6
Jun.
2008
Yellow

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/ 24 Jun. 2008 (Tue.) 「志ん朝、志ん五/とある企画/AirMac」

ここ(「Yellow」)だけチェックしている人もあると思うので一応。「blue」側の最近の更新はこれら。

22日。BS-iの「落語研究会」で、志ん朝「火焔太鼓」と志ん輔「唐茄子屋政談」。当日に新聞のテレビ欄を見ていてたまたま気づき、でもきっと「火焔太鼓」はDVD全集に入っているやつだろうから録る意味はないけれど、そういえばしばらく志ん輔を見ていないから一応チェックしておくか──と考えて番組を予約したのはまったくラッキーだった(その意味では志ん輔に感謝)。DVD全集の「上」に収められているのは晩年の口演(終了したTBS「落語特選会」の最終回で放映されたもの)だが、それではない、志ん朝35歳の「火焔太鼓」が流れた。ひょっとすると全集の「下」(10月1日発売予定だそう。収録内容は未発表と思われる)に収められたりするのかもしれないが、ひとまず未見であったところの貴重な一席である。いいねえ、この「若さ」!
あー、こっからしばらく(このパラグラフ)読者がいることなんざ忘れますが、でもね、若さの一方ですでに出来上がっているというのもこの人で、「バカ顔(朝顔)」とかもすでに出てきている。「バカ顔」というクスグリの瞬間には客席の一部から一種独特の(快哉を叫ぶにちかいような)笑い声が上がったように聞こえ、勝手な想像だけれども、そこにはやはり志ん生の「バカ目(ワカメ)」を見事にいじってみせたことへの同時代評を感じざるをえない(この収録の年に志ん生が亡くなっているそうな)。でもね、若いんだよ。ものすごく若い。見た目だけじゃなくてね。たとえば「バカ顔と申しましてね」も言葉としては晩年と同じクスグリだけど、「夏ンなると、咲いたりなんかしまして」の仕種と間、表情がじつに若い。で、若いこの人を見ているとよくわかることがあって、DVDで「酢豆腐」を見たときにもほんとうに感じたことだが、いまさらながら、やっぱりこの人は志ん五の師匠なのだ。志ん五はこの人の弟子なのだよ。志ん五が「時そば」のマクラで、「アタクシのほうはもう師匠に教わったまんま、ただ演るだけで」と言ってるのはあながちウソじゃないと、最近やっとわかってきました。というわけでやっぱり志ん五です。新宿「志ん五の新宿一人会」、行ってきますよ。こないだの独演会は行けず。ネタ下ろしで「宿屋の仇討」をやったそうな。初演かよ、「宿屋の仇討」。で、ついでに読者の存在を忘れたまま言いますけど、志ん輔、だめ。いや、単純に好き/嫌いの話でしてそれ以上の評でも以下でもないけど、最近はもう「落語は結局、〈調子〉なのだ」ということをわきまえましたから、そのごく個人的なアレで言って、あの調子はいけません。そうしてもうひとつ、いましがた知ったんですけど、志ん上(元志ん朝門下で2001年に廃業)が復帰してたんですね(当代文楽門下として)。「桂ひな太郎」なるその名前がなんとも悔しいけれど、そこここのブログ記事に散見される高座の感想を読むに、どうやらなんのことはない「古今亭」らしい。ああ、これは見ておかなければなと思います。
田中夢からはひきつづき訳文が送られてきていて、まあ、順調。で、『不思議の国とアリス』監督のそうまあきらからは今朝、ほんとかよそれというような、まあ、まったくの企画段階だし、じっさいどの程度現実味のある話なのかもわからないからじゃあ書くなよというほどぼやかすけれど、とある打診がある。そのことについて考えていたらたのしくなり、いきおいでコント(のようなもの)の骨格を三本考えてそうまあきらに送る。ああ、実現にむけて動き出すといいのだけれど。
ところで、「AirMac Express 最新ファームウェア7.3.1には用心されたし」という文章を記事にしておいてなんだが、これを書いた時点における私は、AirMacによるネットワーク構成についてほとんど何も知らないに等しい小僧だった。じゃあいま何を知っているかと言われればそれほどたいして知識量に差もないのだけど、「あ、そうなんだ、そういう〈構成〉が手としてあるのか」ということを、この記事[Cocoa を飲んで、ほっとして。: 802.11n は11n 専用かつ5GHz で]を目にしたことによって知り、それであらためてごくごく基本の説明書[AirMac ネットワーク構成の手引き AirMac ユーティリティ編 (PDF)]なども読む。ためになるじゃないかよ、説明書。
これまでの認識はというと、「親」となるベースステーションがただひとつあって、ノートパソコンや AirTunes 用途の AirMac Express などそれ以外のものがすべてその「親」にぶら下がるというもっとも単純な構成しか頭になかったことがまずあって、それで、たとえば構成機器のなかにひとつでも「802.11g」のものが含まれれば、ベースステーションが「802.11n」だったとしてもネットワーク全体は「802.11g」のほうに程度を合わせてしまうからその恩恵にあずかれない(「802.11n」だったら「802.11n」で揃えねばならない)という考えに(単体として取り出せばむろんその説明で間違いはないんだけど)どうやら必要以上に縛られていたらしいとわかる。ていうか、最近の平たいAirMac Extreme(Time Capsuleも)って、LANポートが三つあるんだね(旧AirMac Extremeでは一つ)。そのことすら知らなかった。
で、何が言いたいかというと、Time Capsule(500GB)を買ってしまったと、まあ、そのことですね。ネットワーク構成の青写真はできている。設定はまだ。設定後にはまた、ネットワーク構成の具体的な話とか、「blue」のほうに書こうと思う。

(2008年6月25日 12:08)

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/ 20 Jun. 2008 (Fri.) 「遠くで逝くひと」

これは二〇〇三年夏の写真。

この尻尾はいったいどうなっているのかといぶかられるかもしれないが(拡大写真参照)、こうなっていたのだからしかたがない(抜け毛が絡まって固まったのをどうしても切らせず、二本目、三本目の尻尾ができていた)。また別の写真はここここにもあります。

まだ終電ではないという時間に会社を出て、JRの四ツ谷駅に着くと、ひと目で何かあったとわかる数の人が改札の内と外にごった返している。アナウンスは三鷹駅付近での信号機故障を告げていて、あきらめた顔もあれば、抑えられずアナウンスに茶々を入れる声もあるが、ほどなくして運転再開の報があり、ぎゅうぎゅうというわけでもないからそれに乗れば、じつに1時間30分遅れでの発車だという。私はたいへんついている部類ということになる。再開といっても依然三鷹までの間には相当の列車が詰まっているので、しばしば駅で停止しながらの運転だが、そこで、ここぞとばかりに読書だ。これ(どれ?)でいてけっこう気の散りやすいほうなのだが、わりと集中することができた。座ってしまうとね、電車はなぜか眠くなるから、このさい立ちんぼであるのも好都合である。小田亮『構造主義のパラドクス野生の形而上学のために』(勁草書房)。大学時代に買って以来ことあるごとに手にしつつも(そのつどアタマから読んでいるのだが)、ついに最後まで読んだことのない本書は、しかしもっとも好きな本のひとつだ。いつの日かここに書かれている「構造」を体得し、「構造主義者」として世を送りたいと夢想する。今度は最後まで読めるだろうか。と、いつのまにか電車は中野駅に着いていて、そこでまた長い停車を余儀なくされているが、同時に私はひどく自由な気持ちにさえなっている。目に飛び込んでくるのはレヴィ=ストロースの次の言葉だ。

《神話の輪舞の描く大地は円い》

チコという名の犬が死んだ。夜、息を引き取ったと嫂からメールをもらう。茨城の実家で飼われていた犬だ。十八歳だというから、拾われたのはわたしが十四のときだ。墓場に捨てられていたのを母が連れてきたと記憶している(実家は寺で、だから墓場というのは「うちの墓場」である)。遠くで逝った犬のことを思う。十八年は長いな。最近はめっきり体力が落ち、ほとんど足腰の立たない状態であったと聞いていた。「(帰省時にまた会えるかと思っていたが)お盆までもたなかったか」と妻は残念がる。ま、「お盆に会える」ことに結局変わりはないのだけれど。

先ほどチコが息を引き取りました。
学校から帰った麻夏がジャーキーの袋を持ってチコの所へ走っていましたが
晩ご飯を9時頃お母さんがあげに行ったら
毛布に顔を突っ込んでいて
「チコちゃんがなんだか目がとろんとして虫の息なの。」
と云うので、
私も慌てて見に行ったら、もう息が止まっていました。

後ろ足がぜんぜん立たなくなって
クサリがからまるので
はずして、サークルの中に飼っていました。
六角形で夜はブールーシートをかけるので
立派なドームテントみたいでした。

ちょっと引っかかったりするとキャンキャン鳴いて
すぐ助けを求めていたのですが、
今日は朝からあまり鳴き声がしなかったです。
18歳でした。
18年も一緒に暮らしたなんて長いね。
高校三年までと同じだね

 遠く「で」逝った犬は、しかし遠く「へ」逝ったわけではない。わたしのごくごく近くにいるだろう。それとも、やっぱりそこは遠いのだろうか。はるか西、十万億土[じゅうまんのくど]の彼方。金斗雲ならひとっとびだぜ。

本日の参照画像
(2008年6月21日 17:39)

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/ 18 Jun. 2008 (Wed.) 「パノプティコン?」

秋葉原での殺傷事件に触れたブログ記事のなかで、ラストソングスの(鈴木)謙一さんは、「そして、こんなニュース。」と書いて次のニュースを引用していた。

犯罪予告検知のソフト開発へ=来年度予算で要求-通り魔事件受け増田総務相

 増田寛也総務相は11日、インターネット上の犯罪予告を検知できるソフトウエアの開発費を、来年度予算の概算要求に盛り込む方針を明らかにした。同日開かれた、東京・秋葉原の通り魔事件を受けた再発防止のための関係閣僚会議終了後、記者団に語った。
 開発が検討されるソフトは言語技術を応用し、違法・有害情報の検出精度を向上させるもの。通常とは異なる急激な書き込みの増加や、自殺や殺人予告などの言葉を使った議論の流れなどを分析し、犯罪につながるような情報を認知できるようにする。業界関係者によると、ソフト開発には少なくとも数億円の費用が掛かるという。

(6月11日19時1分配信 時事通信)

 この引用がどういった意図でそこに呼び出されたものなのか、記事ではただ投げ出されてあるにちかいからはっきりとはわからないものの、想像するのは、事件そのものの悲劇性とは異なる次元で(あるいはそれとすれ違う!かたちで)、いわば「どさくさにまぎれて」、社会のゆるやかな(?)監視体制が着々と強化されていくこと──そのことを茫然としつつ眺める謙一さんがいるのではないかということだ。
で、この話題に関してもまた、「なんでも作っちゃう人がいる」「富士日記 2.1」2008年6月16日付]ということがひとつ。それが「予告.in」だ。インターネット上の「犯行予告」を集積・共有するサービスで、前掲の報道へのカウンターとして、「0億円、2時間で」作られたもの(参照記事:「犯行予告収集サイト「予告.in」公開 「0億円、2時間で作った」 - ITmedia News」。それはそれで痛快な印象を与えなくもないが、しかし「ゆるやかな監視」という側面では、その政治的監視機構を市民自らが率先して内面化している(パノプティコンへの自発参加?)という構図に収まってしまうこともたしかだ。
あまりに展開が早いために、それはもはやたんなる「差異化のゲーム」なのではないかという印象すらあるが、さらには「予告.in」にもまたカウンターが現れている。「予告.out」と題されたそのサイトは、「みんなが楽しく、いろんな予告をする掲示板」で、その特徴は予告として書き込まれたテキストが自動で画像に変換されることにあり、そのため、(検索エンジンのロボット等に拾われず)検索に引っかからない予告を実現している。
「ゆるやかな監視」といえば、「タスポ」もまたそうだろうか。そういえば、まだ作っていないのだった。日々、Suicaを平気で使っておいていまさらなことを言うようだが、「ICカード」はあまねく、使用者の移動と行動を記録していく。運用ルール上、その記録がじっさいに第三者によって使用される局面があるかどうかはおそらくさしたる問題ではなく(また、そこに記録されるものを「プライバシー」だと言って守りたいのでもなく)、「記録されているのだ」という意識が知らず知らず内面化されること自体に、「ゆるやかな監視」の巧妙さはあるだろう。
といったことを考えつつ、『〈都市的なるもの〉の現在』を読む。
あ、タスポだけど、まあ、面倒だからコンビニで買えばいいかなというクチのひとりなんだけど(というか、アメリカンスピリットの黒いやつだから、そもそも自販機になかなかないということがあって、で、たまさか便のいいコンビニが扱っているために現状ほとんどそこで買っているということがあるんだけど)、ふと思うのはあれ、顔写真付じゃないすか。合理的に考えて、ICカードであり、かつ対面販売以外での成人識別が用途であるとすれば顔写真は要らないんじゃないかと思うが、してみると、将来的には対面販売の場でもタスポの提示を義務化するつもりかな。

ぜんぜん関係ない話。『不思議の国とアリス』の字幕翻訳を一部手伝ってもらっていると書いた田中夢だけど、進捗はどんなものだろうかと思い今日メールを打つさいに、つい「指」がすべって、以下のような調子のメールになったのだった。

どうっすか、調子は。
進んでる?
宿題やった?
歯みがいた?
風呂はいった?
ババンババンバン?

 で、送信したあとに思い出したのが「田中さん、若い」ということで、「あれ?これ通じないっけ?」と、しばしどうでもいい不安に襲われたのだった。ま、通じたらしい。夜、途中までの訳の成果がメールで届く。うん、いいんじゃないっすかね、ひとまず。

(2008年6月19日 16:54)

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/ 16 Jun. 2008 (Mon.) 「125日間を振り返る、という企画」

うーん、書けば書いただけ長くなり、「アデュー熱」はなかなか冷めないのだった。当の(作・演出の)笠木(泉)さんがブログに、

今回の舞台に関して書きたいことがたくさんあって、でも時間がないから書かないかもしれない。そうしてどんどん忘れ去られていくのか、自分の中で。
aplacetodie/ツイノスミカ » Blog Archive » ミクニヤナイハラの稽古/うれしい

と書くなかで、いわばただの受け手であるところの私が──と同時に厄介なのは、一方でこの日記の受け手にとってはことによると〈関係者〉と映るかもしれない私が──こうして日々作品をめぐる言説を生んでいるというのは、ちょっと迷惑な話ではないかとも思うものの、まあそれも、

一回目に見に来た際に折り畳み傘を忘れて行ったのでそれを取りに二回見に来た
aplacetodie/ツイノスミカ » Blog Archive » アデュー「125日間彷徨」ご来場ありがとうございました

と事の次第がばれてしまっている以上、それを文章の量でもってごまかすためにはやむをえないことである。
だいたい打ち上げの席において、関係者や、じっさいに観たという人の語る記憶以外にほとんど何も残されていないという状況から(そしてまた語られる記憶の内容からも)なかば「伝説」めいてさえいるところの舞台『遊園地再生』(1990年)がたまさか話題にのぼったおり、「あ、これ(『125日間彷徨』)もビデオ撮ってないよ」と笠木さんが言うのを承け、「じゃあもう、(伝説化するために)終わったら何も語らないことにしてはどうか。終わったとたんなぜかブログでも一切触れないばかりか、サイトも閉鎖して」と提案したのは私であるにもかかわらず、けっきょく私がいちばん語っているのはどうしたものだろうか。
それでまあ思いつくのだけれど、「時間がないから書かないかもしれない」という笠木さんを、その忙しさがひと段落したころにつかまえ、インタビューするのはどうか。「125日間を振り返る」である。そのインタビュー記事に舞台のスチール写真を添え、アデューの公式サイトのほうに載せる。何度か演劇関係のサイトを頼まれて作った身としては、とかく公演が終わってしまうと(私の怠惰もあるが)その後の動きがまったくないという状況をいかがなものかと思っていたところもあり、そこでアデューでは、終わってからももうひと山あるというようなことを、やってもいいのではないかと思うのだった。
それはおもに、遠方に住むために観られなかった/どうしても都合がつかず来られなかった/「ま、いいかな」と思って来なかった、すべての〈観ていない方々〉へ向けたサービスであり、「ああ、行きたかった」「行けばよかった」「次は行こう」と思わせるための仕掛けであって、たとえば数年ののち、ついにアデューの公演を生で観る機会を得たその人が、「なんだよ、ぜんぜんちがうじゃないか」と感想を抱くとすればまったくしてやったりである。
だから、インタビューで笠木さんは、舞台を伝説化させるべく、たとえば次のようにしてあることないことしゃべるのではないかと思う。

インタビュアー:
第三幕ではトラが出てきましたが、あのトラは公演中どう飼育されていたんですか?
笠木:
あれはトラってことにしてやってましたけど、じっさいにはワニを使ってます。
インタビュアー:
ワニですか、あれ。よくできてましたね、トラにしか見えませんでした。
笠木:
さすがに本物のトラを使うと危険なので、ワニでやってます。
インタビュアー:
なるほど。

 いったいどんな舞台であり、どんなワニだというのだ。

(2008年6月17日 18:47)

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