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Dec.
2011
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/ 14 Dec. 2011 (Wed.) 「このなんだか青いひと」

まあ、わたしが周回遅れで日記(2、3日前の日付のそれ)を更新しているのが遠因だろうけれど、13日に誕生日をむかえた妻にたいする「おめでとう」メッセージをきょうになりいくつかいただく。ありがとうございます。
そのひとつが下に掲げる @tak_kamerad さんとのやりとりであり、また、かさねて注意を促しておくならば、こうしてツイートを引用するとすぐにページが埋まるからといって、けっしてこれは手を抜きたがっているのではない。@tak_kamerad さんへのリプライを打ちながらわたしは、間違っても「これで日記がひとつ浮いたな」などと思ったりはしていないのだ。

@tak_kamerad: 昨日はおめでとうございましたとなにげなく奥様にお伝え願えますでしょうか?
12月14日 23:02 PM

@soma1104: 了解っす。
12月14日 23:04 PM

@tak_kamerad: とびきりの何気なさでお願いします
12月14日 23:07 PM

@soma1104: それでもふと立ち止まった瞬間に記憶があふれ出す、そんな感じでいってみます。
12月14日 23:09 PM

@tak_kamerad: いいですね、私という存在を気取らせない感じでお願いします
12月14日 23:13 PM

@soma1104: わかりました。自分は祝われているのか、それとも自分で祝っているのか、どちらともつかぬそのあわいを縫ってみます。何言ってんのかわかりませんが。
12月14日 23:20 PM

@tak_kamerad: 祝われている私を祝いでいる自分は誰?って感じでしょうか?なにがなんだか。なにはともあれおめでとうございますとひとつ
12月14日 23:27 PM

@soma1104: あっ、それ大事ですよね、「おめでとうございます」ってやつ。それ言っときます。じゃ、そういうことで。
12月14日 23:28 PM

@tak_kamerad: しまった、うっかり言ってしまった。もう一回言っとこう、おめでとうございます。ではよろしく
12月14日 23:33 PM

でまあ、妻には「( @tak_kamerad さんて)誰?」と訊かれ、「大阪にいるらしいよ」と答える。つまり、よく知らないのだった。アカウント名で呼んでいることからしてまず名前を存じ上げないのだし、どうやら同業(ウェブデザイナー)らしいとはツイッターのプロフィールから知れ、また、なんの根拠もなく似たような歳なんじゃないかとは想像するものの、じっさいのところはまったくわからない。どのぐらい前からだろうこのサイトを見てくださっているらしく、そのせいもあるのか、ツイッターのアイコンからうかがえるその表情は穏やかである。あと、顔でいうと(わたしと比べても)けっこう青い。
といったようなわけで、web-conte.com では現在、そんな @tak_kamerad さんにかんするさらなる情報を募集しています。@tak_kamerad さんについての目撃談、画期的な評伝、初のベスト盤、ロング・インタビュー、ぬりえ、ショートショート集、アイデア創作料理等をお持ちのかたは、どしどし「ウェブ・コント・コム @tak_kamerad さんコーナー」までお寄せください。お待ちしています。
ではまた、あした。
本日(14日)の電力自給率:5.5%(発電量:1.8kWh/消費量:32.5kWh)

(2011年12月16日 03:36)

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/ 13 Dec. 2011 (Tue.) 「また親不知を抜く」

妻の誕生日。おめでとうございます。何もありませんが、今後ともよろしくお願いします。
きのうの「Diarist A Go Go, Part 2」はもう、全編にお付き合いいただいたかたがあるとすれば、ほんと、ありがたいことです。

自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのように書けばいいのだろうか。

というドゥルーズ(『差異と反復』)の言葉にはまったく鼓舞されつつ、わたしとしてはやはり最後には「えいやっ」とアップロードした( Movable Type の「公開」ボタンを押した)ようなもので──まあ、直しては読み返し、……をうじうじ繰り返すのがつねなので、たいがいのものは最終的に「えいやっ」と更新することになるわけですが──、一歩目に踏み出そうとした足をまずどこへ降ろしたものかと考えあぐね、けっきょくすぐにでも踵を返せるあたりにそっと置いてみたような文章になった気もしていて、はたして読んでもらうに足るものだったか、誰かに届くだけの強度をもっていたか、そこのところははなはだ自信がないわけです(あれではけっきょく、あたらしモノにたいする反動的態度を示したにとどまっているのではないか、とかね)
しかしこれ、どうなんでしょうか、「Part 3」は書かれるんでしょうか。
という前回のその日記を直前に待合で更新してから、午後3時10分ごろ、予約時刻からは40分押しで中に呼び入れられて歯科口腔外科の診察室へ。ご存じ親不知(左下顎、前回の反対側)の抜歯である。
二回目ともなればわたしもすっかり心得たもので、じつに泰然として抜かれるがまま、途中、前回にひきつづいて担当してくれたI先生がじつにカジュアルに「あ、やべ」と口走ったのは突然だったにせよ、そこはその口調のカジュアルさにこそすがってなお端然と身をすまし、つづいて「最悪だなこりゃ」と言ったのには心底驚かされるも、それもいずれI先生の踏んできた場数というやつが漏らさせる感想だろうとかまえて悠然と、ただただ削れられ抜かれるにまかせた。抜歯のじっしつは前回と同じ 15〜20分ぐらい、薬の処方まで終わって午後3時40分ごろには診察室を出る。
日記にも書いたが前回は麻酔の切れるのが早く、診察室を出てすぐに痛み止めを飲んだもののそれでも後手にまわって、ロビーで会計待ちをするうちにもうピークが来た。だからとにかく今回はそのことの対処だけを念頭におき、むろん前回同様すぐに飲めるようにと前のを余らせておいた痛み止めはかばんにあるし、また、あまり緊張したり、身を強ばらせたりしないことで麻酔の効きを若干でも延ばせるのではないかと椅子に仰臥しつつそんなことも考えて実践を試みたが、けっきょく、前回のあれはもともとその部位の歯茎が腫れていた(むろん手術ができるまでには腫れを引かせて臨んだものの、完全には引いていない状態だった)ために麻酔の効きが悪かったというのが当たっているようで、コンディションのよい今回は説明どおりの「2時間」たっぷり麻酔が切れず、痛み止めが後手にまわることもなくて、というか、そもそも疼き自体が軽く少ないのだった。快適な術後感とはこのことである。
夜は雑炊。北本(妻の実家)からはイチゴが届く。
本日(13日)の電力自給率:38.9%(発電量:12.4kWh/消費量:31.8kWh)

(2011年12月15日 13:36)

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/ 12 Dec. 2011 (Mon.) 「Diarist A Go Go, Part 2」

ダイアリスト3日付「Diarist A Go Go」参照)として、もしくはニッキストとして思索の歩みをつづけるべく、つぎにわたしは「クラウド」について考えているのだ。いったい、クラウドの思想とはどんなものだろうかとまずはそこから。ただ、思想といってもこの場合、サービスの構築やプログラミングにおける「設計思想」のことではなくて、あるいはそもそも「思想」と呼ぶほどのものでもなくて、日常においてぼんやり受け取っているところの「イメージ」、もしくは「感覚」程度のものかもしれない。なにせ急にクラウドについて考えることにしたので、そうそうたいしたことは浮かばないのである。
また、さしあたって問題とするこの「クラウド」は、iCloud とか Google Music、あるいは Amazon EC2 とかの特定のサービスを検討対象とするものではなくて、それらも含んでいま現在なんとなく流通しているところの「クラウド」という、たぶんに膨張的で境界の定まらない概念のことである。だから「クラウド・コンピューティング」等のいくぶん実体的な言葉も使わず、ただ「クラウド」とそれを呼ぶことにするし、そうすることでさらに、本来は語義に含まれないはずの「ソーシャルネットワーク」的なイメージも、たんに〈気分的に隣接している〉からという理由でそこに侵食してくるだろう。
ともあれ、いま、どうやら「クラウド」らしいのだ、世界は。
ネットに接続するためのなにがしかの端末(パソコンなり、ノートパソコンなり、タブレットなり、スマートフォンなり)が手元にあって、それ以外のすべてのもの──データや、そのデータを扱うアプリケーション、そのアプリケーションを走らせてじっさいに計算処理を行うコンピュータ等──は、ネットワークのむこうのサーバ上に存在する。そうすることで、たとえば「すべてが詰まったノートパソコン」などをいちいち持って歩かずとも、家でも職場でも、あるいは街なかの喫茶店でも旅先のホテルでも、いつでも同じ作業環境が、その場にある端末の画面のなかに用意されるというのが、まあ、よく説明されるところのクラウドであり、クラウドという謳い方がされるはるか以前から提唱されてきたところの「ユーティリティ・コンピューティング」というやつだろう(「ユーティリティ」は電気・ガス・水道などの公共サービスのこと。コンピュータもまた公共インフラのひとつとして提供され、ユーザはそれを所有するのではなく利用し、使ったぶんだけの対価を払うという考え)
ユーティリティ・コンピューティングが称揚される背景には、個々の端末にかかる導入コストおよび保守・管理コストの軽減であるとか、変化対応力であるとか、環境を用意する側のもろもろの事情があるわけだが、そのとき、それを享受するユーザの側に呼び寄せられるのは、つまり〈身ひとつ〉という思想である。かばんにしのばせた小型のノートパソコンと、片手に iPhone、あとは自分の身体がひとつあればどこへ行くにも充分だというようなスマートさ、軽やかさのイメージがそこには付いてまわり、ある種の万能感とともに、近代的な〈個〉がそこに完成するかのような錯覚さえ呼び込みかねない。
もちろん留意しておくべきは、「身ひとつ」なる語がもつ本来の意味合いはそういったものではないということだ。「身ひとつ」の語はけっして「個」を志向するものではなく、その身に不断にまとわりつく関係の複雑さのほうをこそ意識させるものであって、たとえば「身ひとつでがんばる」などと言う場合、(「鼠穴」の弟・竹次郎がそうであったように──ってなんでここで喩えが落語なのかって話だけれど)じっさいにそこでなされるのは、むしろ「個」を忘れ、「共同性のなかに身を投じる」というふるまいなのである。だから、「身ひとつ」になることがいっぽうにおいては(身軽さのイメージにも引っ張られてか)いかにも主体的な「わたし」の獲得というイメージに結びつきやすいのは事実ながらも、それはあくまで誤認であり、「身ひとつ」にこそ宿る根源的な共同性(「無為の共同体」)について考えることは、クラウドの思想を内部から攻略するひとつの契機となり得ると予感する。
さて、クラウドにおいてサーバ上に置かれるデータというのはなにもワードやエクセルのような書類ばかりではない。たとえば iPhone の電話帳(「連絡先」)を想起してほしいが、あのデータはじっさいには iCloud のサーバ上に保存され、Mac があるならば「アドレスブック」によって同じデータが引き出されるようになっているわけで、気づけば、そうした〈身のまわり〉がみな雲の上へと吸いあげられていく。いや、「吸いあげられていく」というのは一面であって、同時にわれわれはそれら身のまわりのことどもを嬉々として雲の上へ差し出してもいるだろう。Twitter、Facebook、Instagram、Foursquare、Flickr、Instapaper、Evernote、Dropbox などなど。これらは相互に絡み合っていて、どれがなにを雲の上へと運ぶのか、もはやにわかには示すことができないほどだが(たとえば Instagram が運ぶのは、はたして「写真」だけだろうか)、それらを利用するわれわれは、あたかも雲のむこうに自身の分身を置こうとするかのようでもある。
「家を出たなう」から「学校なう」までのあいだには物理的な移動を経なければならず、〈身ひとつ〉になってなお関係性と共同性に身を晒しつづけるこちら側のわたしにたいして、むこう側で「家を出たなう」と「学校なう」を統合するのは、その距離を消すことのできる〈わたし〉である。その意味で、わたしは雲の上の〈わたし〉をうらやむことになるが、しかしそこで疑ってみたいのは、その〈わたし〉なるものが出現するのは、はたしてほんとうに雲の上なのだろうかということである。「身体拡張原理としてのテクノロジー」を思うとき、たしかにそこでイメージされるのはこちら側のわたしを基点として延び、クラウド上にまで到達する仮想の身体=メディアであるけれど、しかしもし〈わたし〉なる仮想の主体がクラウド上に結節されるのだとすれば、はたしてそのときどちらが基点となるのか、わたしの延長として〈わたし〉(=インターネット)があるのか、はたまた〈わたし〉(=インターネット)の最突端としてわたしがいるのか、そのどちらともつかない事態が出来することになるだろう。

ここで気にかけるべきは、いつの間にか、所有とアクセスの間の線引きが曖昧になっていることだ。Amazonのクラウド志向の発想では、FireのユーザーはあくまでもAmazonのサーバーに蓄積されたコンテントをその都度引き出して=ストリームを呼び出して、利用することになる。Silkを専用に開発したのも、おそらくは、初動のアクセス速度を上げることで、ユーザーが今接触しているコンテントのファイルがどこにあるかを意識させないようにするためだろう(これは、クラウド側のサービスであればどこの会社も気にかけていることだ)。[太字強調は引用者]
Post-Webの世界を拓くJeff Bezos | JOURNAL | FERMAT

 〈わたし〉なる主体が(錯覚であれ)像を結ぶのは、けっきょくのところ「こちら側」においてなのかもれしない。と同時に、〈わたし〉なる主体がはたしてどこまでわたしに似ているのか、それもまた疑問だ。クラウドによる世界への遍在を欲望する者は、結果、自身のなかに世界を流入させるかっこうになる。〈分散処理の場〉であったはずのクラウドは、〈わたし〉の獲得を夢見る者らの欲望を吸い上げていつしか自らが〈処理する主体〉となり、自らを実現するために数多の端末──わたし──(逆)アクセスする。そこにいるのはつまり、「世界を分散処理するわたし(たち)」だ。
あるいはここに出てくる「世界」を「Whole Earth」と読み替え、カウンターカルチャー的な何かへと接続することで、「世界を分散処理するわたし(たち)」それ自体を希望のうちに語ることは可能かもしれないが、その希望がいま、われわれの絶望にたいして有効であることを示すためにはもっと慎重な議論が必要になるだろう。
反クラウドはいかにして可能か。そして反クラウドに、ダイアリスト的態度が貢献するとすればそれはどのような作用によってか。とにかくここまでイメージの綱渡りでもって書きつないできてしまったので、ここに足場を組むというのもやや無理があるのだけれど、チャンスのひとつと見なせそうなのは、「クラウド的想像(創造)力の契機となる〈わたし〉の獲得」への抵抗という局面である。主体化の欲望を引き受け、トータルな〈わたし〉のもとに出来事を編纂するのがジャーナル的なふるまいであり、そこに頓着しないのがダイアリー的なふるまいであるとする「Part 1」での議論を引き継ぐならば、ダイアリー的態度は、クラウド上に束ねられた言葉・記憶・行為・出来事・つながり等々から、唯一の語り手を構築しないこと──あるいは、つねに複数の語り手を構築すること──をもってそれに貢献すると言えるかもしれない。
思い浮かべるのは、レヴィ=ストロースによる「構造」の定義として知られたつぎの言葉だ。

「構造」とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変換過程を通じて不変の特性を保持する。
クロード・レヴィ=ストロース「構造主義再考」『構造・神話・労働』

 レヴィ=ストロース自身が注釈を入れるように、この定義において重要なのは、「要素」と「要素間の関係」とが同一平面上に置かれ、「要素間の関係」もまた「要素」と同等に扱われるという一種アクロバティックな自在さである。そしてダイアリストはきっと、これに倣うかのようにしてその日記において、「出来事」と「わたし」とを並置し、「わたし」と「日付」とを並置し、「わたし」と「わたし」とを並置するだろう。むろんそれはほんの小手調べにすぎないけれど、いずれかれがクラウドを──ひいてはインターネットを──木っ端微塵にする、そのための契機となるにちがいない。
本日(12日)の電力自給率:32.1%(発電量:12.2kWh/消費量:37.9kWh)

5日(月)

 朝、会社へ行く前に税務署へ寄り、例の「給与所得者の住宅借入金等特別控除申請書」を再交付してもらう。内容とすれば「紛失したので何年度分から何年度分までを再交付してほしい」というようなことを記入するだけの、ごく簡素な用紙にその場でボールペンを走らせると、「15分ほどお待ちください」と思ってもみなかった案内があって、なんとあっさり手に入れてしまった。ビバ、お役所仕事。しかも税務署は家のごく近所だ。週末、発見をそうそうにあきらめて、絶望的な家捜しへと突入しなかったのは正解である。[電力自給率:54.6%(発電量:12.3kWh/消費量:22.5kWh)]

6日(火)

 「おざなり」と「なおざり」の違いを確認しようとして訪れた「知の関節技」というサイトで、それとはまたべつの「『小股ってどこか』 よりも大切なこと/『よくわからない』 まま置いておく美意識」という記事を読む。記事自体の論旨もひじょうに面白いものながら、なにより笑ったのはそこで紹介されていた、坂口安吾、太宰治、織田作之助による鼎談の模様である。揃いも揃って何を言っているのか。

坂口 僕が最初に発言することにしよう。この間、織田君がちょっと言ったんで聞いたんだけれど、小股のきれあがった女というのは何ものであるか、そのきれあがっているとは如何なることであるか、具体的なことが分らぬのだよ。いったい小股のきれあがっているというのは、そもそも何んですか。

織田 僕は、背の低い女には小股というものはない、背の高い女には小股というものを股にもっていると思うのだ。

坂口 しかし小股というものは、どこにあるのだ。

太宰 アキレス腱だ。

坂口 どうも文士が小股を知らんというのはちょっと恥ずかしいな。われわれ三人が揃っておいて……

[電力自給率:6.0%(発電量:1.8kWh/消費量:29.7kWh)]

7日(水)

 どういったあれなのか、ふいに聴きたくなってつい、iTunes Store でピンク・フロイドの『The Wall』を買う。夜、漬け丼。[電力自給率:32.6%(発電量:10.3kWh/消費量:31.5kWh)]

8日(木)

 『The Wall』を聴き、「馬生やばい」を書く。[電力自給率:0.5%(発電量:0.2kWh/消費量:35.0kWh)]

9日(金)

 のどから来た風邪を「銀のベンザ」で食い止めた。[電力自給率:9.1%(発電量:3.2kWh/消費量:35.0kWh)]

10日(土)

 妻の誕生日は三日後の13日なのだが、その日はまたわたしが反対側の親不知を抜く(予定の)日でもあって、すると当日の晩はいっしょにケーキを食べることができないからと、きょう、歯医者の帰りに買って帰る。言わずもがなだが、妻は35歳になるのだった。[電力自給率:35.2%(発電量:12.6kWh/消費量:35.7kWh)]

11日(日)

 食い止めたと思った風邪がなおくすぶるのだった。[電力自給率:40.0%(発電量:12.7kWh/消費量:31.7kWh)]

(2011年12月13日 15:03)

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/ 4 Dec. 2011 (Sun.) 「馬生やばい」

これが石原君の落とした、「ピュレグミ」(カンロ)である。

そしていま、わたしは悩むのだった。どうしよっかなー。やっぱりこれ買うかなー。

こっちかなー。

東銀座は「東劇」へ。「スクリーンで観る高座 シネマ落語『落語研究会 昭和の名人 参』」を石原(裕也)君と観る。

  1. 桂吉朝「不動坊」('03) 37分
  2. 五代目 三遊亭圓楽「助六伝」('82) 39分
  3. 三代目 古今亭志ん朝「三方一両損」('88) 24分
  4. 十代目 金原亭馬生「鰍沢」('75) 34分

どうやらタイムテーブルを勘違いしていたようで、入るともう吉朝「不動坊」の途中だった。ちなみにこれも行ってから知ったが、東劇ではこのプログラムにかんして一日入れ替えなしで観ることができ、途中から入場して、たとえば圓楽から観はじめた場合にはそのままつぎの回の吉朝まで観て帰ることが可能である。とはいうものの、まあね、やっぱり会の構成としてはもとの順番で観るのがベストだろう。
とにかく終わるやいなや、すごいすごいと石原君がうるさかったのが馬生の「鰍沢」だ。「いやァ、すごいもの観ちゃいましたね」とまず場内の照明がもどってから声を漏らした石原君は、その後も「やばいっすね、馬生。馬生やばい」と何度も繰り返す。噺の途中、(休憩中に一粒もらったりしていたこともあってなんとなくそれだろうと察せられたところの)レモン味のグミのパッケージを石原君が床に落とした音はわたしの耳にも届いたが、本人の弁では、噺に引き込まれるうちについ、持っていることを忘れたという。
「鰍沢」は三遊亭圓朝作の三題噺(諸説あるが一般に「鉄砲」「玉子酒」「毒消しの護符」の三題)で、圓朝作のなかでも傑作と評されるものだが、さりとて「話がよくできている」というのとは印象がことなり、ストーリーだけを追えばそこにさのみ魅力があるわけでも、さして結構がととのっているわけでもない、ただただ話芸者の力量だけが噺の緊張を持続し、持続されれば、あらためて物語そのものの「凄さ」が立ち現れてくるというていのものである(はっきりした出典は知らないが、「鰍沢」を榎本滋民さんは「話芸家の博士論文」と言ったという)。かの名人・4代目橘家圓喬(「親父から見てどういうのが名人か」と志ん朝に尋ねられた志ん生が、「圓喬というひとは名人だった」と答えたというあの圓喬。志ん生が22歳のときに没している)によるその口演はもはや伝説と化していて、夏の暑い盛り、団扇や扇子が波打つ寄席で圓喬が真冬の噺である「鰍沢」をかけると、やがてその寒さの描写に釣り込まれて団扇や扇子の動きが止むばかりか、羽織を脱いでいた者がまた着直したというエピソードは米朝のマクラでおなじみだ。

 これは歌川広重の「木曽路之山川」だから、鰍沢ではないが、おそらく鰍沢もまたこのようなイメージをまとう土地だったろうと想像され、つまりまあ「鰍沢」は、(「物語」ではなく)この「画」を「しゃべれ」と演者に要求するような噺でもある。
吉朝「不動坊」。2005年に50歳で早世して今年七回忌を迎えた吉朝の2003年の口演は、ほんと、それこそ「スクリーンで再会」といった感が漂う。
圓楽「助六伝」。じつを言って当方、圓楽をちゃんと聞くのはこれがたぶんはじめて。さすがに入れ歯で苦労する前の映像だろう 82年のそれは、なるほどね、こうだったのねと腑に落ちるような一席。ラストに至るまでまったくなんの救いもないハナシだというのに、そうして最後、地の語りが時空を超えるや途端にどこか救われたような光の差すのを感じてしまう、そんな〈カタリ〉の不可思議も味わえる一品。
志ん朝「三方一両損」はもちろんわたしのお目当て。「おおかァ(多くは)食わねえ、たった越前(一膳)」という、このまったくもって取って付けたようなサゲを堂々と演ってみごとに祝祭をしめくくる(ってまあ、祝祭にまでもっていける技量がまずすごいわけですけど)、どうでえ見たかい、これが古今亭よの 24分間。
終わってちかくの「ルノアール」に移動し、石原君とひとしきり落語談義。強烈な出会いをしてしまった馬生に、とにかくもう石原君はご執心である。後半は MacBook Pro の買い物相談。「ほしくなってしまった」と、『トータル・リビング』の公演の直後から相談を持ちかけられていたもので、Apple Online Store の画面を見ながらいろいろ説明というのか、アドバイスというのか、指示というのか、出していく。まあ、遠からず買うことになるようである。
「こんど三人でご飯でも行きましょうよ」と、近藤(久志)君が言っていたというのを石原君づたいに聞いて、それで近藤君にダイレクトメッセージを送ると、夜になって返信があり、それでまあ、年内にいっぺん、三人で会うことになりそうな雲行きである。「映像オペ担当になった演出助手三代の会」。近藤君曰く、会の議題は「スッチーのカノジョをもつテレビマン」についてだ。そんなやつが、来春にはどこぞに誕生するらしいのである。

きょうのひとこと

ナマで来やがったな(3代目古今亭志ん朝「三方一両損」)

本日(4日)の電力自給率:44.8%(発電量:13.0kWh/消費量:29.0kWh)

本日の参照画像
(2011年12月 8日 17:18)

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/ 3 Dec. 2011 (Sat.) 「Diarist A Go Go」

向かって左があーちゃんだ。

3日付の日記として書かれた児玉(悟之)君の文章はなかなかに刺激的で、なにもわたしの発言がそこに引用されているからばかりでなく、これはちょっと応答せねばならぬのではないかという思いにかられたが、そこでまず、さきに言っておくならば「おれはあーちゃんかな」ってことである。
さて。

@soma1104: ジャーナル(journal), ジャーナリスト(journalist), ジャーナリズム(journalism) / ダイアリー(diary), ダイアリスト(diarist), ダイアリズム(diarism)
12月3日 5:55 PM

 このうちで、「ダイアリズム(diarism)」という言い方はどうやら英単語としては存在しないらしい。とすれば、「journal」に比して、「diary」は主義・主張を形成しにくいということになるだろうか。
「journal」と「diary」、そこに「blog」を加えてもいいが、これらはつまるところ言い方がちがうだけで、同じものを指して使われる「同義語」だというのが言語使用の実際においてはおおよそ正しい捉え方でもあるようだ。しかしその一方で、同じ「日記」である「journal」と「diary」とに、相互の概念的なちがいを見て取ろうとする考え方もつよくある。たとえば、公開を前提としない、あくまで私的な記録が「diary」であって、ひとの目に触れることを意識している日記、メモ、感想文のようなものはみな「journal」であるという捉え方がひとつだ「英語で『日記』は『ダイアリー』ではない? diary と journal の違い」。また、それよりかは特殊な言い分だと思うけれど、「journal」の側を称揚してこのように書くひともある。

It’s a question I get asked all the time. “What’s the difference between a journal and a diary?” A diary is a report of what happened during the day—where you ate, who you met, the details leading up to the kerfluffle in the office, and who took whose side. It’s a bit like a newspaper about you.

いつでもわたしに投げかけられる質問である。「ジャーナルとダイアリーでは何がちがうのか」。ダイアリーは、その日一日をとおして起こったことを報告する──どこで食事をし、誰と会い、職場でどんなごたごたがあって、誰が誰の味方に付いたか。言ってみればそれは、あなた自身についての新聞のようなものだ。

A journal is completely different. A journal is about examining your life. It’s a GPS system for your spirit. “I’ve made this mistake before. . . and I always make it when I rushed for time and feel panicky. But I feel panicky because I know I’m headed for the same mistake.” Journals lead to insight, growth, and sometimes, achieving a goal.

ジャーナルはそれとはまったくことなる。あなたの人生を吟味・検討するものがジャーナルである。それはあなたの精神にとっての GPS装置となる。「この間違いをわたしは以前にも犯した……し、あわてているときやパニックになったときにはいつもこの間違いを犯してきた。しかしわたしは、同じ間違いを犯そうとしている自分に気づくからこそパニックになるのでもある」。ジャーナルは洞察や成長といったものへとあなたを促し、そしてときには、目標達成へとも導く。

You don’t have to set a goal to have a journal, I have a tendency to live in my head and like goals. You can just muse. You can put down the shifts in emotion, the goals you’ve achieved and how, to remember them. The shortest pencil beats the longest memory, says the proverb, and writing down your motives, successes, emotional pratfalls, helps you remember how you got there and why, not just that they happened.

わたしはつい頭で考えがちなので目標といったものが好きだが、あなたがジャーナルをはじめるにあたっては目標を設定する必要はない。ただじっと考えるだけでもいいのだ。自分のなかの感情の移ろいを書きとどめ、成し遂げたことがあるならそれを、どうやって成し遂げたのかを、あとから思い出せるように書き記す。ちびた鉛筆が長大な記憶にまさるという格言があるとおり、たんにあれが起きたこれが起きたと書くのではなくて、あなたのなかにあった動機、うまくいったこと、感情的なしくじりを書きとめることは、あなたがどうやって、なぜいまそこにいるのかを忘れずにおくための助けとなる。
Journal, Diary, What’s the Difference? | QuinnCreative

 原文をこのあと読み進めればわかるとおり、どうやらこのひとは「Creative Writing」とかそういったたぐいの講座をもつ先生らしいのだが、ともあれ、ジャーナル的なものはここにおいてどこか高邁なイメージをまとうことになる。
「公=他者」を意識することで自己を世界のなかに位置付ける身振り、あるいは「トータルな主体としてのわたし」を設定することでそのなかに日々の出来事をマッピングしていく作業。そういった〈まともさ〉が、ひとまず〈ジャーナル的なもの〉のイメージを構成するということになるだろうか。
加えて書けば、ジャーナルの側には「インスピレーション・ジャーナル」なるものも存在するらしい。

「インスピレーショナル・ジャーナル」とは、「インスピレーション(霊感による着想,天来の妙想,うまい思い付き)」が得られるように格言、名言やアドバイスが印刷されてある日記帳のことで、欧米では主にクリスチャン用に様々な日記帳が販売されています。
インスピレーショナル・ジャーナルとは - Rose Selavy lab. testing…

 ここでもやはり、ジャーナルは霊感をもたらしてくれる他者────と自己とをつなぐ装置として意識されるのであり、そしてその意味で、おそらく「インスピレーション・ダイアリー」なるものは存在しない(しえない)のだろうとも想像される。
Google以前、ホームページがいまよりもずっと「有数」で、Yahoo!のディレクトリ型検索の画面に並んだ登録サイトたちのリストを眺めていたあのころ、そこに付される紹介文には型があって、たいていは「○○××、△△について(のホームページ)」と皆が自身のサイトを説明していた。つまりホームページは、「何かについての」ホームページでなければならなかった。クルマ好きは「クルマについてのホームページ」を作ったし、サッカーにくわしい者は「サッカーについてのホームページ」を作った。あるいは住んでいる街についての情報を発信する者がおり、有名な誰かについてのファンサイトをこしらえる者もいたそのなかに、ついに発信すべき「何か」を思いつかなかった者たちがいて、ちょっと困ったような顔をしてみせながらかれらが選び取ったのが、つまり「私についての」ホームページ(いわゆる狭義の「個人ホームページ」)だった。かれらの多くがまずサイトにこう記した。「とりあえず、日記でも載せようと思います」と。
そうしてたやすくウェブへと接ぎ木されてしまった「日記」が、はたしてその端緒において「ダイアリー」だったのか「ジャーナル」だったのかを問い、峻別することにはおそらく意味がなく、〈ダイアリー的なもの〉も〈ジャーナル的なもの〉も「日記」が元来もちあわせているふたつの側面なのだとすれば、つまり「どちらもあった」と言うよりほかないものだけれど、とはいえ、個人ホームページからはじまり、その後、Web日記、ブログ、ツイッターとつづいていく潮流のなかで、そのコンテンツ価値を保証するものとして称揚されたのが〈ジャーナル的なもの〉のほうであったのはおそらく間違いないところだろう。なにしろ、他者が意識されることもなく、トータルな存在にまとめあげられることもない〈断片〉としての〈ダイアリー的なもの〉が〈つまらない〉のはあたりまえであり、あのころ、個人ホームページの質の低さといった言葉で徹底的に非難されたものこそがその〈ダイアリー的なもの〉だったと思われるからである。
と、ここまでのところで、日記における〈ジャーナル的なもの〉と〈ダイアリー的なもの〉のそれぞれの概念措定がいちおうなされたものとしてつづけるが、いま、そのうえで、この場においてわたしが支持を表明したいのは〈ダイアリー〉だ。名乗りたいのは〈ダイアリスト〉である。
さきはまだ長い。ダイアリストのこの思索の旅はまだまだつづく。おそらくは、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』がその旅路に光を与えてくれるのではないかとわたしはいま予感し、期待するが、しかしやはり眠たかったらしい、アマゾンからはナンシーのべつの本、『複数にして単数の存在』が届いてしまった。間違えた。
本日(3日)の電力自給率:4.9%(発電量:1.4kWh/消費量:28.2kWh)

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(2011年12月 7日 00:01)

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/ 2 Dec. 2011 (Fri.) 「ソファーの丘で」

これはポシュテ。

上からロビン(14歳)、ピー(9歳)、ポシュテ(3歳)。ロビンの写真の左側に写っている膝掛けのなかにポシュテ(3枚目の写真)がいる。とすると 2枚目のピーはそれとどういう位置関係になるのか、考えていただいたかたがあれば申し訳ないのだが、膝掛けの辻褄が合わないことからもわかるようにこれは後日、「まあ君、撮らせてくれたまえよ。こないだ撮らなかったのはなにも忘れていたわけじゃないのだ」とばかりに撮ったものである。
そういえば──ってのもヘンで、日々実感していることだが──、写真に写っているこのリビングのソファーがもうしばらく前からだめになっている。なかでスプリングがぼよーんとなり、硬く出っぱっている箇所とぐずぐずに凹む箇所とがあってまったく快適でない。寝そべると疲れる、というようなものになっているので買い替えたいが、まあ買うにしろ、ものは順序であって、まずはいまのこれを搬出しないことには手詰まりになること請け合いだから、市の粗大ゴミをたのんで捨てる算段をしないといけない。じゃあそうすればいいじゃないかというこの12月、皆さまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
年末調整ってやつの季節で──というかつまり年末なんだけど──、住宅ローン控除のため、「給与所得者の住宅借入金等特別控除申請書」(平成23年度分)ってやつを会社の経理に出さねばならず、その申請書が見つからない。初年度にそこそこ面倒な申請手続きを自分でおこない、そのときに以降10年分の申請書をもらって、あとはそれを 1年に 1枚ずつ、暮れのこの時期に経理に提出すればいいというものなのだが、その申請書が、あると思っていた引き出しにないのだった。
ないといえば、『落語研究会 古今亭志ん朝 全集 上』(8枚組DVDボックス)の Disc 3(二番煎じ、ぬけ雀、四段目)と Disc 5(愛宕山、酢豆腐、三方一両損)がない。だから見終わったディスクはもとのケースに戻せと、あれほど口をすっぱくして(妻が)言っているではないか。チョイスからしてこれはあきらかに「つい見たくなる 2枚」がなくなっている。うーん、どこへおざなりに片付けたものか、これは厄介である。あるいはまったく記憶にないものの、ひとに貸していたりしただろうか。というわけで、借りてるよというかたがおられましたら相馬までご一報いただければと思います。
本日(2日)の電力自給率:5.2%(発電量:1.9kWh/消費量:36.5kWh)

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(2011年12月 6日 16:11)

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/ 1 Dec. 2011 (Thu.) 「なんの役にも立たない」

speaker gain teardrop "rendering encryption" は本日より、ototoy にて先行ダウンロード販売開始

相当眠かったらしいのだ。寝る段になってふたりで二階の寝室へ移動するそのすこしまえに、さきに暖房を点けて冷え切った寝室をあたためておくのが冬のならいで、きょうも、「じゃあ点けてきて」と言われたかして二階へ行き、やがて降りてきて、そうしてしばらくしてからふたりで二階へ上がってみると、寝室は依然冷えたまま、暖房の点けられた形跡がない。いったいわたしは何をしに二階へ上がり、そして何に満足して降りてきたのか。
妻の指摘をもとに付け加えるならば、寝室のドアはしっかりと閉じられていた。ふだんは(猫の出入りもあるし)開け放してあるそのドアをわざわざ閉めるのは、つまり暖気をのがさないよう、部屋があたたまりやすいようにという措置であって、とすれば、二階に上がったわたしが何ごとかに満足し、「よし」とばかりにドアを閉めたのはまちがいないところだが、しかしじっさいにはリモコンの押された形跡もない。
「リモコンの赤外線がうまく届かなかった」というケースは経験上ままある、とやけに論理立ててみせる妻は、つまりその可能性に「部屋はあたたまっていないとしても、夫は〈何か〉したはずだ」という最後の望みを託すかのようで、しかしそのケースでは、エアコンは動作しないものの、リモコンのほうは動作中だと認識して「暖房」などの表示が液晶画面に出るのだという。そうしてサイドテーブルの上のリモコンを覗き込んだ妻は言うのだ。「はい、押してません」。
もし今後、「夫がなんの役にも立ちません」という悩み相談を新聞の生活面で見かけたならば、それはわたしの妻だと思っていただいてかまわない。
そんな、なんの役にも立たなくなってしまった者の話をいつまで聞いていてもしかたがない。ここはひとつ、もっと才気あふれる者らの話をしよう。バストリオ=今野(裕一郎)の新作『Rock and Roll あなたにとって大切なのはココロ(2012年1月27日〜2月1日、@新宿眼科画廊)のそのできたてのチラシは児玉(悟之)君の新作だ。

 『Rock and Roll あなたにとって大切なのはココロ』はまた、音楽の杉本(佳一)さんの新作でもある。衣装の安食(真)君、告鍬(陽介)君の新作でもあるし、そして演出助手に名を連ねる宮崎(晋太朗)君の新作であるかどうかは知ったこっちゃないものの、きっと、制作手伝いをするという鹿毛(綾)さんにとっての新作にもなるにちがいない。
その PVの YouTube動画を先日紹介した speaker gain teardrop のアルバム、『rendering encryption』がきょうから、ミュージック・ダウンロード・サイト「ototoy」にて先行配信/販売されている。リンク先はその特集ページで、ちょっとわかりにくいが、ジャケット画像とアルバム名のところをクリックすると販売ページに飛ぶ。WAV、もしくは MP3形式で 900円。
じゃあここに並べよう、ひょんな友だち、市原(歌織)さんはギークの祭典「Make: Tokyo Meeting 07」(12月3日、4日、@東京工業大学大岡山キャンパス)に「stamefusa」名義でブースを出展とのこと。うーんと、あと誰だろ、才気あふれるひと。
古井由吉『蜩の声』(講談社)絶賛発売中。
あ、そうだ、牛尾(千聖)さんがこけし買ったそうです。
本日(1日)の電力自給率:0.6%(発電量:0.2kWh/消費量:29.2kWh)

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(2011年12月 3日 16:09)

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