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/ 13 Jul. 2007 (Fri.) 「ミッキーが来たら/外語大へ」

さっそくだが、そんなバカなとお思いかもしれないが、いま実家から『ディズニーランド完全マニュアル』が届けられたのでその「ミッキーが来たら」の項を紹介しよう。ちなみにいま手元にあるこの『完全マニュアル』は1985年4月に改訂された第二版で、現在はさらに改訂を重ね、2006年11月改訂の第十一版が最新であると聞く。さて、では「ミッキーが来たら」。

ミッキーマウスが入場ゲートから入ってくることはない。発見者はただちにミッキー部[内線52]に連絡、「ミッキー来場」の旨を伝える。早期発見ができたとしても、懸念されるのはその時点ですでにミッキーが一般来場者の注目を集め、子どもたちの人気を得ている可能性である。ミッキー部ではすみやかにグーフィー部[内線55]とデイジー部[内線60]に連絡、ミッキーの出迎えにはグーフィーとデイジーダックがあたる。出迎えにあたっては「探したぜ」「むこうでドナルドが呼んでいるわ」という設定を用いること。最寄りのファンタジーゾーンに連れ込んだら、まず両耳を折り、鼻を赤く塗る。そののち保安部[内線2]に連絡し、対応を引き継ぐ。
「ミッキーが来たら」『ディズニーランド完全マニュアル』第二版

 なるほどなあ。保安部ってやつがどうにも恐そうだ。ところで、どこか牧歌的な空気さえ漂う85年のこの第二版では、読むかぎり、「入場ゲートから入ってきた完璧なミッキーマウス」しか想定をしていないようである。ここからは想像だが、おそらくその後、「園内で急にミッキーに着替えだすやつ」や「中途半端にミッキーな何か」が現れたりしたにちがいなく、そうして『完全マニュアル』も改訂を重ねていったのだろう。また、設備的なテクノロジーの進化もそれに加味して、最新の第十一版はいったいどういった姿をしているのだろうか。

きのう(12日)から今日(13日)にかけてはひさびさに会社に泊まった。夕方になってふと気がつくと、12日の朝に家でごはんを食べてから何も食べていない。何もっていうのは大袈裟だが、じっさいのところコーヒーばかり飲んでいた。
その仕事は無事済んで、定時(というものが一応はあって、18時)に会社を出ると、そのまま食べずに、多磨にある東京外国語大学のキャンパスを目指す。授業の一環として開かれたのだとおぼしいが、チェルフィッチュの岡田利規さん、宮沢(章夫)さん、パフォーマンス研究・演劇批評の内野儀さんによる鼎談形式の「特別講演会」(テーマ「21世紀の言葉と身体と表現」、チラシPDFが、18:30〜20:00で行われた。15分ほど遅刻して、会場である「101教室マルチメディアホール」というところに着く。人に尋ねることもなく「101教室」は意外にすんなり見つかったが、いざ座席にむかうと、その、イスの部分の仕組みが何やら最新式で、どう座面を作って座ればいいかがよくわからない。遅刻して入ってきてもいるし、一応学生であるかのように振る舞わなければならないとすればすんなり腰を下ろしたいところだが、一瞬あせった。まあ、5秒ぐらいしてわかりましたけど。
内容は割愛(して「富士日記2」を待つ)、ってことにしたいが、どうしようかな、自分なりにまとめようか。途中からどんどん「ひっかかる言葉」が出てくるので、いろいろメモを取りながら聴いてしまったし。さらには宮沢さんは『ニュータウン入口』本公演にむけた「ある思いつき」のひとつを披露してもいた。そのアイデアを聴きながら、「あ、それ面白そう」とうなずく岡田さん。とても刺激的で、面白かった。まとめられれば、そのうち「blue」のほうにでも載せます。
そういえばハイナー・ミュラー研究で知られる谷川道子さん(外語大の教授なんですね、そういえば)をはじめてお見かけした。それこそ「ああそうですか」って話だろうけど、想像していたのとちがったなあ。いや、べつにそんな具体的に思い描いていたわけじゃないですけどね。いま、外語大の研究者紹介のページを見つけ、谷川さんのその「自己紹介」欄を読めば冒頭に、

鹿児島の高校時代まではこれでも、いささか独り善がりの観のある詩や評論・小説などを書く文学少女でした。
東京外国語大学 : Research : 本学の研究者 : 研究者一覧 : 谷川 道子

 とある。なるほどそうか、そうそう「文学少女」の匂いは色濃く残っているときのうの谷川さんを思い返して納得する。

で、講演会のあと、私は外語大の図書館施設に入り、そして、思ったとおりそこで手にすることができたのは『ディズニーランド完全マニュアル』第十一版だ。さっそく、825ページの「正面入場ゲートからミッキーマウスが来た場合」の項を引きたいが、最新版の『完全マニュアル』はやはり、たいへんな進化をみせていたのだった。

「B−5」ボタンを押してください。
「正面入場ゲートからミッキーマウスが来た場合」『ディズニーランド完全マニュアル』第十一版

 いったい、何が起こるってんだ。もうほんと、ディズニーランドで滅多なことはできない。

(2007年7月14日 20:00)

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/ 12 Jul. 2007 (Thu.) 「手短に」

ひさびさに会社に泊まる。そういうわけもあって今日こそは手短に。
しかしすごいよ、宮沢(章夫)さんの「富士日記2」からリンクを張られることの影響力は。がんがんに人が来た。そのなかで一握りでも、五人でも十人でもあるいはひとりでも、ブックマークに──最近はブックマークってことでもないんだろうけど、ま、RSSリーダーとかね──入れてくれる人があればなによりのさいわいだ。あるいは6月22日以降のこの「更新っぷり」の前は、ひと月半も無沙汰をしていたわけで、知人でも更新が再開されているのを知らなかった人があるかもしれない。
「岩のかげからちょいと見てみれば」きのうの日記を参照)は、いきおいです。ほんとうならば、宮沢さんが最終的に〈ふって〉いる『ディズニーランド完全マニュアル』の「ミッキーが来たら」「富士日記2」7月11日付参照)のほうを書ければ理想的だったかと思うが、どうだろう、『ディズニーランド完全マニュアル』のほうがむずかしい気がする。『世界歌謡全集』は、じっさいにやる場合にはフシ(メロディ)に頼る手もあるしね。まあ、『ディズニーランド完全マニュアル』の第二版はたしか実家にあったはずだから、取り寄せられ次第書きますよ。たぶん。
とここで時間切れ。ではまた。

(2007年7月13日 17:41)

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/ 11 Jul. 2007 (Wed.) 「圧倒的な悲しみがプラズマテレビに、ハイビジョンで映っている」

身近にうれしい報せが咲く一方で、別の場所では圧倒的な悲しみが口をつぐんでいる。──書き出すにあたって第一文は、「うれしいニュースがあれば、悲しいニュースがある」という原形をしていたけれど、後者のそのニュースは「悲しい」という形容詞を拒否して圧倒的な〈遠さ〉のむこうにあり、その距離を想像することの困難が私に絶句を強いたのだったと思い返せば、「うれしい/悲しい」という修辞の対称性を、安易に選ぶわけにはやはりいかない。なにしろ私はハイビジョン放送に乗せられたそのニュースを、大画面プラズマテレビのなかに見ている者だからだ。どこまでも恣意的なテレビ視聴の、束の間の出来事に絶句して、言葉にならない──けれど、その〈「言葉にならない」という言葉〉を発するところから、手持ちの言葉から、どこまでも言葉の力を信じる者として私ははじめなければならないのだから、はじめよう。改行ののち私はきっと、いつものような軽やかな身振りで言葉を発しようとするだろう(そうしたいからそうするだろう)。見ていたのはフジテレビ夜の報道番組「ニュースJAPAN」、パキスタンの首都イスラマバード、「赤いモスク」と呼ばれる建物に立てこもる武装したイスラム神学校の生徒らと、その完全制圧に乗り出したパキスタン軍に関するニュースCNN.co.jpの関連最新記事だ。死を選んでまで徹底抗戦を叫ぶ者らは、なぜ徹底抗戦を叫ばなくてはならなかった/ならないのか。
私の帰宅時間も影響して、平日、たまたま点いているテレビでニュースをやっているという場合のそのニュースは、「ニュースJAPAN」であることが多い。その日いちにちのニュースソースをまとめて手にする機会として、けっして「ニュースJAPAN」は適していると言えない(し、じっさいそのようには利用していない)が、しかし何といっても、「ニュースJAPAN」というこの番組をぎりぎりのところで救っているのが、滝川クリステルというキャラクターであることはあらためて指摘せざるを得ない。もちろんそれは、悲惨なニュースとの対比においてその存在が安らぎを与えてくれるとかいう話ではなくて、番組内の他の男性キャスターや、解説員といった人たちとの対比においての救いである。
画面手前、カメラに近い位置に滝川クリステルがいてほぼつねに正面を向き、そこからぐっと奥まったところに男性キャスターがいてこれも正面を向いているという構図が、「なんだか変だ」ということがまずあるけれども(そして、三木聡さんがこの構図をさらに極端にデフォルメして、ドラマ「帰ってきた時効警察」のなかでパロディにしたのは記憶に新しいが)、さらにはその構図もあいまって、たまに聞いていると解説や総括のコメントとしてちょっとそれどうなんだよということを言っている男性キャスターらを、彼女が「あしらっている」ようにしか見えないのがじつにすばらしい。
ニュースのVTRが終わり、男性キャスターの松本方哉がちょっとその総括はいかがなものかということを言う。やや間があって、次のニュースに移行するために画面手前の滝川が、「(……)さて」と言う。その光景がどうしても、たとえばあるニュースでは、「(この人はこんな下世話なことを言っておりますが、)さて」と言っているようにしか見えないことがあり、それがとても面白い(あるいはそれしか面白くない)

あ、申し遅れましたが、「富士日記2」からのリンクで笠木さんの話を読みに来られた方は、きのうの日記ですのでそちらへどうぞ。

岩のかげからちょいと見てみれば 世界のことがよくわかる
岩のかげからちょいと見てみれば 気になるあの娘(コ)がよくわかる
村でいちばんの働き者さ 家に帰ればすぐシャワー
岩のこっちじゃ風呂場は見えぬ シャワー浴びてるあの娘は見えぬ
いいよ いいよ いいよ いいさ どうせ いいさ
いいよ いいよ いいよ いいさ どうせ いいさ
「岩のかげからちょいと見てみれば」『世界歌謡全集』、p.547

(2007年7月12日 20:47)

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/ 10 Jul. 2007 (Tue.) 「おめでとう」

読売新聞、2007年7月10日付朝刊、15面。

もうね、ほんと「立ち喰いで出されたうどんを全部つなげて、一本にしてから食べる」とか、私は「第15回読売演劇大賞・女優賞」の中間選考に残ろうという人にむかって、なんてことを言っていたんだまったく(左欄写真参照、クリックで広範囲な画像が出ます)。この報せを私は遊園地再生事業団メンバーの上村(聡)君から聞いたが、そのあとの帰り道、四、五軒ハシゴした末のコンビニでようやく今日付の読売新聞・朝刊を手にし(ありがとう、セブンイレブン・ナントカ店。店名までは知らねえよ)、うれしさのあまり、携帯で笠木さん宛によくわからないメールを送ってしまった。私は書いたのだ。

ノミネートされたみんなで箱根に一泊とか、そういうイベントはないの? ないか。

 いや、「読売演劇大賞」というものを私はよく知らないが、そういう家族的な、和気藹々としたノリの賞だったらどうしようかと、雨の中、ひとり私は要らぬ心配をしていたのだった。ほら、なにせさまざまな方面から勝手に選ばれるわけだし、みんなほとんど初対面の人ばかりで、さらには橋爪功さんのような重鎮もずっといっしょだから、笠木さん、あんまり箱根を楽しめないんじゃないかなあ(一泊だし)と思っていたが、杞憂だった。そんな旅行はないらしい。って、そういうくだらない筆はいったん置いて、笠木さんを祝し、ま、ひとつ改行しとこうか。
ほんとうにおめでとう。中間選考に残ったからといってきっと君はなにひとつ変わるわけでもなく、今日生きたように明日も生きるだけだろうけれど、だからこそ、おめでとう。
うわ、これもよくわからないか。「おめでとう」だけにしときゃよかったよってことになっているけれど、まあ、消さない。日記はいきおいだ。
こういう説明を加えることに甲斐のあるたとえば親戚とか、たぶんここ見てないとは思いますが、えーと、あの人ですよ、私の結婚式で司会をやってた女性です、笠木泉さん。
もうこうなったらあれだな、さらにいま思いついた笠木さんの特技とか、みんなに教えておこう。

 「自動改札を、あきらめさせる」

 これはですね、駅の自動改札の切符を入れる口、あそこに切符を少しだけ吸い込ませて、そのまま放さず、吸い込もうとする自動改札に抗って、ぎゅーっと切符を指でつまんで耐えるわけです。もう必死ですよ、笠木さんは。見てるこっちも気が気じゃない、後ろとかつかえてるし。で、一分か、二分ぐらいかな、耐えてると、自動改札がついにあきらめるんですね。ゲートがパカッと開く。で、笠木さんはすたすたと出ていくわけです。これが特技。いま思いつきましたけど。

今日は夜、以前より告知のあった「新宿セミナー」、『東京大学[ノイズ文化論]講義』の出版記念トークイベントに行ってきた。しばらく前に電話で予約してあったのだが、そのさい「当日かならず六時半までにチケットを受付でお受け取りください」ときつく言われていたように記憶し、それで少し手前に紀伊国屋に着くと、今度はチケットを受け取ってしまえば座席は指定席だから開演の七時までちょっと暇があるような具合になって、そうしてまんまと紀伊國屋書店の罠にはまってしまったというのはついつい、本を買ってしまったからだ。二冊。
網野善彦と原宏之。どちらも『東京大学[ノイズ文化論]講義』に出てくる名前だが、買ったのは『異形の王権』でも『バブル文化論 〈ポスト戦後〉としての一九八〇年代』でもなくて、そっち買っちゃいますかという『網野善彦著作集・第十三巻 中世都市論』『言語態分析──コミュニケーション的思考の転換』。いやー、面白そうっすよこれ。網野さんの『中世都市論』が面白いだろうことはまあもちろんだけど、原さんのもよさそうだ。若々しく生硬な論文々体がね、たまらない、って何に注目してるんだか。
そんな買い物をしつつ会場の四階・紀伊國屋ホールにむかうと、入り口に『ニュータウン入口』の役者陣が数人、かたまっていた。上村君もいる。實光(崇浩)君もいた。勝手な思い込みだけど、てっきり實光君はもう大阪に帰ってるもんだと思っていたから、「あ、いるんだ、まだ」と失礼なことを私は言う。上村君は会うなり、「相馬さん、日記書きすぎ」と笑った。上村君は携帯で、こまめにここを読んでくれているのだった。
トークイベントの内容は割愛。なんだよそこが肝心じゃないか、何のためにお前の日記を読んでると思ってんだこのやろうという方面にはまったく申し訳ない。ちょっとね、ここに来るまでにかなり書いてしまった。
会場ではそのほか、知り合いで編集者の竹村(優子)さん、『トーキョー/不在/ハムレット』で演出助手仲間だった三浦(美帆)さんなどに会う。三浦さんは久しぶりだが、そんな小さかったっけというほど小さくて驚いた。イベント後には打ち上げが用意されていたが、宮沢(章夫)さんがサイン会をやっているあいだ打ち上げの店にいて、上村君としゃべったりしつつ、合流した宮沢さんに挨拶だけして帰ってきた。

本日の参照画像
(2007年7月11日 02:29)

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/ 9 Jul. 2007 (Mon.) 「ケンタウロス」

このごろ巷に流行るもの、ケンタウロスごっこという遊び。

書こうと思って忘れていたのは、東京都立川市「立川市男女平等参画基本条例」のことだ。ポストに投函されていた「広報たちかわ 7月10日号」[PDF, 3.7MB]の表紙に紹介されていたのをざっと読んだのだ。そこには、「条例の基本理念」として次のようにあった。

  1. 男女が、性別により差別されることなく、個人としての人権が尊重されること。
  2. 男女が、個人の意思と責任により多様な生き方を選択することができ、かつ、その生き方が尊重されること。
  3. 男女が、家庭、地域、職場、学校その他の社会のあらゆる分野の活動に対等な立場で共に参画し、責任を担うこと。
  4. 男女が、社会の対等な構成員として、あらゆる分野における政策及び方針の立案並びに決定過程に参画する機会が確保され、その個人の能力が十分に発揮できること。

 内容のこまかい検討をしたわけではないし、それに見合う見識を私が備えているとも思わないが、ひとまず問題にしたいのはこの「男女が」と繰り返される主語それ自体だ。つづく述部に関してはさしあたり否定のしようもなく、立派なことが書かれているとしか言いようのないものだと思う。しかし、その主語がなぜ「男女が」でなければならなかったのか。どうして「人それぞれが」とすることができなかったのかとそのことを思う。人を、「男/女」という二分法のなかに決定的に押し込めてしまうことこそが、いわゆる〈ジェンダーフリー〉がそこから逃れようとした枠組みではなかったか。

 つまり「男」と「女」しかないのかっていうことなんです。二つしかないのか、っていう。このあいだに、実際はもう少し幅があるんです。
宮沢章夫『東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房)、p.281

 宮沢さんの言葉でいえば、これにあたるだろう。
ま、もちろん〈段階論的な意味合い〉とかね、そういう側面はきっとあるんだろうけど、それを置いてまっすぐ先を見て、「男女が」という主語の限界は見据えておかなければならないだろうと、そういうことです。

本日の参照画像
(2007年7月10日 17:43)

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/ 8 Jul. 2007 (Sun.) 「交代劇」

カプチーノメーカー「Mukka Express」。

以前にエスプレッソマシーンを購入したことはこの日記でも書き[2006年5月3日付]、写真なんか載せて嬉々として紹介していたと思うが、あれがね、まあそれほどうまく部屋に定着しなかった。

070708_espresso.jpg

 あ、これですね(これはアマゾンの商品ページにある写真ですが)
ひとつには「でかい」ってことがあって、ま、それはもちろん購入時から見てわかってたわけだけど、一年経ってみた感想としてやはり「利用頻度に比して場所を取りすぎる」ってことになってしまった。エスプレッソマシーンとして機能するのはこの左半分のところだけなので、コーヒーメーカー(右半分)もセットになったこのタイプを選んでしまったのがそもそも衝動買いの衝動買いたる失敗でもある。利用頻度が下がるのは、いろいろ手順が面倒だってこともあるが、まず、妻がひとりでいるときに自分で作る気にならないということがある。手順が面倒なのに加えて、音がうるさいからだと妻は言う。また、本体はほとんど分解できず、「水で丸洗い」といったような手軽さがないのも妻の気分を晴れさせない。
とそんななか、デパートで目にしてしまったのが牛柄の、直火式カプチーノメーカー「Mukka Express」。水とコーヒーの粉と牛乳をあらかじめセットすれば、あとは火にかけるだけで(さほど脅迫的な音もせず)カプチーノができてしまうから、気分的なことも含め、ずっと手軽である。直火式のものなので、手入れはまさしく「水で丸洗い」であり、そして、でかくない。電気式のほうがしっかり圧力をかけることができて、こまかいことを言うと旨いとか、そういう優劣はたぶんあるんだろうが、まあ、うちでは断然牛柄を支持するということだ。何も調べずに買ったあと、いまごろになって同じように購入した人のブログ記事など見てみると(たとえばここ、材料をセットしたあと、器具の上下をネジ式にしっかり締める必要から握力の弱い女性には不向きといった感想もあるものの、いやあ、うちじゃ問題なかったですけどねという感じ。「はじめの少なくとも三杯は飲まずに捨ててください」と説明書にあるので、その試運転の三回(牛乳は入れず)と、その後二回作ったが、私がやったいちばんはじめの試運転で失敗したほかは、すべて妻がやり、成功した。
というわけで、前掲のエスプレッソマシーンは見事お払い箱である。うーん、まあ、しょうがない。あ、欲しい人があれば、あげましょうか。いや、さんざん「でかい」とかいろいろ、否定的なことを書いたあとでなんですがね。言うほどでかくもないですよ。見方によっちゃ、小さいとも言える。さっきの写真の隣にタバコを置いてみれば早いと思うけど、

070708_espresso2.jpg

 ま、こんなもんですよ、だいたい。すごい小さい。

本日の参照画像
(2007年7月 9日 20:32)

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/ 7 Jul. 2007 (Sat.) 「私は笑っている」

自己解説。というのはおとといの日記のタイトル「わっ、血だ!」のことで、たぶん大半の方に通じてないんじゃないかと想像しますが、これは(これもまた)「よろしくー、ねっ!」と同様、「ゆーとぴあ」というお笑いコンビのギャグです。知らなければ(あるいはそこに思い至らなければ)日記の本文とはまったく結び付かないので、まあそれはそれでいいかなと思ってたんですが、よくよく考えると市川崑の『女王蜂』のくだりと結び付く可能性があるなあと思い、その誤解はなんだかいやだとこまかいことを考えての自己解説。
さて、今日はとりたててまとまった話にもならず、手短に。言うまでもない七夕は、個人的には母の誕生日。
朝起きてネットをチェックすると、笠木(泉)さんのブログに、そのおとといの日記に私が書いたことへの返信が載っていた。そのひとつ前の記事に笠木さんが、

このブログを作ってくれた相馬くんにサイトリニュアルの提案をしている。しかし相馬くんはとても忙しい人だ。ゆっくり待つとしよう!
aplacetodie/ツイノスミカ » Blog Archive » よろしくね

 と書いていたのを引用して、私は「あきらかに催促だ」と書いたのだけど、それに反応して今度は、

相馬くん、違うのよ。別に「催促」というわけではないのです。私の中で相馬くんは「いつも終電近くまで働いている人」というイメージなのです。だからいつでもいいのですよ。ただ、忘れないでくれれば、いつか。そんな感じなんですよ。本当に。
aplacetodie/ツイノスミカ » Blog Archive » 相馬くん/宮沢さん/うすたくん

 と書いてくれた。ここでうまく共有されなかったこれ、R・ヤコブソンのコミュニケーションモデルでいうと〈コンテクスト〉ってことになるのかな、それともこれは〈コード〉にあたるのか、まあそれはバーチャル(ともかぎらないけど)コミュニケーションについてまわる困難ってことだけど、さらに返信しておくならば、この、「あきらかに催促だ」と書いている私は笑っているということだ。文章を書くとき、私はきっと笑っている。この日記はすべからく、そのように読んでもらえればさいわいである。なぜといって──もちろんすべて引用の織物のなかに生起するしかないのが言葉であるとはいえ、それは前提であって結論ではなく、喜ぶべきことであって悲観するような事態ではなく、「すべての言葉はつねに/すでに古い」ということはすなわち「すべての言葉はつねに/すでに新しい」ということと変わらないのだというその意味で──、〈言葉が生まれる〉ということはやっぱり、どうしたってうれしいことだからだ。
いや、「手短に」と書いたのはそのときの、いつわらざる気持ちだったことはあらためて強調しておきたいけれども。
で、先の返信につづけて笠木さんは「さて、私はこれから相馬くんに何の恩返しができるだろう?」とも書き、それからこう書く。

私は特技がない女だ。これといって特徴もない。しいて言えばよく喋ることぐらいか。相馬くんの近くでひたすら喋り続けることは出来るがそんなことで彼を満足させられるとは思っていない。むしろうざがられるだろうな。・・・相馬くんは博識だから私のどうでもいい雑学など既に知っていることばかりと推測できる。うーん。
同上

 まあ私は博識だが、それは置くとして、こう書かれるとさ、やっぱりその何かこう「笠木さんがもっているとされるでたらめな特技」のひとつも考えたくなるもので、朝まだ頭がぼんやりしてたのがかえってさいわいしたのかするするっと、「あ、うどんをさあ…」というふうに浮かんだのが、コメント欄に書いたこれだ。

立ち喰いで出されたうどんを全部つなげて、一本にしてから食べる

 いや、ほんと、こないだ見せてもらいましたけどね、すごいんだこれが。指でね、こう、うどんをつなげてく。「熱っ、……熱っ」って言いながらだからべつに早技じゃないんだけどね、まあ、やってるうちに汁も冷めてくから、あれ、おいしくないんじゃないかなと思いながらね、見てました隣で。嘘ですけど。
もうほんと、あとは手短にいくよ。
昼間は買い物に出掛け、いろいろと買う。靴を買い、靴下を買い、フライパンを買い、扇風機を買った。あと買ってしまったのがカプチーノ(エスプレッソ)マシーンだが、このことについては(「あれ?もってなかったっけ、そういうの?」ということへの弁明も含めて)次回書こう。ではまた。

(2007年7月 9日 12:55)

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/ 6 Jul. 2007 (Fri.) 「反省しているのだったが」

ブログ的というか、ウェブ的な筆法のひとつに、「一文ごとに改行する」というやつがある(一文が長い場合はその途中でも改行するし、意味段落の場合は一行アキになる)。知り合いで言うとたとえば「北。」の北田(弥恵子)さんがそうだし、また、この筆法の見事な使い手としては相馬美絵という人を知っている(まあ、うちの兄嫁ですがね。で、かつてウェブ上にあったその日記はいまなくてリンクを張れない。たぶんmixiとかで書いてるんだと思うけど、mixiを見てなくて知らない)
あれはどっから出てきたんだろうか。ここではひとまず「デジタル啄木方式」と呼びたいと思うが、むろん「ブログ」以前のインターネット黎明期からそれはあった。って、いま命名してから気づいたけど、その「啄木」が答えなんじゃねえのか、そもそもの起源てことで言えばさ。しまったな、終わってしまった。
いやまあ、気を取り直して行くけど、何が言いたいかというと、「たしかにあれ、読みやすいという面はあるよね」ということだ。ちょっと意地悪に言えば、「流し読みに適している」というか。自然縦には長くなるけれど、右側に用意された余白が視線に余裕を与え、圧迫感がない。もともと〈スクロールするメディア〉であるウェブにおいて、読者はほとんど苦にせず、するするっとスクロールするだろう。
それで私はというと、あれが書けないのだ。書けないってこともないだろうけど、うまく使えないからひどく時間がかかるだろうし、時間をかけてみても、どうにも抜きがたいこの文体がもとよりあのかたちにそぐわないのであって、言ってしまえば「むいてない」。いやね、きのうの日記のあのびっしりの文字に、更新したあとで、われながらちょっと反省しているんですけどね。
たとえば上に書いた文章(用語を命名してみたらいきなりそれが結論を含んでいて瞬時に論が終わってしまうというネタ)であれば、テキスト系のサイトでよく見かけるようなかたちで、もっと多く改行を用いつつ、「あ」とか書いたのちにたっぷり空け、「啄木って答えじゃないの?」のところだけフォントサイズをでかくするとか(ちょっとことさらつまらなく書いてますけどね)、そういう手があると思うんだけど、それがなあ、できないんだよなあ。恥ずかしくて。それをやると、どうしたって「一回性の面白さ」という面が作りの上で出てしまうから、やっぱり「再読に耐えるもの」と考えると、できないのだ。いや、はたして人は再読してくれるのかって話ですけどね、そもそも──あと、「で、じっさいのところ再読に耐えるものになってるのか」ってのも置いとくとして。そういえば以前ある人が(次兄ですけどね)、この「一回性の面白さ/再読に耐える面白さ」を落語の流派になぞらえて「林家的なるもの/古今亭的なるもの」と評していたな(評していたっていうかただの悪口か、それ)
あ、もちろんあれですよ、そういうアクロバティックな改行とはまた別に、見事なデジタル啄木方式というのはあって、うまい人は読ませますよ、きっちり。ってことを言い出せば結局、いいものもある、わるいものもある(©スネークマンショー)ってことになりますけど。
いいものでありたいなあ。ありますように。
またもや「それ日記かよ」ってことになってますが、今日はこのへんで。ではまた。

(2007年7月 7日 11:06)

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/ 5 Jul. 2007 (Thu.) 「わっ、血だ!」

『細雪』市川崑監督、1983年。

『病院坂の首縊りの家』市川崑監督、1979年。

『暗いところで待ち合わせ』天願大介監督、2006年。

長いよ。こんなに書くつもりじゃなかったのだ。だだーっと書いてしまった。これ、誰も読む気しないんじゃないかと思うと暗澹たる気持ちになる。

家に帰るとテレビが点いていて、DVDで市川崑の『細雪』(1983年)を流しながら妻が夕食を用意していた。妻はこの映画が大好きである。冷静にみても好みの要素が満載されている。何度も書いていることだが、まずもって妻は岸惠子のファンだ。それから「みどり色」も好きである。好きな色だけにかえって要求するところは高く、どんなみどりでも、どんなモノに使われているみどりでもいいというわけではないところが厄介だが、そんな妻をして「このみどりっすよ、このみどり!」と言わしめるみどり色(市川崑め!)の着物を、岸惠子が着る。
前に書いたかもしれないが、私がはじめて『細雪』を見たのも妻に勧められてのことだった。付き合ってまもないころのこと、「私、『細雪』っていう映画が大好きなの」という表明からつづいて、「その映画のなかで、岸惠子の台詞なんだけど、大好きな台詞があって」という話になった。「その台詞を聞きたくなっては何度借りて見たことかっていうね……なんでもないひと言なんだけど、それが大っ好きで……まあ、当ててみて、ってことなんだけど……いや、ほんとべつに劇的な台詞ってわけじゃなくてふつうの言葉だからなあ……」。その帰りにTSUTAYAで借りて、まあ有無を言わさずに当てましたね、私は。
石坂浩二(言うところの「へいちゃん」ですね)もまた妻の好きな要素のひとつだ。へいちゃん演じるところの「貞之助」だが、妻が言うのに、谷崎潤一郎の原作ではべつに「いやらしい女たらし」に設定されているわけではないらしい。映画にある衝撃的なシーンのひとつなどはまったく原作に存在しないものだという。まあ、市川崑にとっては「映画にする/映画になる」ということにおいて必要な脚色だったのだろうと想像されるが、でまた、石坂浩二のその「いやらしさ」がたまらないのだ(いきなりな譬えだが、『女王蜂』のタイトル前、死体から千切れた腕がヒロインのほうに向かって飛んでいくという、ちょっとそれどうなんだって付け足しがあるが[それだけじゃなくて金田一シリーズいろいろあるが]、そうしたことと同じようなものなのだろうな。で、横溝正史の小説は、そういう意味でドロドロはまったくしていない)。さらに妻がついこないだ力説していたのは、ほんのチョイ役で出てくる白石加代子のすばらしさについてで、「もうほんと、ナニ、あの人は!」とその日の食卓は白石加代子でもちきりだった。
市川崑つながりでもってほとんど関係のない話をしたいというのは、購買パターンに合わせて自動的にアマゾンから送られてくるあの「おすすめ」メールで、先日、つながりのよくわからない「おすすめ」があったことだ。

Amazon.co.jpで、以前に『病院坂の首縊りの家』をチェックされたお客様に、DVD『暗いところで待ち合わせ プレミアム・エディション』のご案内をお送りしています。

 これ、ちょっとわかんないと思うんだ。『暗いところで待ち合わせ』(天願大介監督、2006年)のほうはまだDVD発売前の時点での案内だから、『病院坂』を買った人の多くが『暗いところで』を買っているということでもないはずだ。天願大介は今村昌平の息子だけれど、だからといって市川崑につながるわけでもない。で、メールに添えられていた作品解説を読んで〈つながり〉を探る(ちなみに私は『暗いところで待ち合わせ』を未見)

 事故で視力を失ったミチルは、父と二人暮らしだったが、その父も病で亡くなり、ひとりぼっちになってしまう。気丈にふるまうミチル。そんな彼女の家に、家の前で起きた殺人事件の容疑者のアキヒロが、しのびこんできた。ミチルが目が不自由だとわかっていて家宅侵入をしたアキヒロは、ミチルに見つからないように気を配りながら、その家にいついてしまう。しかしミチルは人の気配を感じるようになり…。
 乙一の傑作サスペンスを映画化。言葉をかわさないまま、音もたてずに、ミチル宅に潜むアキヒロ。何も知らずに生活をするミチル。家族を失った目の不自由な女性と居場所を失った男性が、お互い見知らぬ関係のまま、ひとつ屋根の下で生活をする姿は、状況を考えるとかなりサスペンスだが、本作はサスペンスに趣を置かず、孤独なふたりの間にたゆたう空気をていねいにすくいとって魅了する。ミチル役は田中麗奈、アキヒロは台湾の人気俳優チェン・ボーリン。監督は「AIKI」の天大介。(斎藤 香)

 結局わかんないんだけど、ひょっとしてここかなあと思うのは〈ひとつ屋根の下で生活をするふたつの存在〉という要素だ。原作上、『病院坂の首縊りの家』は金田一耕助最後の事件と設定されるものだが、物語は親子三代にわたる悲劇を描いていて、原作では、解決までに二十八年の時間がかかる。上下巻の「上」が二十八年前の事件と捜査を、「下」が現在(二十八年後)を物語るのだが、久里子亭(「クリスティ」のもじりで市川崑のペンネーム)・日高真也コンビによる脚本はそれを現在時のみの数ヶ月間にまとめ、そのかわりに、時間的/水平的な関係にあった〈上・下〉を、空間的/垂直的な文字どおりの〈上・下〉に置き換えた。つまり、舞台となる家の二階(屋根裏)にひっそりと、床に伏せった二十八年前の事件を象徴する人物が住まうのである。
いやぜったいちがうよなー。アマゾンの自動アルゴリズムがそんな〈つながり〉を読みはしまいよ。

サイトのアクセス解析を設置してあるのだが、今日はひとり、「気がつきゃ大学八年生」で検索してやって来た人がいた。試しにGoogleで検索してみると6件しか該当ページがないなかに、今年の4月1日の日記「泣くとは思わなかったのだ」がひっかかっている。何を探していたのかなあ。(クレージーキャッツ「悲しきわがこころ」の)歌詞かなあ。歌詞だとしたら、件の日記には部分的にしか引用していないから悪いことをしたなあ、と変なことを反省する。
あるいは、いまどきなかなかいないと思うけど、本物の「大学八年生」が検索してきたのかもしれない。その人は、ほんとうに、ふと、気がついたら大学八年生になっていた。で、思わず検索窓に打ち込んだにちがいない。「気がつきゃ大学八年生」。でもなあ、七月だよ。いま気づくか、お前。さすがは大学八年生と言うべきか。
アクセス解析といえばこのあいだ笠木(泉)さんに頼まれて、彼女のブログ「aplacetodie/ツイノスミカ」にアクセス解析を仕込んだ。たぶん、いまもっとも気軽に利用されているアクセス解析ツールというと「NINJA TOOLS」のそれじゃないかと思うが(ここも一部利用しているが)、あれはブログサイトの解析にはむいていない。で、いろいろと無料のサービス、配布されているプログラムなどを探したんだけど、性能だけを求めればいいわけでもなくて苦労した。けっこう探してた。(高性能なものは比例して解析結果の表示も複雑になり、肝心の笠木さんを敬遠させてしまうのだった。ブログの解析にむいていることを最低条件としたうえで、解析内容の簡潔さ・わかりやすさが求められた。理解のしやすさの点で海外のサービスも避けた。) で、探すなかで見つけ、「ツイノスミカ」には採用しなかったものの、私自身が惹かれたのが「Performancing Metrics」という海外のサービス。これいいなあ。まあ、この話題はあとで「blue」のほう──と言ってもいまはその名称が表にないので通じないと思いますが、トップページというか、「HOME」のタブ内にあるほうのブログが「blue」なのです──にでも書こう。
で、その「ツイノスミカ」を見たら笠木さんにデザインリニューアルの催促をされていた。

このブログを作ってくれた相馬くんにサイトリニュアルの提案をしている。しかし相馬くんはとても忙しい人だ。ゆっくり待つとしよう!
aplacetodie/ツイノスミカ » Blog Archive » よろしくね

 あきらかに催促だ。まあね、こんな長い日記を書いていれば、「あいつ、ひょっとしてヒマなんじゃないか」という疑念を持たれてもおかしくはないところだ。やりますよ、やりますから。で、この記事のタイトル「よろしくね」は私に言っているのかとはじめ思ったけど、そうか(その前段で話題になっている)「ゆーとぴあ」のあれか、「よろしくーねっ!」か。

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(2007年7月 6日 19:24)

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/ 4 Jul. 2007 (Wed.) 「遙か遠い道の話(嘘)」

だってこれはさ、表紙買いでしょ。

分厚さはこのぐらい。隣はタバコ。

猫。左:「ピー」、右:「ロビン」。

いまさら私に言われるまでもないのは知っているが、南波(典子)さんの日記がいいね、まったく。今回(7月2日付の分)もまた、日記ってやつはやっぱりこう書きたいものだよと思わせられる文章のリズムである(って南波さんのあれ、形式としては「日記」じゃなくて「書簡」なわけですけどね)。ぜったいならないと思うけど、あれかな、とりあえず「です・ます」体で書けばああなるのかな。ぜったいならないと思うけど。
アマゾンから届いたのは『Michael Palin Diaries 1969-1979』。去年出版されたマイケル・ペリンのモンティ・パイソン時代の日記。洋書です。しかも六五〇ページ超の大部でかなり分厚い(左欄の写真参照/携帯でご覧の方はすいません、写真は表示されません)。まあ、読む(読める)のかよ俺って話ですけどね、これはちょっと表紙がね、表紙がさ、かっこいいでしょ。いや、そんな唐突な物言いもないもんだけど、この場合の「かっこいい」は、むろん所属していたグループのかっこよさ、演じたスケッチの面白さ、なんといっても芝居のうまさ、かろやかさ……といったもののすべてをひっくるめた目線で見て言ってるんだけど、じっさいこの表紙はかっこいいと思うなあ。マイケル・ペリン好きにはたまらない、ってそう言っちゃあたりまえだけど。
さっきから「だけど」多いなあ。そんなこっちゃ遙か遠いよ、南波さんへの道。
じつは最近わけあって「空飛ぶモンティ・パイソン」のスケッチ群を見返す機会があり、あらためて思ったのはマイケル・ペリンのうまさだ。ほんとうまいなあ、この人は。「バカ歩き省」のスケッチで見せる「だめな(ちょっとしかバカじゃない)バカ歩き」とかね。「まさかのときのスペイン異教裁判」は言うに及ばず、「自転車修理マン」のしれっとした感じもそう。で、うまいもへったくれもなく圧巻なのが「魚のダンス」。
分厚い本をくるっと裏返すと、カバー裏表紙にはジョン・クリーズによる紹介文(全文は本文内にあり、その冒頭)が載っていた。そこだけ訳してみると、

マイケル・ペリンは、コメディを演じて一流の、ブリテンを代表する性格俳優であるだけではなく、またよくしゃべりもする。ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ、日長いちにち夜も日も明けず……そうしてときおり、みんなが寝てしまうや家にとって返して、日記を付けるのだ。(ジョン・クリーズ)

 マイケル・ペリンが相当な日記魔だというのはほんとうらしく、たとえば本の見返しには全面、連綿とつづいて膨大な量になったオリジナル日記帳の背表紙が写っている。むろん今回出版されたのはそこからある程度の編集を経たもの。さらに、『1969-1979』("The Python Years" の副題が付いている)であるこれは全三巻の一巻目で、あと二巻が刊行予定とのこと。さらに詳しくは、さしあたりこれらの記事群に詳しい『モンティ・パイソン正伝』の訳者の方のブログです)

さて、何度か述べているようにうちには猫が二匹いる。夫婦が一匹ずつ持ち寄ったということもあって、猫用のトイレも二個だ。ただ、それぞれが決まったほうのトイレでするというわけではなく、そのへんはなあなあである。で、あるときそれに気づいてからたびたび目にする光景なのだが、左欄の三枚目の写真を参照いただいて(重ねて携帯からの方すいません)左側の猫がトイレに入り、そうしてウンコをすると、砂を掻き終わってトイレから出てくるその猫をもう一方の左側の猫がものすごい勢いで追いかけ、一方は必死で逃げてしばらく騒々しいデッドヒートが繰り広げられる。様子からすると、追っかけているほうの猫はひどく怒っているらしい。で、その逆のケースはないし、ウンコでなくオシッコだった場合も追いかけっこは発生しない。はじめのころは何事かと思っていたのだが、結局想像できることはひとつで、どうも、左側の猫のウンコがものすごく臭いらしいのだ。猫の鼻にはたまらないのだろう、てめえこのやろうとばかりにはじまるのだ。
そんな話のあとになんだが、大学同窓(同じゼミ)吉沼からメールがあったのは、「成城大学『石原千秋ゼミナール』同窓会のお知らせ、のハガキって来た? どうするよ?」という内容。まずまちがいなく最新の住所が登録されていない私のところにはむろんハガキの来ようはずがなく(ひょっとすると実家に届いているかもしれないが)、つづくメールで吉沼に概要を教えてもらう。で、「どうするよ?」って話なのだが、吉沼がその概要を転記したあとに添えているコメントが、まったくもって私もそのとおりだなという文章でちょっと笑った。

卒業生向けの「特別講義(補講)」だったら迷わず行くけれど
パーティーってのは、どうもね...
会うために会う、というのが照れくさいというか。

 最後は「うーん、でも行くかな。行こういこう。」とむすばれていて、吉沼が行くなら私も行こうかなという気持ちになっている。まずは吉沼に会いたいっていうのもあるんだけどね(ってそれは別に会えばいい話なんだけどさ。そういえば吉沼も『ニュータウン入口』準備公演には行っていると思われるが、今回は会わなかったな)。まあ、メールの返事を日記に書いて済ますなよって話ですけど。
夕食(といって深夜だが)を食べているとき、妻が「最近は中国産の野菜を買わないようにしてるの」と言うので、「それは天安門事件への抗議とかそういう?」と聞くと、「ちがう」と返された。ごめんなさい。いや、こんなエピソードでは南波さんにはなれないな。
『東京大学「ノイズ文化論」講義』は「第6回」まで進む。紀伊國屋書店のトークイベントは予約済み。

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(2007年7月 5日 13:16)

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/ 2 Jul. 2007 (Mon.) 「15歳かよ」

宮沢章夫『東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房)

いやあ、どうだろう、だいぶ「書くからだ」が戻ってきたかなあ。
上村(聡)君からは会ったときになどたびたびうれしい感想をもらうが、今日もらったメールには最後、

相馬さんの日記、お見舞いのやつ[引用者註:おとといの「伯父の見舞いへ」のこと]は、泣きそうになったよ。なんでかわからないけど。

 とあった。まあね、あれはね。「あれでなぜ泣くのか」ということについては私なりに文章上の仕掛けがあるにはあって、そこを詳らかにしたら元も子もないから解説はしないけど、でも、それはごく小さな仕掛けだし、「身内は泣くかなあ」と思いながら書いていた面はあったものの、第三者の涙腺にまで累を及ぼすとは思わなかった(嘘だが、いまの「ルイセンにルイを及ぼす」はシャレだ)。話の性質上うれしいというのもちょっとあれだが、ああ何かが伝わったのかと思うとそれはうれしい。
これはリアルタイムの報告じゃなくて「もうとっくに」という話なんだけど、妻が「ゼルダの伝説 夢幻の砂時計」をクリアした。早いな、おい。かなりの密度でプレイしていたと思われるのだ。
話あっちこっち行って申し訳ないが、岩崎(正寛)さんのブログのこれ、読んでなかったよ。あるライブに行ったことを報告する、もうひと月以上前の日記。

そしてピアノとギターを交互に奏でていたサポートの人が「不在」でお世話になったWEBデザイナーの相馬くんにそっくりだった事が、このライブを更に忘れられないものにしております。相馬くんであってほしいとすら願います。
ツキアカリエフウ - Ma-Sundialo-G [2007年05月22日(火)]

 うん。ありがとうございます。あの日は弾いたね、交互に。いそがしかった。もう大慌てですよ。練習中からずっとメンバーに「どっちかにしろ」って言われてたんだけどね、結局弾きました。
あと、いせ(ゆみこ)さんのブログのこれも今日読んだんだけど、ちょっと笑ってしまった。

歌舞伎座を通り過ぎた。
いつ見ても、素通りできない佇まい。
(あ、また俳句。)
だからどうした。梅雨もどうした。-Suimire [2007年06月20日(水)]

 それ、「俳句」じゃないと思うんだ。季語ないし。
今日発売の、宮沢章夫『東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房)を買って帰る。寝る前に「まえがき」と「第1回」だけ読んだ。
笑ってしまった箇所があって、いや、これ中身とぜんぜん関係ないというか、一種の誤読なんですけどね、「マッチョな身体」に対置される「だめな身体」の参照例として、途中で神戸浩さんの名前が出てくる箇所がある。で、この本には脚註があって、「神戸浩」という固有名詞に対しても丁寧な註が付けられているから、名前の下にはその註番号が振られるわけです。

あと昔、名古屋のプロジェクト・ナビって劇団にいて、最近は山田洋次監督の映画に出てる神戸浩〔15〕っていう俳優がいるんですけれども、
宮沢章夫『東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房)、p.26

 だからこの〔15〕っていうのは「脚註の番号」なんだけど、一瞬ね、「年齢」に見えまして。神戸さんのイメージ(っていうのは私の場合、かつてのフジテレビ深夜番組「FM-TV」のコーナー「神戸浩はフジテレビにたどり着けるか」ですけど)とあいまって、「15(歳)かよ」っていうね、そういうあれです。いや、それだけの話っす。

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(2007年7月 3日 15:12)

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/ 1 Jul. 2007 (Sun.) 「準備公演・三日目を観る」

三日目(楽日)の昼にまた行ったのだった。なんだろう、単純に「準備公演」というこの方法が好きなのかもしれない。思えば『トーキョー/不在/ハムレット』のときはこれを(あたりまえだけど)全部観たのだからなんとも贅沢な話だ(って、「実験公演」も「準備公演」も私は調光室にいて作業をしていたから鑑賞するというような余裕はなかったはずだが)
『トーキョー/不在/ハムレット』よりも一公演少ないなかでの今回の「準備公演」は、まあ大雑把に言ってしまえばまさしく(『トーキョー/不在/ハムレット』でいうところの)〈実験公演+準備公演〉のようなかたちをしてそこにあった。あのほら、(『トーキョー/不在/ハムレット』でいうところの)〈クルマじゃねえもんな〉もあったしね。

無事に初日はあけたものの、もう少しここはこうすべきかと思うことがあり、僕には珍しく二日目になって何箇所かの場面を変更した。

 と「富士日記2」[6月30日付]では報告されているが、大きく気づいたのは二箇所(「F」をぐるぐる巻きにするアイテムが繃帯からVHSの磁気テープに変わったのと、ラストシーン)。どちらもなるほどなあと思わせられた。ほかにもあったかもしれないが気づかなかった。ラストシーンは初日を観て、「すべてが終わったあとの華やぎ」のようなものがもっとあっていいシーンじゃないかと思っていたが、それを「より楽しげにさせる」という方向でではなく、「抑制することで(ある意味過度な)〈日常〉を出現させる」というふうにして実現していた(という私感)
いっしょに観ていた(鈴木)謙一さんは、「リーディングに較べて『F』の出番減ってなかった?」というようなことを言っていたが、それはちょっと印象にのぼらなかった。あ、リーディングのときって「浩」との二役で佐藤(拓道)さんが出ずっぱりでやっていたから、その「錯覚」もあるんじゃないすかねえ、ひょっとして。で、本公演では(順当に行けば)「F=若松武史さん」である。その要素ひとつでもって大きく変わるだろう。
「準備公演」の楽しさ/醍醐味は、個々の試みのアイデアそれ自体にあるのではなく、その試みによって不可避的に戯曲に加えられる〈変奏/反復〉ということのなかにあるように思われる。〈変奏/反復〉はそれぞれのシーンのレベルでまず発生するが、それをつうじて、舞台全体の構成においても比較的自由な再検討がなされるきっかけを生む。大きくわかりやすい例で言えば、『トーキョー/不在/ハムレット』の際、「ラストシーンを冒頭にもってくる」ということが本公演でなされたが、それも、プレ公演の〈変奏/反復〉が生んだもののひとつだったように思う。まあそこまで行かなくても、なんというか、「こまかい振動」のようなもの──〈あるいはこうあったかもしれない生〉の振動?──そうしたものがずっと舞台上を流れていることが楽しい。
というわけで、私は本公演が楽しみなのである。ぜんぜんちがうものになってたりしてね。9月だから、すぐだよ。観られるかぎり観たいのだ。

(2007年7月 2日 17:22)

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