11
Nov.
2012
Yellow

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/ 30 Nov. 2012 (Fri.) 「母に iPad 2 を渡す」

16:42
キセルを京都まで羅宇仕替えに出す。(千代田区, 10° Mostly Cloudy)
19:56
寿司。上。
22:59
日記を更新。19日付「迷惑な奴ら」。 http://t.co/W2B03O80

「Day One」はいつしか、(モバイル端末からの入力であれば)記入時の場所と気温、天気を自動で記録するようになっていた。とはいえ「Day One」自体をたいして活用してはいない。
春を迎えるにあたり、ってこともあり、また単純に詰まってもきたので、キセルを京都まで、羅宇の仕替えに出す。竹の部分(あそこを「羅宇」と呼ぶ)を交換してもらうため、キセルを封筒に詰めて郵便で送り、別途メールで連絡する。あのキセルを買った京都の「谷川清次郎商店」は、元来、先代だか先々代あたりのころは羅宇竹専門の職人だったそうで(竹の交換のみをなりわいにして商売が成り立った時代がかつてはあった)、郵送でのやりとりで竹の交換にも対応する。作業代金の支払いは現金書留(のみ!)、作業完了後は着払いで送り返してくれるという流れだ。
夜、有楽町で待ち合わせて母と会う。「寿司。上。」とあるのは母のおごりだ。ちょっとごちそうというと比較的寿司を選びがちなのが母である(肉があまり好きでないこと、および江戸っ子であることに因る)
寿司のあと、場所を喫茶店にうつして iPad 2 を渡し、使い方のレクチャーをざっと。体系だった説明を、と思ってもそれはなかなかむつかしいのだった。「それが山だとわかるまでは、のぼってみないとしょうがない」といったところだろうか。いまちょっと、いいことっぽいことを言ってみた。
iPad の Safari で 12月以降の寄席の番組を調べて、やっぱりつぎ(母といっしょに行くの)は正月二ノ席の末廣亭(トリは柳家小三治)かなあということになる。
本日(30日)の電力自給率:7.2%(発電量:1.4kWh/消費量:19.2kWh)。11月の自給率:35%(発電量:257kWh/消費量:716kWh)

(2012年12月11日 12:36)

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/ 29 Nov. 2012 (Thu.) 「見逃したテレビについての日記」

きょう木曜は、深夜に「ザ・狩人(ザ・ハンター)」(日本テレビ)の放送がある日として知られている。先週の放送時にツイッターで、

@s_ken1: いま偶然見てる4チャンの『ザ・狩人』すばらし過ぎる。見れてよかった。感動した。 http://t.co/LFdkAwH7
2012年11月23日 2:44

@soma1104: 私もです。
2012年11月23日 4:09

@soma1104: あと、ヒロイさんも絶賛してます。ここ3回ぐらいすごいのが続いてるらしく、どんどん純化してるようです。
2012年11月23日 4:24

@s_ken1: そうなんだぁ。要チェックだな。しかしなかでも藤井隆さんの純度の高さは群を抜いてましたね。
2012年11月23日 20:20

と盛り上がったところの「ザ・狩人」である。
見逃した。寝てしまった。だからといって、「録画して見る」というのはなんかちょっとちがうというか、これを生(リアルタイム)で見る贅沢、というのをひじょうに感じさせてくれる番組である。
あ、上記の(鈴木)謙一さんとのやりとりはあれで終わってリプライを返していなかったけれど、「藤井隆さんの純度の高さ」が「群を抜いて」いることについては、まったくもって同感です。
ちなみにひと月ほど前の、

@soma1104: これピーター出てこないとみた。
2012年10月19日 2:27

これも「ザ・狩人」についてのつぶやき。たぶん放送開始から 10分弱ぐらいでつぶやいたものだ。この回は、葉山にある「サンルイ島」(洋菓子店)でのロケで、そこでピーターと待ち合わせをするという主旨の回である。案の定、最後までピーターは出てこなかった。
あ、いま検索していたら、「TVトピック検索」という goo のサービスで、放送内容の概要をテキスト実況しているものを見つけた。別途、動画も発見したのだけれど、むしろこっちのテキストのほうが端的に、(最近の放送を見たことがあるひとにはなおさら)その「くだらなさ」と「何もなさ」が伝わるかもしれない。

今回は神奈川県・葉山でピーターと待ち合わせをする。サンルイ島で待ちながら、出演陣が最初にピーターを見たのは何かについて、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」、映画「乱」、「テレビあっとランダム」などの名前を挙げた。

ピーターの誕生日会について、藤井隆は一度だけ呼ばれたことがあると述べた。また、番組の企画で誕生日会に呼ばれた浅越ゴエがとても喜んでいたというエピソードを披露した。

ピーターがプロデュースしている、日テレ通販限定の「バルコス イタリアン レザーバッグ」を紹介。購入は日テレの通販番組「ポシュレ」でできると紹介した。

ピーターの別荘にある温泉に入ったらしいという有名人として、イチロー、阿部慎之助、牧瀬里穂などの名前を挙げた。

ピーターがプロデュースしている、日テレ通販限定の「慎之介鍋」を紹介。購入は日テレの通販番組「ポシュレ」でできると紹介した。

椿鬼奴がピーターと番組で共演した際に、人間ドッグで検査した結果、参加者の中で一番高齢であるにもかかわらず、どこも悪いところがなかったというエピソードを披露した。また、バッファロ五郎Aが赤井英和のお酒に関するエピソードを披露した。また、藤井隆がピーターがその才能を見出した人として、高橋克典と風間トオルがいると述べた。

(後略)

[ザ・狩人]の番組概要ページ - TVトピック検索

妻が面白かったという 11月8日の「寒い秋を吹き飛ばせ!」の回(わたしはやはり見逃している)も、妻の説明を聞くかぎり、たぶんぜったい面白かったろうと想像されるのだった。

藤井隆らが暖かいはずなのに、寒いという演技をしながら葉山の浜辺にて押しくら饅頭を行った。

防寒具を着込んだがまだ寒いとのことで一行は熱々の鍋を一味をかけながら食べることになった。実際には気温が高く熱いため汗を流しながら鍋や熱々のお茶を食べたり飲んだりし続けた。

(後略)

[ザ・狩人]の番組概要ページ - TVトピック検索

ちなみに見逃したきょうの放送について妻(彼女も見逃している)は、「あの番組波あるし、先週の予告の感触では、そんなでもない回だったんじゃないかな」と勝手なことを言っている。
本日(29日)の電力自給率:38.7%(発電量:10.5kWh/消費量:27.1kWh)

(2012年12月11日 11:10)

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/ 28 Nov. 2012 (Wed.) 「彩里さんとか、どうか」

11月28日。「いいニッパー」の日かどうかは知らない。調べるもんかそんなこと。
早朝に「地点」のサイトを更新する。来年 1月25日〜 29日に京都で上演される『コリオレイナス』の情報を掲載。今年 5月にロンドンのグローブ座で初演した舞台の凱旋公演で、特殊な客席構造を必要とすることもあって首都圏での上演予定はないというし、都合さえつけばきっと観にいきたいなあと思っているが、そういえばこんな折り、以前なら児玉(悟之)君宅が京都にあったから泊まるところにも事欠かず重宝したのだったけれど、いまやその児玉君も足立区の西新井に越してきてしまい、いったいわたしはどうしたらいいのか。どこへ泊まればいいのか。いや、『コリオレイナス』の観劇だけならべつに日帰りでも問題ないので、今回はその日のうちに東京にもどってきて児玉君ちに泊まるってことでもいいんだけど、やっぱり、京都か大阪に気安く泊まれるところがほしいじゃないか。そしてどうせならかわいいコの家がいいとわたしは欲を出す。その点、児玉君ちは山村(麻由美)さんがかわいいわけだし、児玉君だってどちらかといえばかわいい部類の顔だと言えよう。あそうだ、ここ読んでないと思うけど(伊藤)彩里さんとか、どうか。どうかって何だ。
と、いきおいだけでもっていま無軌道なことを書いているのは、さあいよいよこの日記、「日付」にはなお引き離されて、あらためて思い出されることのとくにない、模糊とした「過日」を扱いはじめているからだ。書いている現在は 12月12日。はたして今年中に、わたしは「現在時」に追いつくことができるのか。

本日(28日)の電力自給率:13.4%(発電量:3.7kWh/消費量:27.5kWh)

(2012年12月12日 04:30)

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/ 27 Nov. 2012 (Tue.) 「カッターズ」

これがトウネズミモチの幹。いや、伐採する前の写真を撮っていなかったのでこれはうちのそれではなく、うちのはここまでは育っていなかったけれど。

4:39
寝てしまった。
10:33
その木は「ネズミモチ」だという。
10:50
とか言っていたらもう無かった。わが家ではいま、庭木カッターズ(1名)が活躍中だ。
21:39
日記を更新。18日付「26歳になる」。 http://t.co/uKTotqJj
23:12
ん? 20時から?

もうどのくらい手入れをしていないのか記憶が定かでないほど、庭を放置していた。たいへんに生い茂っている。家の外壁のすぐ脇のところから生えた木は植えた覚えのないもので、いつのころからかそこに小さな木が育っていたのだが、ぐんぐんと勢いをつけ、いつしか高さ 4m ほどの立派なものになっていた。そろそろ近隣の庭を侵食しはじめている。何の木かも知らないまま妻がひそかに期待していた「なんかきれいな花」もいっこうに咲く気配を見せず、でまあ、いよいよばっさり伐るかと相談のまとまっていたそれは、手も足も出ないほどのサイズではないものの、電動のこぎりが要りそうなことと、後始末(枝をこまかく切り分けて燃えるごみとして出す)のことを考えると、処分も含めてプロに任せてしまうのが得策だろうと思われ、それでひと月ほど前にネットで「庭木カッターズ」という業者を見つけてあった。
見つけたことに安堵していましばらく放置していたわたしだが、ツタ性のこれも名を知らぬ植物が雨どいを伝い、あるいは壁を這い、幾筋にも分かれて屋根のあたりまで達していると妻は言う。これは玄関側から見て裏手にあたる壁の話。知らなかった。外壁の角を垂直に下りてくる雨どいはキッチンから近い位置にあり、強風の折りなど、直径 1.5cm ほどのその固い茎にへばりつかれた雨どいのミシミシ言う音が耳に届いて料理中に切迫する、いやだ、何とかしろという訴えを受け、それでおとといの昼間に外へ出てみたが、ある程度より先はもう素人には手遅れというか、あたりまえだが相応のハシゴが必要なことになっていて、じゃあこれもまとめて庭木カッターズにたのもうということになる。呼べばすぐ来るカッターズは、しかしきのうの予報が雨だったため、けさ来ることになった。
「ネズミモチですね」とカッターズのおじさんは言う。4m ほどに育った木のことだ。いま「ねずみもち」と打ってスペースバーを押し、「楨」と一字の変換候補が出たことに驚いているわたしだが、ウィキペディアを見ると「鼠黐」の字が当てられていて、「和名は、果実がネズミの糞に、葉がモチノキに似ていることから付いた」とある。で、うちのこれは「トウネズミモチ」だそうで、「トウ」は「唐」、中国原産の近縁種ってことらしい。

公害に強いことから、公園緑化樹などに利用される。
(略)
急速に日本各地に広がりだしているため、侵略的外来樹木としても注意が必要である。

トウネズミモチ - Wikipedia

ではなぜ公園に植えてしまったのかとは素朴な疑問だが、しかしそれにしても、「公園」とはうちの庭も大きく出たものだ。うかうかしていたらあぶないところだった。公園になってしまうところだった。
ツタ植物のほうも名前を教えてもらったはずだが忘れてしまった。昼過ぎに作業完了してカッターズのおじさんは帰っていったと妻の報告。カッターズのおじさんはたのもしかったが、まあ、それなりの出費ではある。
「ん? 20時から?」というツイートは、11月30日の「007 オールナイト」(@TOHOシネマズ 六本木ヒルズ)の上映開始時間の話。思っていたのよりも早く、そうなるとスタートに間に合わないので、ちょっと観に行く計画はナシかなあ(一本目に上映される『女王陛下の007』をこそ観たいので)、という独り言である。
本日(27日)の電力自給率:52.5%(発電量:13.6kWh/消費量:25.9kWh)

本日の参照画像
(2012年12月11日 01:44)

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/ 26 Nov. 2012 (Mon.) 「想像のスタイル、あるいは約束の日記」

ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』(書籍工房早山)。

@obami23: 基本的人権をなくすってどゆこと自民党なに考えてんの
2012年11月25日 10:14

という大場(みなみ)さんのツイートを目にしたときには、その〈つぶやき〉としての正当性──ってのもなんだけど、そりゃそうも言いたくなるよねってこと──とともに、ふと、ネットに漂う〈発言〉としてみたときの、こうしたつぶやき群の弱さのことも思ったのだった。この表現ではおそらく、「いや、無くなりはしないよ」といった反論のしかたをしてくるだろう相手のカウンターに巧みに取り込まれ、むしろ利用されてしまうのではないかという懸念がはたらいた。この場合の反論は、対話としてのそれというよりも、通りがかった第三者への説明としてのそれだ。
てなことを言っていたら、さっそく大場さんのもとには「無くさないよ」というリプライが届いていると知り、驚く。ただ、そのリプライはわたしが想像したような、何というか〈老獪な反論〉とはちょっとちがったけれど。

@416kotaro: 無くさないよ。反日活動する団体は捕まえるって事だと思う。日本を内部から弱体化させようとする団体の影響が強いから。例えば、日本人って日本の事を良く思えなかったり、全ての右翼・保守は軍国主義で怖いという認識があったり。こういった反日活動を抑止させるためだと思う。
2012年11月25日 11:51

@obami23: 反日と判断される範囲が曖昧になって、一般レベルでの表現の自由が脅かされる可能性があると思います。政府が国が好き勝手に国民を抑圧できるようになるとすれば、それは怖いです。
2012年11月25日 22:46

@416kotaro: 判断を具体的にするのが司法の役目だよ。日本国のシロアリを駆除するために、今よりも表現の自由に少し規制をかけなければならない。反日が完成を迎えたら日本での日本人の表現の自由が規制される事も考えられる。国があって個人がある、個人があって国があるかで考えは違うけどさ。
2012年11月26日 7:44

@obami23: 政府を信用できるか、できないかで見方も変わってきますよね。現状を見るかぎり、わたしには信用できないということです。大げさに言えばこの意見自体が反日と見なされてしまう、規制されてしまうことがあり得る。それを懸念しています。
2012年11月26日 12:19

 基本的な再反論は大場さんが丁寧に(!)してくれているとおりだけれど、わたしはまたべつのことを考えたというのは、この @416kotaro さんによるツイートが、見事なまでに〈ネイション=国民国家〉の想像力を示しているように思われたからだ。

ネイションにおいては、おなじ「国語」によっておなじ出版物を同時間に読むという経験や、あるいは教育における「民族=国民史」という歴史の恣意的な読みを通しておなじ歴史的体験をしているという空虚な均質性をあらかじめ創りだすことによって、いきなり明確に境界づけられた全体として〔その共同体が〕想像されているのである。そして、この均質性の想定によって、ネイション内部でも「ネイションになりきれない」マイノリティが周縁化されるのである。(略)この〔等質的社会への帰属度合いをもの差しとした〕序列化による差別は、均質空間を構想してきたにもかかわらず残ったものではなく、均質空間を構想することによって創りだされたものなのである。

小田亮「日常的抵抗論」 第2章 原初的紐帯と想像の共同体〔太字強調は引用者〕

 もちろん『想像の共同体』においてベネディクト・アンダーソン自身が述べているように、あらゆる共同体は多かれ少なかれ想像されたものである。想像されたものであることそれ自体がネイションを特徴づけるわけではないし、まったく想像を介さない、真の、原初的共同体がどこかに存在しているわけでもない。そうではなく、ネイションが特徴づけられるのはその独特の想像のスタイルによってであり、そのスタイルというのがつまり上記にあるような、〈個人〉と、〈明確に境界づけられ、一気に与えられる全体〉とを直接的に、無媒介に結びつけるやり方のことなのである。
 「国があって個人がある〔か〕、個人があって国があるか」という対比は、どちらを優先させるかという話として(好意的に?)とれば、前者が自民党の憲法改正草案であり、後者が現行憲法であるというふうに読むこともできるけれど、それ以前に、そもそもこのレトリックにおいては「国」と「個人」という二元論(二項対立ではない)によって、両者が直接的に結びつけられているということをまず指摘しておかないといけないだろう(そして、二元論はつねに、けっきょくのところ「一」を隠し持っているということも)
 ところで、ネイションにおけるこの想像のスタイルを、小田亮は記号論的な比喩の類型──提喩/隠喩/換喩──になぞらえて、「提喩的な想像のスタイル」と呼ぶ。ざっくり説明すれば、提喩(シネクドキ)とはカテゴリーの包摂関係、すなわち〈種と類〉、〈個と全体〉の関係にもとづく比喩のことで、「人はパンのみに生きるにあらず」という言い方における「パン」(食べ物という上位カテゴリー全体をたとえている)、「親子丼」という命名法における「親子」(そのカテゴリーに含まれる、個別的な種である鶏肉と鶏卵の結びつきを表している)などがそれにあたる。また、隠喩(メタファー)は類似性による記号の結びつきを指し、換喩(メトニミー)は隣接性による記号の結びつきを指す。「白雪姫」が隠喩で、「赤頭巾ちゃん」が換喩である。

 ネイションのように個人と明確な境界をもつ全体とを直接的に結びつけるような「想像の共同体」における想像のスタイルを「提喩的な想像のスタイル」と呼ぶならば、もうひとつの想像のスタイルは「換喩/隠喩的な想像のスタイル」と呼ぶことができる。それは、親族関係や近隣関係や主従関係といった直接的な隣接性による換喩的なつながり〔を〕起点として、それを直接的な関係をもたない者にまで、その直接性(個々の特異性=顔)ということを保持したまま延長する換喩的な想像と、言語や慣習や体験の記憶などさまざまなものから(何を共通とするかはそのつど異なりながらも)共有するものを見出すことによって、何らかの類似性による隠喩的なまとまりを作りだす隠喩的な想像とがともに働く想像のスタイルであり、そこで作り出されるまとまりは、ぼやけた全体や重複しあう境界しかないまとまりである。こう書くと、不可能に近いことのように思われるかもしれないが、それは、私たちが日常生活のなかで、会ったこともない「知り合いの知り合い」を、話などだけで自分の知り合いと感じたり、初対面の人とのあいだでなにか共通の体験を見出したときに「仲間」だと感じたりすることを指している。

同上

 あるいはまた、こうした指摘。

重要なことは、提喩的想像のように、個人が無媒介に全体と結びつく同一化は、生活の場の隣接性によるつながりから切り離されてなされるのであり、「個人化」それ自体によって成り立つということである。つまり、全体化としてのナショナリズムは、個人化によってばらばらになった人びとを結びつけるのではなく、個人化そのものであり、人びとはばらばらのままになされるのである。

小田亮「真正性の水準と『顔』の倫理──二重社会論に向けて──

 だからといって、たんに、提喩的な想像のスタイル──と、それによって支えられた「非真正な社会=まがいものの社会」(これはレヴィ=ストロースの用語)──を廃せばいいということではないし、そんなことは不可能である。真正な社会と非真正な社会を峻別するのはその想像のスタイルのちがいであるが、どちらも「社会」であることに変わりはなく、また、(「真正/非真正」という用語がちょっと誤解を生みやすいとはいえ)どちらに優位性が置かれるという話でもない。そもそも、ここで言われる非真正な社会──要は、法や貨幣、行政機構、メディア等を媒介した社会──なしに、人口六〇億の世界など成立しようがないのである。
 重要なのは、真正な社会と非真正な社会とが、あるいはまた「提喩的な想像のスタイル」と「換喩/隠喩的な想像のスタイル」とが、同じ平面上に向かい合っているのではなく、ことなる〈ふたつの層〉として存在しているということであり、ひとは、とくに意識せずとも、そのふたつの層を同時に/二重に生きているということである。
 だからこそ、いくら世界を非真正な社会が覆い尽くそうとも、われわれは〈顔〉のある関係のなかで、彼/彼女らと、伸縮自在に、換喩/隠喩的な想像のネットワークを結ぶことをやめないのだ。

@ShahdAbusalama: Wohoo! Just came back home. The street is still crowded w/ ppl of #Gaza celebrating our victory, the martyrs' lives that didn't go in vain!
2012年11月22日 6:40

 以前にも紹介した、停戦発効の夜、ガザでつぶやかれたツイートである。
 ここで彼女の口をついて出る「勝利」や、「死が無駄ではなかった」といったようなレトリックに、ナショナルな想像力がはたらいていないとは言い切れない──いや、はたらいているのだろう──し、イスラエルという〈敵=外部〉によってこそ規定される〈同胞=内部〉が、彼女の想像力のうちにもあるのかもしれない。ただ、それと同時にここには、目の前に開けるストリートと、そこに集う群衆の〈顔〉がある。それ以上のことをこのツイートの 139文字だけから想像することは無責任でもあろうが、しかしここには、固定的なカテゴリーとして一気に与えられるところの「パレスチナ」ではない、伸縮自在なネットワークとしての〈かれら〉がたしかにいるように思え、そのことがわたしをこのツイートへ引き寄せるのだし、わたしが彼女の「勝利」に寄り添いたいと願うのもひとえにそのためである。
 もちろん、ふたつの社会の層が同時に存在する以上は、非真正な社会の地平に立っての批判や対抗も必要である──パレスチナが「非加盟オブザーバー国家」として承認されることには一定の効果・効力があるはずだし、われわれは、この目前の選挙に勝たねばならない──けれども、同時にまた、どんな状況にあっても、〈顔〉のある関係による真正な社会の層が、職場での人間関係や、近隣関係、そして若者のサブカルチャーのなかに、一見非真正な〈システム〉に包摂されるかのようでいて、そのじつその〈システム〉を飼い馴らしつつ、しぶとく、創られていくことを忘れてはならないのだ。
いや、けっきょくあんまり、うまく説明できていないかな。申し訳ない。また日をあらためて言葉を足そう。
で、最後にやや手荒に言い換えてみるなら、こういうふうにも言えるだろうか。
われわれはもちろん、〈システム〉に則って、「票」を投じなくてはならない。また、〈システム〉をよりよくするという意味では、皆が等しく「1票」であるようにしていかなくてはならない。けれどそのいっぽうで、われわれはけっして代替可能な「票」などではない。そして、われわれにとっての真の希望はその後者の地平にこそ──それがたとえ、前者の〈システム〉にたいしてつねに敗北を約束された土地であるにしても──、普遍的に存在するのである、と。
本日(26日)の電力自給率:2.3%(発電量:0.6kWh/消費量:25.4kWh)

本日の参照画像
(2012年12月 8日 06:22)

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/ 25 Nov. 2012 (Sun.) 「アメリカンを飲みながら」

アメリカン(イメージ)

松任谷由実40周年記念ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』(初回限定盤)

いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリー『アワー・コネクション』 アワー・コネクション - いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリー

プラズマカー。

きのうの小笠原(悠紀)につづき、きょうは夕方、大場(みなみ)さんに会う。新宿の「珈琲西武」。ひょっとすると人生ではじめて注文したかもしれない「アメリカン」を飲む。アメリカンは薄いぶん(?)量が多かった。そういうものなのでしょうか、アメリカンてやつは。

写真、というか絵は、大場さんがこないだ夢のなかで乗ったという乗り物だ。とても楽しかったらしい。前後に二人乗りができ、夢では小笠原を後ろに乗せてと走ったという。ハンドルの軸の部分がぐにゃぐにゃで、それを進みたい方向へぐにゃぐにゃ曲げて舵を取るというから単純そうでなかなかむつかしい。ハンドルの下にあるのがアクセルペダル、後輪の上にあるくぼみは後ろに乗ったひとが足をかけるところだと説明がつづく。「動力は?」と訊くと「(小笠原)悠紀ちゃん」という答えだ。燃料として、後ろに乗ったひとから何かを吸い取る仕組みらしく、基本的にふたりともわーきゃー言って乗っているのだが、後ろの小笠原は次第に減って、小さくなっていく。なおふたりしてわーきゃー言い、充分に楽しんだあとでふと運転席から振り返ると、三分の一ほどにもなった小笠原がその眼に自然と湧いた疑問を溜め、「なんで(わたし小さいの)かな?」と純真そうな顔をこちらへ向けている。その顔がとてもかわいかった、とこれは(その夢の)わたしの感想。
あと何話したっけなあ。いやまあ、基本的にはサイトの話。あと、「新しいスリーサイズ」の話とか。ちなみにこの日、わたしがかばんから取り出した iPad が「どうも小さい」ことに大場さんはすぐに気づいた。きのうの小笠原はまったく気づかなかった。というか意に介さなかった。
そのつもりで入ったわけではないのだが、帰りに寄った CD屋でつい、松任谷由実の 40周年記念ベスト(DVDのついた限定版のそれ)を買ってしまう。その購買行動との関連はわからないものの、直前には iPhone で、いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリーの『アワー・コネクション』を聴いていたわたしだ──あ、でも、このアルバムのティン・パン・アレイ・ファミリーに松任谷正隆は不参加なのか。まあいいか。ともあれ『アワー・コネクション』はすばらしい。でもって、これを聴くと東長崎にあった義姉の部屋が思い出されるのは、このアルバムにはあの部屋で出会ったように記憶しているからで、猫の世話などたのまれて泊まった折りなどに棚から取り出してよく聴いていたからだ。
来年 1月3日には日本武道館でユーミン40周年を祝う一夜かぎりのライブイベントがあって、そこには細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆らが出るらしい。あ、来年 1月のヴァン・ダイク・パークス with 細野晴臣は予約しましたよ。ひさびさの贅沢@Billboard Live。
さて、大場さんの乗り物だけど、案外〈ユメのもと〉はこれだったりしないのか。こちら、電池もペダルもなく、ハンドルをスイングさせて進む未来系乗り物「プラズマカー」。

本日(25日)の電力自給率:53.1%(発電量:13.4kWh/消費量:25.2kWh)

本日の参照画像
(2012年12月 6日 16:22)

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/ 24 Nov. 2012 (Sat.) 「割れた鏡のなかから」

連想で付けたタイトルはジャックスの曲名(「割れた鏡の中から」)だけれど、そういえばわたしは Selah Sue から一転、早川義夫ばかり聴く日々だった。

夕方、高円寺で小笠原(悠紀)と会う。グーチョキパーズのサイトの話。そして写真は小笠原の iPhone だ。画面が割れたのは 22日、木曜の夜だから小笠原はこのあと「BONITA」(新宿ゴールデン街のラテン・バー)のバイトにむかうところだったと思われる。

@yukikirin: iPhone遂に夢の画面ひび割れ
2012年11月22日 20:36

@yukikirin: 左上から右下へ簾のように斜めがかるひび、クールジャパン。
2012年11月22日 20:38

@obami23: ひび割れのない画面に満足できない身体になってしまった。うそ。ひび割れがないの快適。絶対直したほうがいい。
2012年11月22日 23:47

@yukikirin: お姉さん、この美しいひびの中に投射される女体美さえ麗しくなってるよ、意味わかんないけどつまりひび割れカッコイイ
2012年11月23日 10:31

 ひび割れを賛美する最後のツイートが翌朝の 10時半である。おそらくだが、たぶんこのあと、小笠原は寝たのではないか。そして充分な睡眠ののち、もう夕刻にちかいころだろうか、昨夜のあのはしゃぎっぷりはいったい何だったのかというくらいに素直に落ち込む小笠原が、自室の万年床のうえにいたのではないか。いや、万年床かどうかは知らないけど、そう想像させるにたる、その延長線上の小笠原が、待ち合わせた「サンマルクカフェ」の向かいの席には座っている。「はあー」とため息をついている。
 割れた直後の 22日夜、きょうの待ち合わせのことでテキストメッセージのやりとりをしていたわたしには、会話の途中おもむろに、

かはら、わやなはたさ、わはら

ボタン押せるかチェックでした、すんまへん

と送って寄こした、あの小笠原の元気がない。画面が割れてしまったからだ。
 がんばれ、だいじょうぶだ、小笠原。きみはかわいい。万年床のうえのきみがかわいい。まず液晶をなおせ。話はそれからだ。

本日(24日)の電力自給率:27.3%(発電量:6.2kWh/消費量:22.7kWh)

(2012年12月 5日 19:11)

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/ 23 Nov. 2012 (Fri.) 「iPad mini を買う」

こちらは iPad mini で撮った写真。

はあ? とお思いだろうか。こいつは何を言っているんだと、あるいはお腹立ちでもあるだろうか。そうなのだ、わたしはこれまで二度にわたり、「そうしてわたしは iPad mini の誘惑を断ち切った」(10月29日)「そしてわたしはこらえたのだった。何とかもちこたえた」(11月9日)とここに書いてきたところの者である。ただ、言い訳ならあるのだ。聞いてほしい。
母の iBook が壊れたのだ。
なにせ iBook であるから天寿と言ってもよく──使っていたソフトを聞き取りしていたら、ひとつはよもやの「AppleWorks」だった──、ハードディスクは無傷で取り出せたものの、それ以外のハード的な何かが息を引き取ったとのこと。それで、後継機として何をあてがうかという兄弟間の相談があったのだけど、予算面も含め、すぐに「これ」というところは決まらない。はたして iPad で事足りるのか、そうもいかないのかってところで、使用用途を考えるといずれやっぱり MacBook なりが必要だという結論になる可能性は高いものの、まずはメールもブラウジングもできない状況を抜け出すため、わたしの iPad 2 を渡し、それでしばらく様子を見ようということになる。
するとどうだろう、わたしの手元には「 iPad がない」。「 iPad mini がない」のは致し方ないとして、「 iPad がない」のはちょっとあれだ。験がよくない。だからまあ、iPad 2 代として母から幾らかもらい、それを足しにしてわたしは「新しく iPad を買う」という話なのだけれど、そこであらためていま、iPad のラインナップのなかからひとつを選んで買うとなればそれは、やっぱり iPad mini ってことになるのだった。
いざ買うとなるとなかなか在庫がなく、ツイッターで「 iPad mini 在庫」と検索する日々が何日か。きょう検索すると吉祥寺の「KICHIJOJI STORE」が「在庫あります」と言っていて、夕方、そこへ行って手に入れた。白の 64GB。それとグレーの Smart Cover、12WのUSB電源アダプタ( iPad mini に付属するのは 5W のそれ)を買う。
本日(23日)の電力自給率:5.6%(発電量:1.8kWh/消費量:32.1kWh)

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(2012年12月 5日 16:03)

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/ 22 Nov. 2012 (Thu.) 「相馬の好み」

10月にリリースされたばかりの、八代亜紀『夜のアルバム』。プロデュースとアレンジは小西康陽。つい買っちゃったじゃないかこのやろう。 Songs Around Midnight - 八代亜紀

画像検索すると、たとえばこうしたあたりが出てくる。

セラ・スーの件の写真が、しかしやはり〈ある典型〉を示している可能性を残すのは、あの写真、千石規子にも通じるところがあるなあと思うからだ。規子ちゃんは大好きです。写真は『静かなる決闘』より。

ブライアン・キイ『メディア・セックス』は高校のときに読みました。

八代亜紀、含み綿のやや受け口ですよ。

と、夜、iPhone に不意のメッセージが飛んできた。ちょうどべつの人物とテキストメッセージのやりとりをしていたところだったので咄嗟に「うるさいよ。」と返してから、一拍おき、「でもまあ、そうか。」とわたしは態度を軟化させる。
なぜおもむろに八代亜紀だったのかについては翌日になって新聞のテレビ欄を見、そうかこれかと知ったが、どうやら、テレビ東京の「木曜8時のコンサート~名曲!にっぽんの歌~スペシャル」を見ていたらしい。
何かと言うと 11日付の「SELAH SUE だ!」に書いた、わたしの〈好み〉の話である。

かわいいぞこりゃ。
いや、おおかた角度の問題とか、そういったことだと思うのだけど、これなんかだとちょっとシャルロット・ゲンズブールの面影さえ感じられ、「それ、要は受け口ってことでしょ」って指摘はまったくそのとおりなんだけど、さらに言わせてもらうならこの場合、かるく含み綿をしたかのような頬の膨らみと受け口とのバランスが絶妙なのであって、いわば〈マーロン・ブランド似〉とまとめることもできそうなその特徴こそが、わたしにとっての〈弱いんだよそれに、おれ〉という顔なのだった。
何の話でしょうか。

11 Nov. 2012 (Sun.) 「SELAH SUE だ!」

 自分で書いておいてなんだけれど、この説明はちょっと正確でない。いや、たしかに書いている最中、〈マーロン・ブランド似〉というキーワードがふっと浮かんだときには何か自分の好みというものの根っこを掴んだような感触があったのだけれど、あらためてそれを「含み綿のやや受け口」とまとめられ、突きつけられてみれば何かがちがう。そうじゃないんだ。だいたい、女性の好みの話が「マーロン・ブランド」に収束するはずがないじゃないか。ただ、受け口──まあ、しゃくれと言い換えてもいいです──に弱いのはほんとうの話。
「好きですか? 八代亜紀は。」と返ってきたので、しっかり答えようと Google で「八代亜紀」の画像検索をしたのち、「かわいいよね、たしかに。」と見解を返す。
件の写真におけるセラ・スーが相当かわいいのもたしかだ。ただ、ああは書いたものの、この顔が好みの〈典型〉なのかというとわからない。なぜいま、自分の好みについて整理/説明しなければならない気にさせられているのかもわからないが、いったいこの写真のどこにわたしは決定的に惹かれているのか。考えるといよいよわからなくなり、ことによると胸なんじゃないのかと滅多なことを思いはじめないでもない。あるいは、口元に添えられたマイクこそがわたしに訴えかけているのかもしれない。ってブライアン・キイかおれは。
「わかってきましたよ、相馬さんの好み。」と返信が来たのでどきりとする。八代亜紀をかわいいと評したことから演繹され、何か思ってもみなかった図星を指されるのではないかという畏れと期待が胸のあたりをひやりと撫でる。字面で相手に伝わったかはわからないが、文字を打つわたしはいつしか詰問するような口調になっていた。「いつのまに何がどういうふうにわかってきたというのか。」
そして返ってきた答えが、まるで「子供の言い草」だったのでわたしは笑ってしまった。

セラスーと八代亜紀ですよ。相馬さんが好きなのは。歌もうまい。

 ああそうです。そうですよ。
本日(22日)の電力自給率:36.6%(発電量:9.2kWh/消費量:25.1kWh)

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(2012年12月 5日 02:10)

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/ 21 Nov. 2012 (Wed.) 「あなたが希望を抱くなら、何よりそれがわたしにとっての希望である」

デイヴィッド・グロスマン『死を生きながら──イスラエル 1993-2003』(みすず書房)。

明けて 22日の午前 4時(現地時間 21日午後 9時)、イスラエルとハマスのあいだの停戦が発効。

@ShahdAbusalama: It's 9:00 pm.. The truce should be starting now.. But I just heard another explosion. The drones still sound very loud #GazaUnderAttack
2012年11月22日 4:04

@ShahdAbusalama: Wohoo! Just came back home. The street is still crowded w/ ppl of #Gaza celebrating our victory, the martyrs' lives that didn't go in vain!
2012年11月22日 6:40

@ShahdAbusalama: That's how big my smile is now! Me & mum joining the crowd of ppl celebrating #Gaza's victory. I can finally sleep!! http://t.co/CN4EN87I
2012年11月22日 9:39

 そうか、これは victory なのか、didn't go in vain! なのかと対岸にいる者の思いは複雑なれど、いまはとにかくこのふたつの笑顔と、ふたりが見つめているのだろう the crowd of ppl 、かれらのひしめくその street に想像力を寄り添わせよう。
ただ、残念ながら、続報(11月29日付)によれば「停戦」はかなり危うい状況にあるとも伝えられる。

ガザ攻撃の停戦から6日経ちました。ガザへの人道援助などが到着しています。しかし、懸念したようにまだイスラエル軍は攻撃を仕掛けています。やっぱり、これで終わりにはならんか!

空爆はしていないもののF16戦闘機は上空を低く飛び、ガザ北部では何回もの銃撃があり、負傷した人たちが10人以上出ています。南部のラファでも青年が撃たれて重傷を負いました。

封鎖の緩和については、まず海域が今まで3マイルだったところが6マイルに増えました。倍増!と、喜ぶのは数のまやかしです。5キロメートルが10キロメートル弱になっただけの話。ウォーキングで軽く歩けちゃう距離です。だいたい、オスロ合意でさえ、本当はパレスチナの海域はたったの20マイルだったのだから、その半分になったに過ぎないのですわ。

しかし、その「領海」とも言えない狭い海に、ガザの漁師たちはこぞって出航しました。そして、28日、6マイル付近で漁をしていた舟がイスラエル海軍艦からの攻撃に遭い、1つの船は破損、もう一つの船はイスラエルのアシュドッド港に連行され、乗組員7~8人が拿捕されています。やっぱり、嘘じゃん。緩和されてない。封鎖と変わらないです。停戦合意破りです。

(中略)

攻撃で踏み荒らされたガザが少しの落ち着きを取り戻したのとは対照的に西岸でイスラエル軍が暴れています。連日の拉致(逮捕)が続き、全体数が今はわかりません。また、抗議の投石をした者たちへ実弾が発射され、2人が射殺されました。

このようなネチネチとした攻撃は今後も続くでしょう。そして、ガザからロケット弾を発射させるように仕向ける。そして、停戦破棄としたい。このようなイスラエルの思惑が感じられます。だから、注視が必要です。

(後略)

P-navi info : 停戦はしたけれど…〔太字強調は原文〕

イスラエルの作家で和平活動家、デイヴィッド・グロスマンによって綴られた手記、『死を生きながら──イスラエル 1993-2003』は、イスラエルのイツァーク・ラビン首相とパレスチナ解放機構のヤセル・アラファト議長がホワイトハウスで握手をした、オスロ合意の時点からその記述がはじまる。

 もう一つ重要なことがある。現状を出発点に、これからの年月をかけて、二つの民族は新しい自己定義を作り出すことができるはずである。敵との対比で作られる定義ではなく、自己の内面にもとづいた定義である。(略)
 イスラエルとすべてのアラブ諸国との間に和平が確立されれば、そのときようやく、わたしたちも中東の一部であるという事実を自分のものにできる。わたしたちがここにいるのは官僚的な決定における地理上のまちがいの結果ではないこと、ここがこれから生活をいとなんでいく場所なのだと納得できるだろう。(略)
 この将来のヴィジョンを実現し、このヴィジョンにしたがって生きることができるようになれば、わたしたちイスラエル人も、長年の本能的な自己否定のあとで、ようやく自分たちにも未来があると信じられるようになるだろう。ついに民族としての継続性と展望を確保できたと思えるかもしれない。そうなれば、わたしたちの人生のすべてに死が影を落とすこともなくなる。そしてイスラエルの集合的意識、人生とは潜在的な死であるという意識の奥深くに根ざす暗い破滅の宿命観から、みずからを解き放つこともできるかもしれない。
 自己決定とはこういうことを意味しているのである。イスラエルがパレスチナに自己決定権を認める合意ができたなら、みずからも自己決定の権利を獲得できるだろうと、わたしはずっと信じてきた。いまイスラエル人にとって、パレスチナ人にとって、そしてこの地域で正気を失っていない諸国にとって、そのときが訪れた。いまここにあるもの、それは未来である。

「1 オスロ合意調印──突然、人間的な接触が実現した」『死を生きながら──イスラエル 1993-2003』(みすず書房) p.10-12

 1993年9月に語られた希望だ。
 二十年が経つ。その途中でオスロ合意は「歴史的失敗」へと至ったし、作家もまた、「合意」そのものが孕んでいた非対称性(一貫してパレスチナ側に立つエドワード・サイードが指摘し、批判しつづけていた問題点)にこのあと気づいていくことになるのだけれど、しかしこの希望は、1993年9月に、たしかにかの地で抱かれた。
そのことが、何よりわたしにとっての希望である。
本日(21日)の電力自給率:54.1%(発電量:13.8kWh/消費量:25.5kWh)

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(2012年12月 4日 23:42)

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/ 20 Nov. 2012 (Tue.) 「自民党はバカなのではないかという懸念、されど」

話題の(?)自民党「日本国憲法改正草案」(PDF) は、それ自体は今年の 4月27日に発表されたもので、発表当時もすぐさま一部からの批判を浴びて問題視されたと記憶するが、それがいま、こんどの衆議院議員総選挙を前にしてあらためて注目を集めているということのようだ。また、その付帯資料である「日本国憲法改正草案 Q&A」(PDF) は 10月発行のもの。なお、いま現在、自民党の公式サイト (www.jimin.jp) へいくと( Cookie で判定して、まだ見たことがないひとであれば自動的に)選挙用の特別サイト (special.jimin.jp) が表示されるようになっているが、特別サイトからは、ページ下部の「自民党ホームページ」ボタンをクリックすることで通常版のサイトへ移動できるようになっている。
すでに指摘があるように、「ちょっと待てこら」と言いたくなるポイントのいちばんは「天賦人権説の否定」だ。憲法改正推進本部の「Q & A」はいきなりこう言う。

Q2 今回の「日本国憲法改正草案」のポイントや議論の経緯について、説明してください。

答 今回の草案では、日本にふさわしい憲法改正草案とするため、まず、翻訳口調の言い回しや天賦人権説に基づく規定振りを全面的に見直しました。(以下略)

「日本国憲法改正草案 Q & A」(PDF) p.3

 すべてひとは生まれながらに自由・平等で、幸福を追求する権利をもつとするのが「天賦人権説」である。ここでの「天」はむろんキリスト教的な神の概念に出発しているけれど、「天から与えられた」という説明のしかたが呼び出されるのはつまるところ、人権が普遍的な価値であることを論証するすべがないためであって、誰によって与えられたかの問題ではなく、とにかく人権は普遍的な価値である「べき」という主張こそが天賦人権説の根本である。だから、それに対置させられるのは一般に「国賦人権説」ということになる。人々の権利は国家や王権から授かるものであり、したがってそれらの権力によって恣意的に制限されもするという考え方が国賦人権説だ。
 という、これは本来そういう話なのだけれど、「ん?」と思わされるのは憲法改正推進本部の、たとえばつぎのような説明である。

Q13 「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務について、どのような方針で規定したのですか?

答 (略)また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。例えば、憲法 11 条の「基本的人権は、……現在及び将来の国民に与へられる」という規定は、「基本的人権は侵すことのできない永久の権利である」と改めました。

同 p.14〔下線強調は原文〕

 「例えば」として挙げられている条文のちがいをこの説明に沿って素直に読むと、要は「受動態の文章をやめた」ということであるようにも受け取れる。で、憲法改正推進本部がお気に召していないらしいこの「西欧の天賦人権説」が「翻訳口調の言い回し」という問題と並列に語られていることとも考え合わせると、ひょっとして憲法改正推進本部は天賦人権説のことを、「読んで字の如し」のもの──つまり人権は天(西洋的な神)から与えられたものだということ──としてしか理解していないのではないか、そこに対概念としての国賦人権説などは意識されていないのではないか、という疑念が湧いてくる。
 つまり、たんにバカなのではないかという可能性だ。
ただ、バカなのではないかという疑念も払拭できないいっぽうで、しかし以下のような条文の変更をそこに並べるならば、さすがに全員がバカとも思えない巧妙さが透けてくる。というのは「最高法規」にかんする規定の部分で、

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

という現行憲法のひとつの肝がばっさり全文削除(!)されたのちに記述される、こういった条文である〔下線強調が現行憲法との異同〕

(憲法尊重擁護義務)
第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う

日本国憲法改正草案

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ

現行憲法

 そもそも憲法は他の法律一般とちがい、〈国民が守る〉ものではなくて、〈国民が国家(権力)に守らせる〉ものであるのだが、新設された第百二条によってそれがきれいに転倒されているうえ、そこであらたに「憲法尊重擁護義務」の対象とされた「国民」と入れ替わりに、改正草案において、「憲法を擁護する義務を負う」者のリストから見事に消し去られている人物がいることは条文の異同からあきらかである。そう、「天皇」だ。
 そう考えたとき、

この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

という例の〈能動態〉には、その背後に、憲法という主体の裏にひっそりと張り付いた、べつの一人称の影がちらつくようでもある。ことによると自民党は、それを「我が国の〈天〉賦人権説」と呼んではばからないかもしれないというくらいの臆面のなさが、この改正草案にはある。
 いや、なにせですよ、改正草案において天皇を「元首」と明記することにかんして、

自民党内の議論では、元首として規定することの賛成論が大多数でした。反対論としては、世俗の地位である「元首」をあえて規定することにより、かえって天皇の地位を軽んずることになるといった意見がありました。反対論にも採るべきものがありましたが、多数の意見を採用して、天皇を元首と規定することとしました。

「日本国憲法改正草案 Q & A」(PDF) p.7〔太字強調は引用者〕

というような議論を交わしているようなひとたちなのだ、この憲法改正推進本部は。

さて、それにしてもすごいコピーだよ。

日本を、取り戻す。

 ある意味うまいっちゃうまい──わりと広く、これに訴えかけられちゃう層はあるんだろうなあと思う──んだけど、しかしこれまた臆面もない。
まずこれ、〈誰が〉取り戻すのかというと「自民党」だ。まちがっても「われわれ(国民)」ではない。「われわれ」と「自民党」とを素直に重ね合わせられる者──つまり自民党支持者。そういうかたがいらっしゃることは存じております──であればこのコピーの主体を「われわれ」と読み替えることはむろんオーケーだけれど、あなたがいわゆる「無党派」なら、ここに主体としての「われわれ」を読み込んではならない。そのことは、日本を〈誰から〉取り戻すのか、ということのほうにもかかわってくる。
「自信を取り戻す」といった言い方における自己完結的/自己実現的なニュアンスをまず響かせつつ、同時に「民主党から」取り戻すことが暗に言われている、だけではおそらくない。コピーの主体を「われわれ」としてしまうと見えなくなってしまうのだが、自民党はおそらく、根源的には「われわれ(国民)」からこそ日本を取り戻そうとしているのだ。たとえば、ときに民主党を選択してしまうようなわれわれから。このコピーから透けてみえるのはそうした欲望であり、つねにこの党がそうした欲望に突き動かされていることは、すでに憲法改正草案で見たとおりである。
本日(20日)の電力自給率:48.0%(発電量:13.2kWh/消費量:27.5kWh)

(2012年12月 1日 23:02)

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/ 19 Nov. 2012 (Mon.) 「迷惑な奴ら」

そうだった。

というわけでこれ、14日付の日記をいまわたしは書いているのだけれど、その〈書いている現在〉でいえばいまは 19日で、きのう 18日には 37歳の誕生日もすませ、ついてはたくさん「おめでとう」の声もかけられたし、他方、ここひと月余りずっとそれに振り回されてきた仕事にいよいよかたが付いたこともあれば、あとまあ何しろ大場(みなみ)さんの胃腸炎が治ったことにはほっとさせられたわけで、だから、わたしはいま自分が立っているはずの 14日を、もうずいぶん昔のことを見るような目つきで見ているのだった。

14 Nov. 2012 (Wed.) 「あることないこと」

というふうに書いていたのが 19日だった。いま、その 19日のことをわたしは 30日という〈現在〉から眺めている。どんどん差が開いてるじゃないか。面白いように引き離されていく。いったいこの調子で、わたしは〈きょう〉に追いつくことができるのか。そろそろあきらめたらどうなのか。だいたい 18日付の日記なんか、あんまり面白くなかったし。

写真はきょう、昼間妻から送られてきたもので、添えられていた「迷惑な奴ら。」というキャプションが示すとおり、妻がこたつから離れたわずかな隙にその側面に寝、入口をふさいでしまう者らの図だ。ついでに、たまさか写り込んだ右上のトートバッグに言及すれば、そこに描かれているリトルミイは妻によく似ている。
いやだから、現在時に追いつくも追いつかないも、そんなことはわたしのさじ加減ひとつなのであって──だって語り手は、つねに書く現在にいるほかないのだし──、なら、こうして順を追い、律儀に日付を辿りなおすことに何らかの勝算というか、目論見があるのかというと、たぶんない。だって 18日付の日記とか、ぜんぜん面白くなかったし。
あー、てんでだめだなあ。
そうわたしは、いま、18日付の自分の文章を読み返して、その出来のわるさに気落ちしているところの者である。妻に読ませて恐る恐る「長い?」と訊けば、「なにが? いつも長いじゃない」と慰められた。
本日(19日)の電力自給率:7.1%(発電量:1.9kWh/消費量:26.7kWh)

(2012年11月30日 22:55)

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/ 18 Nov. 2012 (Sun.) 「26歳になる」

誕生日だ。毎度書いているけど高校同級の上山(英夫)君も同じ誕生日。おめでとう、ありがとう。
夕方、池袋へ。ヒッピー部『あたまのうしろ』二回目。ほかにいくつも行動の幅はあったろうものの、どうやら大場(みなみ)さんが元気になったらしいので、よかったねと、ただそれだけを言いにかけつける。石原(裕也)君が来ていた。
公演は楽日。石原君といっしょに打ち上げにも顔を出すことになり、でもまだ皆は後片付けがあるので、その少し空いた時間にふたりでイタリアン・レストランに入る。入ってほどなく、奥のほうで歓声が上がったかと思うと店内の照明が落ちて、店が協力してのサプライズだろうちょっとしたバースデー・サービスがはじまった。二、三人が唄う「ハッピ・バースデー・トゥー・ユー」があちらのテーブルから聞こえてくる。で、いまふと思うのだが、このとき聞こえてきた「ハッピ・バースデー・トゥー・ユー」が、石原君によって巧妙に仕組まれて届けられた、わたし宛のサプライズだったとしたらどうだろうか。
どうだろうかってそれ、「びっくりだ」としか言いようがないのは、なにせいまのいま、あれから十日が経ったこの瞬間までその可能性に思い至らなかったほどの巧妙さだからで、いっそ「驚かさない」という、あらたなかたちのサプライズだからだ。どこまで緻密で、どこまで周到な計画だったことだろう。さすがに男ふたり、直接自分たちのテーブルにロウソクが並ぶのは吹き消すほうも吹き消させるほうも照れくさく、お互い柄じゃないよといった思いから、石原君はより間接的に、遠回しに、むこうのテーブルで催されるバースデーな何かに束の間巻き込まれるというスタイルをとることで、何重にもオブラートで包んだような祝意を伝えようとしたのかもしれない。あくまで可能性としてだけれども、そうだとしたら「直接祝ってくれ」と言いたい。わかんないし。

で、われわれは、そのレストランのテーブルでいわゆるクロースアップ・マジックを見ることになる。店が懇意にしているらしい若手のプロマジシャンが食後のテーブルに回ってきて、マジックを──「いや、ちょっと食べたばっかりなんで」とか言ってこちらが断らないかぎりは──披露してくれるのだった。「じゃ、お願いします」ということになり、あれで 10分もかかってないと思うが、けっこう盛りだくさんにやってみせてくれた夢の跡が右の写真だ。カード当てでわたしが選び、「Soma」とサインしたダイヤの 3。石原君が「じゃ、ぼく、エシハラなんで」となぜか名前を偽り、「エ」とサインした 100円玉。そしてそのうしろが、最後の演し物に使われたコカ・コーラの缶と、そこからコップに注がれたコカ・コーラである。
最後の、その「復活する空き缶」とでも呼ぶべきマジックにもっとも心を奪われた石原君は、「エーッ、どうやってんだろ、あれ」「ぜんぜんわかんないす」「無理でしょ?」の三点セットを何度も口にする。ちなみにいま、わたしはついネットで検索してそのタネを知ってしまったのだが、まあ、これはね、一度じかに実演を目にしてから知ったほうがいいと思うのだ。そうすることで、客──つまり、わたし──がいかに何も見ていないかを思い知らされることになる。そーかあ、そうなんだよなあ、論理的に帰納すればタネ(=あの場でじっさいに行われていたこと)はそうでしかありえないんだけど、なまじ「見てた」という意識があるから、「いや、そんなことはないよ」となってしまうのだなあ。
と、なんだかんだいってけっこうマジックを堪能したわれわれ──けれど実演を見ているその場では〈起こったこと〉にたいしてほとんど驚きを見せず、ただその〈技〉に感心してばかりいるためにマジシャンには不評だったわれわれ──は、そのあと、じゃあこんなのはどうだろうかとしばしマジックのアイデア出しをしていた。そこではたとえば大脱出マジックのアイデアや、あるいは「極悪マジシャン」についてのアイデアが出たけれど、それについてはまた機会があればお話ししよう。
その後レストランを出て、ヒッピー部の打ち上げに合流。そこそこ長居して、23時過ぎに石原君と途中退席した。大場さんはばくばく食べていた。

それではこちら、本日の締め括りに。

@nao4200: とりとめもないこと話してたら終電逃して、そうしてだらだら朝まで飲んだりしたいよ。
2012年11月19日 0:05

@soma1104: じゃあこんどそうしよう。
2012年11月19日 0:07

@nao4200: そうですね、計画的に。
2012年11月19日 0:09

@soma1104: 綿密にいこう。
2012年11月19日 0:10

@nao4200: 終電の5分前にドリンクを頼んでしまったところで失敗に気付くシナリオで。
2012年11月19日 0:13

@soma1104: じゃあセリフを割って、相馬「いいか。」/高橋「ドリンク、」/二人で「頼んじゃったし。」でいこう。
2012年11月19日 0:33

@nao4200: ドリンクを頼んだはずなのに店員の粋な計らいでケーキが出てきますよ。「誕生日おめでとうございます」
2012年11月19日 1:26

@soma1104: ローソクを吹き消したぼくに、店員はそっと耳打ちする。「終電もございますよ」。ありがとう。
2012年11月19日 2:06

本日(18日)の電力自給率:51.4%(発電量:13.8kWh/消費量:26.8kWh)

(2012年11月27日 21:34)

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/ 17 Nov. 2012 (Sat.) 「こたつより愛をこめて」

エルフリーデ・イェリネク『光のない。』(白水社)

こたつが届いた。リビングにそれを据える。いま、これもこたつで書いている。
いままでリビングにあったソファは、このあいだ粗大ごみに出した。座面のスプリングがすっかり壊れて、もう何ヶ月ものあいだ、まったくくつろげないものになっていた。ソファがだめになったとなれば、おのずとリビングには人が寄りつかなくなる。あれだけ賑わっていたリビングが、夜歩くには寂しいほどになった。猫用のトイレがリビングの隅に置かれてあるから、猫どもはしばらくその道を通っていたけれど、やがてそれもまばらになり、以降はただ草の生えるにまかせた。
いつしか、リビングはリビング跡と呼ばれるようになった。ちょうどその頃だ。ゆうべ、リビング跡でこたつを見たという噂が聞かれるようになったのは。数人の男が協力して、捕まえてみればこたつだった。「もうしません」と、まだ若いそのこたつは泣いてあやまっていたと人からは聞いた。
こたつで書いているのがいけないのか、よくわからない話になってしまったので──これが世に言う「こたつに化かされる」というやつだろうか──話をもとに戻したい。

メンタルトレーニング中のポシュテ

ソファを捨てて以降きょうまでのあいだ、リビングには、またこたつが届いたさいにも使うだろうということで掃除機──ダイソン──が出されたままになっていた。猫のポシュテが大のダイソン嫌いであることは以前ここに書き、動画を添えたとおりだ。これまでなら、猛威をふるったそのあとにはすぐに家から立ち去っていたダイソンが、なぜか立ち去らずに、うずくまったままそこにいつまでもいるのでポシュテの動揺は大きい。たいへんなことになったものだといったんは背を丸める。とはいえポシュテが恐れているのは要は吸引時の音なので、相手が動かないでいるぶんには多少の冒険心も出、わざわざダイソンのちかくに──きっちり距離は保って──腰を据え、身体には緊張を漲らせたまま背筋を伸ばしてもいる。わが家では、これを「メンタルトレーニング中」と呼んだ。どうも克服しようとしているらしいのだ。
メンタルトレーニングは順調に成果を上げているかに見え、ぴくりともしないダイソンにポシュテは次第に自信をつけて、ときおりホース部分やら、はずれてちかくに転がっている吸い口の部分などにチョイチョイと手を出すまでになっていた。あるいは「ダイソンは死んだ」と、ポシュテはそう結論をくだすに至ったのかもしれない。「嫌な奴だったが、死にゃあ仏だからよ」と、そういった心持ちにさえなっていた可能性がある。しかし、きょう、そうしてポシュテが築き上げてきたものは脆くも砕け散り、一週間ぶりに猛威をふるったダイソンはふたたび押し入れへとしまわれた。

午後、池袋。地点『光のない。』を観る。すごかった。とにかく元気が出た。
 セリフでいうと、

成功した即興は極めて長続きすることがある

という箇所で何かを掴まれた感じがし、その少しあとに出てくる、

技術はなにを反復するか気にしない

でぐっと持っていかれた。と書いても何のことだかわからないだろうし、前後も含めた(戯曲上の)文脈をここに紹介しようと思うものの、じゃあどっからどこまでを引用したらいいかとなると、ずるずるとどこまでもつづいていく独特の戯曲の言葉に絡めとられて、なんだかよくわからないことになるのだった。

ここには他に誰もいない、なぜならそれがいかに非論理的で(ほかならぬわたしたちのサインを欲しがるほど非論理的なことはない!)複雑でそれ自体奇妙に非統一的でわたしたちへの理解がなくても、なんらかのシステムがなければわたしたちは即興しなければならない、わたしたちしか扱えないなにかを作り出さねばならない、他には誰も、音のカオス、どんな音でもかまわない、わたしたちには聞こえない、わたしたちはつくらない、カオスと無意味さが混ざり合い限界なき技術的複製可能性と結びつく、どんな無も思いどおりに反復できる、反復しつつ取り出せる、残るのは無、だが無は技術で何度も反復できる、反復可能なカオス、もはやわからない、同じカオスが続いているのかすでに別のカオスなのか、成功した即興は極めて長続きすることがある、そう、だからわたしたちはとにかく即興を続けねばならない、技術はそれもまた複製するに違いない、わたしたちはまた新たに生産しなければならない、技術はすでに待っている、わたしたちの手からひったくる、すべてを奪う、事前に見ているわけではない、技術はかまわない、技術は反復する、わたしたちが投げつけるものを、わたしたちが差し出すものを、技術はまた別のなにかを反復する、だがそれはさっきと同じもの、技術はなにを反復するか気にしない、そしてすべてが同じになる、まったく同じになる、一つになる、同一になる。

エルフリーデ・イェリネク『光のない。』(白水社) p.51 - 52

 途中でコーネル・ウェストのこともちょっと思ったのは、つまり〈演説〉としての力を感じたからで、〈オーラルなもの〉の放つ、抗いがたい、あやうい魅力のことをやはり思った。
 あとそう、受付で、わたしに気づいた制作のTさんに「明日、誕生日ですよね」と声をかけられた。あんまり仕事してないのに招待してもらっちゃったりして、まったくありがたいかぎりです。
アフタートークを聞かずに池袋芸術劇場をあとにし、西巣鴨へ。マレビトの会『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』。牛尾(千聖)さんが出ている。7時間ぶっとおしで上演されているそれ(途中入退場自由)の最後の一時間半ほどをぼんやり観た。ニュアンスを伝えるのはむずかしいが、場内の照明量(明るさ)がゆっくり、ごくわずかずつ変化するようになっていて、わたしはちょうどそのいちばん暗い(照明のほぼ完全に落ちた)状態のときに会場内へ足を踏み入れた。あとから振り返り、ああ、いいときに入ったなあと、ただ何となくそう思うのだった。

ところでどうでもいい話だが、「こたつ」というとやはり、思い出すのは(古今亭)志ん生のこの小咄だ。というわけで本日のオマケ。ぜひ、志ん生の声でお読みいただきたい。夏、いまちょうど夕立があがったところ。

「ずい分とひどい雨だったなぁ」
「暑くってたまらねェところにザァアーッ と降るてェのは、天の助けだなぁ」
「いいもんだなァ、雨ってやつァ。庭の芝生を見ねェな光ってるじゃねェか」
「おや? 何だい、何だか見たことのねェもんだな。何だいおめえは?」
「あたしは竜(タツ)でございますよ」
「へェー、竜てェのはこういうのかい。で、どうしたんだい」
「今、雨を降らせてたのはあたしですよ」
「へェ、お前が雨を降らしてくれたのかい、ありがとうよ、おかげで涼しくなったよ。で、どうしたんだい?」
「足を踏み外して雲からおっこちちゃったんですよ。今、雲が迎えに来ますからそれまでここにおいといてくださいな」
「ああ、いいよ、おいとくよ。ゆっくりいな」
「有難うございます。私は動物園にでももっていかれんじゃと思っていました。このご恩は決して忘れません。ご恩返しに、暑いときはいつでもそう言ってください。雨を降らせますから」
「暑いときには雨を降らして恩を返してくれる。ありがてぇなー……
でも、寒いときには恩はかえせねーだろー」
「イイエ、寒い時だって恩はかえせますよ」
「寒いときにはどうするぃ」
「せがれのコタツをよこします」

本日(17日)の電力自給率:9.6%(発電量:2.3kWh/消費量:23.9kWh)

本日の参照画像
(2012年11月26日 15:34)

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/ 16 Nov. 2012 (Fri.) 「劇的な恢復」

というわけで、また明け方まで仕事をしつつ、前夜、〈ただの病人〉をして、けっこう負担のかかりそうなくだらないやりとりに付き合わせてしまったことを、ふとわれに返って反省しないわけではないわたしだ。「まさか悪化してねーだろな!」と、朝、メッセージを送っておく。
それにたいし、「劇的な回復を見せてるよこら! あと鏡みたら口の上にちょっと生えてたんだよ、ヒゲ!」と返信があったのが昼前。まあ、やりとりがやりとりだけに、「劇的な回復」というのがホントのことなのか、ただのハッタリ(やせ我慢として読まれるべきもの)なのかがいまいち掴めないのだったが、数時間後、唐突に「速歩きができるようになった!」とメッセージが飛んでくるに至って、どうもほんとに元気になったらしいと知る。
すげえな。
あ、主格・目的格を書きそびれましたが、以上ここまで大場(みなみ)さんの話。このあともそう。
どの程度恢復したのかを訊ねるメッセージを送っておいたところ、夜 11時すぎに「さっそくハムカツを食べた」と報告があった。「6時間後に痛みだしたらアウト」とのこと。じゃあ 6時間後、わたしが痛みだしたらそれもアウトかと訊くと、「それはセーフ」だという。なぜなのか。並の痛みではないのだ、気が遠くなるほど腹がぐわんぐわんいっているのだ、こっちは、きみの食べたハムカツのせいで。「キャベツのせいかもしれなくってよ、ぐへへ」。付け合わせの? 「そう、付け合わせの、だわ。げへへ」。元気になったはいいけど、やけに笑い方が下品になってないか? 「なってなくってよ。失礼ね。しゅぱー、しゅぱー」。こんどは笑ったのかどうかすらわからないよ。「しゅぱぱぱぱっ!」 いまのそんなに面白かった?
と、記憶で書いているのであまり正確ではないかもしれないが、だいたいこういったやりとりだ。何が突然彼女をこちらへ引き戻したかはわからないが、ともあれ、劇的に恢復しつつあるらしいのだった。
すげえな。
本日(16日)の電力自給率:58.0%(発電量:13.7kWh/消費量:23.6kWh)

(2012年11月21日 21:19)

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