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Dec.
2013
Yellow

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/ 11 Dec. 2013 (Wed.) 「築地は日曜やってない」

夜、早稲田へ「テラヤマシュージ・リローデッド!」を聞きに。開催中の『いまだ知られざる寺山修司わが時、その始まり』展(~2014年1月25日まで、入場無料)の関連イベントで、宮沢章夫さん、佐々木敦さん、岡室美奈子さんによる鼎談。

@HRAK_GM: 早稲田の「テラヤマシュージ・リローデッド!」は仕事で行けないことが決定している。記録映像もしくは記事化を熱望します。または見に行かれた方による完コピ再現。>RT
2013年12月4日 12:20

@soma1104: @HRAK_GM 漫画化(四コマ)じゃだめですか?
2013年12月4日 12:27

@HRAK_GM: あんだって?
2013年12月4日 12:31

というやりとりを以前 @HRAK_GMさんとしていたため、なるたけメモをとるように心がけたわたしだ。そのメモはこちらに
その帰り、会場でばったり会った島(周平)君と高田馬場駅まで歩く。7日の土曜に、島君といっしょに石原(裕也)君ちへ行き、わたしは終電間際にさきに失礼した、その後の顛末など聞く。

島君は残ってそこに泊まり、早朝にふたりで出かけて築地でうまいものを食うというかねてよりの計画らしいが、ぜったいに寝過ごすと思う。
web-conte.com | Yellow | 2013年12月07日「石原君は炊飯器を買った」

 下調べをしようとネット情報を確認して、築地(場外市場商店街)は日曜やってないということを知ったふたりは、その後ずっと、石原君ちの部屋の掃除をしていたらしい。しらじら明けまでかかってすっかり片付いたと、島君は晴れ晴れした顔で言う。ただ、石原君が買った例の「いい炊飯器」はまだダンボールから出ていない。だもので、それをダンボールから出させるべく、今度、「石原君ちでうまいご飯を食べる会」をやろうという話になった。

(2013年12月23日 16:23)

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/ 9 Dec. 2013 (Mon.) 「たぶんあなたのことではない国民」

会社ちかくの四ツ谷駅まで来てもらって、小浜(正寛)さんとちょっとした打ち合わせ。「ボクデス」のサイトリニューアルにむけた第一歩。
さて、というわけで、もはや日記でもなんでもないのだが、シリーズ「特定秘密保護法を読む」だ。こないだは「(指定の有効期間及び解除)」について書かれた第四条を取り上げてうっかり笑ってしまったわけだが、今回はあらためてその冒頭、第一条から読んでみたいと思う。第一条では「(目的)」が述べられる。言っておくと、今度はべつに笑ってしまうような面白さはない。

(目的)

第一条 この法律は、国際情勢の複雑化に伴い我が国及び国民の安全の確保に係る情報の重要性が増大するとともに、高度情報通信ネットワーク社会の発展に伴いその漏えいの危険性が懸念される中で、我が国の安全保障【(国の存立に関わる外部からの侵略等に対して国家及び国民の安全を保障することをいう。以下同じ。)】に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものについて、これを適確に保護する体制を確立した上で収集し、整理し、及び活用することが重要であることに鑑み、当該情報の保護に関し、特定秘密の指定及び取扱者の制限その他の必要な事項を定めることにより、その漏えいの防止を図り、もって我が国及び国民の安全の確保に資することを目的とする。
特定秘密保護法の全文:朝日新聞デジタル、【】内は衆議院での修正箇所

 なぜそこがひっかかるのかにわかに判然としないものの、なぜだか気になるのは「我が国及び国民」「国家及び国民」という、都合三度繰り返されるその並列表記だ。と思っていると、やはりというか、内閣官房作成の「逐条解説」──福島みずほ議員(社民)の要求により 12月5日になって開示された文書で、現在ここなどからダウンロードできる──の当該箇所で、こまかに解説され、強調されているのはこの「国=国民/国民=国」という等式の部分なのだった。

 本条において、本法の窮極の目的が「国及び国民の安全」の確保に資することにある旨が明らかにされているが、ここでいう「国」とは、国を構成する国土及び国民に加え、それらにより成り立っている国民生活、国民経済等も含むものであり、「国民」をも含む概念である。この点、現行法上、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年法律第79号)(以下「武力攻撃事態対処法」という。)が国民の安全の確保を重視して「国及び国民の安全の確保に資することを目的とする」(同法第1条)と規定しており(武力攻撃事態対処法立法当時の逐条解説)、本法も国民の安全の確保を重視する観点から、あえて「国民」を明示して規定することとした。
 このように、「国及び国民の安全」は「国の安全」と同義であり、行政機関の保有する情報の公開に関する法律(平成11年法律第42号)(以下「情報公開法」という。)第5条1項第3号の「国の安全」と同様、国家の構成要素である国土、国民及び統治体制が平和な状態に保たれていること、すわなち、国としての基本的な秩序が平穏に維持されている状態をいう(総務省行政管理局「情報公開法 逐条解説」I-28頁)。
内閣官房「特別秘密の保護に関する法律案【逐条解説】」2013年11月19日版、p.1、太字強調は引用者

 条文に「あえて『国民』を明示し」た理由を述べる前段はつまり、「この法律が守ろうとしているのは、あなたのことなのですよ」という言い訳のように響かなくもないが、しかしこの「国民」が「つねに」あなたのことを指すかどうかわからないというのは、たとえば「非国民」という物言いを思い浮かべてみればわかる。糸井重里の『ペンギニストは眠らない』にあった言葉あそび、「『子供っぽい』のは大人。『大人げない』のは大人」ではないが、「非国民」という非難が意味をなすのは、本来「国民」である人にたいしてである。つまり「国民」とはあなたにとって所与のものではなく、ことあるごとに「国民になる」ことが求められるものなのだ。
 そして、その「なるための条件」──国への同一化──が後段に、端的に示される。

このように、「国及び国民の安全」は「国の安全」と同義であり、

何が「このように」だという気がしないでもないが、こうして巧妙に、もしくは強引に、はたまた周到に、逐条解説においても「国民」は「国」へとふたたび回収/解消されている。このとき、この「国」が、国民間の伸縮自在なネットワークの総体として事後的に現れるのではけっしてなく、〈その全体が一気に与えられるもの〉としてあることに注意したい。
 この法律について「普通の人には関係ない」と言われるところの「普通の人」こそが、いわばこの均質化された「国民」であるわけだが、この「普通の人」は──「国民」がそうであるように──けっして自明な属性ではなく、つねに「そうであるための努力」を求められるものであって、むしろ、何が「普通の人」かを決めるためにこそ、この法律が使われる可能性があることを忘れてはならないだろう。

(2013年12月14日 18:16)

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/ 8 Dec. 2013 (Sun.) 「小沢昭一も観たかったものの」

宮沢章夫演出版『光のない。(プロローグ?)』は楽日。そして F/T 13全体としてもきょうが会期の最後だ。
駅前でマッサージを受けてからまず神谷町へ。印刷通販会社「グラフィック」の実店舗で、深夜に入稿したポストカードを受け取る。片面はゲネプロを撮影した舞台写真で、もう片面には『光のない。(プロローグ?)』のタイトル(チラシで使用したデザインのもの)を隅に小さく刷った。それが 40枚。
受付開始( 14時)の少し前に池袋着。楽屋へ。楽屋で何の仕事があるわけでもないので無聊をかこつようなかたちになるが、しかし開演時刻( 15時)はあっというまにやってくる。「やっぱりいま書いちゃうか」と宮沢さんが言い、それぞれの持ち場へむかうスタッフさんらを送り出して宮沢さんと楽屋に残った。今回はそこに上村(聡)君もいるのがめずらしい。ポストカードに宮沢さんがメッセージを書いて、打ち上げの場で出演者・スタッフに配る、そのメッセージ書きの作業を楽日の本番中に、楽屋でこっそりやるの図だ。備え付けのテレビモニタが映す舞台の進行もときおり確認しつつ、一人ひとりへのメッセージを書いていく宮沢さんである。
『光のない。(プロローグ?)』チームの打ち上げは 21時半からの予定で、その前に F/T全体のクロージング・パーティーが 18時からある。「パーティー」というものにそもそも乗り気のしていない宮沢さんは、どうにかそのパーティーとの接触面を最小にできないかということばかり考えており、折しもいま「小沢昭一 一周忌追善特集」が組まれている池袋東口の新文芸坐では小沢昭一主演の『競輪上人行状記』(1963年、西村昭五郎監督)がきょうだけスクリーンにかかっているのだが、それが 17:35からの上映で、観終わると 19:15ごろだから、それを観てからパーティーに出るのがちょうどいいのではないか(なにしろパーティーは 21時までだ)という案が出、ああ、だったらわたしもそのコースに乗っかろうなどと思っていた矢先、ついついわたしが「やっぱりあれかな、宮沢さんはスタート時にはいたほうがいいのかな?」と制作スタッフ陣にお伺いを立ててしまったのが運の尽きで、まあなんだかんだ、けっきょく素直に、アタマからクロージング・パーティに出席することになる。
クロージング・パーティーも何とか無事やりすごしたのち、場所を居酒屋に移して打ち上げ。その後、二次会。始発の動き出すころに解散となり、わたしは有楽町線で直接会社へ向かう。始業までのあいだ床で寝る。

(2013年12月13日 14:04)

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/ 7 Dec. 2013 (Sat.) 「石原君は炊飯器を買った」

これがその炊飯器。「米がないんだよね」という石原君がこのダンボールを解く日は、はたしてくるのか。

きょうも池袋。まず 12時からチェルフィッチュ『現在地』。ちょっと早めに着いてしまい、受付のところにいた黄木(多美子)さんと少し無駄話。例の『ヒネミの商人』のチラシについて、「だめですよあんなの作っちゃ」とお小言をもらう。というのは、チラシの配布手段の大半を占めるものとしての他公演への「折り込み(挟み込み)」というものがあり、まあ、一部は手折り込みといって自分たちでその公演の場へ出向き、手作業で折り込むという場合もあるものの、多くは「折り込み代行業者」に頼むのが常で、その最大手が「Next」という会社だけれど、そこではもちろん専用の機械が用いられ、その機械で折り込めることを前提に一枚いくらという費用単価が設定されている。でまあ、形状が特殊だったり折りが複雑だったりしてその機械に通らないということになると、当然追加料金を取られて費用がぐんと跳ね上がるから、「機械に通るか、通らないか」は舞台制作という立場からするとたいへんなおおごとなのである。でもってわたしの作った『ヒネミの商人』のチラシは、控えめに言っても「あまり一般的ではない体裁」となっており、そのいわゆる〈機械問題〉は心配事のひとつだった。で、黄木さん曰く、われわれのチラシはその Nextの機械を「ぎりっぎりで通った」とのこと。念を入れて「ぎりっぎり?」と確認すると、「ぎりっぎりです」と黄木さんも力を込める。よかった。ほんとうによかった。通ったのなら何よりだ。すべての努力が報われた思いである。
『現在地』は 2012年の KAATでの初演も観ている。そのときの日記が(ごく短いけど)これで、読むとそこでもわたしは黄木さんを登場させていた。大好きなのかよ。ま、大好きですけどね。
東京芸術劇場内を地下 1階から 2階に移動して、15時からバック・トゥ・バック・シアター『ガネーシャ VS. 第三帝国』。一週間ぐらい前に予約したのだけど、ほんとタイトルと宣材写真だけから選んだままで予習ほぼゼロ、「知的障害を持つ俳優たちと共に創作を続ける彼らが、インドの神ガネーシャの冒険譚とそれを上演する劇団内でのいざこざを併行させて描」いた作品だということさえすんでのところで知ったような案配で受付をくぐり、ただわくわくして座席に着いたのだったけれど、よかった。とてもよかった。
その後、島(周平)君と落ち合ってすっかり日も落ちた池袋の街へ、というか適当な食事場所をさがして無駄に歩き回ったあげく、東武百貨店のレストランフロアに入っている「和幸」へ。カキ・ヒレカツ定食で、キャベツ・ごはんとも二回おかわり。わたしは若者か。島君の近況など聞き、あとドラクエの話なんかしてけっこう和幸に長居する。
和幸を出、ふたりで向かったのは石原(裕也)君の家だ。オートロックも完備したたいへんいいマンションの一室なのだが、中はきったない。いや、わたしも「そっち側」の人間なのでべつにかまやしないのだが、描写するなら「きったない」。
「いやー、ぼくがもし相馬さんみたいに日記を書いていたら、きょう書くのはこの炊飯器のことですよ」と石原君は、床の、まだダンボールも解かれていない炊飯器を指さす。一年ほど前、シティボーイズのきたろうさんがラジオで「いい炊飯器を買って人生が変わったよ」と言っていたのを聞いて購入欲が湧き、以来ネットで各社商品の入念なスペック比較をつづけてきたさきに辿り着いた「タイガー圧力 IH炊飯ジャー 炊きたて」を、きょう、ついに電気屋で購入したという石原君はやや興奮気味に、「電気屋での、値切り交渉っていうんですか、あれ楽しいですね」とも言うが、それを受けて島君が話し出した、自身の電気屋でのバイト経験をもとにした値切りのためのノウハウがすごかった。エピソードを聞くに父親がまずたいへん強引な値切り師であるらしい島君の、その血筋というものもときおり感じさせる話しぶりと、そして情報量に、話題をふったはずの石原君は「へえー、そうなんだ」としか相槌を返さなくなって、最終的には「いや、ぼくなんか結局ね、店員さんの掌の上ですよ」と総括するのだった。
終電間際までしゃべってわたしは退出。島君は残ってそこに泊まり、早朝にふたりで出かけて築地でうまいものを食うというかねてよりの計画らしいが、ぜったいに寝過ごすと思う。

本日の参照画像
(2013年12月11日 17:21)

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/ 6 Dec. 2013 (Fri.) 「どんどん伸びていく」

夜、宮沢章夫演出版『光のない。(プロローグ?)』三回目。一度はあそこから観たいと思っていた、舞台ヨコの席に座る。隣は同じ思いだったらしい音楽の杉本(佳一)さん。この席、すごくよかった。
そして本日、特定秘密保護法が参議院本会議で可決され、成立。家で「検索ちゃん」を見ていて、そこにニュース速報のテロップが流れた。
その特定秘密保護法の全文はこちらウェブ魚拓もいちおう)

附則

(施行期日)

第一条 この法律は、公布の日から起算して一年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。ただし、第十八条第一項及び第二項(変更に係る部分を除く。)並びに附則第九条及び第十条の規定は、公布の日から施行する。
特定秘密保護法の全文:朝日新聞デジタル

 というわけで、可決成立したとはいえ、公布から施行までには(最長で)一年の時間があり、できること、すべきことはまだまだある。
まあ、そもそもが法律の条文というものに不慣れなので、「法律ってのは一般にこういう書かれ方、組み上げられ方をしてるものだよ」というハナシでもあるのかもしれないのだけど、読んでいて、ちょっと笑ってしまったのはこの箇所だ。しばし文体に辛抱いただいて、だまされたと思ってこの条文に付き合っていただきたいが、これ、「指定の有効期間の最長限度」が、条文を下に下に読んでいくにしたがい、どんどん伸びていく。

(指定の有効期間及び解除)

第四条 行政機関の長は、指定をするときは、当該指定の日から起算して五年を超えない範囲内においてその有効期間を定めるものとする。

2 行政機関の長は、指定の有効期間(この項の規定により延長した有効期間を含む。)が満了する時において、当該指定をした情報が前条第一項に規定する要件を満たすときは、政令で定めるところにより、五年を超えない範囲内においてその有効期間を延長するものとする。

3 指定の有効期間は、通じて三十年を超えることができない。

4 前項の規定にかかわらず、政府の有するその諸活動を国民に説明する責務を全うする観点に立っても、なお指定に係る情報を公にしないことが現に我が国及び国民の安全を確保するためにやむを得ないものであることについて、その理由を示して、内閣の承認を得た場合(行政機関が会計検査院であるときを除く。)は、行政機関の長は、当該指定の有効期間を、通じて三十年を超えて延長することができる。【ただし、次の各号に掲げる事項に関する情報を除き、指定の有効期間は、通じて六十年を超えることができない。

一 武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物(船舶を含む。別表第一号において同じ。)

二 現に行われている外国(本邦の域外にある国又は地域をいう。以下同じ。)の政府又は国際機関との交渉に不利益を及ぼすおそれのある情報

三 情報収集活動の手法又は能力

四 人的情報源に関する情報

五 暗号

六 外国の政府又は国際機関から六十年を超えて指定を行うことを条件に提供された情報

七 前各号に掲げる事項に関する情報に準ずるもので政令で定める重要な情報】
特定秘密保護法の全文:朝日新聞デジタル、【】内は衆議院での修正箇所

 いやー、伸びてくなあ。
 要約してしまうと〈面白さ〉はだいぶ損なわれるのだけれど、これ、おおむねこういうことを言っているという理解で合っているんだと思う。「ある事柄を特定秘密に指定するさいには有効期限を設定しなければならず、期限は最長で 5年だが、要件を満たせば、その後 5年単位で延長が可能。そうして延長を繰り返した場合でもトータルで 30年までを限度とするが、どうしてもやむをえないって場合には 60年まで延長できる。ただし、やむをえないもののうち『一』〜『七』に該当するものは限度なし」。

(2013年12月11日 02:13)

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/ 5 Dec. 2013 (Thu.) 「奴らはきっとわたしのなかにいる」

未明の参議院本会議で野党委員長ふたりが解任されたという報を朝、ツイッターで知る。

@HRAK_GM: やろうと思えばできるけど本来はやってはいけないやり方で通したことや人なんて信頼できない。秘密保護法案も「やろう思えばできる」やり方で使うつもりなのがよくわかった。
2013年12月5日 9:39

きょうは一日おとなしく(?)仕事をしていたのだったが、まあ、さすがにちょっと落ち着かなかった。会社の最寄り駅は麹町で、だから、永田町へはひと駅。

@chronekotei: 自公政権の法案の最大の問題点は「何でも無制限に出来るようにしておいて運用で塩梅する」と謂う立法思想がそもそも民主主義に反するんだよな。「適切に運用する」と言うのであれば、何故その「適切な運用」の規準を法文に織り込んで制度化出来ない・しないのか、と。
2013年12月5日 9:49

@chronekotei: 「何でも無制限に出来る法律」なんて、如何に現実に適切に運用されていたとしても欠陥法でしょう、と謂う物凄く基本的な話なんだよなぁ。
2013年12月5日 9:52

夜、まだそこへと向かえないでいるなかを、どうやらそこにいるらしい知人のツイートが流れていく。「ただのミーハーな気持ちで来た」し、「眈々と、ただ見てるだけ」だというそのひとが切れ切れに、呟き消しする言葉がタイムラインのなかにうつくしかった。これももう消されてしまっているが、ふと、「わーっと泣きたくなる」とそのうつくしいひとはつぶやいた。
夜 10時すぎにようやく国会前へ。永田町駅の 1番出口を出てすぐあたりのところの人の列に加わる。わたしもまたただ坦々と見ていたのだが、途中でちょっと集団を抜け、眺めやるような感じで立っていると、ふと「いま何時になります?」と声をかけてきたおじさんがいた。時刻を答えると「あそう。11時がメド(閉会予定時刻?)だっていうからね、もう少しいるかな」とつづけ、「こないだのデモで風邪ひいちゃってさ」と自身のミニ情報も付け加えた。たしかに少し洟を垂らしてもいる。
お互いけっきょく何の自己紹介もないままわかれたのではっきりとはわからないのだが、60代後半ぐらいだろうか、以降はほぼずっとそのおじさんとしゃべっていて、それがすごくたのしかった。

@soma1104: ポストモダンまでは読んでたんだよ、そのあと働きはじめちゃったからさ、そっからいままでのことはよくわからないんだよ、とおじさん。
2013年12月5日 23:43

@soma1104: 「選挙制度は何がいいと思ってる?」と訊かれたので、よさげな感じのする「優先順位付連記投票」のことを説明する。「おれはね、都道府県ごとの完全比例」とおじさん。
2013年12月5日 23:51

 あとまあ、いろいろ。「安倍はさあ、あれ『諸君!』とか読んで育ったんだよ」っていうのには笑ってしまった。「まあ、そうですかねえ、そうでしょうねえ」と応じる(あ、『諸君!』て 2009年に休刊してたんですね、いま知りました)
 「 20代、30代がもっと来ないと。学生とか。いまの若者はさ……」と若者批判も入り混じるので、何人かの友人の顔を思い浮かべつつゆるやかに擁護を試みたり、面倒になって「ですかねえ」と流したり。でも、メディアを介した非真正な空間のなかで耳にするそれと、〈顔〉のある関係のなかで発せられるのを聞くそれでは、たとえ言っている内容(の陳腐さや無根拠さ、不当さ)がまったく同じでも、やはりどこかことなる手触りがあるというのも感じる。

@soma1104: 本会議の再開は明日午後1時からとアナウンスがあって少し人が流れ出したとき、まるで顔を合わせたくない人でもいるかのように慌てておじさんは帰っていった。お互い何の自己紹介もしていないのだが別れ際、じゃまた、とおじさんは手をかざす。「じゃまた」のその約束の分だけ、未来が少し先にのびた。
2013年12月6日 0:46

しゃべってわかれた直後、永田町駅のホームで電車を待っていると悪寒までもいかないけれど「あれ? 風邪か?」という予兆を身体に感じ、「あいつめえ」とおじさんのことを思ったけれど、けっきょく風邪にはならなかった。大丈夫だった。

(2013年12月10日 13:26)

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/ 4 Dec. 2013 (Wed.) 「池袋へ二度行く」

といって芝居は何も観ていないのだが、池袋へ二度行った。
あーそうか、よく考えたら鍵付きアカウントなのか、Mさんは。えーと、群馬から出てきて京都に 10日間、そのあと東京(おもに池袋)に 4日間という強行文化享受旅行生活(?)を送っていたらしいMさんなのだけれど、予定外の出費があって所持金が足らなくなり、観るつもりだった宮沢章夫演出版『光のない。(プロローグ?)』をあきらめて群馬に帰るというツイートが朝、タイムラインに流れてきたのだった。でまあ、「観る時間さえあるのなら貸そうか?」とダイレクトメッセージを送っておいた結果、当日券の売り出される午後 2時に劇場で落ち合ってわたすことになる。ちなみに池袋へは、会社から有楽町線で一本、片道 15分ほど。昼休憩をかねて出かけたが、当日券を手に入れるなりMさんは、「いま、書いているリミニ・プロトコルの感想がすごいノってきたところで、早くノートパソコンの前に戻りたい」と言い、それはすぐ戻るべきだということで、ほぼとんぼ返りでわたしは会社へ戻る。
夜もふたたび東京芸術劇場のシアターウエスト(ちなみに「ウエスト」の「エ」は大きい「エ」。チラシ制作時にアカが入ったのでわたしは知っている)へ。ゲストに佐々木中さんを迎えてのポスト・パフォーマンストークだけ聞いていく。
ひじょうに興味深かった佐々木さんの話を、わたしの記憶と解釈でごくごくかいつまむなら、以下のような感じだ。(なので以下、「ん?」という箇所があればそれはすべてわたしに責があるという、そういうおつもりでお読みください。)

 「上演は失敗する」と劇中で何度も繰り返されるこの、Vorstellung = représentation = representation =「表象(/上演/再現前/代議制)」は、つまり〈ありありとした一回性〉のことを指していて、対義語が何かというと「反復」である。演劇ファンにとっておなじみの用語に置き換えれば「表象=本番」と「反復=稽古」。だから「本番は失敗する」とイェリネクは言っているのだが、宮沢さんはいじわるにもそのセリフ自体を(まるで稽古ででもあるかのように)反復してみせ、またじっさい、女優たちのあのうつくしい歩きなどはたいへんな稽古によって裏支えされていると想像される。

 再現前の不可能性──というよりもむしろ、再現前などさせてはいけないもの──を前に、こうした書き方を選んだイェリネクと、さらにそのイェリネクのテキストを〈そのまま〉舞台化することを選ばなかった宮沢さんの、そのふたりともに表現者としての「誠実さ」をみるのだし、そしてそこには、「どんな表現がお気に召すのか」と問われてベケットが答えた、つぎのような言葉が重なる。

表現すべきなにものもない、表現すべきなんの道具もない、表現すべきなんの足場もない、表現する力がない、表現しようという欲求がない、あるのはただ表現しなければならぬという強制だけ──お気に召すとすればこういった表現だ。
「三つの対話 ──サミュエル・ベケットとジョルジュ・デュテュイ──」、高橋康也他訳『ジョイス論/プルースト論』(白水社)所収。ただし佐々木さんは当日、「強制」のところを「義務」と訳していた。

ちなみにこのポスト・パフォーマンストーク、ノートパソコンを開いて発言をカタカタと記録する、F/Tの人かなあという姿が客席後方脇にあったので(あと、それを言うなら録音だってしてるだろうしね)、ことによると後日 F/Tのブログなどに公式な記録が掲載されるのかもしれず、だとすれば全貌はぜひそっちを期待してもらいたいところだけれど、いや、それはただの推測なので掲載されるかどうかは知らない──それと、佐々木さんの発話がやけに演劇的で、しばしばマイクを口元から外し、肉声で強弱を付けたりしていたので、そもそもどれだけ記録できているかわからない(聴き取れなかったのか、記録者の手もときおり止まっていた)ってこともあるしね。

(2013年12月 6日 22:32)

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/ 3 Dec. 2013 (Tue.) 「全盛期の勢いと長さ」

夜、池袋へ。宮沢章夫演出版『光のない。(プロローグ?)』二回目。
児玉(悟之)君や山村(麻由美)さん、酒井(和哉)君らと会場で顔をあわす。児玉君が、おとといの日記でわたしが『100%トーキョー』について書いたいくつかについて教えてくれた。

それともう一箇所、中盤あたりで出演者のひとりがセリフに詰まり、前方遠くにむかって「すいません、プロンプをひとつ戻してください」と言った箇所があったのだけど(つまり、客席後方上部、舞台上の出演者からは前方を見上げた先のところに小さなスクリーンがあって、セリフや段取りを次々表示している)、そのプロンプばらしもまたわざと──どう作られているかということの自己開示──なのかなあ? などと思ってしまった。

と書いた場面については、「あれは、たんにあの日にだけ起きたアクシデントです」とのこと。これ、原因は技術スタッフのほうにあって、その少し前のところからプロンプのタイミングがずれ、舞台上の進行よりも早く切り替わりはじめていたらしい。「これどうなる(/どう切り抜ける)のかなあ」と児玉君ら出演者たちははらはらしつつ見守っていたのだったが、すると件の出演者が(セリフがわからず要領を得ないことを少し言ったのち)「すいません、プロンプをひとつ戻してください」とはっきり口にしたので、「けっきょくどうにもならなかった」そのさまが可笑しく、ちょっと笑ってしまったという話。
あと、明治大学の中村准教授も本物だそうです。いちおうお知らせしときますが。「いたってまじめなかたです」と児玉君。
そしてわたしのこの日記については、「全盛期の勢いと長さがない」とばっさり切る児玉君だ。
きょうもまた、それはないな。

(2013年12月 5日 17:18)

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/ 2 Dec. 2013 (Mon.) 「児玉君が、チョットこの」

妻は「どうしても勝てない」と言っていた敵を倒し(ゲームの話です)、わたしは雨と太陽のちからを借りて大地に虹の橋をかけた(ゲームの話だと思います)
下は、きのうの日記で『100%トーキョー』に出ていたと書いた児玉(悟之)のツイート。なるほどなあと思わせられる。

@kodamasatoshi: 100%トーキョーに参加して驚いたことのひとつに、3日の間に同じ質問に対する答え(Yes or No)が変わることがあるということが。他の参加者も言っていた。なにがあったってわけじゃなく、日によって届く言葉と届かない言葉があったり、ふっと自分も他人も変化しているのだということが。
2013年12月2日 16:58

さてその児玉君は 11月21日の自身のブログで、

コンピュータでやっていたことのいろいろを、紙に移行させようと思いつつある。
無題 | KODAMA Satoshi

と書き、いずれ遠くなくブログ(で日記なり雑記なりを書くこと)をやめるだろうことを宣言していて、いや、特段留意させようという気もないものの、「そうかあ、行っちゃうのかあ」とわたしは少しさびしく、また、「児玉君が、チョットこの、遠方のほうへ行っちまって」といった案配に──それは 1961年1月31日のこと、三木助の代演で東横落語会に出た志ん生がネタ出しされていた「芝浜」を演った、そのときのような心持ちで(って、児玉君死んでないけどさ)(あと、それどんな心持ちかわかんないけどさ)──、こうなればわたしが代わりに書こうじゃないかという気概でもって、いまこのモニタの前にいないわけでもない。
まあこのひと、以前にも当時の個人サイトを畳んでそこに載っていた日記をごっそりネットから消したことがあり、やめるとなればきれいさっぱり無くすたちなので、無くなるのはちょっと惜しいなあと思える回もちょこちょこあるこの児玉君のブログ、もしこの場に、暇でどうしようもなく、無料配布されているからといってもう何度かクリアしているドラクエに手を出してしまうようなかたなどおられるようでしたら、いまのうち、ぱらぱら読んでおかれるのもいいのではないかと思います。たとえばそうだなあ、

感覚の話だけど、テキストには大小がある。

という書き出しではじまって「小さなテキスト」と「大きなテキスト」の話をする、10月14日の「ただ大きい」とか、わたしはとても好きなのです。

〔略〕

と、他にもいろいろあるけど、やっぱりいちばんおもしろいのは、ただ大きい、という在り方。「すげー広い場所、見つけたー」とか「ここにこんなの建てるぜ、どう? すごくない?」とか、そんなふうに誰かに報告したり質問したりするのは違う。
自分だけの広い場所に誰にも言わないまま興奮して、ただ大きい「なにか」だけを想いながら、誰にも言わずに建てる。完成の形は、自分が決めることだ。
そして完成の後に残されている行為は、ただそこを去ることだけ。
ただ大きい | KODAMA Satoshi

(2013年12月 4日 18:54)

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/ 1 Dec. 2013 (Sun.) 「リミニを観に。はたまた島君への返信。」

ラダトーム城内で、姫を救い出してきたことを吹聴して回る、勇者ひとし。

また日記を更新してから外出。池袋へ。リミニ・プロトコル『100%トーキョー』。けっこう余裕をもって劇場に着き、劇場前の広場にある喫煙所でたばこを吸っていると、一直線に劇場をめざす石原(裕也)君が目にとまって声をかけた。やはり同じものを観にきたという。
近況など聞くうちに共通の友人の話題になり、それで石原君が「相馬さんあれじゃないすか? 島(周平)君からのメールに」と言いかけたところですかさず、「そう!」と肯くわたしだ。まったく痛いところを突かれたというか、ここ半年ほど京都に越していた島君がまた東京に戻ることになり、その「戻ることになりました」という報告をかれこれ一ヶ月ぐらい前にメールでもらっていたのだけれど、気づけばそれに返信していなかったところのわたしである。なんてやつだ。聞けば「返信がないと不安になるもんですね」と島君は漏らしていたともいい、ほんとうに申し訳ないかぎりだけれど、いやー、反射的に打っておけばよかったんだよなー、あのときなー。
タイミングって言うんですか? そういうの? のがしちゃったんですよねえ、とわたしは丁寧語でなぜか石原君に弁明し、「わかりますわかります」と石原君からはテキトーな相槌だ。
てなわけで島君、その節はわざわざメールをありがとう。何はなくても「またちかくに島君がいる」ということを単純によろこんでいるのがわたしだったさ。ご飯でもお茶でも、こんど行きましょう。
じゃなくて、リミニだよ、書くべきはね。石原君以外にも何人か、観にきていた友人知人に会ったし、そして舞台上には、出演者──「100%」のうちの 1%を担うひとり──として児玉(悟之)君がいたのだった。そういえば 10月の半ばに山村(麻由美)さんに会ったさい「最近児玉君は何してるの」と訊いたら、「きのうは何か外人にインタビューされてました」と言っていたのだっけか。それがつまりこの作品にむけてのインタビューで、けっこうみっちりとしたインタビューだったとはそのときの山村さんの謂いだ。というようにまあ、そうした、想像するにかなり〈面倒〉な──〈顔〉のある関係のなかにつど自己を開きながらなされる──作業の集積の、その突端に、この舞台はあるらしい。──って、あれですね、『100%トーキョー』がまずどういった内容の舞台だったかってところをすっ飛ばして書いてしまってますが、それについてはたとえばこちらの紹介記事などを参照ください。
ところで冒頭、前半の進行もつとめる明治大学の中村和幸准教授(総合数理学部/統計学)が訥々と説明をはじめたとき、(このひとが統計学の先生だということも含めて)ひょっとして全部嘘なんじゃないかという気にいきなりさせられて、ちょっとうきうきしたのだった。それともう一箇所、中盤あたりで出演者のひとりがセリフに詰まり、前方遠くにむかって「すいません、プロンプをひとつ戻してください」と言った箇所があったのだけど(つまり、客席後方上部、舞台上の出演者からは前方を見上げた先のところに小さなスクリーンがあって、セリフや段取りを次々表示している)、そのプロンプばらしもまたわざと──どう作られているかということの自己開示──なのかなあ? などと思ってしまった。
このあとハシゴをして『光のない。(プロローグ?)』を観るのだという石原君とわかれ、わたしは家路に、というか、立川にあるタイ屋台料理屋「カオマンガイ」へ。というのは、ここ──わたしが Foursquareでほぼ唯一チェックインを行う場所として知られるここ──を利用するときはたいていテイクアウトで、だいたいは金曜の夜、妻とふたり分の量を買って家で食べるというのがこれまで長きにわたった習慣だったのだけれど、ちょっと前から妻が、夕食一般にかんしてわたしの帰り(平均して遅い時間になる)を待っていっしょに食べるのをやめ、ごく健康的な時間帯にひとりで先に済ませる方針に切り替えたため、以来、もっぱらテイクアウトに頼っていた「カオマンガイ」の料理を妻は食べていないという状況になっていたのだった。で、今日ならば妻の夕飯タイムに間に合うように買って帰ることが可能だからと、ゆうべからもう「今日はアレで」というふうに相談がまとまっていたような次第である。
夜、どうしても勝てないと妻が『LIGHTNING RETURNS : FINAL FANTASY XIII』内のとある対戦(シナリオ上はべつに倒さなくてもかまわない相手らしい)について懊悩するそのわきで、わたしはスマホ版の『ドラゴンクエスト I』をやっていた。

本日の参照画像
(2013年12月 3日 03:15)

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