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Feb.
2017
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/ 27 Feb. 2017 (Mon.) 「わたしの作法、その一」

シーツとロビン。2006年5月。

足。

なんでも「その一」を付けりゃいいってもんじゃない、というのはそのとおりながら。
まずは全角と半角、そしてスペースについての自己ルール。日本語で書いているのでもちろん全角が中心の文章になるが、そこに半角(英数字および記号)を挟むさい、(句読点[、。]を除く)全角→半角の切り替わり時には間に半角スペースを入れ、半角→全角と戻るときには入れない──ただし年月日の場合や第x回、第x話といったまとまりについては例外的に扱う──というのがこのサイトにおける、ここ何年かの統一記法。基本的に字詰めというものがないウェブでは、いまのところこれがいちばんきれいに(見た目の違和感が少なく)、わたしには感じられる。具体的にはこんな感じ。

〈スペースを入れない〉
25日には「Dance in Asia 2017」でCCDCを観た。森下スタジオは2011年以来?
〈すべてにスペースを入れる〉
25 日には「 Dance in Asia 2017 」で CCDC を観た。森下スタジオは 2011 年以来?
〈わたしルール〉
25日には「 Dance in Asia 2017」で CCDCを観た。森下スタジオは 2011年以来?

 どうでしょう?
 もちろんこんなルールを律儀に当て嵌めて書いているのは自サイト内だけだし(自サイト内でも古いものはこうなってない)、コピペで持ってこられる他サイトからの引用については、原文を尊重して統一していない場合がある。
つぎは記法ではなく文章そのものの作法で、括弧書きについて。括弧書きは、括弧でくくられている部分を読んでも、読まなくても、文章がつながるように挿入するというのが個人的な指針。いや、いま、いざ〈そうなってない例〉を示そうとして、日頃はネットでよく見かける印象のあるそれがなかなか見当たらずに困っているのだが、わかりますかね?
 これはいい例(ついそう書いてしまう気持ちが伝わる例)ではあんまりないが、たとえばこんな感じ。

〈括弧内を含めてひとつづきに読んだ場合に、閉じ括弧の前後が気持ち悪い〉
読み手が理解できないような論理的なつながり(たとえば、前の一文と後の一文がどうしてつながっているのか判らないような文章)の文章は、すなわち、書き手の思考がおかしい、ということを意味する。
〈括弧内を読まず、無いものとした場合、文章がつながっていない〉
読み手が理解できないような論理的なつながり(たとえば、前の一文と後の一文がどうしてつながっているのか判らないような)文章は、すなわち、書き手の思考がおかしい、ということを意味する。
〈こうすれば解消されるという一例〉
読み手が理解できないような論理的なつながりの文章(たとえば、前の一文と後の一文がどうしてつながっているのか判らないようなそれ)は、すなわち、書き手の思考がおかしい、ということを意味する。

 より避けたいと思うのは真ん中のパターンで、括弧を開いて書いているうちにその文にのみ集中してしまい、括弧を閉じる間際の語とのつながりだけでもとの文に復帰してしまうというもの。たいていはちょっとの工夫で回避できるのだが、どうしてもこの指針に添ったかたちで挿入できないという場合には、そもそも括弧書きにせず、外に出して記述すべき文章なのでは? と疑う必要もある。わたし自身がつい括弧書きを多用しがち(イコール、読みづらくしがち)であるため、自戒のために気をつけている次第。

Walking: 3.3km • 4,622 steps • 49mins 6secs • 154 calories
Cycling: 1.4km • 7mins 9secs • 30 calories
Transport: 69.5km • 1hr 18mins 10secs
本日の参照画像
(2017年3月 6日 16:53)

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/ 26 Feb. 2017 (Sun.) 「わたしの顔ブローチ」

ロビンとバブーシュカ。妻の膝の上で。2006年4月。

日付が変わって帰宅。ポストを開けると笠木(泉)さんから茶封筒の郵便が届いていた。中身が何であるか、思い当たるところはひとつしかないものの、開ける前にひとまず笠木さんに、届いたよとツイートで一報入れる。笠木さんとはつい小一時間ぐらい前までいっしょだったのだが、コレのことなどこれっぽっちも言っていなかった。曰く「恥ずかし」かったらしい。

@soma1104: @izumikasagi あ。いま帰宅したらポストに何か入ってた。まだ見てないけど。
2017年2月26日 0:24

@izumikasagi: @soma1104 あら。
2017年2月26日 0:31

開封。「納品書」ふうの手紙とともに、頼んであった刺繍作品が入っていた。前に、ツイッターのアイコンの件を発端に、わたしの似顔絵を刺繍で作ってほしいと頼んでいたもの。納品書の記載によればそれは「相馬称さんの顔ブローチ」だ。ブローチとして留められるよう、裏側にはピンが付いている。
「これチョーいーじゃん。これチョーいーじゃん」とは妻の弁。うん、いい。
むろん何かの折りに胸にも留めたいが、それ以外の使い途としては、もともと言っていたツイッターのアイコンはさすがに変えたばかりなので何かべつのものの── Facebookとか、Instagramとか、Myspace(うそです、やってません)とか、VK(やってません)とかの──プロフィール写真として使うことにしたい。
どうもありがとうございました笠木さん。とびきりの落語でもまた行きましょう。
本屋へ。オリオン書房のノルテ店(ノルテはスペイン語で北の意。要は北口店てこと)にまずは行ったのだが、折しも人文書系の配置場所変更をおこなっている最中らしくいまいち棚めぐりが要領を得ない。ごっそり空になっている棚もあるので目視での探索に限界を感じ、在庫検索用の端末で調べると目当ての本のうち二冊が在庫無しと出た。そんなに〈高望み〉をしてる自覚のなかった本だったので「ありゃ」と思い、タカシマヤに入っているジュンク堂( 2016年2月開店)のほうに行くと、あった。ありがてえ。で、ちょっとこりゃまずいんじゃないのかオリオン? という心配も少しする。
というわけで、ジュディス・バトラー『戦争の枠組──生はいつ嘆きうるものであるのか』(清水晶子訳、筑摩書房) と、ボヤーリン兄弟の『ディアスポラの力──ユダヤ文化の今日性をめぐる試論』(赤尾光春・早尾貴紀訳、平凡社) 、それと古井由吉の新刊『ゆらぐ玉の緒』(新潮社) をお買い上げ。もう一冊、柳澤健『 1984年のUWF』(文藝春秋) も気になってはいたが、しばし立ち読みして、今回は見送り。
夜、23日付の日記(「話のつづき、その一」)を更新。

Walking: 2.1km • 3,081 steps • 33mins 38secs • 98 calories
Cycling: 3.8km • 20mins 35secs • 84 calories
Transport: 1.7km • 1mins 55secs
本日の参照画像
(2017年3月 3日 14:41)

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/ 25 Feb. 2017 (Sat.) 「こしらえる / Dance in Asia 2017」

ロビンと編みぐるみ。2005年7月。

「オールラウンド」といえばボブ・バックランド。

ローラン・ボック。

ところで今週末、わたしの観劇スケジュールは白水社のWさん1]のそれと丸かぶりなのであって、『 TONTO』( 24日夜)→『こしらえる』( 25日昼)→「 Dance in Asia 2017」( 25日夜)と、ずっと(ずっとじゃないけど)Wさんといっしょだった。

1:白水社のWさん

もはやこの界隈で白水社のWさんほど、「いったいそのイニシャル表記に意味はあるのか」感の漂うひともいないのであって、そもそも今日の日記など顕名で何ひとつ問題ないと思われるのだが、もうこれは不思議な慣れ(?)のほうを優先させての「Wさん」なのである。急にひとりだけイニシャルなので気にかかるかもしれないが、そんなわけで気にせずにお読みください。

というわけでまずは横浜、いつぶりだろうという STスポット。松村(翔子)さんが作・演出する『こしらえる』だ。すごく面白かった。うーん。この舞台のもつ強度をどう言い表せばいいんだろう。
 オールラウンド
 それでいうとボブ・バックランド
 何か言い足りてないのでもうひとり連れてくるならローラン・ボック対ボブ・バックランド2]

2:ボブ・バックランド、ローラン・ボック

こっちにこそちゃんと註を付けろという声はもっともながら、面倒なので割愛。1978年ごろのプロレスの話です。ローラン・ボック対ボブ・バックランドという対戦カードは、じっさいには無いと思う。たぶん。

 ともあれ。──(山田康雄の声でどうぞ)女の子(おーんなのこ)が信じてくれたから(そーら)だって飛べるさと、ドロボーではなく、シバイが言っているようなそんな舞台。シバイの力を信じたのは、クラリス・ド・カリオストロ姫ではなく松村さん。
STをあとにし、Wさんともいったん別れて──ちょっと CD屋に寄ると言っていたWさんの目当ては「流動体について」だったようだ──、わたしはラーメンを食べてから、森下へ移動。移動しながら 22日付の日記(「ハーーーンプティッ、ダーーーンプティッ」)を書く。
森下スタジオで「 Dance in Asia 2017」。ニブロール・高橋(啓祐)さんのインスタレーションから派生したふたつの作品──台湾の世紀當代舞團に小山衣美も加わったダンス『 Timeless』と、off-Nibroll + ミクニヤナイハラプロジェクトの芝居『静かな一日』。どちらもよかった。すごくよかった。もう「すごくよかった」ってことで勘弁してくれないかってほどに、もはやわたしには言葉がない。すっからかんだ。出しきった。観ることで出しきった。
『静かな一日』は再演だが、2013年の初演は観ていない。そのもうひとつ前、ヨコハマ創造都市センターで 2012年に同じ "a quiet day"の展示を使って一人芝居をやったやつ(「家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い」、たしか時田光洋さんの回)は観たな。
終わって、Wさん、藤原ちからさん、笠木(泉)さんと一杯飲む。まだまだ飲んでいくらしいWさん、藤原さんを残して、笠木さんと一足先に帰途につく。新宿へとむかう車中ではおもに落語の話。むつかしい顔をして落語を語り合うふたりだ。いや、そんなにむつかしい顔はしていなかったかもしれない。で、笠木さんとも途中で別れ、さらに小一時間ほどかかって帰宅すると、家のポストに笠木さんからの郵便物が届いていた。「あれ」だ! と興奮するが、それの話はまた次回にあらためて。

Walking: 3.9km • 5,978 steps • 1hr 2mins 29secs • 185 calories
Cycling: 1.3km • 7mins 47secs • 30 calories
Transport: 121.9km • 2hr 40mins 27secs
本日の参照画像
(2017年3月 2日 02:44)

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/ 24 Feb. 2017 (Fri.) 「バストリオが時計を手放すとき」

ロビンとわたし。2005年5月。

夜、バストリオの新作公演『 TONTO』を観に、早稲田小劇場どらま館へ。
まずはあらためまして新穂(恭久)君、黒木(麻衣)さん、チラシよかったよ。予算の都合で表面のみになり、すべての情報を片面に入れなくてはならないことからああしたデザインになった、というのは言われてはじめて「あ、そっか」と気づいた次第だが、相当な結果オーライじゃなかろうか。
最後に観たバストリオはたぶん 2014年の『 Alice, where are you going?』で、それ以来のはずだからずいぶんひさしぶりである。遠のいていたのはたんにわたしの怠惰と、その他のやむにやまれぬ事情による。その前は皆勤にちかく観ていた時期があり、2010年には『まるいじかんとわたし』という公演を京都まで観に行ったりした。のち、その『まるいじかんとわたし』に寄せた文章を頼まれて、彼らのサイトのために書き、載っけてもらったりもした。で、その文章だけど、バストリオのサイトがリニューアルされて以降、どこに載ってるのか見つけづらい(検索してここに残っているのは見つけたが、サイトのトップからここに辿り着く動線がない?)ことにもなっているので、こちらにも掲載しておくことにする。もしよければお読みください。当時いっしょうけんめい書いたものです(当時からいまに至るまで、言ってることが変わってない気もしますが)
さて、『 TONTO』。「とんと」は焚き火の意とのこと。すると「どんど焼き」とか「とんど焼き」とか言ったりする(うちのほうでは「どんどん焼き」だった気がする)あれか。
今回もまた舞台上には、すぐ目につく位置に時計──小道具として物語内の時刻を示すそれではなく、現実の現在時刻を示して動いているそれ──がかかっていた。わたしの知るかぎり、バストリオの舞台にはいつも必ずこの「時計」が存在するように思うのだが、それはきっと、この時計の存在が彼らにとって、ある種の宣言のように機能するからだろうと思われる。バストリオにおける時計が象徴しているのはおそらく、時間ではなく場所──同じ現在時を共有してこの瞬間に無数に存在する、ここではない場所──である。すなわち、この上演の瞬間にも〈彼方〉で生起している(だろう)出来事について、われわれは想像することを手放してはいないという決意と宣言が、あの時計には託されているようにわたしには思われる。
けれどもいっぽうで、外部にむかって開かれたこの時計という窓とひきかえででもあるかのように、舞台の内部においてはいっこうに時間が堆積しないという事態が起こりもする。「夢」を題材とした『 TONTO』においてそれはより顕著だったということか、そこにおけるイメージの連なりは、そのテキスト量にもかかわらず、時間としてある一定の幅をもつことを拒みつづけているように見えた。それは夢として、成功だったのだろうか、失敗だったのだろうか。失敗だったとすれば、わたしの──醒めることのできなかったわたしの──失敗だろうか。『夢十夜』から引かれた「百年」の言葉が百年の射程をもつことはなく、上演時間の 90分は計量されたとおりの 90分としてそこに横たわっていた。それは誠実なことのようにも思えるし、むしろ不誠実なことのようにも思える。仮に不誠実なのだとしたら、それはわたしの不誠実さか。
はたして、バストリオがあの「時計」を手放すことはあるのだろうか、手放したとき、それはどんな舞台になっているだろうかと夢想する。それはもはや「バストリオではない」のだろうか。そのようにも思えるいっぽうで、バストリオならばじつに軽やかに、あるとき、時計を手放してみせるような気もする。
と、何やらあらぬ方角へと向かいつつある感想/夢想だが、ともあれ第七夜の松本一哉さんによる独白と、第九夜の橋本(和加子)さんの夢語りがよかった。やっぱりそうだ。いつだって最後の最後、〈なけなしの物語〉をしっかりと駆動させる役目は橋本さんのものなのだ。
これもまた率直な感想としてぜひ言い添えておきたいのだが、酒井(和哉)君がよかった。とてもよかった。うまいとさえ感じた。そして、ふたつに分かたれた舞台のあいだの溝に落ちる、その落ち方がとてもよかった。「あ、落ちた」と思わされた。
形式としての時計を手放して、舞台の内部、なけなしの物語のうえに積み上がった時間の先に、不意に彼方の土地が像を結ぶ。そんなバストリオも観てみたい──あるいは今度こそ百年後に。『 TONTO』の焚き火のうちに、もう、百年が経ったのかもしれなかった。
そんな夢を見た。

橋本
こんな夢を見た。いつもと同じように眠るようにそのまま眠ってしまう。魂だけになって、次に生まれ変わるまでには宇宙とかに行って、何十年か何百年かしたらまた生まれ変わる。あ、向こうに家族みんなが並んでいるのが見える
Walking: 4.7km • 6,320 steps • 1hr 4mins 36secs • 224 calories
Cycling: 2.5km • 12mins 55secs • 55 calories
Transport: 64.8km • 1hr 32mins 45secs
本日の参照画像
(2017年2月28日 01:00)

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/ 23 Feb. 2017 (Thu.) 「話のつづき、その一」

ロビン。このかたちは「ピーナッツ」と呼び慣わされていた。2005年4月。

早尾貴紀『国ってなんだろう?』 は、「国民国家」がなんら〈普遍的〉な価値や枠組みではなく、たんにいまの時代に〈一般的〉であるにすぎないものだということを語り、その歴史性を語る。また、それが歴史的なものだということは認識しているつもりでも、たいていは線条的に語られるその歴史というものをつい〈進歩/発展〉として捉え、「いまここがもっとも進んでいる(他は遅れている)」と考えてしまうために見えにくくなっている、〈つぎに来るもの〉や〈またべつのもの〉の可能性を示唆してもいる。国民国家という理念が孕む矛盾をもっとも先鋭的、臨界的に体現して(しまって)いるのがユダヤ人国家・イスラエルであり、そして、〈またべつのもの〉としてその可能性が参照されるのがディアスポラの思想──いわゆる「ユダヤ人の離散」を指すのが「ディアスポラ」という言葉だが、では、離散し、千年のあいだ「国」をもたなかったというそのユダヤの宗教、文化、伝統は消えてなくなったの? そんなことないじゃん、ぜんぜんそんなことないじゃん! ということ。簡単に言うとね(間違い、語弊があったらすいません)──である。
いっぽうで、たしかに(一般性においての)進歩/発展はある。それがいかに未だ不完全なものであるにしても、人類は二度の世界大戦の果てに、曲がりなりにも「国連」や「国連憲章」という、世界政府的な考え方を手にしたのだ。経緯を辿ればそれ以前に、第一次世界大戦の反省から生まれたパリ不戦条約( 1928年)がある。

 この条約〔パリ不戦条約〕は国際紛争解決のための戦争と、国家の政策の手段としての戦争の放棄を宣言しています。ですから、これ以降はどこの国の軍隊も自衛のための軍隊で、自衛のための戦争をしているというタテマエです。実際はそうなっていないという批判はありますが、ともかく、自衛ということにしないと軍隊を持つことや戦争をすることを正当化できなくなりました。
早尾貴紀『国ってなんだろう? あなたと考えたい「私と国」の関係』、p.206

 つまり日本国憲法第9条を持ち出すまでもなく、どこの国だって、自衛を口実としない、侵略戦争は違法なのである(そしてもちろん、9条の本来的な意義は自衛のための戦争をも放棄したことにあったわけだ)

 〔日本国憲法前文は〕「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ともわざわざ書き込んでいます。平和憲法が謳っているのは、一国平和主義なのではなくて、国際協調にもとづく平和主義です。それは、2度にわたる総力戦で絶大な犠牲を払った人類が行きついたひとつの結論でした。平和憲法はあきらかにパリ不戦条約の理念を反映させた最先端の憲法だったのです。
同書、p.208

 人類は、そこまで来たはずなのだ。そこから先を──国連憲章の理念が現実に反映されていないこと、国連の仕組みや憲章自体にいまだ不完全と思われる点があることも含めて──考えなければならないはずなのだ。
国民国家とは何か、国民とは何かを考えるとき、やはりまず思うのは「動員」ということだ。

 強制的な動員でなくとも、生きている人は敏感なので、まずいな、居心地が悪いなと感じると、言葉で言われなくても感覚で察知して、過剰に従順にしようとすることがあります。人一倍がんばることで自分が「中央」と同じだと証明しようとするのです。東北地方は明治維新のときには力で「国」に組み込まれましたが、そのあとはアイヌモシリを北海道として平定する最前線となり、さらにアジア進出の最前線になっていきました。
同書、p.132

 これは前にもおんなじことを書いたのだけど2013年12月3日付「たぶんあなたのことではない国民」。これ、けっこうよく書けてるよ)、やっぱり『ペンギニストは眠らない』の、「『子供っぽい』のは大人。『大人げない』のは大人」というアレを思い出す。それに倣うなら、「非国民」なのは国民、なのである。

「非国民」という非難が意味をなすのは、本来「国民」である人にたいしてである。つまり「国民」とはあなたにとって所与のものではなく、ことあるごとに「国民になる」ことが求められるものなのだ。
2013年12月3日付「たぶんあなたのことではない国民」

ぜんぜん関係ない(?)けど、中学のときのうっすらした記憶もついでに思い起こされ、なつかしいので書いてしまうと、あれは文化祭の何かだったか、体育館のステージで希望者が思い思いの演し物(バンド演奏とかそういうの)をするというようなイベントがあった。それの予選というか、事前選考のようなものがあって、生徒会活動に関わっていたわたし(ちなみに会長だったこともあった。このときにそうだったかは忘れたけど)は選考する側の立場で、何人かの先生・生徒らとその場にいたのだ。あらかじめ渡されていた選考基準のひとつに「学生らしさ」云々をいう項目があり、選考時、先生のひとりがその「学生らしさ」を持ち出していくつかのグループに難色を示したので、「そもそもみんな学生なんだから、われわれのすることがすなわち『学生らしい』ことでしょ」と反論した気がする。なんかそんな記憶。やな中学生である。
「中学生」も「国民」も、本来まったく制度的・形式的なものなのだが、そこに何か均質的で実体的なものが滑り込んでくる、その矛盾にこそ目を凝らさなければならない。
ところで、早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ──民族/国民のアポリア』 の前半の論文では、イスラエルという存在の「普遍性と特殊性」が問題として扱われているのだが、これ、(小田亮の整理に倣い、)〈普遍性 - 単独性〉という軸と、〈一般性 - 特殊性〉という軸とを分けて捉えるくせのついているわたしにとっては、ちょっと対立軸にねじれがあるのではないかとつい受け取ってしまうところだ。いや、たんに用語の問題(言葉の定義のちがい)にすぎないのかもしれないけれど、しかしそのひっかかりをもう少し考えてみることで、自分なりの言葉を紡ぐことができるのではないかと予感されるところもあり、それが「話のつづき、その二」になる予定だとはいうものの、いつ書かれるかはまだちょっとわからない。

Walking: 3.4km • 4,673 steps • 48mins 24secs • 160 calories
Cycling: 2.4km • 12mins 41secs • 52 calories
Transport: 70.1km • 1hr 18mins 14secs
本日の参照画像
(2017年2月26日 23:28)

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/ 22 Feb. 2017 (Wed.) 「ハーーーンプティッ、ダーーーンプティッ」

ロビンとピー。それぞれの飼い主とともに。2005年4月。結婚式の前夜に撮った写真である。

鈴木清順『ピストルオペラ』[DVD]。画像は DVDパッケージのものではなく、チラシです。

サントラもいいですよ。こだま和文と EGO-WRAPPIN'。

鈴木清順監督の訃報。
フィルモグラフィー的に言えば「それ?」ってな感じだが、なぜか、まず最初に呼び起こされた個人的な記憶は「そういえば、『バビロンの黄金伝説』のときのお守りは長兄だったなあ」ということだ。『ルパン三世』の劇場用長編第3作で、鈴木清順の名が(共同)監督としてクレジットされている(ついでに言うなら脚本は大和屋竺であるところの)『バビロンの黄金伝説』は 1985年7月封切り。だから小学 4年のときの夏休み映画ということになる。市内の映画館でもかかって、観にいったが、そのときの付き添いは長兄だった。長兄のほうは大学 2年の計算で、夏休みで帰省中だったのだろう。映画の付き添いが長兄だったのはあとにもさきにもそれきりのことだったが(わたしが忘れているだけ?)、いま思えば、清順映画だったから付き添いをかってでたんじゃなかろうか、あのひと。
てな具合で、お年齢(とし)もお年齢ですし、比較的おだやかにその訃報を受け止めてはいたのだったけれど、韓英恵さん──ちょうど先日アカウントを知ってフォローしたばかりだった──のツイートが流れてくるに至り、さすがにやっぱり、ちょっとぐっときてしまった。韓さんは 2001年の『ピストルオペラ』で「少女・小夜子」役をやっていたあのコ(当時 10歳)だ。

@hanaekan1107: 清順監督。
じいじ。
いまでも、変わらないじいじ。
あたしのだいすきな、じいじ。
2017年2月22日 19:52

『ピストルオペラ』は大好きだ。下は当時、封切り初日に駆け付けたときの日記。

▼渋谷へ。『ピストルオペラ』初日、1:45~の回。は、ちょうど初日の舞台挨拶のある回で、それに一時間半前ぐらいから並ぼうというかたち。さすがに列は出来上がっていたが、それでも一階席の後方にありつく。
▼本編のあと、舞台挨拶。は、鈴木清順、木村威夫(美術監督)、江角マキ子(野良猫)、韓英恵(少女・小夜子)、永瀬正敏(黒い服の男)、ヤンB・ワウドストラ(無痛の外科医)の面々。
▼本当は、移動して、テアトル新宿のオールナイトイベント(『殺しの烙印』、『東京流れ者』、TV「大江戸捜査網」の鈴木清順演出の回、トークショーなどなど)の整理券配布に並ぼうという計画だったが、『ピストルオペラ』エンドマーク後の興奮、ドトールなんぞでは冷めやらず、何だか昔の作品なんてどうでもいいような気分なのであって、結局渋谷で時間を潰したまま、6:35~の回をもう一度見る。
2001年10月27日付「『ピストルオペラ』を見る」

 このあと知人をいろいろ誘い、誘われ、計 6回ほど観た。こちらは後日の日記で、そんなに何度も行っていることを自己弁護する記述と読める。

▼この映画、たしかに「荒唐無稽」というカテゴリには分類されるものの、リアリズムでもってリアリティーを構築していないだけで、決して「リアリティーがない」わけではない。物語もそのリアリティーもたしかに存在するのであって、もとより、そうでなければ2時間も保つはずがない。だから、何回も見るということは、そのつど物語の読み換えというか、「あ、これをリアリティーの立脚点として見ることもできるな」という気づきというか、そういうことができてぜいたくである。
▼と、一応、他人(ひと)の身にもなった説明も用意してみたのだった。
▼ほんとうを言えば、たんに面白いのだが。
2001年12月2日付「連日の『ピストルオペラ』」

 ま、最後に書いているように「たんに面白」かったのである。あれだけ〈でたらめ〉ながら、わたしのなかではすべてのカットが腑に落ち、あのとき、あの映画の理屈とリズムがただただ心地よかった。
そうだった。遅れて来たわたしにとっても──むろん韓さんにとってほどではないにせよ──清順監督はすでに「じいじ」だったし、そしてまたわたしも──これも韓さんほどじゃないだろうけどサ──「じいじ」に大きく影響を受けた者のひとりだった。
これからも影響を受けるだろう。合掌。

Walking: 3.6km • 5,422 steps • 52mins 27secs • 170 calories
Cycling: 2.6km • 14mins 40secs • 57 calories
Transport: 70.6km • 1hr 10mins 25secs
本日の参照画像
(2017年2月25日 18:37)

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/ 21 Feb. 2017 (Tue.) 「爪を切りたいが、背中がかゆい」

ロビン。2005年3月。

早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ──民族/国民のアポリア』(青土社)

早尾貴紀『国ってなんだろう? あなたと考えたい「私と国」の関係』(平凡社)

ええとまず、タイトルには何の含意もない。
爪を切りたい(と思いつつ、つい億劫に思って切っていない)ことも背中がかゆいことも事実だが、両者は何ら、逆接で結ばれるような影響関係にはない。それぞれが、それぞれに独立して事実であるというだけだ。ここでの接続助詞「が」は逆接なのではなく、連続して想起されたふたつの事柄の、時間的前後もしくは共存を示すだけのいわばたんなる接続である(この用例として、広辞苑第6版では今昔物語集巻16の「巳の時ばかりなりけるが、日も漸く暮れぬ」などを挙げている)。書くことがまとまらず、思いつくままのタイトルだけを保存して一夜が明け、いま、両者にあたかも因果関係がある──背中を掻くにあたっては爪が伸びていたほうが存分に掻けるので、爪を切ることを躊躇している──かのように読めることに気づいて、驚いているのはわたし自身だ。
と、そのことを、なぜこんなにこまかく説明しようとしているのかはわからない。説明すればするほど、余計それ──爪を切りたいが、背中がかゆい──が〈成句〉のように響きだし、何だったら故事のひとつも持っていそうな貌をしはじめるのを感じるが、繰り返すように何の含意も含蓄もないのである。おそらく、爪については「切れ」、背中については「掻くな、何か塗れ」と、妻は言うだろう。
『ユダヤとイスラエルのあいだ』 から、『国ってなんだろう?』 へ。そしてまた『ユダヤとイスラエルのあいだ』に戻る。行ったり来たり読書。
『ユダヤとイスラエルのあいだ』は 2008年3月、『国ってなんだろう?』は 2016年2月の刊行で、両者のあいだには 2011年3月11日が横たわる。そのことは『国ってなんだろう?』の内容に決定的な影響を与えているが、とはいえ、そこに断絶があるわけではない。より広い話題を扱った概説的内容であることや、若い読者(中学生)を仮想して書かれていることが直接の要因で、当然といえば当然かもしれないが、『国ってなんだろう?』のほうが── 3.11を経たあとであるにもかかわらず、また、パレスチナをめぐる状況もまったく改善が見られないままさらに 8年が経過しているのだったが──少しだけ、読後に〈希望〉の持てる書かれ方がされていると感じる。逆に言えば、それほど、『ユダヤとイスラエルのあいだ』の読後に差す光は薄いのだ。

 加えて、とくに日本におけるバイナショナリズム認識は、欧米圏からの輸入という形で間接的になっているだけでなく、「あのサイードが言っていた」ということが根拠となってしまっている。もちろんサイード本人は、自らがルーツをもち深くコミットしていたパレスチナの現状に対する冷徹な認識のうえに立ち、かつ、思想史的な可能性を紡ぎ出そうとしていたのであり、その発言の意義の大きさには疑いはない。だが、サイードを語ることがパレスチナの現状を語ることと混同されがちな日本の知的消費構造のなかで、ナイーヴにバイナショナリズムを称揚することは、現実的コンテクストも歴史的コンテクストも欠いている。
早尾貴紀「終章 イスラエル/パレスチナにおける国家理念の行方」、『ユダヤとイスラエルのあいだ──民族/国民のアポリア』、p.290

 さらに、ここなんてもう、批判されているのは見事にわたしだ。わたしのことだよ。
けれども、つづいて『国ってなんだろう?』を読み、ふたたび『ユダヤとイスラエルのあいだ』に戻ってきたときには、不思議とその〈希望〉の光量が増しているのを感じるのだ。つまりは目が馴れて(理解が深まって?)、より多くの光を感取できるようになったということかもしれない。
より多くの光を感取できるようになった目に、じつに感動的に飛び込んできたジュディス・バトラーの言葉がある。いや、同書のその論文はバトラーの思想に可能性を探りつつも、イスラエル問題を扱うときのバトラーの〈らしくなさ〉を批判的に検討したものなので、こうして一部分のみ取り出し、「さすがいいこと言う」的に扱ってしまうのはアレなのだけれども、ちょっとご容赦願って。

〔略〕バトラーはただ、それを「決定不可能な状態のまっただなかに、アンビヴァレントな不安のなかにとどまりたいという欲望」と呼ぶことができるかもしれない、と言う──「何か新しいものが現れるまで互いにそばに寄り添い力を合わせていられるために」
早尾貴紀「第六章 ジュディス・バトラーの『躊躇』」、同書、p.192、太字強調は引用者。というわけでバトラーの言葉については孫引きなわけだが、ここで引かれているのは「 Jews and the Bi-National Vision」という 2004年1月のエルサレムでの講演で、その末尾の部分にあたる。

あー、この稿、つづくと思います。いや日記なんでね、そりゃつづくんですけども。

Walking: 6.4km • 9,466 steps • 1hr 35mins 4secs • 303 calories
Cycling: 3.8km • 19mins 9secs • 83 calories
Transport: 126.3km • 3hr 27mins 48secs
本日の参照画像
(2017年2月24日 11:15)

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/ 20 Feb. 2017 (Mon.) 「鰤には不意をつかれた」

ロビン。2005年2月。

うわっ。これ気づいてなかった。村川拓也君──いや、「君」ていうほど知ってもいないんだけどさ──『 Fools speak while wise men listen』。東京では 3月4日、5日の二日間、3ステージのみ。早稲田小劇場どらま館。そのあとに京都公演もある。詳しくは公式サイトを参照ください。
うーん。面白そうだよなあ。ていうかきっと面白いよなあ。村川君だもんなあ。
さて、本日は反省をば。

@obami23: このところ、周りの人にひたすら甘えさせてもらってる。そして、みなさんお安い御用だとプロフェッショナルな仕事をしてくれる。。なんてこったよ!うれしいよ!!!待っててね!倍返しすっからな!
2017年2月20日 19:35

 大場(みなみ)さんの近況についてはほとんど知らないので、このツイートが具体的にどういった事情を指しているのか、そこのところはわからないのだけれど、しかしわたしはこれを読み、ひるがえって自身の行動に照らすに、大場さんにたいしてはふざけたリプライを投げることにのみ躍起になっていた己の振る舞いというものを、大いに反省したのである。だから、当初はそうした反省の思いを伝えようと文章を入力しつつあったのであり、信じてほしいが、毛頭、つぎのようなリプライを送る気などなかったはずなのだ。

@soma1104: @obami23 私に油抜きできる油揚げがあったら言ってください。抜くんで。
2017年2月20日 20:25

 「あの、油揚げにお湯かけるやつ、何て言うんだっけ」と、検索をはじめてしまったときにはもう手遅れだったのだと思うが、いったいなぜ、油揚げのことなど頭によぎらせてしまったのかはわからない。検索すると「油抜き」と「湯抜き」という言葉が出てきたのだ。言われてみれば「ゆぬき」という響きには聞き覚えがあり、また語呂も好ましいが、しかしネット上の表記では「油抜き」のほうが圧倒的だった。ひょっとして「油抜き」のほうも、これでもって「ゆぬき」と読む習わしだろうか。それともこれは愚直に「あぶらぬき」だろうか。ツイートでは「油抜き」の表記と、「あぶらぬき」という読みを採用することにした。
 いや、することにしたじゃないよ。
 反省していたんだよついさっきまで。大場さんのまわりに居るたのもしいプロフェッショナルたちに倣うべく、もっとわたしもシャンとしようと思っていたはずなのだ。だいたい毎度々々、大場さんが返信を考えなければならないことになるのが申し訳ないじゃないか。むこうはむこうでいろいろあるだろうにさ。
ねえ?

@obami23: @soma1104 それより鰤のくさみを取ってほしいんですけど。
2017年2月20日 20:40

@soma1104: @obami23 もうお湯沸かしちゃったよ。わかったけどちょっと待ってよ。お安いよ。御用だよ。
2017年2月20日 21:06

 そう答えておいて、わたしは鰤の臭み取りについて調べる。焦る思いで Googleの検索結果を繰っていけば、みんなそれぞれ、いろんなことを言っているようにも見える。
 塩か? 塩の声が多いか?
 というかそもそも、そのあと鰤で何を作るのかによっても方法は変わってきたりしないのか。いったい何だ、何を大場さんは作ろうとしている? 今度は焦らずに記憶を辿り、「鰤と大場さん」で思い当たることがないかを考える。何もない。

@obami23: @soma1104 そのお湯は、油揚げの油抜きするためのお湯ですか、鰤のくさみ取るためのお湯ですか?御用だよ。って穏やかに穏やかじゃないこと言わないでくださいよ。
2017年2月20日 23:43

@soma1104: あ。鰤もお湯でいいの?
2017年2月20日 23:53

Walking: 3.1km • 4,247 steps • 47mins 24secs • 146 calories
Cycling: 1.3km • 6mins 51secs • 28 calories
Transport: 43.5km • 42mins 57secs
本日の参照画像
(2017年2月21日 09:47)

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/ 19 Feb. 2017 (Sun.) 「似顔絵来る」

ロビン。これもピーとのツーショット(拡大させると反対側にいます)。2005年2月。

朝、牛尾(千聖)さんから似顔絵イラストが届く。ツイッターのアイコン用にお願いしてあったもの。こちらがその原画。アイコンとして用いるにあたっては余白を切り取って正方形にトリミングしたのと、そのさい目一杯まで含められるように若干周りの黒を塗り足しただけの加工で、あとはそのまま使っている。で、こちらが牛尾さん自身による似顔絵の解説。

つまりですね、モノマネ王者のコロッケが岩崎宏美の『シンデレラ・ハネムーン』のモノマネをするデフォルメのごとく、描いたのです。決して相馬さんが顎がでてるわけではなく、相馬さんが時折みせる表情、上唇を入れて下唇をグッと上に上げるやつが私は好きなので、それに笑顔を足したら「もはや相馬さんではなくなったかもね」、てなことです。

 なるほど。
 「上唇を入れて下唇をグッと上に上げるやつ」ってのはたぶんアレだな、何の考えも浮かんでおらず、会話を表情だけでごまかそうというときによくやるアレだと思う。
そしてまた、「いらないでしょうが」と言いつつ、山ちゃん(旦那さん)の「渾身のらくがき」も送ってくれた。苦闘のあとをにじませ、こちらは何点も似顔絵がある。で、それらはちょっとまとめ直して、ツイッターのプロフィールのヘッダー画像として使わせてもらった。ヘッダー画像のほうは各クライアントによって扱われ方がけっこうちがうから、ここにもその全貌を掲載しておくとこんな感じ。

 真ん中に大きく載せてある一枚を指して、「うまいじゃん」とはわたしの妻の弁。なかなかどうして似ているらしい。
いやほんと、お忙しいところを夫婦してご協力いただき、ありがとうございます。しばらくはこれで行きます、アイコン。

Walking: 22 meters • 17 steps • 40secs • 1 calories
本日の参照画像
(2017年2月20日 16:46)

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/ 18 Feb. 2017 (Sat.) 「Go Back!」

ロビン。ピーと。2005年1月。

こちらが「生傷男」ディック・ザ・ブルーザー。いまあらためて拝すると愛嬌が感じられ、ちょっとだけブルーナのキャラクターとの親和性を思わなくもない。

誰かしらが「いいね」をくれる(理解/共感してくれる)かなと楽観していたら何ひとつ反応がなかったので、本日のセルフライナーノーツ。

@soma1104: つい、ディック・ザ・ブルーナって言いそうになるよね。
2017年2月18日 1:38

 そもそも知らないひとに解説したところで「はあ。」ってなもんでしょうが、何と取り違えているかというと「ディック・ザ・ブルーザー」。( 1960年代〜 70年代ぐらいが全盛の)往年のプロレスラーです。ミッフィーよりも、かの「生傷男」の異名のほうがより幼少期の記憶に──兄の蔵書の、豆たぬきの本の『プロレス名鑑』等によって──刻印されている者の「あるある」(もしくは「ないない」)です。
あと、きのうはこれが思いがけず、42もリツイートされたのだった。

@soma1104: 笑っちゃいけない(ちゃんと批判しないといけない)けど笑っちゃった。なんだよ、「産ませる性」としての権利って。

@yamtom: ファーザリングジャパン、政府関連のイベントその他にどっぷり入り込んでるからなあ。ここも注意必要。「産ませる性」としての権利と自由とか、何言ってるのってかんじだ。http://fathering.jp/repro/about_project.html
2017年2月17日 12:41

2017年2月17日 13:02

 「産む性」という言葉──本来これ自体にも留保を付けるべきなのかと思うが、ひとまずそこは措くとして──に対置するものとして、何の疑念もなく「産ませる性」という語を持ってくるその無自覚さ、ばかさ(対置させるなら「産めない性」だろうよ)に思わず笑ったのだったが(そして、少なくともこれを「笑える」立場の者としては「一笑に付すべき」物言いであるという思いもあるのだが)、いっぽうでは、これを一笑に付すことのできる〈男の無自覚さ/ばかさ加減〉と捉えることそのものがもつ〈男性性〉に嫌悪を抱き、恐怖する方もあるだろう。それはもう、「はい」と応答するよりまずはない。

@dear_amand: @soma1104 イヤーーー申し訳ないですけど女の自分はクスリとも笑えず、むしろ不快を超えてゾッとしました。はっきり言って強姦を連想させます。
2017年2月17日 13:12

@dear_amand: 男を、女に産ませる性であると表現するのって、民族浄化の域にまで想像が及ぶわ。強姦は性欲のみならず支配欲が根源にあるときくが、これはまた別次元のおぞましさをもつ「産ませる」。支配のみならずもう絶滅までいくと。生物的恐怖じゃね?
2017年2月17日 13:18

ちょっとウェブの話を。16日の日記を更新するなかで、そこから 15日の日記へ参照リンクを張るにあたり、参照させたい箇所のみを抜粋して AMP形式で記述したべつの HTMLを用意してみた。といって、これ、AMPとしては 1箇所だけズルをしていて、右肩の「×」ボタンを押したときに直前のページに戻るようにするため、使用不可な javascriptの history.back()を使っている1]

1:直前のページに戻らせるため〜

AMPの書式に則った命令文としては a on="tap:AMP.goBack"というのがあるが、これは微妙に用途が異なり、lightboxを閉じたり、back to topでアンカー移動したりと、同ページ内でのヒストリーがなにがしか発生したあとでないと機能しないもののようだ。詳しくはこちらを参照。ちなみに、いったんヒストリーが発生してしまえば、繰り返しタップすることで自身以外のページ(直前のページ)に戻ることも可能。

 やりたかったこと(できてないけど、なんとなく再現したかったもの)はつまり、Googleの検索結果から AMP対応ページをタップしたときの、あの感じである。あれはたしかに速い。そして、AMP対応ページの表示時に Google側が付け足すヘッダー部分がとてもズルく、そこにある「×」ボタンを押すことで瞬時に検索結果に戻るその動作がまた小気味よい。その小気味よさにはキャッシュ技術も関係しているのだろうことも併せ、つまり Googleのインターフェイスは数多の AMPたちを内に取り込んで、あたかも〈 Googleの外延をのばす〉ようにして動作するのである。こちらのコンテンツを AMPに対応させ、Googleに資するのもいっぽうではやぶさかではないものの、しかしその代わりに、あの外延をのばすためのインターフェイス──余所の AMPにぱっと行ってぱっと帰ってくる、あのヘッダー付きで AMPへとリンクを張るための UIコンポーネント──ごと、AMP Projectが提供してくれたらいいのになあと思うところなのだった。まあ、たぶん無いだろうけれども。

Walking: 899 meters • 1,347 steps • 13mins 42secs • 43 calories
Cycling: 1.4km • 8mins 28secs • 30 calories
Transport: 34.6km • 45mins 47secs
本日の参照画像
(2017年2月20日 14:08)

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/ 17 Feb. 2017 (Fri.) 「居残りあれこれ」

ロビン。2005年1月。

ツイッターアイコンの件。笠木(泉)さんにわたしの顔を刺繍で作ってもらう案のほうはこの日記に書いただけで直接にはまだ何も連絡していなかったのだけど、読んだらしい笠木さんからツイッターを通じ、「作ってみようかな」とリプライがある。「ぜひ。お願いします」と返すと、「やりましょう」と快諾してくれた。そして、あんまり(出来を)期待しないようにと、つぎのように笠木さんは言い添える。

@izumikasagi: @soma1104 下手でも許してね。無料オプションだと思って。何のオプションかわからないけども。
2017年2月17日 12:44

@soma1104: @izumikasagi はい、笠木マンチョコのおまけだと思って。
2017年2月17日 12:52

 応答したわたしの「笠木マンチョコ」はもちろん「ビックリマンチョコ」ってことだけど、するとこれ、喩えとしてはヘンというか、ビックリマンチョコはおまけのシール(刺繍)のほうがむしろ子ども(わたし)たちの本命なのであって、もとの笠木さんの謙遜とは逆向きになっている。そこで一転、気になってくるのは刺繍の(実質的な)添え物ということになる──刺繍目当ての無慈悲な子どもたちによって捨てられたりすることになるかもしれない──笠木マンチョコのほうだ。それはいったいどんなチョコなのだろう。
ここのところ、「居残り佐平次」もしくは「居残り佐平次 サゲ」で検索してこのページ( 2008年2月4日付「居残り佐平次考」)へ来るアクセスが急増中だ。居残り佐平次にとくに季節要因のようなものもないだろうし、いったいなぜ検索数が増えているのかと訝っている。誰かの、ものすごい名演でもあったのかな。そういえば、3月1日に大阪・千日前のトリイホールで行われる「南光・南天ふたり会」では、南光が「居残り」を演るらしい。むろんわたしは行かない(行けない)が、お近くの方はこれ、行くといいんじゃないかな。

@nan1208nan: 毎月1日は、トリイ寄席ですが、3月は南光・南天二人会です。 水曜日の18:30からですが、良かったらお越し下さい。上方の『居残り』演りますので。 https://twitter.com/nan1208nan/status/830603078034272258/photo/1
2017年2月12日 11:23

そして東京ではこのニュース。

@umaji_tanseikai: 「第2回廓噺研究会」の開催が決まりました。4月14日(金)18時30分開場19時開演「らくごカフェ」予約二千五百円当日三千円、志ん好「居残り佐平次」馬治「文違い」です。裏を返す方も、初会の方も是非!ご予約は、らくごカフェまで。rakugocafe@hotmail.co.jp
2017年2月17日 13:01

 去年 11月に山村(麻由美)さんと聴きに行った「廓噺研究会」の、その第2回。日付はすでに情報を得ていたが、いよいよ両人のネタ出しがされ、志ん好が「居残り佐平次」、馬治が「文違い」とのこと。志ん好の居残りは初演だっけか。少なくともわたしは聴いたことがない。うーん、どーだろ、どうなるんだろう! わがことのように緊張するよ!

Walking: 2.7km • 3,893 steps • 40mins 47secs • 127 calories
Cycling: 1.3km • 6mins 1secs • 29calories
Transport: 35.6km • 36mins 50secs
本日の参照画像
(2017年2月20日 03:57)

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/ 16 Feb. 2017 (Thu.) 「iPhone 8は石」

ロビン。2005年1月。

二月上旬はひさびさの日記皆勤。えらいえらい。
そういえばこないだのアンケートもいつのまにか総投票数が 10に届いた。10人だ。少なくとも 10人が読んでいる。10人いればもう御の字というか、充分にやる気の出る数字である。「日記」をね、なかなか読んでくれるもんじゃないですよ 10人ものひとが。紀貫之ぐらいのものでしょうか。こうなったらもう「キノ」って呼んでくれてもいいとさえ思う。
しかしこうして日付も追い付いて、おおよそ現在時に近いかたちで更新するようになると途端に不安になり、圧倒的に推敲が足りていないのではないか──たとえば死んだことにして、みたいなの話は、金正男氏の遺体引き渡しという問題/困難に触れずに済ませたことでずいぶん説得力を欠く結果になったし──という気分にさせられるのが厄介だ。
少し前の、ちょうど更新のなかった時期にはちょくちょくリロードをかけていた児玉(悟之)君のサイトだが──それたんに、前回開いていたタブを記憶して起動時に開き直してくれるブラウザの設定によって毎日アクセスするかたちになっていたということもあるのだが──、その習慣がほどけ、油断しているあいだに何日分か更新されていた。気づいてまとめて読む。なかでも 2月12日付のそれの、待ち合わせの描写(「ただの喧嘩に。」に至るまでのところ)がとてもよかった。
年がら年中、ひっきりなしに流れてくる感のある「つぎの iPhone」の噂について、それがもはや「ちまちまとした変化」であるようにしか映りにくくなっており、「いいよもう、いちいち」という気分にさせられることを、その児玉君がつぶやいていた。

@kodamasatoshi: もう、iPhone8はでっかい数字の「8」みたいな形で、8の下の丸部分がホームボタン手相占いとかになったらニュースにして欲しい。 次期「iPhone」はディスプレイで指紋認証?--ホームボタンが消えるかも(CNET Japan) -http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170216-35096655-cnetj-sci
2017年2月16日 18:11

@soma1104: @kodamasatoshi 「iPhone8は石」とかね。
2017年2月16日 18:16

@kodamasatoshi: @soma1104 それは気になりますね。カラバリも、MIKAGE(御影石)とかで。
2017年2月16日 18:18

@soma1104: @kodamasatoshi Viewportがまちまちだったりして、われわれは苦労することになるかもね。
2017年2月16日 18:28

@soma1104: @kodamasatoshi それか、(大方の予想どおり)ネットは見れなくて、ウェブが廃れるか。
2017年2月16日 18:32

@kodamasatoshi: @soma1104 どちらも困りますね…。自然物からのインターネットへの挑戦ですね…。あと、「凶器はiPhone8」というニュースも増えそうで不安です。
2017年2月16日 18:34

 まあ Appleだからね、石といってもこのぐらいはかっこよくしてくるかもしれないが、でも、石。

stone

丹念にニュースを追えていないのであれだが、「 2国家共存にこだわらない」というトランプ米大統領の発言は、べつに「ゆうべサイードを読んだ」とかじゃないんだろうなあ(サイードは、いわゆる「 2国家解決」論と、その上に成り立つオスロ合意とに終始反対していた)。一瞬「お?」と思ったけれど、ちがうかあ。

Walking: 3.9km • 5,857 steps • 1hr 2mins 16secs • 187 calories
Cycling: 2.5km • 12mins 30secs • 55 calories
Transport: 69.9km • 1hr 11mins 12secs
本日の参照画像
(2017年2月19日 21:57)

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