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Jul.
2020
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/ 17 Jul. 2020 (Fri.) 「とりあえず『乃木坂46のドラマトゥルギー』のことをば」

香月孝史『乃木坂46のドラマトゥルギー──演じる身体/フィクション/静かな成熟』(青弓社)。

香月孝史『「アイドル」の読み方──混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)。

香月孝史『乃木坂46のドラマトゥルギー──演じる身体/フィクション/静かな成熟』(青弓社) は、刊行されてほどない 5月ごろに読んだ。まずもってとても面白く、そして冷静な一冊である。
結成初期の段階では、同じく秋元康の手になる先行プロジェクト・AKB48との対比において、「劇場(活動拠点となる小屋)をもたない」ということが相違点として言われた乃木坂46だが、両者のこの形式的なちがいを、プロデューサー・秋元康のエンタメ観の基底にどうやらあるらしい〈舞台演劇へのかなり素朴な憧れ〉の発露の仕方のちがいとして読む著者は、AKB48グループが常設劇場という〈場〉あるいは〈上演形式〉としての側面から演劇に接近したのにたいして、より直接に〈上演内容〉としての演劇らしさを託され、担わされたのが乃木坂46だとし、じっさい彼女らの重要な活動フィールドとなっていく舞台公演の数々を読み解く作業を補助線としながら、アイドルとはいったい何を「上演」するものなのだろうかという広範な問いを扱っていく。

 アイドルという特有の職能は、どのようにして何を演じることができるのか。あるいは、何を演じる必要がないのか。本書で示してきたのは、現在地からアイドルをめぐる想像力を更新するための、そんな問いかけである。
香月孝史『乃木坂46のドラマトゥルギー──演じる身体/フィクション/静かな成熟』(青弓社)、p.251、太字強調は引用者

というふうに(いったん)締められる本書だが、ここでより注意を促しておきたいのは「何を演じる必要がないのか」という問いかけのほうであり、そこには、たとえばエイジズムや異性愛主義をめぐって「旧来的な価値意識の名残を引き受けやすいジャンル」( p.123)であり、「前時代的な抑圧のコードを温存しやすい場」( p.116)である現在の〈アイドルというジャンル〉において、「女性アイドルたちの“主体的”な実践はときに、当の女性自身への抑圧と共振してしまう」( p.121)ことへの問題意識がつらなっている。
AKB48によっておおよそ現在的なイメージが確立されたところのアイドル的枠組み──恣意的な負荷によって生じる「戦場」/ハイライトとしての「卒業」/などなど──にたいして、メンバー個々がときに戸惑い、ためらい、「順応しない」ことや「距離を置く」ことによってそこからの逸脱を静かに体現してみせてきたという概観のもと、その乃木坂46のグループキャリアのなかに著者が見いだすのが、「過酷さの上演」ではない、〈「静かな成熟のさま」を上演すること〉の可能性なのだが、とはいえ、グループアイドルシーンの現在地に萌芽したその可能性を称賛するにあたって著者は、それをたんに乃木坂46というグループへの称賛として語ってしまうことを入念に回避してもいる。というのも、〈凡百のアイドルとちがって乃木坂46は……〉といった語り口にこそ根源的な〈アイドルの困難=理解されにくさ〉が宿っているからであり、そして、そうした語り口に暗に含まれている(男たちの)規範意識と、否定されるべき「前時代的な抑圧のコードを温存しやすい場」としてのアイドル文化とはきっと通底している。その意味で本書は、わかりやすい解を差し出そうとするヒロイックな欲望を排し、フェミニズム的な愚直さのなかにどこまでも留まろうとする。
本書を読むより先に、同じ著者の「『欅坂46はアイドルを超えた』その称賛が見逃していること──私たちは『アイドル』に何を見てきたか」というネット記事を目にしたのだが、本書が抱える問題意識──あるいは苛立ち──のひとつについては、こちらの記事のほうがよりわかりやすいかもしれない。欅坂46が呼び込んだ両極端の反応──「アイドルらしからぬ」テーマ性・メッセージ性への称賛と、大人たちにすべてお膳立てされたうえで大人たちへの抵抗を歌うという滑稽な「アイドル」への冷笑──は、けっきょくどちらも「アイドル」という職能の実践を捉えそこねている点で同じ想像力の地平にある。

「アイドルらしからぬ」「アイドルの枠を超えた」といった言い回しは、2010年代を通じて女性アイドルシーンのなかで、個別のアイドルを称賛するために繰り返されてきた。欅坂46もまた、グループとしての卓越性が語られる際、そうした位置づけをされやすいグループだった。

「らしからぬ」が称賛の文脈で用いられることは、「アイドルらしさ」がネガティブな価値づけを負わされていることと裏表でもある。その意味で、欅坂46を「アイドルを超えた」ものとして称賛しようとする手つきもまた、欅坂46を「アイドル」として冷笑しようとする言説と同じく、その背後に「アイドル」なるものの(負の)パブリックイメージを浮き彫りにするものだった。
「『欅坂46はアイドルを超えた』その称賛が見逃していること」、5ページ目

 そしてそこで捉えそこねられているものを眼差そうとするのが、「アイドルという特有の職能は、どのようにして何を演じることができるのか」という本書の問いかけであった。

直接的に演劇に引き付けてなぞらえるならば、自ら脚本や演出を手がけていない俳優が、主体性なく作家や演出家の操り人形になっているわけではないように、アイドル当人たちもまた詞曲や振付を他者に委ねることがそのまま主体性の欠落を意味するわけではない。楽曲内のさまざまな虚構を体現することに専心するなかで、そのパフォーマンスを通じて演者は主体性も知性も発揮しうる。
香月孝史『乃木坂46のドラマトゥルギー──演じる身体/フィクション/静かな成熟』(青弓社)、p.180

というごくごくあたりまえの想像力が、「実体をともなわない『アイドルらしさ』のステレオタイプ」( p.172)の前でいとも簡単に雲散霧消してしまうことにたいして、まずわれわれはもっと驚くべきなのだ。
本書はその最後に、「ごく日常的な営みのうちに宿る『静かな成熟』を体現するアイドルグループが今日、社会のなかで大きな支持を得ているのであれば、もはや虚構の水準においても、いたずらに過酷な運命をあてがう必然はないのかもしれない」( p.247)として、日向坂46(当時「けやき坂46」)による舞台公演『あゆみ』(脚本:柴幸男/潤色・演出:赤澤ムック)を取り上げる。

『あゆみ』では、誰か一人のメンバーと「あゆみ」という役柄とが一対一の関係で結ばれているわけではない。十人全員が「あゆみ」の断片を交代しながら演じては、次の瞬間には「あゆみ」ではないものとしてステージに立ち現れる。〔略〕十人全員が次々に「あゆみ」を演じていくこの性質を、松井〔周〕は「交換可能性」という言葉で表し、同作品の構造においては俳優と役柄が一対一で対応するような「単独性」が抑えられているとする。けれどもまた、同じ「あゆみ」という人物を演じるからこそ、キャスト一人ひとりの身体や喋り方、歩き方にはおのずとそのキャスト自身の特徴が否応なく現れる。松井が注目したのは、「交換可能性」によってこそキャストの固有性がむしろあらためて見いだされるような、この作品の非凡な性格である。
同、p.249

とあるように1]、もちろん『あゆみ』という戯曲そのものの巧緻がまずあるのだけれど、とはいえこうして、「ある若年の限られた期間に注目が集中しやすいアイドルによって、一生分のライフスパンへの想像力が提示されることの意義」( p.250)について触れてきた本書の流れのなかで、その最新局面のひとつとして、『あゆみ』という戯曲とアイドル・日向坂46との幸福な出会いが語られるのは、やっぱりちょっとぐっときてしまうのだった。その最後の節に付けられた「なんでもない生を尊ぶために」という見出しは、つまり「ヒロイックではない生を尊ぶために」ということでもあって、たとえばそこに、上野千鶴子のこんな言葉を重ねてもみるのである。

女もヒロイズムは好きですよ。というか、男にはヒーロー願望があり、女はヒーローの男が好き。女だってヒロイズムに向けて男を駆り立ててきた点では、共犯者でもあります。だけどわたしは、ヒロイズムは女のというか、フェミニズムの敵だとずっと思ってきました。フェミニズムって、やっぱりダサくて日常的で(笑)、「今日のように明日も生きる」ための思想なんです。じゃないと子どもを産んでいられない。
上野千鶴子『生き延びるための思想』(岩波書店)、p.240

いや、すっかりとりとめのない感じでいま触れておきたいことにだけ触れてしまったので、はたして「読みたい」と思えるような紹介になっているかはてんで自信がないものの、まあ現状、必携の一冊だとは思います。

1:とあるように

ところで、松井さんの言わんとするところはよくわかるし分析にも賛同するのだが、そのうえで些末なことを言うとこれ、いや、もとの文章にあたってないのであれだが、「単独性」と「固有性」は、語の用い方として逆じゃないだろうかと思ってしまった。なお、「個の〈根源的な〉交換可能性」と「単独性」についてはこちらをぜひ

本日の参照画像
(2020年7月24日 07:29)

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/ 16 Jul. 2020 (Thu.) 「皆さんこんばんは、日向坂46の森本茉莉です」

ほぼ日ストアで「 Miknits Vintage Pattern Works」のいろいろが 11時から販売開始。きっかりにスタンバって妻にたのまれた品を買う。ものの 5分で売り切れが出始め妻をあわてさせるも、まあ、無事買えました。
夜、欅坂46の無観客配信ライブを見る。途中までは帰宅途上、中央線に揺られながら iPhoneでの 4G視聴だったのでけっこうつっかえつっかえの再生だったものの、まあ、そこにこそ〈一回性〉があったといえば言えようか。最後のところ(「風に吹かれても」あたりから)は家に着き、Wi-Fiで Apple TVで妻と見ていた。
そこで発表された「(再)改名」についてはなんというか、まだ〈腑に落とすための物語化〉を行う気にはならないというか、ただ、ライブを見ていたのだろう日向坂46の新3期生・森本茉莉がその着信トークで夜遅く、「皆さんこんばんは、日向坂46の森本茉莉です。東京都出身、高校2年生、16歳です。はい、今日は、ひさしぶりに、自己紹介をしてみました。……」と送ってきたのがひどく印象的だった。

(2020年7月18日 11:17)

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