぐらいか。
──あ、時折出てくるその「相馬ライブラリ」って何よ? ってことにかんしましては、ちょっと面倒なのでこのさい〈無説明〉に済ましますので、気になる方は今度、個別に訊いてください。ま、最低限「話が通じる」程度にかいつまんで肉付けしておくとすれば、家にある映像系の資料を整理する作業の総称、とでも言いましょうか。折り忘れていたテープの爪を折って回るような、そんな感じのあれです。
で、ここのところ整理しているのは何を隠そう、DVDボックスの『アントニオ猪木全集』全13巻で、これ、いまリンクを張るためにアマゾンへ行ったら「お客様は、2006/3/31にこの商品を注文しました」と教えられたくらいの古い買い物だが、買って安心してしまい、じつは見ていない試合もけっこう多い。こないだ「見たことがない」と書いた「ケン・パテラ」も、なんのことはないこのボックスに収録されているのだった。あと、プロレスでいうと、先日来 CSの「日テレジータス」が日本プロレス時代の中継映像を放出していて、ついつい録画してしまっている。それやこれや、妻にとってはどうでもいいところの「整理」が目下は進む。
手元にはこないだ買った推理小説、今村昌弘『魔眼の匣の殺人』(東京創元社)があり、目利きたちによれば面白いのは間違いないのだが、これも序章くらいしか読み進められなかった。
夕飯は、──あれ? なんだっけ。あ、マグロか。マグロとご飯。
日曜の夜というと最近、テレ東の「乃木坂」→「欅坂」→「ひらがなけやき(日向坂)」のハシゴをしていることが多いのだった。けっきょく何も為さなかった週末への未練と焦燥が、ふてぶてしく心地よい諦念へとすり替わっていく《月曜未満》のテレビ視聴。

(2019年3月 6日 02:40)

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/ 2 Mar. 2019 (Sat.) 「かが屋、取れた / ポレポレ映画二題」

『グッドバイ』のポスタービジュアルはこんな感じ。

ポスターで揃えるなら『小さな声で囁いて』はこれ、なのかな? 自信はないものの、画像ファイル名からの推察で。

先日の、発売後即完売で取れなかったかが屋の単独ライブにはその後すぐ追加公演が組まれ、今日がその発売日だった。前回はローチケのウェブで取ろうとしてまったく歯が立たなかったのだが、大場(みなみ)さんがそのチケットを電話攻勢でゲットしたというのを聞き及び、今回は電話。充分に(何を?)スタンバイして「 Lコード予約専用番号」と呼ばれる自動音声対応の番号にかける。結果から言うと(いや、タイトルでもう言ってるけど)無事取れた。もちろん何度も「時間を置いておかけ直しください」になるのだが、かまわずリダイアルしているうちにつながった。いっぽう、同時に開いていたウェブ画面は今回も、いっこうに「混雑のため……」のエラーから抜け出せる気配がなく、そうか、ローチケは電話だなと実感した次第。単純に、少なくともローチケの場合、ウェブサーバの回線よりも電話回線のほうが〈太い〉とか、そういった感じだろうか。あとまあ、その Lコード予約専用番号というのは、公演に割り振られる Lコードの頭数字ごとにかける先が 7つの電話番号に分けられているので、そのぶん、一気に全部を引き受けざるをえないサーバよりもパンクしにくいということはあるのかも。
一度つながってしまえばもうこっちのもの、という印象のあった自動音声の電話予約だが、じっさいのところ、いったいどの時点で〈席が確保〉されているのかというのはいまいちよくわからないところがある。自動音声の案内はとにかくどこまでもおっとりしているから、おい、おれたちそんなゆっくりしゃべっていてだいじょうぶか、余裕をかましているうちに席が埋まってしまわないか、おい、見てみろウェブじゃたいへんなことになっているんだぞとなかなか焦らせられるいっぽうで、でも、さすがにこんだけ余裕こいて手続きさせてるってことは、そうなんだな? もうだいじょうぶなんだな? と、いつしかその懐に抱かれるような感覚も生まれるのだった。
ともあれチケットはゲット。開いていたウェブ画面では、10時7分にはもう申し込みボタンが「×」に変わっていた。すげえ。
話変わって映画を二題。きのうは『ベルリンは晴れているか』の話だけでいっぱいいっぱいになってしまったが、同じく南波(典子)さんのサイトで知る(いや、そういえば「知ってた」けど、あらためて知る)のは、ポレポレ東中野で今度『3人、』の上映があるということだ。まあ、『3人、』というか、今野(裕一郎)君の最新作『グッドバイ』のレイトショー上映が 3月30日〜 4月5日まであり、それに先立って 3月23日(土) 24:00〜は、『3人、』を含む過去作三本と『グッドバイ』が一挙に観られるオールナイトがあるのである。詳細は『グッドバイ』の公式サイトが充実しているのでそちらをどうぞ。あと、以前の『3人、』鑑賞時にわたしが書いた日記はここ( 2014年2月26日付「ポスター / 『3人、』」)にあるが、読み返したらぜんぜんたいしたことを書いていなかった。何の助力にもならず、申し訳ねえ。
そして、その『グッドバイ』の前に、3月16日〜 29日までポレポレ東中野でレイトショー上映されるのが、かが屋関連ほかでたびたび登場を願っている大場さん主演の『小さな声で囁いて』だ。こちらも監督・山本英の公式サイトが先日できて、しっかり案内されているので詳細はそちらを参照されたい。以前にわたしが書いた『小さな声で囁いて』の感想はここ( 2018年1月27日付「小さな声で囁くのは誰か / ウォズニアッキおめでとう」)。あと、公式作品ページにその訳が掲載されている仏・リベラシオン紙の映画評の、わたしによる速報勝手訳はここ(「 Speak Low d’Akira Yamamoto」2018年7月18日)。公式訳の登場でやっと答え合わせができたが、まあ、そんなに間違った訳ではなかったようだ。

本日の参照画像
(2019年3月 5日 13:43)

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/ 1 Mar. 2019 (Fri.) 「予行演習を終えて、春 / ベルリンは晴れているか」

深緑野分『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)。

2月の日付をいくつか飛ばして、さあ、3月だ。春めく陽気にさそわれて日記もここからが本番である。2月までの日記といったい何がちがうのかと問う向きにはきっぱり答えたいが、まずもって 3月からの日記はまるで気合いがちがい、くわえて、語尾が伸びがちになるー。それとー、句読点がー、、余分に付くー。。まあ、あまつさえ花粉で目がしょぼしょぼしているので、何を書いているのか、あまり見えていないということも 2月とのちがいのひとつだ。
。思い出したように南波(典子)さんのサイトのブックマークを開き、ここ一、二ヶ月かの近況をまとめて読んだが、するとそのなかで、前にわたしが薦めた『ベルリンは晴れているか』を読んでくれていた。日記には読み終えたとあり、ならばもう、何憚ることなく、ここでネタバレに興じたらいいのではないかという思いにかられるけれど、ま、そりゃ、憚ったほうがいいんでしょうな。

そして今読んでいるのは『ベルリンは晴れているか』。これはすごいなあ。どうやって調べたのかなと思いますが、第二次大戦中と戦後のドイツの様子、様々な立場の人たちの苦しみ、生き延び方、振る舞いというのが非常に細やかに描かれていて、しかもエンターテインメント性が高い。『すべての見えない光』のような、脳がひりひり、皮膚がざわざわするような感覚はありませんが、のっけから「あ、これは面白いな」と惹きつけられ、今中盤で、さらに「ぎゃ、すごい、面白い!」という展開になっております。本屋大賞とったらいいなあ。
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 それでわたしはいまさしあたり、南波さんが味わった、この「中盤」の「ぎゃ、すごい、面白い!」が具体的にどこなのかというのを言い当てたくてしょうがないのだが、おそらくね、「 II」の終わり、ヴァルターの「試作品第一号」が走り出すところなんじゃないだろうか。いや、ちがってたってかまやしないのだが、あそこの疾駆感と万能感はほんとにね、小説が全方位に向かって光り出すのを感じるのである。

『ベルリンは晴れているか』読み終わりました。
後半どんどん戦況が悪化し、読んでいて辛くなる描写がいくつも出てきましたが、これはミステリー小説なので、途中で読むのをやめられない。
最後に謎がバンバン解き明かされていく形態が「ずっとこの形でいいのかな」と思ったりもしましたが、それにしても、戦中戦後のことがよくよく細かく描かれていて、これは小説ですけれども、戦争について、こういう語り継ぎ方というのがあるんだなと、思いました。『この世界の片隅に』とか『ペリリュー 楽園のゲルニカ』なんかも、そうですね。最後に参考文献がたくさん書いてありましたが、作者の深緑野分さんの、責任の引き受け方、覚悟が半端じゃないものと思われ、もうただただすごいなと。勤務先の中学校でも、戦争関係の本をホラー本と同じように怖がる子がいますから、こういう、多くの人の心を惹きつける表現で戦争のことを伝えてくれるのは、とてもありがたい。
そして読み終えてさらにわかるのは、これは面白いミステリー小説であり、戦争について伝える小説でもあると同時に、ひとりの少女がどうやって正義を貫こうとしたか、という物語なんだなということ。
もう一回読みたいな、ゆっくりと。そして『戦場のコックたち』も読みたい。
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でまあ、『ベルリンは晴れているか』についてはやはり、〈希代の深緑野分読み〉として知られるところの「安眠練炭」さんのツイート連投にとどめを刺すように思われるのだが、とはいえ、さすがに全部引用するとなるとけっこうなツイート数なので、ここでは抜粋して引くにとどめたい──いやまあ、「とどめを刺す」と言うにはそのツイート群ももちろん充分にネタバレへの配慮がなされていて、それもあってかやや迂遠ではあるのだが、その範囲内の評としては充分に「とどめを刺す」だろう。
それでまず、先に些細な話からさせてもらうなら、安眠練炭さんも軽くツッコんでいるように、本のオビにある「歴史ミステリ」という言葉はこの場合ちょっと語弊があるというか、余計なミスリーディングを誘うものであると思う。というのは、一般に「歴史ミステリ」という場合、「歴史上の謎」──本能寺の変はじつはこういうことだったとか、そういうの──が扱われているミステリを指すことが多いからで、だからわたし、物語内時間が「ポツダム宣言の受諾前」だということがわかる序盤のあたりでは、「んー、主人公の行動選択が企図せず原爆投下につながる、とか?」といった、まるであさってな方向の結末予測を立ててしまったりしたのだった。ぜんぜんちがったさ。

@aNmiNreNtaN: ここでひとつ注意していただきたいのですが、私は非常に偏向した読書傾向を有しており、その中心には常にミステリがあります。全くミステリとは無関係な小説を読むときでさえ、強いジャンル意識の影響下であれこれ考えながら読むわけです。当然、『ベルリンは晴れているか』もそのように読みました。
2018年10月24日 15:52

@aNmiNreNtaN: 『ベルリンは晴れているか』のオビには「歴史ミステリ」と書かれていますが、実際のところ『ベルリンは晴れているか』はミステリかどうかはかなり疑わしい小説です(ミステリと言えなくもないかもしれませんが、歴史ミステリではなく時代ミステリに分類すべきではないか……と余計なツッコミ)。
2018年10月24日 15:56

@aNmiNreNtaN: ですが、むりやり『ベルリンは晴れているか』をミステリの枠に押し込めて読んでみると、これは「探偵小説が成立しえない世界を舞台とした探偵小説」だといえます。なぜここで「ミステリ」ではなく「探偵小説」という語を用いたかというと、羽志主水の傑作短篇「監獄部屋」の一節の捩りだからです。
2018年10月24日 16:00

@aNmiNreNtaN: 「監獄部屋」に寄り道している余裕はないので割愛しますが、「探偵小説が成立しえない世界を舞台とした探偵小説」というのは私が以前「氷の皇国」を読んだときに思いついたフレーズだということは書いておかないといけないでしょう。そしてまた『ベルリンは晴れているか』も同じです。
2018年10月24日 16:07

@aNmiNreNtaN: ミステリ的なギミックは基本的には平和である程度民主的で社会秩序が確立した世界でのみ意味をもちます。「氷の皇国」のような絶対的権力のもとでは、あるいは『ベルリンは晴れているか』のような戦後の荒廃状況では、名犯人も名探偵も出る幕がありません。
2018年10月24日 16:14

@aNmiNreNtaN: では作者は如何にして「探偵小説が成立しえない世界を舞台とした探偵小説」を書いたのか、というのが(私のような読者にとっては)非常に興味をそそられる点であり、以前「氷の皇国」を読んだときと同じく『ベルリンは晴れているか』にも大いに感心しました。
2018年10月24日 16:18

@aNmiNreNtaN: とはいえ、それが『ベルリンは晴れているか』をして傑作たらしめた主要因というわけではありません。先ほども書きましたが、この作品はミステリかどうかはかなり疑わしく、そういう観点を頭からすっぽり抜いて読んだほうがより充実した読書体験が得られるかもしれません。私にはできないのですが。
2018年10月24日 16:20

@aNmiNreNtaN: では『ベルリンは晴れているか』はどこがどう優れていて傑作なのか、ということをうまく書ければいいのですが、残念ながら私にはこの作品の特質を的確言い表す術はありません。ただ、「凄かった!」とか「よかった!」とか、わめきたてるのが関の山です。
2018年10月24日 16:23

この前後にまだツイートは拡がっていて、このあとには、南波さんもどうかと思ったらしい謎解きの駆け足感、詰め込みすぎ感への言及もある。あれはどうしたって構成的には瑕疵に映り、「『ベルリンは晴れているか』ならあと100ページくらい長くても退屈せずに読めたと思」うものの、「それだと上下巻になってしま」うという「営業」上の「尺」の問題があったのではないか、というのが安眠練炭さんの想像だ。
で、その構成上の瑕疵に関連して、安眠練炭さんは「幕間 V」の「据わりの悪さ」──「幕間とは幕と幕の合間のことだから最後が幕間というのはおかしい」──についても指摘しているが、この、最後に置かれるのが「幕間」であることのほうには、ある種の擁護を試みたいと思うわたしがいる。というのも、まずは単純に、その「幕間 V」のあとにつづくであろう、物語の枠外にある「幕」の存在──当然読むわたしたちの〈現在〉も含む、戦後という長い幕のその「地続き」っぷり──を暗示する役目が「幕間 V」には指摘できるからだが、さらに、これを円環構造として捉えて、「幕間 V」のあとに冒頭の「 I」が来るというふうに読んでみるのはもっと刺激的かもしれないと、たったいま考えたのである。
「幕間 V」においてふたたび主人公の手元に戻ってくる「黄色い本」、『エーミールと探偵たち』は本書においてはたんなる一冊の本、一個の小説ではなく、小説という営為全体を象徴するメトニミーとして機能するのだが、その小説の自由さ・面白さの象徴である『エーミールと探偵たち』はくわえて、本書『ベルリンは晴れているか』自身のメタファー/分身であるようにも読めるだろう。『エーミールと探偵たち』と大文字の〈小説〉と『ベルリンは晴れているか』。この三つをすべて等号で結んでしまうような読者の読みを、あるいは作者・深緑野分は謙遜から否定するかもしれないけれど、しかしわれわれはその等号が結ばれうることを、『ベルリンは晴れているか』のわくわくする読書体験のなかで充分に知っているのである。

 自由だ。
 もうどこにでも行ける。何でも読める。どんな言語でも──
 失っていたと思っていた光が、ふいにアウグステの心に差した。そしてその光は、今のアウグステには白く、眩しすぎた。
「幕間 V」、p.469

 やがて時が経ち、目が慣れて、このときには「眩しすぎた」白い光が収束したそのときに眼前に像を結ぶもの、それこそが「 I」からはじまるこの小説『ベルリンは晴れているか』──「小説を読んだから小説を書くのだ」という後藤明生の言葉よろしく、ついに過去の体験を小説として語りはじめる老アウグステ!──だと夢想することは、あながち悪い夢想ではないように思えるのだ。
なんていうのは、いかが?

本日の参照画像
(2019年3月 4日 18:27)

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