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Jun.
2018
Yellow

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/ 9 Jun. 2018 (Sat.) 「おくびにも出さぬ / おめでとうハレプ」

あ。前回の 8日付の日記、日付的には本来何のつながりもない──つまり日記でもなんでもない──『ドードー』の感想を書いて大いに満足してしまったのだけど、そうだった、8日は内野儀さんの「『J演劇』の〈歴史〉を個人的に再訪してみる会・第一回『鈴木忠志』を再訪する」に行ったんだった。
で、

@soma1104: 筒状の携帯灰皿の底が知らぬ間に外れて、ズボンのポケットのなかが灰だらけだ。それで手もものすごく汚いが、いま、三鷹scoolだ。
2018年6月8日 19:36

という報告ツイートはそのときのもので、そうした状況のなか手近な空席を見つけ、座ろうとしたら隣が有上(麻衣)さんだったから、もちろん、手が灰だらけであることなどおくびにも出さぬ構えで、わたしは必死だったさ。「あ、どうも」とか言っちゃって。
いや、じゃなくて、面白かったです、「個人的に再訪してみる会」。
でもって 9日は、まあ、そりゃあ、ハレプでしょう。おめでとうございます。

 四度目のグランドスラム決勝、三度目の全仏決勝で、ついに勝った──というような説明にはあるいは、「まあ、グランドスラムだし、そんなもん(そのくらいは挑戦回数が必要なもの)なのかな」といった受け止めがあるかもしれないと想像し言葉を足せば、いわばいちばん〈納得のしやすかった〉最初の全仏決勝での敗戦( v. シャラポワ、2014年)でさえも 3時間超の熱戦の果てだったのだし、さらにいちばん〈悲劇的〉だった去年の全仏決勝( v. オスタペンコ)は「これはもうハレプだな」と誰もが思ったところからの大逆転負けで、今年の全豪決勝( v. ウォズニアッキ)もこれもフルセット、勝利の転がり込む可能性をどちらも何度も覗かせた末の運命的な結果だった。負けて、振り返ってみればそもそも「決勝まで勝ち上がる」ということ自体が途方もない奇跡と映るような現在の女子勢力図があって、そして何より、今日の試合がですよ、第2セット途中まで「これはもうスティーブンスだな」という流れだったのだ。ハレプ自身も試合のさなか、「これは自分は、今年も優勝できない運命なのだな」と悟る瞬間があったという。
飛び跳ねたり、その場に寝転んだり、はたまた自然と手からラケットを離し、やや間を置いて両手で顔を覆うというような、はっきりした大きな歓喜の所作がなかったことがかえって印象的だった。あるいはハレプは、第2セット途中に「負ける運命」を受け入れたのと同じようにして「勝つ運命」を受け入れたのかもしれず、だとすれば、それはものすごいことだと言いたい。
おめでとう。一ファンとして、ただただうれしいです。

(2018年6月23日 04:58)

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/ 8 Jun. 2018 (Fri.) 「『ドードー』の感想」

あらためて『ドードー』のチラシ。

チラシの裏面に使っている絵のオリジナル(薄くする前)。

もう一枚。

それで『ドードー』だけれども、6月1日と 2日の二回、いずれも夜の回を観た。よかった。
冒頭、「わたしには名前がない」ということから語りはじめるその女性・治子は、ネット上でコミュニケーションを取るためのいわゆるハンドルネームを決めかねている。ブログ、掲示板、メールといったメディアがおもなコミュニケーションの場となっているそのインターネットには「いったいいつの/どこのインターネットだ?」という思いがよぎるが、そもそも、舞台上のそれはある特定の時代や Webサービスを描くのではなく、この 20年くらいのそれらが渾然となったようなものとして、それ自体がいわば〈無名のインターネット〉として登場させられているように思われる。
というのはたとえば1]、そのハンドルネームが最終的に「のろま」に決まるまでのあいだに治子はいくつかの候補を「これも(すでに)使われてる」という嘆息とともに却下していくが、それはアカウント作成のさいにユニークなユーザー名を求められるツイッターやインスタグラムといった Webサービスでの体験を想起させるもので、個人サイトに設置されるような掲示板一般や、ブログのコメント欄への投稿に当てはまるものではない、といった具合である。

1:たとえば

あとついでに言うなら、後半にアイテムとして登場する「 Pokémon GO」で、治子の弟はポケモンキャラである「ドードー」を捕まえるためにスマホの画面をタップ連打しているが、「 Pokémon GO」でタップ連打は(少なくとも捕まえるときには)しないと思う。

てなことを指差し確認しているのはべつにツジツマのアラを探しているのではなくて、むしろこの作品においては、そうした〈いつかのどこかのインターネット〉がモザイク状にうまく継ぎ接ぎされていると感じるからだ。〈こんなだった気がする〉という記憶とイメージの集積としてのインターネット2]は、そこに現れる〈いま〉さえも、すでに一度過ぎ去った出来事として遠く沖のほうへと押しやるような感覚がある。

2:〈こんなだった気がする〉という記憶とイメージの集積としてのインターネット

言うまでもなく、そこにおいてこそ存在可能なのが、「鶏のムネ肉をわらび餅のようにする」奇跡的なレシピだ。

物語のはじめと終わりとを対応させ、作品の〈枠〉として捉えたくなる読みの欲望からすると、「では終幕にさいして、彼女ははたして〈名前〉を手にすることができたのか?」という問いを立てたくなるところだけれど、観るかぎり、彼女は何を獲得するのでもなくて、ラストではいよいよ茫洋とした無名性──あるいは複数性──のなかに溶け出し、消えていくように思える。けれど、それは彼女──や、その弟、父、「ブー子」さん、「カバ子」等々の存在──が固有性を持たないということではけっしてなく、逆にその無名性や複数性によってこそ、彼女の固有性──あるいは彼女であったかもしれない〈私〉によって照射されるところの〈彼女〉の固有性──が生まれるのだということをわれわれは目撃する。
その意味で、「のろま」と「治子」というふたつの名前の対称性は象徴的だ。他に使用者のいない、世界に唯一の IDであることを要請されて付けられた「のろま」は、そのじつたんなるラベリングでしかなく(彼女はまさしく「オードリー・ヘップバーン」にもなり得たのだ)、そもそも、その世界に参加するための資格の一部として〈ユニークであることを強要される〉という事態は、逆説的に、その世界では固有性=単独性が保証されていないことを示している。いっぽう、彼女の父によってその命名の謂われが語られる「治子」──ホームラン王の王貞治から一字を取った──は、王貞治の当時の影響力からしてあるいはその年相当な数が生まれたのかもしれない「治子」のなかのひとりであるという意味で何らユニークな名前ではないが、しかし、その謂われを語る父、その父を見舞ってうわごとのような父の話を聞いている息子、その彼の口から父の様子を伝え聞く姉=治子という語りの〈複数性〉と〈隣接性〉のなかで、たしかにそこに、彼らの存在の〈跡形〉があるのをわれわれは観ることになるのだ。
もちろん、だからといって、ネットのハンドルネームが虚構で、本名がリアルであるというような単純な二元論ではないのは、「のろま」と「ブー子」というふたつのハンドルネーム──両者はともに、ネット内での嘘に支えられた虚構的存在でもある──のあいだにもまた、お互いの固有性に根差したつながりが生まれる〈かもしれない!〉という、その奇跡の跳躍に向かってこそ、物語は走り出すからである。
印象的だったシーンのひとつは、治子が両肩の付け根のあたりに発作的な痛みを訴えるあのシーンだ。痛みのあまり肩の付け根を押さえて腕を後方にねじるようにする治子の仕草は、いっぽうでは「手が後ろに回る」という慣用句をストレートに想起させる(前後して、治子は万引きの常習者であることが語られる)のだが、と同時に、その肩からついに〈飛ぶための〉羽が生えようとしている、その身体変化にともなう痛みなのだとも見てとれる。そののち治子は、いよいよ飛ばんとするかのように脚立に登るのだったが、しかしけっきょく、ドードーが飛ぶことはやはりなかった。
こうして、記憶の集積から力を得たドードーは毎夜、もういちど絶滅する。感想は何もない。ただ踊り子ありという俳優の魅力だけを残してひっそりと、ちょうど芝居がひとつハネるように、絶滅するのだ。それがとてもよかった。

本日の参照画像
(2018年6月18日 22:54)

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/ 7 Jun. 2018 (Thu.) 「わりとご無沙汰」

内藤祐希。

デヴィッド・バーン『 American Utopia』。

GO-BANG’S ON STAGE 1989-1990 [DVD]。

ご無沙汰。咳はもうとうに治っており、その後その風邪は妻をしばらく苦しめたが、すでに妻も快癒済み。でもってわたしには俄な〈ウェブログ〉ブームが訪れ、日記( Yellow)はご無沙汰なものの、「 HOME」から行けるブログ( blue)のほうにはけっこう記事を上げていて、まあ、そういう気分だというのは、もっとこう断片的なことを、それツイッターで済ませろよというような小さな断片を、こっちの土俵で扱えたらなあと考えている。フラグメント=断片ならぬブログメント=ブログ片。とか書こうとしたら、「ブログ記事に付けられた読者のコメント(えてして文脈が限定され、短く、断片的である)」という意味ですでに「 blogment」という言い方があるようだ。へえー。
とりあえず前回の日記からこっちの、トピック的なところをまとめて。
5/18、明日のアーの大北栄人さんがやっている「コメディを考える」ワークショップに参加した。エチュードをやったり。
5/19、第5回廓噺研究会。志ん好、「手紙無筆」はだめだったが「山﨑屋」はとてもよかった。
5/25、当サイトのサーバを引っ越し。さくらのレンタルサーバからさくらのVPSへ。
5/28、牛尾(千聖)さん、石原(裕也)君と荻窪でごはん。趣旨は「夏バテを未然に防ぐ会 with牛尾さん」で、ほんとは島(周平)君も来る予定だったが急に来られず。牛尾さんが「こわい話が好き」と言いだして、みんなでうろおぼえのこわい話を言い合い、「こえー、それこえー」とひとしきり。あと、こないだ新宿で石原君、島君、内田(智也)君、わたしが揃った折り、わたしだけ先に帰ったのだが、そのあとで話し合われたらしい例の「何して遊ぶか」問題にかんして、バンド活動という案が出たがどうかと石原君から打診。相馬バンド。とりあえずわたしがボーカルで、ただし、何の曲をやるかにかんしてわたしにいっさい決定権はない、というもの。やろう、と回答しておいた。
5/29、三鷹 SCOOLで、山縣太一君がゲストのトークイベント。「ポストゼロ年代演劇の新潮流① チェルフィッチュと身体」。これについてはこちらのブログ片に
6/1、三鷹 SCOOL、笠木(泉)さんの『ドードー』を観る。
6/2、『ドードー』二回目。打ち上げにも出た。えーと、『ドードー』についてはまた稿を改めて書く。いや、いま、「書かねえなこいつ」と笠木さんは思ってるだろうけども。『ドードー』を観に家を出る前、このサイトのチャット機能(右下のやつ)を使って南波(典子)さんが話しかけてきてくれて、しばし会話する。「最近面白い本読んだ? 中学生でも読めるようなの」と訊かれ、(読んだのはぜんぜん最近じゃないけど)友井羊の『ボランティアバスで行こう!』 を挙げる。ほかにも何冊か挙げたが参考になったのは友井羊くらいだったようだ。あと、南波さんのおかげで結婚記念日がじきだということを思い出す。
6/3、ぼくらの全仏、ガールズ・シングルスがはじまる。内藤祐希が一回戦(対ビロキン)を突破。WOWOWオンデマンドで中継があった。
6/4、内藤がシングルス二回戦(対ボリネッツ)も勝利。中継はなく、ライブスコア観戦。ブレイク合戦でほとほと疲れた。
6/5、内藤・佐藤組のダブルス一回戦。安心の展開で勝利。
6/6、内藤がシングルス三回戦の壁を破る。対タウソン。ダブルス二回戦もあったが、2セット目途中で降雨のため日延べとなる。といった、わたしのテニス熱についてはブログ片「意味もなく内藤祐希」シリーズもどうぞ。
で、きょう 6月7日は結婚記念日。夜ごはんはカオマンガイのテイクアウト。あとスパークリングワインとか。
内藤はシングルス準々決勝でイガ・シオンテックに敗退。WOWOWオンデマンドの中継ありだが、WOWOWオンデマンドはタイムラグがあり、ライブスコアにたいして 1〜2ポイント分ぐらい進行が遅いので、気が気ではないとついついライブスコアのほうを見てしまう。順延で一日二試合となったダブルスは二回戦、準々決勝とも勝った。
ちょっと前はデヴィッド・バーンの『 American Utopia』とザ・ビートニクスの『 EXITENTIALIST A XIE XIE』を交互にずっと聴いていたが、最近はゴーバンズばかり聴いている。

本日の参照画像
(2018年6月 9日 12:42)

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